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中日兩國射箭禮儀(5篇模版)

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簡介:寫寫幫文庫小編為你整理了多篇相關的《中日兩國射箭禮儀》,但愿對你工作學習有幫助,當然你在寫寫幫文庫還可以找到更多《中日兩國射箭禮儀》。

第一篇:中日兩國射箭禮儀

射箭不僅是一項運動,更是一種禮儀,這些你知道嗎?下面跟小編一起去了解一下吧。

中國射箭禮儀

射箭,可謂是中國古代體育項目的鼻祖了。據考古發現,它在距今2.8萬多年前就已經出現了。隨著箭頭從石頭到金屬的發展,射箭的形式發生了很多變化,譬如射箭在周代就被列入當時教育的內容之一,當時六藝:禮、樂、射、御、書、數,其中射箭就是一項很重要的內容。當時,射箭是一種禮儀,射箭活動要喝酒,還要奏樂,這可以說是我國古代歷史上最早的射箭活動了。當時的孔子、荀子以及墨子等等,都是射箭愛好者,不僅自己身體力行,同時也鼓勵學生射箭。

到了魏晉南北朝時期,射箭出現了專業的比賽。《魏宗室常山王遵傳》曾經記載:當時的北魏孝武帝在洛陽的華林園舉行了一次射箭比賽,他把一個能容兩升的酒杯,懸于百步之外,讓19個運動員進行競射,最后誰把這個酒杯射著了,誰就把這個酒杯據為己有,這在當時叫獎杯賽。在中國體育史上,這可是最早的一次獎杯賽了。

日本射箭禮儀

如同中國一樣,弓道射箭作為日本古代的民族形式體育,具有豐富的哲學內蘊。它不但要求射手要具有高超的射箭技術,還要求射手在指引下,完成身、心和弓箭三者的高度和諧統一,以表達對高尚品德的追求,對力量美與準確美的向往和享受,最終融化成為對真理的追求和崇拜。

弓道講求高強度的基本功練習,最主要的訓練方法是對某一個基本動作千百次的重復練習,直至矩,精確無誤。通過這種周而復始練習方法,不但可以達到提升射手技術的目的,更重要的是使練習者通過艱苦的練習以達到磨煉,逐步領悟到弓道的道。重視禮儀是日本弓道最大的特點之一。這源于之日本武道對和諧與道德的追求,也與日本民族崇尚禮儀的文化傳統有直接關系。弓道的基本原理是,練習者為了的高技術水平,必須首先認真的掌握弓道的各種禮儀,并貫徹于練習活動之中,乃至于曰常生活之中。只有通過行為上的高度約束與心身的統一,人才可以心平氣靜,進入一種道的狀態。在這方面,弓道無疑得益于中國古代的射禮,而日本的弓道家們也承認這一點,他們甚至認為,日本弓道在某種程度上乃是中國古代射禮的延續與本土化。

練習弓道前的禮儀過程已經不像古過去那樣細瑣復雜,有趨于簡單的傾向。然而,簡單并不等于敷衍了事,更不代表著表演作秀和浮躁化。短短幾分鐘的儀式,仍然要求全神貫注,莊重肅穆,一絲不茍。執弓之前,要求射手面向目標,身體直立,聚精會神,以達到神清氣定的狀態。要求在放射之前必須努力排除心中的雜念,并要認真的思考和明確射箭的目的與意義。在完成上述的精神調整的階段后,習射者儀態自然平靜,動作沉穩而節奏清晰,然后才可以射箭了。

第二篇:中日兩國地震救災對比

2008年5月12日,中國四川發生8.2級汶川大地震。遇難69142人,失蹤17551人,地震實際造成8.6萬多人死亡。-

2011年3月11日,日本本州島宮城縣發生9.0級地震。根據目前估計,地震至少造成1.2萬人以上死亡。是近千年來,日本境內發生的最嚴重地震。-

中日兩國,一衣帶水,同屬東亞,文化相似。甚至文字都有30%是相同的。千年來,特別是近百年來,兩國發生了許多理不情的糾葛……-

巧合的是,中日兩國發生的地震時間竟然也是相同的。汶川地震發生的時間(2008年5月12日),與日本宮城地震發生的時間(2011年3月11日),兩個數字相加都是等于2025。即: 2008+5+12=2025;2011+3+11=2025。如果我們用數字游戲的方式來詮釋兩國地震的話,則是“汶川地震”與“宮城地震”的數值是相等的。當然,這純粹是一種巧合。但有一點不是巧合,那就是地震發生后,兩國對于抗震救災的做法,有許多可比性。

根據幾天來的觀察,敝人以為,中日兩國在抗震救災中,各有所長,各有所短。簡單來講,就是:中國政府抗震救災的能力、效率、成效優于日本政府;中國的民間社會抗震救災的能力、心態、秩序弱于日本的民間社會。-

下面重點談談中日兩國政府抗震救災能力對比分析。-

2008年的汶川地震發生后,中國政府應對災情,呈現了高速、高效,運轉協調的應對機制。對災情判斷及時,處置有力,行動迅速,上下齊心,效果非常明顯。三天之內,即迅速平穩整個災區的混亂社會秩序。-

2011年日本宮城地震發生后,由于日本國民素質高,民間社會比較成熟,災情發生后,災區社會秩序良好,沒有擁擠,哄抬物價等情況發生,災民情緒比較穩定。然而,由于日本政府抗震救災指揮調度不力,行動不果斷、出手不迅速,猶猶豫豫,畏畏縮縮,首鼠蛇端,未及及時調譴大量人力、物力撲滅災情,致使災情在三天后迅速擴大,并發生了不可逆轉的災難性后果:核電站爆炸、核泄漏、核輻射……壞消息一樁接一樁,接踵而至。

躲過地震、海嘯、火災的日本災民,在三天后,仍然缺水、缺糧、缺衣,日本的公路并未受到嚴重損毀,而奇怪的是,救災物資卻運不進去……

可以對比的是,2008年,中國汶川地震發生后,政府立即調集大型機械不惜一切代價,挖山開路,填壑搭橋,在損毀極其嚴重的叢山峻嶺中,開辟出了抗震救災的生命線。相比之下,日本政府的救災是懶洋洋,根本沒有什么氣勢。觀者多,動者少。政府效率低下,協調能力也很差,指揮調度也不太靈,好象主要是靠自覺,而不是行政命令。-

3月12日,核電站發生冷卻劑失靈后,其實是重大災難前奏,奇怪的是日本政府處置相當猶豫,先是拒絕美國答應幫助運送冷卻劑,政府卻也不組織強有力的核電站事故搶險隊,害怕承擔責任,聽憑、放心地讓核電站公司獨立去去處理這場世紀劫難…… 所作所為,不可想象。象這種緊急情況,中國一定是出動軍隊,組成十萬火急的搶險隊,趕赴災區,及時除險,撲滅災情,防止災情進一步擴大!中國是絕不可能讓核電站發生爆炸泄漏事故的!-

險情處置得早,后續麻煩就會少許多。

但是,3月14日,福島核電站發生爆炸,重大危機爆發后,日本政府仍然沒有派軍隊前往處置,也沒有由政府協調組成搶險隊,舉一國之力,撲來險情,而是仍然由電力公司組織員工進行除險救災。實在不可思議!

在最初處置核電站爆炸事故中,日本政府和首相基本好象是沒有什么作為。聽到核電站第二次爆炸,核電站公司為策安全,撤回大部分員工后,日本首相菅直人所做的事,竟然是暴哮一頓:“你們竟然敢全部撤了下來,你們的這樣的公司活該100%倒閉!”

都什么時候了,如此人命關天的天大之事,事涉全日本、全世界人民生命安危的大事,首相竟然如此搪塞責任,要一家電力公司獨立去承擔,如此嚴重的事故、責任和災情,它一家小小的核電站公司應對得了嗎?真是狗屁邏輯!-

面對如此艱難危局,政府要做的,不應是去斥責心力交瘁的核電站公司,而應是立即由政府牽頭,組成強有力的搶險隊,舉全國之力,調集人力、物力,立即抗災撲險,把事故所帶來的危險控制在最小的范圍。

日本首相去斥責勢單力薄的核電站公司,叫他們去應對天塌下來一般的災難?他們應對得了嗎?日本政府抗震救災嚴重失職!日本首相把最寶貴的搶險黃金時間錯失了!-

記得2008年5月12日下午2時32分地震發生后,溫家寶總理得到消息后,立即從中南海啟程,乘車趕往機場,乘專機飛往四川,指揮抗震救災。他是一邊走在路上,一邊吩咐手下,通知國務院各部委立即入川,各司其職,組成抗震救災搶險隊。

我依然記得,2008年5月12日和13日的電視新聞,當時,溫家寶總理走得很急,沒有帶厚衣服,只穿了一件西裝加薄白衫。他當晚就到達都江堰,看望了一所小學的受災學生。他當晚在嘉凌江的江邊,設國務院抗震救災指揮部,現場辦公,現場指揮。當時,夜深了,旁邊嘩嘩的河水聲都聽得到,溫總理因為穿衣少,冷得他有些打顫,后來不知是哪位民警給了他一件警服棉衣穿在身上,讓他遮風擋寒。溫總理是穿著警服棉襖,四川度過了指揮抗震救災的第一個極其重要的難眠之夜。-估計也是總理第一次穿警服吧。

溫總理從中南海出發飛四川的時候,有中央臺電視記者陪同前往。溫總理在飛機上接受了采訪,總理是將講話簡單地寫在一張紙上,偶爾看看,肯定是飛機上臨時寫的。我清楚記得總理當時講過的最關鍵、最重要的話:“當前,最重要的是要冷靜、鎮定、信心以及強有力的指揮!”

溫總理在飛往四川的空中,其實并不知道災情有多嚴重。他只是聽到7.8級地震發生(后修正為8.0級),立即判明重大災情,然后二話不說,立即趕赴災區的。事后證明,總理對災情的判斷多么及時、準確。溫總理此舉,挽救了多少災區人民的生命!

中國政府的領導人,就這樣身先士率,高速、高效,勇敢、果斷地在第一時間趕赴災區最前線,及時領導抗震救災,為汶川地震的抗震救災,贏得了最寶貴的時間!

溫總理對突發事件的處置,方法非常到位,那就是:冷靜、鎮定、信心以及強有力的指揮!后來的抗震救災,都基本遵循這一原則進行,特別是強有力的指揮。-中國政府對汶川地震的抗震救災,實現了強有力的指揮!

汶川地震發生后,中國政府在三天內,調集了10萬軍隊入川。其中,有8萬解放軍正規武裝部隊,2萬公安和武警人員,加上政府組成的救災人員、志愿者等,直接參加救災的人數至少50萬人以上。

當時,災情發生后,中國的電視新聞實行24小時滾動播出救災畫面,那些催人淚下的畫面,觸及了國人的情感,全國迅速掀起了支援災區的高潮。民間的救災物資、救災人員源源不斷地往災區輸送。

地震發生后,在三天,基本緩解了缺衣、缺糧、缺水的困難;五天后,基本確保生活的基本所需,有飯吃、有水喝、有地方睡覺。震后第七天,建起了“抗震救災帳篷小學”。這是“抗震小學”的誕生,極大地振奮了全國人民的人心,迅速平穩了災區的秩序和人心。

以上這一些,中國政府所能夠做的,我沒有在日本政府中看到。-今天是日本地震進入第6天,我所看到的情景是,日本的地震災區不僅沒有得到緩解,而且災情在擴大!

日本政府的救災能力效率低下,其災區沒有發生大規模騷亂,得益于國民素質好,平時守秩序。但是,如果災區的情況在未來幾天內沒有得到緩解的話,難保日本社會秩序是否會大亂,種種跡象顯示,日本發生騷亂,也不是不可能。-

最后,談談日本首相。我對日本首相菅直人的救災行為感到失望。我當然相信,日本各級政府官員、公務人員都在努力救災,他們的確很辛苦,夜以繼日,沒有休息。就日本政府而言,日本首相這樣去救災,是不行的。日本首相,好象是中國新聞發言人的角色。呆在東京首相官邸,時不時發一個新聞消息,這樣的事,不要首相去做呀,新聞發言可以交給部下去做,自己埋頭去指揮、協調,去組織人力、物力抗災救險呀!遺憾的事,日本首相對當新聞發言人很感興趣,對救災的事,猶猶豫豫,畏畏縮縮,根本不象一個國家的領導人。-

另外,日本自衛隊的表現也太讓人失望了。人們對日本自衛隊(軍隊)的印象仍然停留在二戰時的水平,以為今日的日本軍人仍然會象二戰時一樣,勇猛頑強,服從命令,時刻有一種敢死之心。現在看來,今日的日本自隊軍人,遠不是那么一回事了。他們接到首相命令,要求他們用直升機吊海水澆核電站以降溫后,竟然以核輻射太強、太高,生命健康受到威脅為由,拒絕執行首相的命令。軍隊以保衛人民為天職,竟然抗國家最高領導人的命,真是聞所未聞。

日本衛隊竟然好意思袖手旁觀,單靠核電站留守的50名工人進行施救。這一幕,不僅日本在看,而且全世界在看!

日本福島核電站爆炸,不僅危及數百萬、上千萬日本人民的生命安危,而且影響全世界人民的健康,在國家遭受如此重大危機的面前,在最需要軍人前往救災除險的時候,日本軍人竟然以堂而皇之的理由逃之夭夭,實在難于理喻,可憐、可嘆、可悲!-

日本自衛隊在其他地方的救災,也是懶洋洋的,沒有什么氣勢和規模。我看到他們,更多的是處置遺體,而沒有什么象模象樣的救災行為。日本此次調了10萬軍人前往救災,人數同中國當年的10萬軍人救災一樣多,但是,救災效果卻相差十萬八千里,完全不在一個水平之上。-

在抗震救災中,日本的輿論不感謝政府,認為是政府的天然職責,不值得感謝。這其實是不對的。是政府天職這沒有錯,但是,政府也是人,需要輿論的支持、鼓勵、激勵,如果媒體和輿論只盯著政府人員的責任,那么政府人員就會人人怕事,怕擔責,而畏畏縮縮,沒有人會猛打猛沖,什么都不敢作主,只好不斷向上請示,生怕承擔責任,就就沒有效率。日本首相可能就是怕承擔職責,怕被人罵,所以行動很猶豫。國家最高領導人都這樣了,那么,下面的行動就可想而知了。中國有一句話,上梁不正下梁歪,中梁不正倒下來。日本政府的情形讓人嘆息。

救人,是最大的恩。被人救出來,獲得新生命,表示感謝是最起碼的人性,感謝政府,感謝救命恩人,沒有錯呢。日本媒體鼓吹不用感恩是錯誤的。

如果自己冒險救了人,不能獲得感恩,那么,誰會去救人了。且不要說有沒有利益,連一句好話都得不到,會有人積極去救人嗎?所以,日本媒體是失職的。

日本媒體的眼光只注重于傳播信息,沒有注重挖掘人性閃光的東西。這是中日媒體的差異。顯然,在抗震救災中,日本媒體遜色于中國媒體。2008年中國抗震救災時,中國媒體做得非常好,他們的報道極其感人,激發了全國人民團結一心、共同應對國難。在這一點上,日本媒體要向中國媒體好好學習。-

在日本宮城地震發生后,日本成熟的公民社會,民間很有秩序,應對災難淡定、從容、不慌張,社會和人民團結、守紀,讓人很是欽佩。這一點,是值得中國人民學習的。

第三篇:日語論文——中日兩國飲食文化對比

目 次 要

旨...................................................................................................................................1 キーワード........................................................................................................................1 はじめに.............................................................................................................................2 1 日中飲食観の対比................................................................................................2 1.1 飲食観の形成...............................................................................................2 1.2 各飲食観が形成した原因....................................................................3 1.3 結論....................................................................................................................4 2 飲食観の中に含む「物」................................................................................4 おわりに.............................................................................................................................5 參考文獻.........................................................................................................................6 要 旨飲食観は人類と共に產生したものでなく。それは生產能力が飛躍的に向上し食べ物に対して余裕が出るようになると產生したのである。本論文は日中両國の飲食文化の中に含む飲食観を対比するつもりのである。その形成した原因を分析する。最后に、各國の飲食観の中に含む文化はなんでしょうかも筆者自身の意見を出す。キーワード飲食観生產能力余裕 日中両國の飲食文化対比について 飲食観の比較 はじめに 中國人は飲食を論じる事から飲食を重視するようになったが、基本的な思想部分は日本人と共通しているためやはり飲食に関する飲食観の形成や其の原因を分析するな研究が尐なく、資料?9?9著作も尐ないといった問題がある。本論文はこのような問題點を基づいて研究を行う。1 日中飲食観の対比 1.1 飲食観の形成 飲食観とは人が飲食行為に対する見方であり、見方に対する評価でもある。これには食物飲料器及び調理法に対するものも含まれている。かつて人類がまだ采集?9?9狩猟?9?9漁労の時代、食べ物を見つけ出すことが非常に困難で、生命維持のために見つけ出し得た物を食べるしかなかった時には、もちろん飲食観など形成することは不可能であった。人類が労働道具を発明、使用后、生產能力が飛躍的に向上し食べ物に対して余裕が出るようになると、様々な生活経験を長い時間かけ次第に味覚も発達し嗜好に合うものを選ぶようになった。こうして食べ物に対して一種の見方が成立していった。嗜好に合うものを選んで采取し、保存するまでになる。嗜好に合わないものは舍て、見向きさえもしなくなる 人類の初期には特別な飲料があったわけではなく、自然の水と水分の多い果実や野生の瓜類があるだけであった。食べ物と同様に生活の過程において優劣の順位や取舍選択をしている間に、ある種の飲食観が形成されてきた。人類のこの様な飲料や食物に対する評価が飲食観の形成につながるのである。1.2 各飲食観が形成した原因 日本は中國から多くの文化を受け容れているにもかかわらず、煎尐量の油でじっくりあげる、炒油でいためる烹油でいためた后調味料を入れて煮る、炸あげる、調調味料を配合するといった調理法と溫かい料理が日本に定著しなかった。なぜ日本は生ものとあっさりした冷たい食物を定著し発展させたのかこのことは今だ徹底的に解明されていない謎である。中國人として、中國人は干した食材料を使うのはよくわかるであろう。この原因を分析させていただく、中國の國土面積が広いである。各種の気候があるとよくわかる。例えば、內陸の人民は海產物を食べたいなら、干した、運びやすい魚など最高の選択であろう。また、中國の北方は冬となると隨分寒いである。野菜とか、肉類などの產量はないとも言える。冬に食べる食品は夏に貯まった干したものが大部分である。でも、食べる時は乾燥したものを水に戻した。しかしこれによって鮮度はかなりおちる。鮮度を保ちかつ美味しく感じさせるためには色々な香辛料と調味料を加え復雑な加工作業と時間を費やすことによって初めて味覚と鮮度を保持することができる。この様にして多種多様な香辛料による調合法や、調理法煎、炒、烹、炸などの調理技術が生まれたのである。中國菜系の主流を分析すると油の使用が大部分を占めている素材を洗う、適度な大きさに切るなどして下処理をして油に通し、さくさくと美味しく、香りよくさせて人々の味覚を濃厚で復雑な味で満足させる。これが中國大陸菜系の主な特徴である。日本は海に囲まれ四千以上の島々から成り立つ。気候は溫暖で四季がはっきりしていて自然環境にも恵まれている。その條件の下で獨自の海洋性菜系を発展させることができた。これを受け容れることは大陸菜系を受け容れることよりも、自然である。存在決定の意識は菜系の発展においでも例外ではないつまり風土が菜系を醸したのである。日本が海洋性菜系であると考えられるもう一つの原因は、日本が島國の上に資源が乏しいことである。また隣接する國がないために自然環境による危機感の意識が強く、常に何かの天災による滅亡を危懼している。「油斷大敵」という四字熟語を見てわかるように、油がなくなることは敵に臨むことにつながる中國のように食事毎に油を大量に使うことはできない。常に節油しできる限り油を使わず料理をつくり生活を営んできた。長い間これが習慣になり平淡で新鮮な味が日本菜系の主流となっていった。1.3 結論 日本料理は味よりも形を重視するため日本料理は目で食べる料理とも言われている。これも風土によるものである。日本は人口が多く面積が狹い。自然を重視し生活の一部に取り入れることは日本人古來の伝統であるために、膳の料理の中でもそれが如実に表現されている。これはまた、人々の生活を潤す役目も擔っている。一方中國では、広大な面積を持つため例え一部分失ってもどうにか生き延びられると思うためか自然の保護や破壊についての危機意識が薄い。異民族の侵略を防御するために萬里長城を修筑し、人類に偉大なる建筑物を遺したが、反面多くの自然景観を壊し原始森林を伐采した。人々の味覚を満足させるために野生動物の保護もしなかった。健康と長壽によいとされるあらゆるものを中國人は食した。この風土が中國今日の獨特な菜系を作り上げたのである。それも大陸の性質を十分備えたものである。2 飲食観の中に含む「物」 日本と中國とを比較した場合中國人の方が飲食に重きをおく、中國の昔から、中國人は客に必ず食事を接待する風習があり、そこから人々の交流が生まれた。后にこれは禮儀とされた。中國のある地方では、“知り合い”と“一緒に食事”とは同意語として使われていたこともあるほどだ。だから、食事は中國人にとっては人間関系の円滑油とも言えるのであろう。いまでも「御飯を食べましたか」は挨拶かわりに使われている。それは相手に関心を示す表われである。「禮」のはじめは、これを飲食にはじまるとあるように、禮は飲食生活の中から生まれてきたものである。日本は飲食観においては、はるか中國に及ばない。日本の朝廷、もしくは上層階級は歴史の書物の中で飲食に関して觸れる事はほとんどないと言える。江戸時代になって武士の禁欲思想が后世に大きく影響し特に男子が飲食に対して語るべきではない諺にもあるように「武士は食わねどたかようじ」式の飲食観の伝統がある。日本人は持続性が強いとおもわれる。ある思想概念が定著すると変えることなく守り続ける事が多い。日本人が食べ物に持っていた穢れ観は第二次世界大戦まで続いた。當然、これは日本の自然環境?9?9政治制度?9?9宗教?9?9民族風習などの影響もある。以上の分析によると中國の飲食観の中に「禮儀」が根ざした。「食は天である」という思想ははっきりに體現してのであろう。それによって、いろんな禮儀が出るし中華文化の特有の物となった。でも、日本は「武士道」の思想によって「武士は食わねどたかようじ」式の飲食観の伝統があるが、日本の飲食観も體現できるのであろう。おわりに 本論文を通して、両國の飲食観の形成は明らかとなった。これは人類の誕生からの物でなく、豊かな物資生活によって產生したものであるというこたがわかるのであろう。また、両國の飲食観は自己の風土と密接した関系があるということも闡明した。最后に各國の飲食観に含む物を対比した。でも、本論文は不足點もある。この飲食観に含む物の歴史淵源は何であるか、まだ研究しなかった。機會があれば、次回の論文に研究したいと思う。參考文獻 1 清水勛著.『日本飲食の歴史』M.日本: 巖波書店 1999.5-940-47.2 ジョンAランド著『.アジア太平洋の飲食観』J.北京中國傳媒大學出版社2003.23-29 3 中野晴行著.『飲食產業論』M.北京: 中國傳媒大學出版 2007.2-9 謝 辭 小論は、研究方法の確定から完成までは、半年間ぐらいかかりました。その間、指導先生から數え切れないご指導を賜りました。先生は時間を惜しむことなく、論文の構成と執筆の仕方から、文法などの細かい點まで、親切に教えてくださいまして、心よりお禮申し上げたいです。そして、大學院での勉強と研究の期間中、擔當先生からも多くの御示唆を賜り、また、同級生である諸君からも、いろいろなご協力をいただき、心から感謝の意を表したいです。最后に、本稿を読んで、貴重なご指摘をしてくださった論文の審査員の方々にも、感謝の意をあらわせて頂きたいです。

第四篇:從酒文化看中日兩國的文化差異

最重要的一條:日本人喜歡清酒,中國人喜歡烈酒,反映出兩種文化特質

1.日本酒文化的起源 2.日本酒文化的歷史性

3.日本酒文化和中國酒文化的異同點 4.酒文化對日本社會的發展的影響

日本文化99題 白幡洋三郎

上海譯文出版社(2007-11出版)

吃到天涯

世界知識出版社(2004-01出版)

編輯本段日本清酒的起源

日本清酒是借鑒中國黃酒的釀造法而發展起來的日本國酒。

日本人常說,清酒是上帝的恩賜。1000多年來,清酒一直是日本人最常喝的飲料。在大型的宴會上,結婚典禮中,在酒吧間或尋常百姓的餐桌上,人們都可以看到清酒。清酒已成為日本的國粹。

據中國史書記載,古時候日本只有“濁酒”,沒有清酒。后來有人在濁酒中加入石炭,使其沉淀,取其清沏的酒液飲用,于是便有了“清酒”之名。公元7世紀中葉之后,朝鮮古國百濟與中國常有來往,并成為中國文化傳人日本的橋梁。因此,中國用“曲種”釀酒的技術就由百濟人傳播到日本,使日本的釀酒業得到了很大的進步和發展。到了公元14世紀,日本的釀酒技術已日臻成熟,人們用傳統的清酒釀造法生產出質量上乘的產品,尤其在奈良地區所產的清酒最負盛名。

自19世紀后半葉的日本明治維新運動之后,日本清酒的質量逐漸下降,尤其是在第二次世界大戰期間,日本酒商往清酒中對入大量的食用酒精,以增加釀酒量,牟取暴利,使清酒所具有的獨特風味黯然失色。因此,日本老人稱這種低劣的清酒為“亂世之酒”,贊譽原來純正的日本清酒為“太平之酒”。由于清酒釀造業受到歷史上“亂世”的影響,給日本消費者留下了不良的印象,加上新一代日本人崇尚飲用啤酒和烈性酒,所以清酒的銷售量逐年下降。今天,日本清酒的質量雖然已恢復其原來的水平,并且利用現代釀造技術和設備不斷提高產品質量,但其產品僅占日本酒類市場銷售量的15%。據統計,1988年日本清酒年產量為1448×10000000L,1993年為1457×10000000L,而1995年僅為996.9×10000000L。日本全國有大小清酒釀造廠2000余家,其中最大的5家酒廠及其著名產品是:大包廠的月桂冠、小西廠的白雪、白鶴廠的白鶴、西宮廠的日本盛和大關廠的大關酒。日本著名的清酒廠多集中在關東的神戶和京都附近。編輯本段日本清酒的分類

(一)按制法不同分類

(1)純米釀造酒 純米釀造酒即為純米酒,僅以米、米曲和水為原料,不外加食用酒精。此類產品多數供外銷。

(2)普通釀造酒 普通釀造酒屬低檔的大眾清酒,是在原酒液中對人較多的食用酒精,即1噸原料米的醪液添加100%的酒精120L。

(3)增釀造酒 增釀造酒是一種濃而甜的清酒。在勾兌時添加了食用酒精、糖類、酸類、氨基酸、鹽類等原料調制而成。

(4)本釀造酒 本釀造酒屬中檔清酒,食用酒精加入量低于普通釀造酒。

(5)吟釀造酒 制作吟釀造酒時,要求所用原料的精米率在60%以下。日本釀造清酒很講究糙米的精白程度,以精米率來衡量精白度,精白度越高,精米率就越低。精白后的米吸水快,容易蒸熟、糊化,有利于提高酒的質量。吟釀造酒被譽為“清酒之王”。

(二)按口味分類

(1)甜口酒 甜口酒為含糖分較多、酸度較低的酒。

(2)辣口酒 辣口酒為含糖分少、酸度較高的酒。

(3)濃醇酒 濃醇酒為含浸出物及糖分多、口味濃厚的酒。

(4)淡麗酒 淡麗酒為含浸出物及糖分少而爽口的酒。

(5)高酸味酒 高酸味酒是以酸度高、酸味大為其特征的酒。

(6)原酒 原酒是制成后不加水稀釋的清酒。

(7)市售酒 市售酒指原酒加水稀釋后裝瓶出售的酒。(三)按貯存期分類

(1)新酒 新酒是指壓濾后未過夏的清酒。

(2)老酒 老酒是指貯存過一個夏季的清酒。

(3)老陳酒 老陳酒是指貯存過兩個夏季的清酒。

(4)秘藏酒 秘藏酒是指酒齡為5年以上的清酒。

(四)按酒稅法規定的級別分類

(1)特級清酒 品質優良,酒精含量16%以上,原浸出物濃度在30%以上。

(2)一級清酒 品質較優,酒精含量16%以上,原浸出物濃度在29%以上。

(3)二級清酒 品質一般,酒精含量15%以上,原浸出物濃度在26.5%以上。

根據日本法律規定,特級與一級的清酒必須送交政府有關部門鑒定通過,方可列人等級。由于日本酒稅很高,特級的酒稅是二級的4倍,有的酒商常以二級產品銷售,所以受到內行飲家的歡迎。但是,從1992年開始,這種傳統的分類法被取消了,取而代之的是按釀造原料的優劣、發酵的溫度和時間以及是否添加食用酒精等來分類,并標出“純米酒”、“超純米酒”的字樣。

編輯本段日本清酒的特點

日本清酒雖然借鑒了中國黃酒的釀造法,但卻有別于中國的黃酒。該酒色澤呈淡黃色或無色,清亮透明,芳香宜人,口味純正,綿柔爽口,其酸、甜、苦、澀、辣諸味諧調,酒精含量在15%以上,含多種氨基酸、維生素,是營養豐富的飲料酒。

日本清酒的制作工藝十分考究。精選的大米要經過磨皮,使大米精白,浸漬時吸收水分快,而且容易蒸熟;發酵時又分成前、后發酵兩個階段;殺菌處理在裝瓶前、后各進行一次,以確保酒的保質期;勾兌酒液時注重規格和標準。如“松竹梅”清酒的質量標準是:酒精含量18%,含糖量35g/L,含酸量0.3g/L以下。

編輯本段日本清酒的命名與主要品牌

日本清酒的牌名很多,僅日本《銘酒事典》中介紹的就有400余種,命名方法各異。有的用一年四季的花木和鳥獸及自然風光等命名,如白藤、鶴仙等;有的以地名或名勝定名,如富士、秋田錦等;也有以清酒的原料、釀造方法或酒的口味取名的,如本格辣口、大吟釀、純米酒之類;還有以各類譽詞作酒名的,如福祿壽、國之譽、長者盛等。

最常見的日本清酒品牌有月桂冠、櫻正宗、大關、白鷹、賀茂鶴、白牡丹、千福、日本盛、松竹梅及秀蘭等。

編輯本段日本清酒的新產品

近幾年來,為適應人們飲食習慣的變化,日本開發了許多清酒的新產品。

1.濁灑

濁酒是與清酒相對的。清酒醪經壓濾后所得的新酒,靜止一周后,抽出上清部分,其留下的白濁部分即為濁酒。,濁酒的特點之一是有生酵母存在,會連續發酵產生二氧化碳,因此應用特殊瓶塞和耐壓瓶子包裝。裝瓶后加熱到65℃滅菌或低溫貯存,并盡快飲用。此酒被認為外觀珍奇,口味獨特。

2.紅酒

在清酒醪中添加紅曲的酒精浸泡液,再加入糖類及谷氨酸鈉,調配成具有鮮味且糖度與酒度均較高的紅酒。由于紅酒易退色,在選用瓶子及庫房時要注意避光性,應盡快銷售、飲用。

3.紅色清酒

該酒是在清酒醪主發酵結束后,加入酒度為60度以上的酒精紅曲浸泡而制成的。紅曲用量以制曲原料米計,為總米量的25%以下。

4.赤酒

該酒在第三次投料時,加入總米量2%的麥芽以促進糖化。另外,在壓榨前一天加入一定量的石灰,在微堿性條件下,糖與氨基酸結合成氨基糖,呈紅褐色,而不使用紅曲。此酒為日本熊本縣特產,多在舉行婚禮時飲用。

5.貴釀酒

貴釀酒與我國黃酒類的善釀酒的加工原理相同。投料水的一部分用清酒代替,使醪的溫度達9—10℃,即抑制酵母的發酵速度,而白糖化生成的浸出物則殘留較多,制成濃醇而香甜型的清酒。此酒多以小瓶包裝出售。

6.高酸味清酒

利用白曲霉及葡萄酵母,采用高溫糖化酵母,醪發酵最高溫度21℃,發酵9天制成類似干葡萄酒型的清酒。

7.低酒度清酒

酒度為10~13度,適合女士飲用。低酒度清酒市面上有三種:一是普通清酒(酒度12度左右)加水;二是純米酒加水;三是柔和型低度清酒,是在發酵后期追加水與曲,使醪繼續糖化和發酵,待最終酒度達12度時壓榨制成。

8.長期貯存酒

一般在壓榨后的3~15個月內銷售,當年10月份釀制的酒,到次年5月出庫。但消費者要求飲用如中國紹興酒那樣長期貯存的香味酒。老酒型的長期貯存酒,為添加少量食用酒精的本釀造酒或純米清酒。貯存時應盡量避免光線和接觸空氣。凡5年以上的長期貯存酒稱為“秘藏酒”。

9.發泡清酒

將通常的清酒醪發酵10天后,即進行壓榨,濾液用糖化液調整至3個波美度,加入新鮮酵母再發酵。室溫從15℃逐漸降到O℃以下,使二氧化碳大量溶解于酒中,用壓濾機過濾后,以原曲耐壓罐貯存,在低溫條件下裝瓶,瓶口加軟木塞,并用鐵絲固定,60℃滅菌15min。發泡清酒在制法上兼具啤酒和清酒釀造工藝,在風味上,兼備清酒及發泡性葡萄酒的風味。

10.活性清酒

該酒為酵母不殺死即出售的活性清酒。

11.著色清酒

將色米的食用酒精浸泡液加入清酒中,便成著色清酒。中國臺灣地區和菲律賓的褐色米、日本的赤褐色米、泰國及印度尼西亞的紫紅色米,表皮都含有花色素系的黑紫色或紅色素成分,是生產著色清酒的首選色米。編輯本段日本清酒的包裝與保藏

(一)清酒的包裝

目前,日本清酒多不以杉樽包裝,而采用瓶或杯式包裝。容量有300mL、330ml、540ml、700ml、720mL、1800ml等多種,也有采用3.6L、5.4L、9L、18L、36L及72L等各類容器包裝的。但市場上1800mL的瓶裝酒占90%以上,如白鶴、松竹梅、月桂冠等清酒,大多采用1800ml的瓶裝;澤之鶴、瑞兆大吟釀,也為1800mL瓶裝酒,并用草編織物包住。松竹梅、日本盛也有用300ml玻璃瓶包裝的;白雪牌清酒也有用750mL及300mL白瓷瓶包裝的,并附帶白瓷杯。部分高檔720ml的綠瓶包裝,球肚形有兩小塊平面作貼標用;櫻正宗清酒有用瓶身矮扁的平底瓶包裝的,其瓶身不平的兩面呈弧形,容量為720ml;秀蘭牌清酒的瓶子更為獨特,其瓶底的大半部呈斜面,置于桌上時酒瓶稍斜而立;大關牌清酒的小包裝為300mL的玻璃杯,帶螺扣的蓋內面有小標簽,可從上面透視,杯上標簽正面的內容與一般標簽相似,但其反面有風景畫,由于酒液清澈如水,故在杯的另一面可看清畫面,這種包裝適于旅行,或在宴會上將杯子兼作酒杯使用。特級瓶裝清酒多用高分子等材料的內塞,外加有螺扣的金屬帽蓋,瓶酒裝入帶尼龍繩的手提式紙盒內,有些紙盒呈黑色。采用壇式包裝的清酒,外面用草簾包住,并用草繩捆扎牢固,既攜帶方便,又十分美觀。壇的下方有倒酒用的開口。

(二)清酒的保藏

清酒是一種谷物原汁酒,因此不宜久藏。清酒很容易受日光的影響。白色瓶裝清酒在日光下直射3小時,其顏色會加深3~5倍。即使庫內散光,長時間的照射影響也很大。所以,應盡可能避光保存,酒庫內保持潔凈、干爽,同時,要求低溫(10~12℃)貯存,貯存期通常為半年至一年。

編輯本段日本清酒的飲用與服務

1.酒杯

飲用清酒時可采用淺平碗或小陶瓷杯,也可選用褐色或青紫色玻璃杯作為杯具。酒杯應清洗干凈。

2.飲用溫度

清酒一般在常溫(16℃左右)下飲用,冬天需溫燙后飲用,加溫一般至40~50℃,用淺平碗或小陶瓷杯盛飲。

3.飲用時間

清酒可作為佐餐酒,也可作為餐后酒。

編輯本段日本清酒等級

日本的造酒文化源于中國,日本的風土將其精練,并發展成現在的清酒。它的發展歷程是經驗不斷總結、完善和高質量原料的追尋過程。清酒種類繁多,該如何分辨呢?從前,日本人以特級、一級、二級等不同等級來區分日本酒的好壞。但是現在日本酒的分等制度已經廢除,因此一般人無法一眼就分辨出日本酒的優劣。

目前,日本酒大致可以分成兩大類,一是有特定名稱的日本酒以及稱為普通酒(或經濟酒)的日本酒。特定名稱的日本酒從本釀造酒到大吟釀酒,一共分為8種,這些酒都屬于從前一級以上的特級酒。而相對較便宜的普通酒則占了所有日本酒的8成。編輯本段日本清酒流派

根據日本造酒工會中央會的調查,日本各地每年釀制的日本酒大概有140萬公升。最近10年來,產量略有減少的傾向。不過,價位較高、有特定名稱的日本酒卻大受歡迎,以明顯的幅度持續增長。以本釀造酒為例,1986年的年產量大約有8.7萬公升,到1992年就增長了一倍多,達到21.2萬公升。包括大吟釀酒在內的吟釀酒也同樣由9500公升成長到2.65萬公升。

從日本酒的名稱可以猜得出日本酒的等級,從酒瓶上的標示也可以看出酒的來歷。一般日本清酒的標示內容包括產地、釀造者(日文漢字以杜氏稱之)出身地、原料米比例、日本酒度以及氨基酸度等。從釀造者的出身地可看出不同流派的釀造法。日本北部的口味較清淡、西部的味道來得較為豐潤,品嘗時可以從中體驗不同的風味。編輯本段日本清酒傳說

日本清酒是典型的日本文化,有這么一說,每年成人節(元月15日),日本年滿20周歲的男男女女都穿上華麗莊重的服飾,所謂男著吳服,女穿和服,與三五同齡好友共赴神社祭拜,然后飲上一杯淡淡的清酒(據日本法律規定不到成年不能飲酒),在神社前合照一張飲酒的照片。此節日的程序一直延至今日不改,由此可見清酒在日本人心目中的地位。

古往今來,詩歌、酒、美人、工作是日本男人生存意義的基本要素,活到老做到老是日本人生存的信念,故異常勤勞。工作之余,一杯清酒,富裕的人會來一杯“上善如水”或“男山”,做體力勞動的人則來一杯“百鶴”,希望能像仙鶴一樣神游于心中美好的地方。編輯本段日本清酒心得

在中森名菜日本料理所見到的清酒,品種繁多,價位也分高中低,憑喜好而選。最讓人感到驚喜的是,飲用過后的清酒瓶并沒有被人隨意丟掉,而是點綴在不同的角落,不僅突出了日本清酒文化的精髓所在,更重要的,那一排排“聲勢浩大”的清酒瓶,成為了中森名菜一道亮麗的風景線。

若是有朋自遠方來,三五知己把酒言歡,自然少不了冰上一壺松竹梅;拜訪長者,顯示孝心,千壽、萬壽是首選的佳品;公司聚會,商談生意,菊正宗既不失身份,又彰顯自然;若想享受天倫之樂,熱上一壺朝香,真可謂樂也融融。

天冷時,暖一小瓶,用“豬口”(喝清酒的小瓷杯)盛來喝,也是一件樂事。但不要忘記幫朋友倒酒,“豬口”是不能空著的!冷飲當然用玻璃杯較好,更地道的可用那種四方小木杯,以前的工人在杯角放一把鹽來佐著喝,現在卻只能在喜慶節日看到了。

編輯本段日本清酒情結

日本法律規定酒的酒精度只能在15°-16°上下,醇香入口,略飲會有益身心,舒筋活絡,美顏壯陽。清酒有檔次之分,由低至高的順序是清酒—上撰—特撰—吟釀—大吟釀酒,無論哪一樣清酒,都是日本菜肴的最佳搭配,酒味可口甜美。美食當前,絕對不能沒有與日餐匹配和諧的既輕度又爽口、既香又易入口的日本清酒。

要知道冷藏5°的酒是最爽最美味的,特別是大吟釀、吟釀的清酒,經過用精選的上好日本米(世界上最好的米是日本米,由于品質好、產量少,一般都用于本土供應)以及礦泉水釀制而成。如上善如水,男山大吟釀,菊源氏大吟釀,久保田(萬壽、千壽)等,清酒把飲酒的藝術推至至高點,正如“上善如水”的牌子一樣,日本語意即“尊貴好飲的感覺就像奔流的水一樣向四面八方流傳”。以下幾種清酒取名之意為:

朝香——酒的清香就好像清晨撲面而來的空氣一樣,怡人愜意。

松竹梅——松、竹、梅,日本庭園自然高貴的植物,此酒就像他們一樣給人和諧自然又不失高貴的感覺。

菊正宗——菊花在繁花叢中顯自然淳樸,到處可見。人人喜愛的花卉,不求高貴但求人人喜愛。

千壽、萬壽——長壽之人必不可少之意。

日本清酒品牌眾多,“上善如水”、赤磬雄町、久保田萬壽、千壽等是成功人士的首選,因而價格也較高;玉乃光、醉心吟釀、朝香大吟釀、萬壽純米吟釀、菊源氏等價格適中,很受中級白領的青睞;菊正宗、美少年、日本盛、朝香等走平民化路線,特別被一般家庭所推崇。

編輯本段日本清酒品牌一覽

大關

大關清酒在日本已有285年的歷史,也是日本清酒頗具歷史的領導品牌,〝大關〞的名稱由來是根源于日本傳統的相撲運動﹔數百年前日本各地最勇猛的力士,每年都會聚集在一起進行摔角比賽,優勝的選手則會賦予「大關」的頭銜﹔而大關的品名是在1939年第一次被采用,作為特殊的清酒等級名稱。相撲在日本是享譽盛名國家運動,大關在1958年頒發「大關杯」與優勝的相撲選手,此后大關清酒就與相撲運動結合,更成為優勝者在慶功宴最常飲用的清酒品牌,目前大關品牌清酒是由東順興代理國內市場,近年在臺灣的銷售可說是名列前茅,其市場地位已然鞏固。

日本盛

釀造日本盛清酒的西宮酒造株式會社,在明治22年(1889年)創立于日本兵庫縣,是著名的神戶灘五鄉中的西宮鄉,為使品牌名稱與釀造廠一致,于2000年更名為日本盛株式會社。該公司創立至今已有112年歷史,日本盛清酒是于1990年12月,在公賣局的機場免稅店試銷成功后才正式引進臺灣,其口味介于月桂冠(甜)與大關(辛)之間。有人將釀酒的原料比諭為酒的肉,釀酒用的水為酒血,酒曲則為酒的骨﹔那么釀酒師的技術與用心,則應該是酒的靈魂了﹔日本清酒也不例外,除了先天的氣候環境條件,水質的優劣,用米的良窳等都是不可缺少的要素。若以水的性質區分,日本酒有兩種代表,一是用〝硬水〞制成的灘酒,俗稱為〝男人的酒〞,另一種典型是用〝軟水〞釀造的京都伏見酒,稱為〝女人的酒〞,前者如日本盛、白雪、白鶴等﹔后者如月桂冠。日本盛的原料米采用日本最著名的山田井,使用的水為〝宮水〞,其酒品特質為不易變色,口味淡雅甘醇。BOX 硬水與軟水的區分在于水中所含礦物質(鈣、磷、鉀、鐵)的多寡,硬水的礦物質含量較多,軟水較少。

月桂冠

月桂冠的最初商號名稱為笠置屋,成立于寬永14年(1637年),當時的酒品名稱為玉之泉,其創始者大倉六郎右衛門在山城笠置莊,也就是現在的京都相樂郡笠置町伏見區,開始釀造清酒,至今已有360年的歷史。其所選用的原料米也是山田井,水質屬軟水的伏水,所釀出的酒香純淡雅﹔在明治38年(1905年)日本時興競酒比賽,優勝者可以獲得象征最高榮譽的桂冠,為了冀望能贏得象征清酒的最高榮譽而采用〝月桂冠〞這個品牌名稱。由于不斷的研發并導入新技術,廣征伏見及灘區及日本各地的優秀杜氏,如南部流、但馬流、丹波流、越前流等互相切磋,因此在許多評鑒會中獲得金賞榮譽,成就了日本清酒的龍頭地位,在臺灣也成了屬一屬二的知名品牌。

白雪

日本清酒最原始的功用是作為祭祀之用,寺廟里的和尚為了祭典自行造酒,部分留做自己喝,早期的酒是呈混濁狀,經過不斷的演進改良才逐漸轉成清澄,其時大約在16世紀﹔白雪清酒的發源可溯至公元1550年,小西家族的祖先新右衛門宗吾開始釀酒,當時最好喝的清酒稱為〝諸白〞,由于小西家族制造諸白成功而投入更多的心力制作清酒﹔到了1600年江戶時代,小西家第二代宗宅運酒至江戶途中時,仰望富士山時,被富士山的氣勢所感動,因而命名為〝白雪〞,白雪清酒可說是日本清酒最古老的品牌。一般日本酒最適合釀造的季節是在寒冷的冬季,因為氣溫低,水質冰冷,是釀造清酒的理想條件,因此自江戶時期以來,日本清酒多是在冬天進行釀酒的工作,稱為〝寒造〞,釀好的酒第二年春夏便進行陳酒﹔1963年,白雪在伊丹設立第一座四季釀造廠「富士山二號」,打破了季節的限制,使造酒不再限于冬季,任何季節都可造酒。白雪清酒的特色除了采用兵庫縣,心白不透明的山田錦米種,釀造用的水則是采用所謂硬水的「宮水」,宮水中含有大量酵母繁殖所需的養分,因此是最適合用來造酒的水,其所釀出來的酒屬酸性辛口酒,即使經過稀釋,酒姓仍然剛烈,因此稱為〝男酒〞。

另外,白雪特別的是其釀制的過程除了藏元杜氏外,整個釀制過程均由女性社員擔任,也許因為這個原因,白雪清酒呈現的是細致優雅的口感,如同其名,冰鎮之后飲用更顯清爽暢快。

白鹿

白鹿清酒創立于日本寬永2年(1662年)德川四代將軍時代,至今已有340年的歷史﹔由于當地的水質清冽甘美,是日本所謂最適合釀酒的西宮名水,白鹿就是使用此水釀酒﹔早在江戶時代的文政、天保年間(1818~1843年),白鹿清酒就被稱為〝灘的名酒〞,迄今仍擁有崇高的地位,早期曾是臺灣清酒市場最大的品牌,目前臺灣的白鹿酒品由正暉公司代理進口,該公司預計今年將陸續引進新的高級白鹿酒品,包括大吟釀、吟釀、純米吟釀及生清酒等。白鹿清酒的特色是香氣清新高雅口感柔順細致,非常適合冰涼飲用,另外一款白鹿生清酒(Nama Sake),口感較一般的清酒多一分清爽、新鮮甘口的風味,所謂的〝Nama〞是新鮮的意思,一般清酒的釀制過程須經兩次殺菌處理,而生清酒僅作一次的殺菌處理便裝瓶,因此其口感更清新活潑。

白鶴清酒

白鶴清酒創立于1743年,至今已有250余年的歷史,白鶴清酒于民國64年引進臺灣市場銷售,其市場占有率最高曾達到40%﹔其在日本的銷售也是屬一屬二的大品牌,在日本的主要清酒產區,關西灘五鄉,白鶴也有不可動搖的地位﹔尤其是白鶴的生酒、生貯藏酒等,其在日本的消量,更是常年居冠。
白鶴品牌的產品相當多元,除了眾所熟知的清酒、生清酒外,另外還有燒酎、料理酒等其它種類的酒品﹔在清酒方面,產品線更是齊全多樣,從純米生酒、生貯藏酒、特別純米酒到大吟釀、純米吟釀、本釀造等﹔口味更是從淡麗到辛口、甘口,適合女性的或專屬男性喝的,可說應有盡有,不過在臺灣的飲用習慣可沒分得如此細致。

菊正宗

菊正宗在日本也是一個老牌子,其產品特色是酒質的口感屬于辛口(DRY),與一般市面販售稍帶甜味的其它清酒不同,由于其在釀造發酵的過程中,采用公司自行開發的〝菊正酵母〞作為酒母,此酵母菌的發酵力較強,因此釀造出的酒質味道更濃郁香醇,較符合都會區飲酒人士的品味。另外,其所使用的原料米也是日本最知名的米種〝山田錦〞,釀出的原酒再放入杉木桶中陳年,讓酒液在木桶中吸收杉木的香氣及色澤,只要含一口菊正宗,就有一股混著米香與杉木香氣緩緩開展,因此,濃厚的香味無論是加溫至50℃熱飲或冰飲都適合,是大眾化的酒品。

富貴清酒

上撰富貴是橡木桶新引進的清酒品牌,釀造廠商GODO合同酒精株式會社位于北海道旭川市,1924年與四家酒廠合并而成,該公司起源于Mikawaya酒館,由神谷傳兵衛于1880年,在日本淺草花川戶開設。神谷傳兵衛于1900年在北海道旭川市開始制造酒精,1903年在茨城縣牛久市首創日本酒的釀造工業,其后以神谷酒精制造為中心,合并四家位于北海道的燒酎制造公司,于旭川建立「合同酒精股份有限公司」。GODO在日文漢字中的意思為「合同」,中文意思為「合力」,由于結合了不同的酒類制造商,其產品線較多元,包括燒酎、清酒、梅酒、葡萄酒等﹔上撰富貴是采用知名六甲山褶涌出的灘水〝宮水〞,以丹波杜氏的傳統釀酒技藝釀制而成,其口味清新淡雅,不過也有較辛口的特級清酒。

御代榮

御代榮是成龍酒造株式會社出產的酒品,由吉珍屋引進日本當地高品質的清酒產品種類﹔成龍酒造位于日本四國島的愛媛縣,成立于明治10年(1877年)至今已有125年的歷史。〝御代榮〞的銘柄(商標)其原意是期望世代子孫昌盛繁榮,因此酒造的先代創始人期望藏元(酒廠)也能世代繁榮,并承續傳統文化釀造出優美的酒質,讓人飲用美酒后也能有幸福之感。日本酒的文化特色是堅持依當地的風土特色,釀出屬于地方特有的酒質﹔成龍酒造堅持使用當地愛媛縣所出產的原料米品種〝松山三井〞,而釀造用水則是采用四國最高峰石槌山源流的水釀造,其釀出的酒酒質清爽微甘,口感平衡醇美﹔代表性酒御代榮醇米吟釀,采用有機栽培的松山三井原料米,經過50%~60%的精米步合(稻米磨除率)釀制而成,口感豐滿清爽。

其它品牌

尤其是在日本當地享有盛名,品質一流,遵古法釀造,數量有限所謂的〝地酒〞﹔以下介紹日本名門酒會的幾個地酒品牌。

〝真澄〞創立于寬文2年,公元1662年,市長野縣信州諏訪泉的原產酒,在明治、大正時期當地的釀酒技術還差一級,當地的諏訪杜氏所釀的酒曾被說為「鄉下人的酒」,為了洗刷這樣的恥辱,在地的蔦木村諏訪杜氏便發憤成功,經過多年的努力及后代的發揚,終獲得勛六等旭日賞。而真澄的名聲要到昭和年間才傳播開來,因其在昭和二年獲得名古屋國稅局評鑒會的優等獎,其后每年全國評鑒會幾乎都有入圍。在昭和21年的全國新酒評鑒會更連續獲得第一、二、三名,日本大藏省釀造試驗所的山田正一博士,在真澄的清酒中采集到一種會散發類似頻果香味的酵母,歷經了300多年未被自然淘汰而能生存至今,驚嘆之余,該協會將其命名為7號酵母﹔嚴謹的釀造態度與堅持優質的原料選材,讓真澄盛名遠播、歷久不衰。

位于茨城縣石下町的〝一人娘〞,是堅持遵守軟水釀法的酒藏,其酒質柔軟而辛辣﹔最特別的是在昭和初年所發展出的軟水辛口釀造法,在昭和19年的春季評鑒會上獲得第一的入賞,此后其微甜到辛辣的口感獲得各界的好評。由于一人娘的酒窖在鬼怒川旁,這條河的水質相當干凈但是屬于軟性的水,與宮水不同的地方是軟水不好發酵,因此制作酒母時所需的硬水要到隔壁城鎮汲取。

一人娘酒質的特點在制作酒母及醪的過程表現,一般在制作酒醪的過程,多做初添、仲添、留添三段式添加米飯的做法,而在制作酒母時使用硬水主要是使之充分發酵,之后若再加入一些軟水則發酵將更均勻完整,由于酒母中大量使用酵母,如果酵母發酵得太強,則會影響酒的口感,此時就要將三段式添法改為兩段式,讓酵母有足夠的淀粉醣化,因此其做法要視發酵的程度判斷采用方式﹔而添加軟水的做法會使口感更柔和,也就成了一人娘的最大特色。

除了上述頗具特色的品牌外,其它如北海道的男山酒造﹔秋田的刈穗﹔宮城縣的蒲霞、一ˊ藏﹔高知縣的司牡丹﹔大分國東的西之關等,都是日本頗有歷史與知名的清酒品牌.編輯本段清酒的誕生

日本的造酒文化源于中國大陸,2000年前、江浙一帶的大米種植技術和以大米為原料的釀酒技術傳到了日本。日本的風土將其精煉并發展成現在的清酒。奈良縣的三輪神社、京都府的松尾神社、梅之宮神社在日本因供奉酒神而非常著名。三家神社所供奉的酒神代表了日本釀酒技術在不同時期的情況。

三輪神社供奉的諸神中有一位「大國主命」神,他是日本土著民族的代表。表明距今2000年前在同亞洲大陸交流時,大米的種植技術和以大米為原料的釀酒技術一同傳到了「出云阿國」,這就是日本清酒的原型,清酒是日本民族的國酒。

松尾神社供奉的酒神據說是秦氏,他是距今1500年前從朝鮮半島旅居日本的眾多有技術的工匠中掌握釀酒技術的代表人物。

梅之宮神社供奉的「木花咲耶姬」神,傳說他用大米釀制甜酒。表明1200年前就開始了制麴釀酒。

編輯本段韓國清酒

韓國清酒一般可分為“純米”和“本釀造”兩大類,酒精度皆介乎15至17度之間。“本釀造”在釀制時另外加入了酒精,而“純米”的酒清則在發酵時產生,故分外清香。此外會以米粒的打磨程度再分等級,基本的“純米”和“本釀造”,米粒被磨去百分之三十后,剩余的百分之七十就用來釀酒。高一等的吟釀,就會磨去米粒外層百分之四十后才造酒。至于最高級的大吟釀,差不多百分之五十的米粒外層都會被磨去,加上在冬天才釀制,所采用的米亦比較靚,水質亦較清純,釀制時間也較長,故會散發一種自然的清香,入口分外醇美。

真澄本釀造生酒,入口很dry但清醇,適宜冷藏到7至12度才飲用。開華吟釀生酒則較溫和易入口,味道較清。越譽吟釀生酒和千代壽純米吟釀,都是清新且帶有淡淡果香的,配燒烤的海產更覺清甜。一純米生酒、賀茂泉純米吟釀及七笑吟釀,都屬于濃郁醇厚一類,“一”更是香氣馥郁,未喝已令人醉倒。

目前最好的韓國清酒就是千年之約桑黃菇發酵酒,口感十分純正.并且是酒后不會頭痛和深醉的優質清酒.韓國燒酒算是真露最有名的,像喜聞.清河等,韓國清酒就是千年之約桑黃菇發酵酒和百歲酒這兩大品牌為首了。

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日本酒文化

無論喜怒哀樂,以酒助興或消愁并不僅僅屬于日本人的專利。但是,自古以來,日本人最喜歡清酒卻是名不虛傳。

清酒是用秋季收獲的大米,在冬季經發酵后釀成的。可以說,“酒是米、水以及酒曲子的藝術結晶”。所以,名酒的產地必然要有充足的水源而且盛產大米。豐富的水源,優質的大米是生產香醇美酒的先決條件。日本的森林孕育了豐富的水源,為生產優質名酒提供了良好的環境,這里的名酒產地主要在東北、北陸地區、九福崗、熊本一帶。

日本菜以魚類海鮮為主,吃日本菜喝威士忌,因酒性太烈,破壞了日本菜的鮮美,喝啤酒又覺得“味”不足,還是香醇爽口的清酒配上日本菜才有滋有味,再合適不過了。日本人后來用大米的“芯”釀造“吟釀造”很受歡迎,這是清酒中的最高極品。

燒酒清酒很適合正規禮節的宴會,而燒酒卻比較適合于輕松愉快的場合。在鹿兒島,如果提到“酒”,不言而喻指的是燒酒,當地人對燒酒深愛不已,舉杯多為燒酒。

燒酒常用的原料是山芋、小麥、蕎麥等,但也有用芝麻、胡蘿卜、咖啡、甘蔗等制成的另一種風味的燒酒。蒸餾而成的燒酒,酒精的含量比清酒高,從25度到45度,達到了與威士忌一樣的度數。

泡盛在沖繩,人們

喜歡喝一種叫“泡盛”的酒,這種酒與清酒一樣也是用大米作原料,但與眾不同地使用黑發酵,這反映了很早以前琉球人與東南亞的交流頻繁,接受了許多外國的影響。“泡盛”也和燒酒一樣屬蒸餾酒類,但是也有數量高達60度以上的烈性酒。琉球菜濃油重,如果“酒勁兒”不夠,確也難以與其“拔刀對陣”。二戰前,人們用呂宋壺裝好酒埋于地下,儲藏100年以上的陳年老酒并非稀罕之物,可現在幾乎銷聲匿跡,真讓人懷念。無論喜怒哀樂,以酒助興或消愁并不僅僅屬于日本人的專利。但是,自古以來,日本人最喜歡清酒卻是名不虛傳----------------------------

想到日本庭園,自然離不開松、竹、梅;說到日本文化,自然離不開沁人心肺的日本清酒。金秋之際,吹來陣陣秋風,是暢飲清酒的好時節。坐在廣州天河北中森名菜日本料理店里,聽著掛簾瀑布落入水中被石激出的清脆響聲,用眼“吃”著刺身的那種非凡享受,再來一壺清酒,那種愜意盡在不言中,在中森名菜日本料理店里,有一道清酒“進行曲”的美麗風景線,讓人為它壯觀而折服,不妨細細地傾聽它的傳說。

□等級

日本的造酒文化源于中國,日本的風土將其精練,并發展成現在的清酒。它的發展歷程是經驗不斷總結、完善和高質量原料的追尋過程。清酒種類繁多,該如何分辨呢?從前,日本人以特級、一級、二級等不同等級來區分日本酒的好壞。但是現在日本酒的分等制度已經廢除,因此一般人無法一眼就分辨出日本酒的優劣。目前,日本酒大致可以分成兩大類,一是有特定名稱的日本酒以及稱為普通酒(或經濟酒)的日本酒。特定名稱的日本酒從本釀造酒到大吟釀酒,一共分為8種,這些酒都屬于從前一級以上的特級酒。而相對較便宜的普通酒則占了所有日本酒的8成。

□流派

根據日本造酒工會中央會的調查,日本各地每年釀制的日本酒大概有140萬公升。最近10年來,產量略有減少的傾向。不過,價位較高、有特定名稱的日本酒卻大受歡迎,以明顯的幅度持續增長。以本釀造酒為例,1986年的年產量大約有8.7萬公升,到1992年就增長了一倍多,達到21.2萬公升。包括大吟釀酒在內的吟釀酒也同樣由9500公升成長到2.65萬公升。從日本酒的名稱可以猜得出日本酒的等級,從酒瓶上的標示也可以看出酒的來歷。一般日本清酒的標示內容包括產地、釀造者(日文漢字以杜氏稱之)出身地、原料米比例、日本酒度以及氨基酸度等。從釀造者的出身地可看出不同流派的釀造法。日本北部的口味較清淡、西部的味道來得較為豐潤,品嘗時可以從中體驗不同的風味。

□傳說

日本清酒是典型的日本文化,有這么一說,每年成人節(元月15日),日本年滿20周歲的男男女女都穿上華麗莊重的服飾,所謂男著吳服,女穿和服,與三五同齡好友共赴神社祭拜,然后飲上一杯淡淡的清酒(據日本法律規定不到成年不能飲酒),在神社前合照一張飲酒的照片。此節日的程序一直延至今日不改,由此可見清酒在日本人心目中的地位。

古往今來,詩歌、酒、美人、工作是日本男人生存意義的基本要素,活到老做到老是日本人生存的信念,故異常勤勞。工作之余,一杯清酒,富裕的人會來一杯“上善如水”或“男山”,做體力勞動的人則來一杯“百鶴”,希望能像仙鶴一樣神游于心中美好的地方。

□心得

在中森名菜日本料理所見到的清酒,品種繁多,價位也分高中低,憑喜好而選。最讓人感到驚喜的是,飲用過后的清酒瓶并沒有被人隨意丟掉,而是點綴在不同的角落,不僅突出了日本清酒文化的精髓所在,更重要的,那一排排“聲勢浩大”的清酒瓶,成為了中森名菜一道亮麗的風景線。

若是有朋自遠方來,三五知己把酒言歡,自然少不了冰上一壺松竹梅;拜訪長者,顯示孝心,千壽、萬壽是首選的佳品;公司聚會,商談生意,菊正宗既不失身份,又彰顯自然;若想享受天倫之樂,熱上一壺朝香,真可謂樂也融融。

天冷時,暖一小瓶,用“豬口”(喝清酒的小瓷杯)盛來喝,也是一件樂事。但不要忘記幫朋友倒酒,“豬口”是不能空著的!冷飲當然用玻璃杯較好,更地道的可用那種四方小木杯,以前的工人在杯角放一把鹽來佐著喝,現在卻只能在喜慶節日看到了。□情結

日本法律規定酒的酒精度只能在15°-16°上下,醇香入口,略飲會有益身心,舒筋活絡,美顏壯陽。清酒有檔次之分,由低至高的順序是清酒—上撰—特撰—吟釀—大吟釀酒,無論哪一樣清酒,都是日本菜肴的最佳搭配,酒味可口甜美。美食當前,絕對不能沒有與日餐匹配和諧的既輕度又爽口、既香又易入口的日本清酒。要知道冷藏5°的酒是最爽最美味的,特別是大吟釀、吟釀的清酒,經過用精選的上好日本米(世界上最好的米是日本米,由于品質好、產量少,一般都用于本土供應)以及礦泉水釀制而成。如上善如水,男山大吟釀,菊源氏大吟釀,久保田(萬壽、千壽)等,清酒把飲酒的藝術推至至高點,正如“上善如水”的牌子一樣,日本語意即“尊貴好飲的感覺就像奔流的水一樣向四面八方流傳”。以下幾種清酒取名之意為:

朝香——酒的清香就好像清晨撲面而來的空氣一樣,怡人愜意。

松竹梅——松、竹、梅,日本庭園自然高貴的植物,此酒就像他們一樣給人和諧自然又不失高貴的感覺。

菊正宗——菊花在繁花叢中顯自然淳樸,到處可見。人人喜愛的花卉,不求高貴但求人人喜愛。

千壽、萬壽——長壽之人必不可少之意。

日本清酒品牌眾多,“上善如水”、赤磬雄町、久保田萬壽、千壽等是成功人士的首選,因而價格也較高;玉乃光、醉心吟釀、朝香大吟釀、萬壽純米吟釀、菊源氏等價格適中,很受中級白領的青睞;菊正宗、美少年、日本盛、朝香等走平民化路線,特別被一般家庭所推崇。日本清酒品牌眾多,“上善如水”、赤磬雄町、久保田萬壽、千壽等是成功人士的首選。

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日本酒文化

無論喜怒哀樂,以酒助興或消愁并不僅僅屬于日本人的專利。但是,自古以來,日本人最喜歡清酒卻是名不虛傳。

清酒是用秋季收獲的大米,在冬季經發酵后釀成的。可以說,“酒是米、水以及酒曲子的藝術結晶”。所以,名酒的產地必然要有充足的水源而且盛產大米。豐富的水源,優質的大米是生產香醇美酒的先決條件。日本的森林孕育了豐富的水源,為生產優質名酒提供了良好的環境,這里的名酒產地主要在東北、北陸地區、九福崗、熊本一帶。

日本菜以魚類海鮮為主,吃日本菜喝威士忌,因酒性太烈,破壞了日本菜的鮮美,喝啤酒又覺得“味”不足,還是香醇爽口的清酒配上日本菜才有滋有味,再合適不過了。日本人后來用大米的“芯”釀造“吟釀造”很受歡迎,這是清酒中的最高極品。

燒酒清酒很適合正規禮節的宴會,而燒酒卻比較適合于輕松愉快的場合。在鹿兒島,如果提到“酒”,不言而喻指的是燒酒,當地人對燒酒深愛不已,舉杯多為燒酒。

燒酒常用的原料是山芋、小麥、蕎麥等,但也有用芝麻、胡蘿卜、咖啡、甘蔗等制成的另一種風味的燒酒。蒸餾而成的燒酒,酒精的含量比清酒高,從25度到45度,達到了與威士忌一樣的度數。

泡盛在沖繩,人們

喜歡喝一種叫“泡盛”的酒,這種酒與清酒一樣也是用大米作原料,但與眾不同地使用黑發酵,這反映了很早以前琉球人與東南亞的交流頻繁,接受了許多外國的影響。“泡盛”也和燒酒一樣屬蒸餾酒類,但是也有數量高達60度以上的烈性酒。琉球菜濃油重,如果“酒勁兒”不夠,確也難以與其“拔刀對陣”。二戰前,人們用呂宋壺裝好酒埋于地下,儲藏100年以上的陳年老酒并非稀罕之物,可現在幾乎銷聲匿跡,真讓人懷念。無論喜怒哀樂,以酒助興或消愁并不僅僅屬于日本人的專利。但是,自古以來,日本人最喜歡清酒卻是名不虛傳。

日本酒文化

“酒者,天之美祿”(漢書.食貨志)

說句實話,酒這個東西真可謂是“環球同此醒醉”,無論你走到哪里都可以看到醉鬼,最極端的恐怕就是那句“上帝保佑醉鬼”(《丁丁歷險記》)

一 日本酒及釀酒技術的起源

現存關于日本歷史的最早記載,是《三國志.魏書》“東夷傳”中的“倭人”部分——日本人叫《魏志倭人傳》的那本書。那里面對上古時代的日本人并沒有特別翔實的第一手資料,但卻已經有了“人性嗜酒”的記載,并且指出在辦喪事時,日本人有聚眾“歌舞飲酒”的習俗。但可惜并沒有指出他們喝的是五糧液還是二鍋頭。

根據偉大的考古學家不懈努力,我們可以知道,最晚在繩文時代中期(中國的春秋時代),日本人已開始釀酒了。本州島中部長野縣出土了“有孔鍔付土器”,是已知的日本最早的釀酒器具。在同一個地點,發現了 發現了山葡萄的種子,啊原來日本人喝的是葡萄酒(法國人跳出來啊?)。這起碼說明,當時的酒飲料還是依靠野果釀酒。而根據大多數國家和民族的傳說和考古顯示,最早掌握釀酒技術的是——猴子!他們采摘野果,儲存,吃不完,于是剩余的果子發酵,變成酒,恰好本森林里的二郎發現,當天晚上家里人發現二郎滿嘴胡話,跳著舞闖了進來。我的觀點A:和歌以及敦盛舞就是這樣出現的??我的觀點B:日本人的釀酒祖師是——日吉丸!OHOHOHOH 偉大的發現??

至于今天占據日本主導地位的米酒,則無疑產生于稻作文化傳日之后。繩文時代晚期(已經到了戰國時代)大量江南地區的農民為躲避戰亂,逃往海那邊的島嶼(當時的航海技術一級棒),于是帶來了水稻的耕種技術。從南端的九州到北部的青森,都發現了這一時期稻米種植的遺跡。當然,光有米還不行,還得會把米變成酒才行,這其中的轉變,我們不妨從古書以及一些傳說找答案。

首先是無敵的《古事記》記載,在應神天皇時期,有一個從百濟來的造酒專家須須許理,天皇喝了他獻上的酒,感到味道好極了,“平生沒有嘗過”(原文有改動啊??畢竟是日文啊??我不懂日文啊!!)醉而做歌一首!但是本說法的可信度不高,畢竟《古事記》的殘存度是應該受到懷疑的。

下面我們就從民間來找答案,在日本供奉的酒神中,就有大陸的舶來客。其中最著名的首推秦氏。公元四,五世紀時,被稱為(注意,只是稱為)秦始皇后裔的秦氏一族,聚居于京都一帶。他們帶來了包括釀酒在內的先進技術,對日本經濟發展貢獻居功至偉!以至于雄略天皇朝初次設立主管財政的“大藏”機構,第一任長官就選中了——秦酒公!~~~~~~~無言中~~~~~~后來秦氏子孫為紀念祖先功德,在嵐山建立了松尾大社,在太秦建立了大酒神社,至今還有香火。所以,秦氏也被認為是日本的釀酒始祖。

日本人終于可以喝自己釀的酒了!!

二 日本釀酒技術的改進

首先還是讓我們回到在日本的漫畫,小說里經常出現的平安時代(中國平安平安中國 哇哈哈哈 我就在平安哈 請大家多多支持)。從諸如《福星小子》之類的史料看來(我??我不是故意的)那個時代的人們還是滿富足的,于是就有無聊的人出現,寫了一部《延喜式》,注意,這事日本歷史上有記載的第一部關于釀酒的專著。當時通行的釀酒方法在書中都有所反應。占主流地位的還是把發酵好的材料放入袋子里,擠榨出酒。這種方法出的酒往往有個“糟”字,顯示了某種程度上和我中華上國之間的聯系。

到了中世紀,日本的文化中心轉入寺院,酒類從朝廷向民間開始作為商品流通。當時的著名品牌是“僧坊酒”當然就是寺廟里出產的酒(第三產業哈),踞考證,這種酒是由入宋,入元,入明的僧侶用帶回的釀酒技術加以符合日本各個地方的實踐而制作的。釀酒技術由于先進技術的引進有了長足發展,采用了著名的“火入”法。也就是煮酒。當然不是所謂“煮酒論英雄”的那個拉。在室町時代末期奈良興福寺多聞院日記就記錄了“煮酒”的作用,其一,殺死雜菌:其二,促進熟成。可見,煮酒已經有了理論依據。當然其最終來源還是中國技術我國在宋代就已經能夠從理論上煮酒了。在制酒的方法上看最接近中國白酒釀制方法的是日本的“燒酌”,這種酒的制作方法主要是蒸餾,因而酒精含量較高,著名的就是沖繩出產的“泡盛”。從語言上講,日本將知道釀酒的專家稱為“杜氏”。這下一切都清楚了,“劉伶釀酒杜康造”,杜氏這個詞匯直接反映了日本釀酒技術的出處。

當然,日本也有自己的特色。釀制米酒的關鍵在于酒曲的制作,在包括中國,日本,朝鮮半島以及東南亞,西瑪拉亞山脈諸國在內的“酒曲文化圈”里,所有國家的酒曲都是餅狀,只有日本的酒曲呈現粉末狀,這真是日本人的一大創舉,根據本人的意見,這是日本列島多風的結果。

總之,經過中華文化的熏陶和本地人的努力,日本人的釀酒技術在中世紀真正成熟了!

三 日本節氣飲酒習俗考

一個蘋果在你面前,你不去吃他,他也會不高興的。最近正ON FIRE的慕容雪村如是說。

所以,有酒,就一定要有人來享受酒,就一定要有飲酒的環境,就一定有飲酒的時令,就一定會產生飲酒習俗這個東西。

人間五十年,如夢亦如幻。日本列島一年四季變化明顯,節序如流,日本人在感受自然更替,抒發生命詠嘆的同時,少不了的,自然是酒的助興。但是也并不是只有在一定之時日本人才會飲酒,有娶了日本姑娘的朋友說有時候BOSS甚至會以“順利完成一天工作”為借口請大家喝酒。

新年伊始,千家萬戶入屠蘇,日本人會在元旦的早晨,飲“屠蘇酒”。這是一種用多種草藥制成的酒精飲料,據說可以驅邪避禍,延年益壽。屠為死(好象是屠宰哦),蘇為生(復蘇)。歲首飲之,一年諸事遂順,否極泰來。在平安時代(中國平安平安中國)這個風俗傳入日本,并流行開來,而中國本土自宋元以降,卻漸漸失傳(忽必烈,他把北京改造成了一個大牲口圈)。

我中華上國地靈人杰,曾有一政府官員因為在一片在民間和業界被廣為傳抄的書法作品上以不同式樣書寫了21個“之”字而名揚古今。當時他和他的朋友正在進行一項傳統的叫做“修禊”(XIUXI)的活動(我一直認為是休息的通假,但沒有明顯證據??)。日本在奈良,平安時代(中國平安平安中國)皇宮中都仿效晉人先例,于3月3日舉行“曲水宴”。后來發展成用紙作成偶人,放入水中以帶走邪氣的習俗,到了室町時代,喧賓奪主,偶人完全取代了曲水宴,進而登堂入室成為室內陳設,后世日本以3月3日為“雛祭”成為女孩子的節日。(-_-b這個祭不太風雅啊似乎??)

四月到了,向大家每人收取一張卡片。呵呵,日本櫻花盛開,漫漫櫻花如雪,滾滾游人如蟻。在繽紛的櫻花下,人們暢飲“花見酒”(向面堂一樣說風雅啊風雅)。所以每到櫻花盛開時,日本國民數量就會適當減少一部分,原因不詳。

皓月當空,天涯共此時。日本人除了抄襲我中華上國之創意吃月餅以外,還喝一種酒,一種度數很低的酒,叫做月見酒。但是不知道如果陰天還喝不喝。

遙知兄弟登高處,遍插茱萸少一人。九九重陽,日本人也有這個奇怪的風俗,公元5世紀初期,菊花作為一種藥用植物傳入日本,平安時代(中國平安平安中國)就有了飲菊花酒的習慣,《類聚國史》就在“歲時部五”里提到大量當時宮中君臣聚飲,詠菊唱和的事情,不過好象是公款吃喝的借口呢。而重陽節作為“節句”,一直到明治維新才被廢止。

從上面可以看出,其實日本人也沒什么想象力,大多數習俗都是仿效我中華上國。就如在酒家門口懸掛的酒旗,根據《和漢三才圖會》解釋,和中國的“酒望子”“酒簾”都一模一樣。日本人下酒的莼菜也傳自中國江南,張翰“見秋風乃思莼鱸”算是表率,在日本詩文里屢見不鮮。

最后,表達對白居易的敬意,據說,日本自古相傳的“火間”(是一個字,讀KAN)即把酒加熱后引用的方法,就是援引自老白的詩句“林中暖酒燒紅葉”。

(三)日本酒文化之醉忘書

君當恕醉人——陶淵明 醉者神全——莊子

醉時拈筆越精神——辛棄疾

說一句大實話,以上三位對杯中物都喜歡的不得了,偏偏又要裝高尚,所以就一定要找些高尚的理由來,當然,這還是正人君子,還有無恥之徒借別人之名來為自己開托,大家看看,記得那句“李白斗酒詩百篇”嗎?人家李白關你X事啊!?

之所以說這些XXOO,是因為我想說明一個在大多數情況下都符合規律的道理,中國文人有意無意都會和酒發生關系。哈哈哈哈,知道我要說什么啦吧,日本人仰慕我中華上國,傳承我中華文化,把這個也一并學去了,現在我們就來談談日本文學永恒的主題——酒!

《古事記》,《日本書紀》中,已經有詠酒的歌謠,而最為膾炙人口的當推《萬葉集》卷3所收的大伴旅人的贊酒歌,其中深深的浸染了老莊人生無常的思想:

“有生必有死,仙界渺難圖。百年須臾間,不樂復何如?”

這個家伙最崇拜的也是一個偶像組合,當然不是F4那幫傻B,而是所謂魏晉風度的杰出代表——竹林七賢(呵呵,鐵匠,官員,流氓無產者的組合哦)。為了自己的偶像,這個大哥作詩一首:

“古有七賢人,笑傲竹林中(我倒)。青眼唯向酒,彈琴度春風。”

這還不算,他還身體力行,效法偶像:

“世間無價寶,莫若酒為尊。”

不知他喝沒有喝出青光眼,但最后這兩句卻被譽為日本文學中最早也是最高的詠酒絕唱。此后在所謂的“俳圣”松尾芭蕉的作品里,也有化用中國典故,把酒比做甘露的描寫。但是和歌,俳句因為其自身題材的短小,崇尚優柔含蓄,象大伴旅人這樣的詠酒之作,后世不復出現。直到直接繼承中國文化的漢試風行之后,酒作為文學命題才又得以一展其奕奕風采。

漢詩人們不僅熟知中國古代的飲酒典故,而且在創作方式上也竭力效法彼岸先賢詩酒風流的才情氣概。

這里我要推崇的是江戶時代的詩人祗園南海,這位老哥一生景仰詩仙李白,下面就是一個關于他的典故。

話說祗園南海,一日讀書,看到杜甫的“李白斗酒詩百篇”,心馳神往,意欲效仿,于是在他17歲那年的春分之日,與同人聚飲(青少年酗酒?),一夜“賦五言律詩一百首,大為時所稱”。但是有人懷疑他事先擬就,于是當年秋分之日,這個未成年者再度以酒臥“詩腸”,一夜再賦五百首,據說“凡二百篇,無一雷同者,眾皆磋賞。”(出新井白石《停云集》)且不論一個17歲的少年能有多少人生經歷,也不論他的詩被人贊賞只是停留在“無一雷同”一節,我只想討論他之所以干出這種有豪情熱血的事情,和酒長英雄膽是分不開的。

最后,我以一首在日本廣為流傳的詠酒詩作為本文結尾,本詩我覺得極為搞笑,江戶時代著名詩人菅茶山的《月下獨酌》:

“把酒邀明月,杯中金作波。豪來頻吸進,腹葬幾嫦娥?”^^

對日本人在酒文化的方方面面有一個走馬觀花的了解后,不知各位施主有何高見,現在,我來總結一番日本酒文化的特色。

其一曰淡麗風格。明代洪應明在《菜根譚》里所說的“花看半開,酒飲微醺“,在日本被奉為飲席之上品,也即追求一種朦朧雅致,悠遠纖柔的審美風尚。因此,盡管日本也有酒精含量很高的燒灼,但是始終不占主流地位,中國的烈性白酒,在日本也難以打開市場。

日本人的最愛仍然是15度左右的以“吟釀”為代表的清酒,他們親切的稱之為“日本酒”用以區別“洋酒”和“中國酒”。當然,淡麗的日本酒,原就與日本清淡生冷的飲食習慣相吻合。

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清酒最具有日本代表性,它是由優質的大米加日本山區的泉水制成,度數一般在13-15度左右,酒色透明,味道有甘、辛口之分。甘口以酒味清爽甘洌、淡香怡人而著稱;辛口則以酒香濃郁,品味無窮而見長。相比燒酒,果賓酒、以及外國威士忌酒來說,它最大的特色是味淡而清、度數低、不易上頭、可以小酌慢品、回味悠長。

清酒可以熱飲,也適合涼飲。在日本隆冬季節的時候,大家將清酒燙熱到45攝氏度左右,用小瓷瓶裝著,一邊喝一邊漫談,酒氣又不易發散。在夏季則許多年輕人喜歡喝冷酒,有專門的冷酒具,玻璃制,中間有凹進去的洞,放入冰塊,酒進去不會摻水,又能保持低溫。對日本料理來說,清酒不僅是良伴,還更不特別的功效;它可以去除魚的腥味,使食物吃起來更香,更嫩。

在這里向大家推薦品牌大致有:澤之鶴吟釀、月桂冠、日本盛、菊正宗。當然還有許許多多的地方清酒,都值得一飲。不過,市場銷售最多的是這四種名牌。我覺得吟釀為清酒中的極品,它不添加釀造酒精,完全由每粒精米中的精華部分做酒曲釀造而成,外觀澄澈明清,在轉動間即幻化成五顏繽紛的光彩,一入口中,滋味清爽,繼而漸漸散發出多重層次的果香、木香、米香、花香??被稱之為“幻之酒”,是日本極究精致精神的代表作。喝酒有各種各樣方式方法,日本人喝酒喜歡兌水飲用。現在時髦的飲法是用各類果汁加少量燒酒調制,濃度依個人喜好。清酒比較講究在正規禮儀宴會上喝。男士舉起酒杯,一口一口接著喝下去,而女士則是用右手托著酒杯,左手墊在酒杯下一小口一小口慢慢品嘗。日本清酒除了在居酒屋和宴會上喝以外,再就是在慶功的大會上一定作為喜慶禮品來為大家助興。這時,用的酒是大樽裝,大家圍成一團,同時舉起木制榔頭向樽口敲去。清酒代表了日本人的精神,如果說這個世界里只有日本有清酒的話,我想是沒有錯的。

--------------------------中國的酒如同茶一樣,已經形成了自己的文化,從杜康造酒之始,中國的酒代代傳承,中國的酒與國外的不同的是主要是白酒,國外大多是紅酒,中國的白酒主要有醇香型,降香型,曲香型,混合香型,各具特色,淳厚芳香。自古以來,酒就出現在許多文人墨客的詩文中,李白斗酒詩百篇,蘇軾把酒問青天,還有一句話:何以解憂,唯有杜康。當然也有酒入愁腸愁更愁的話。酒發展到今天形成中國文化之一,造酒技術也有所提高,酒的價值也在增長,但是,酒后駕車意外頻出,飲酒過量造成死亡,官場生意場無酒不成事,這些現象也值得深思。其實適量飲酒舒筋活血,有助健康,還是那句話:就像茶一樣,要品,才能體會文化。以上拙見,實屬自家之言,比較愛好中國文化方面的事情,借貴寶地倡言己見,多謝。

酒令,顧名思義,是飲酒時的一種規矩。通常情況是一人為令官,按一定的規則,或劃拳,或猜枚,或巧編文句,或進行其它游藝活動,負者、違令者、或不能完成者均罰飲(遇同喜可慶之事項時,則共賀之,謂之勸飲,含獎勉之意)。實際上,酒令是飲酒時所進行的一種風流文雅、睿智雋永的娛樂活動,特別在宴席上更是一種佐酒助興、活躍氣氛的主要手段,是文化入于酒,是酒中的社會文化、大眾文化。

一 悠久歷史

酒令在中國有著悠久的歷史。它萌生于西周。本意是有關節制人們飲酒的律令,森嚴的禮儀制度。那時候,除設有專門“掌酒之政令”的酒官外,在酒宴上還設有專門監視人們飲酒的“監”、“史”,不管敬酒、罰酒,都要受到“監”、“史”的節制,不準飲酒過度,不準有失禮儀,違者予以懲處。這種以強制性手段確立的酒法,是依法行禮的開始,也是酒令萌發過程中的一次飛躍,或可以定為準酒令的產生。

酒令正式誕生于2600年前的春秋初期。據寫于漢初的《韓詩外傳》載:“齊桓公置酒令日:‘后者罰一經程(經程是一種飲酒器)!’管仲后,當飲一經程,而棄其半日:‘興其棄身,不寧棄酒乎’”這表明春秋初年已經有了酒令的名稱。戰國初期酒令由原來的節制飲酒轉變為勸酒的性質,“禮”的內容也逐漸淡漠,到了晉代,石崇在他的金圓別墅中宴客,不但令客人即席賦詩,而且規定,“或不解者,罰酒三斗”,從此產生了正式的以詩為令進行罰酒的酒令。曲水流觴令和藏鉤令是魏晉的南北朝人從民俗中發掘出來的別有風情的酒令。至此,原本是維護“禮”的、專門為貴族所制定的酒令,在民間汲取了大量養分之后,又以灑脫,新鮮的面貌流行于世間。

唐代是中國封建社會的鼎盛時期,酒業振興,酒風甚濃,為酒令成長提供了沃土,使酒令迅速發展成熟,最常見的有擲骰、射覆、酒籌、酒牌、文字令,此外還有擊鼓傳花、手勢令、旗幡令、小酒令等等,其花樣之新,門類之多都達到了空前水平,在文人雅士中十分流行。宋代酒令由雅趨俗,俗中見雅,比唐代酒令有了更廣泛的基礎。元代以膈,隨著通俗文學的發展,酒令從士大夫、文人雅士及富豪之家的酒宴之間普及到民間建黨百姓之家。

明清時代,酒令進入顛峰狀態,其品種之多,內容之豐富,都有前代酒令所不能比擬的。凡人間事物、花草蟲魚、經史典故、風俗習慣、時令節氣、唐詩寧詞、小說俗語等等,無一不可入令。而且這時候的酒令向著系統化、理論化的方向發展,日臻完善,專著頗豐。特別是文學酒令幾乎運用了所有的修辭手段,雅令在嫻熟中見經綸,俗令在隨意中顯風采。而且行令氣氛寬松,不行苛令,行令只為勸酒,飲酒只為行樂。

酒令是我國酒文化中戛戛獨造的一朵別有風姿的奇葩,它是勸酒行為的文明化和藝術化。今天,我們掌握酒令的有關知識,并把它適當地應用到飲酒活動當中,可以調節氣氛,增添樂趣,陶情冶情,增進智力,提高飲酒的文明程度。

何叔衡等編著的《古今酒令大觀》把酒令分為字詞令、詩語令、花鳥魚蟲令、骰令、拳令、通令、籌令等七類。為了論述的方便,筆者贊成王守國在《酒文化中的中國人》一書中的見解,把酒令分為大眾酒令和文人酒令兩大類。大眾酒令更具實用性,文人酒令更具藝術性

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酒海蒼茫,誰主沉浮

酒是一個“圣物”,是一個帶“血腥”的圣物。酒是勞動人民智慧和血汗的結晶。

幾千年的酒史,是一部古代釀造技術史,也可以說是一部優美的民間文學史。然而,又是一部地主資產階級殘酷壓榨,帝國主義瘋狂掠奪,勞動人民飽受欺凌和奴役的剝削史、血淚史。如果說“長街恰付登瀛數,處處街頭揭翠簾”是汾酒生產歷史一度繁榮興旺的寫照,那么“甘露堂荒釀法疏,血汗枯竭酒人無”就是在長期的封建社會和半封建半殖民地社會中,汾酒生產必然走向衰落的真實記錄。在那漫漫長夜的歷史中,在歷代反動統治階級的桎梏下,閃耀著我國古代勞動人才的天才和智慧的古老奇花,如同我們偉大而多難的中華民族一樣,備遭摧殘,經歷了多少的苦難的滄桑!只有在解放以后,黨的陽光普照,枯木逢春,這部勞動人民的天才杰作才重新煥發她燦爛的光彩。

酒生產的歷史是悠久的,但是在長期的封建社會中,酒生產的方式卻是簡單的,封建生產關系的束縛更決定了生產不可能有大的發展。

在封建社會里,廣大農民不僅要從事繁重的農業勞動,交地租完稅賦,農閑時節,還要從事手工業勞動,以抵償借貸,或換回自用農具和必需的生活用品。釀酒就是這種手工業勞動的一個重要內容。另一方面,封建土地占有者——地主,為了自己的享用,也在秋后,利用剝削的糧食,雇工釀酒,這兩種情況雖然目的各異,但他們的生產方式都是分散的,季節性的,沒有固定的釀酒處。幾只大甕,一具燒鍋甑桶,一、二百斤糧食,就可進行生產。所謂“最是新年佳釀熟,逢逢鐵鼓賽郎神”就道出了他們季節性生產的特點,以及小生產者利用賽神祭祀進行集市交換的情景。

生產設備的簡陋,造成效率低、成本高,加之自然災害對原料的影響,使生產者難以維持。特別是封建生產關系的重要剝削,反動統治除非段的沉重稅賦,使大批手工業者必不可免地遭到破產。據記載,清朝全盛時期杏花村有釀酒作坊200余家,而到清末民國初,就只剩下十幾家了。“處處街頭揭翠簾”的短暫的表面繁榮,很快被“甘露堂荒釀法疏”的蕭條景象所替代。連以佳釀得名的杏花村都釀法荒疏了,可見這種蕭條的普遍性和長期性。

但是,正如毛澤東所指出的“封建社會已經孕育著資本主義的萌芽”。酒生產隨著社會的發展,商品經濟不斷擴大,已經為資本主義的產生準備了條件,1840年鴉片戰爭以后,帝國主義的侵略對中國的自然經濟起了解體作用,刺激了商品經濟的發展。在商品經濟比較發達的地區,以資本主義雇傭關系為特征的、生產規模比較大的、技術分工較細的工場開始出現。正是在這樣的歷史條件下,出現了具有資本主義性質的釀酒作坊。在這樣的作坊里,資本家根本不參加勞動,完全依靠對生產資料的占有,剝削工人的剩余勞動,他們之間的關系就是純粹的雇傭關系,剝削與被剝削的關系了。資本主義的競爭,如同大魚吃小魚。這就開始了相互間的排斥、傾軋、和咬打。1937年7月日本帝國主義發動了全面的侵華戰爭,日寇的鐵蹄所至,使剛剛萌芽的民族資本主義備遭蹂躪,興盛一時的酒生產飽受摧殘,彌漫在華夏神州上空淡薄的酒香,逐漸消失。

“柜前一壺酒,酒工一身汗,東家發橫財,工人筋骨斷。”這首流行在杏花村地區的民謠,用血淚的語言,深刻揭露了地主資本家殘酷壓榨工人的兇殘面目和他們把財富的掠奪建立在工人尸骨之上的貪婪本性。在舊社會,造酒的人們備受三座大山的壓迫。“世上三行苦,蒸酒、熬糖、打豆腐”。苦就苦在當時的釀酒作坊大多是帶有濃厚封建色彩的資本主義企業,既有舊式封建主對農奴的宗法式統治,又有新式資本家對利潤饕餮式追求。它們結成一副沉重的枷鎖,牢牢套在工人的身上。在那暗無天日的社會里,釀酒工人受著非人的待遇,進行著超負荷的勞動,釀成了許許多多的悲劇。馬克思就是指出,資本家用資本賺取剩余價值,僅僅是“死勞動者動,它像吸血鬼一樣,只有吸吮勞動才有生命,天噬的活勞動愈多,它的生命就愈活躍。”“世人都道汾酒美,神仙井水拌淚水。杯杯斟滿傷人淚,何日盼得杏花回!”這就是舊社會汾酒工人對那吃人的黑暗世界的控訴。是他們從被壓迫的最底層發出的震撼人心的呼號。

哪里有壓迫,哪里就有反抗;壓迫愈深,反抗愈烈。馬克思主義這根階段壓迫和反壓迫的紅繩,貫穿著1000多年酒生產的漫長歷史。那種尖稅的階級對立的景象目不忍視。

然而,資產階段不懂得,也不可能懂得,從他們產生的那天起,就同時誕生了他們的掘墓人——工人階級。工人階級的歷史使命,就是要埋葬舊世界,把一切剝削階級連同產生他們的社會根源擁進歷史的垃圾堆。這是誰也抗拒不了的客觀規律。區區磚墻豈能阻擋歷史年輪的前進。其實,在那些長夜難明的苦難歲月里,造酒工人從來滑停止過同反動統治階級的斗爭,只是斗爭的形式因時而異,或明或暗或張或也罷了。

巍巍呂梁,美好的杏花村,不僅記載了我國勞動人民精湛的釀造技藝,也記錄了千百年來造酒工人的苦難和從自發到自覺的斗爭。當我們追溯古代“汾酒”的歷史,吟詠有關杏花的詩篇,贊頌汾酒的甘馨、醇厚的時候,我們決不可忘記這火與劍的一頁。

大自然和風拂面,人民迎來了歷史上第一個真正的春天,從此結束了她充滿苦難、悲愴和屈辱的歷史。釀酒工人像沖破牢籠的蒼鷹,直搏長空。終于在它們智慧和勤勞的結晶下,作為人民的珍品,從酒器里奔瀉出來了,人民第一次欣慰地笑了。“杏花村里酒如泉,解放以來別有天”郭老滿懷激情的詩句,度度概括了解放以后造酒工人所發揮的頑強革命精神和改天換地的無窮創造力。酒香真正地彌漫在華夏神州。

文化藝術一旦回到勞動人民手中,就顯出它固有的生命力。事實已經作了有力的回答:作為國家的主人,充分發揮自己的主動性、積極性和創造性,讓駿馬奔馳,在名酒生產上攀登世界釀造科技的高峰,也能夠使自己的業余文化生活更加充實、豐富,更有意義、更美。

文人騷客鬧酒海

自酒類出現以來,人類就和酒結下了不解之緣。將士出征,文人寫詩作畫,家庭喜慶致賀,師朋之會都離不開酒。直至今天,飲酒仍是人類社會生活的一項重要內容。在各種活動中占有重要地全,我國古代文獻及詩歌、小說、戲劇中,留下了相當豐富的關于酒的記載。有不少膾炙人口的詩詞歌賦,生動有趣的傳說故事,給人留下了美好的回憶。

有人說,酒是英雄的伴侶,友誼的花束,勝利的凱歌。這話不無道理。單看一部《水滸傳》,有多少英雄好漢大碗喝酒,大塊吃肉。武松喝了15碗酒上景陽崗打虎,就是一個典型,用他的話說,叫做“帶一分酒,便有一分本事;五分酒五分本事。我若吃了十分酒,這氣力不知從何而來。”朋友聚散,飲酒看花,有“勸君更盡一杯酒,西出陽關無故人”和“兩人對酌花開,一杯一杯復一杯”這樣的佳句。酒自然可與友誼花束交相媲美,至凱歌報捷,祝酒慶功,一句“黃龍痛飲”就足以證明。

還在公元3世紀的三園兩漢時期,酒就與許多大詩人,大文學家以及所謂名士、隱者結下了不解之緣。在這以前,文人當然也飲酒,但比較明顯地把酒當作解憂的“靈丹”,把無節制地豪飲當作逃避現實的手段,特別是把酒醉以后當作藝術創作的理想境界。

三國時期的政治家、軍事家兼詩人曹操有《短歌行》云:“對酒當歌,人生幾何。譬如朝露,去日苦多,慨當以慷,憂思難忘。何以解憂?唯有杜康”。用今天的話說,就是舉起美酒高歌暢飲吧,人的生命是如皮短促;好像早晨的露珠,一會兒便枯竭了,下去的苦時光正多哩!雖然一時慷慨激昂,但心靈深處的憂患之思卻難以忘掉,怎么辦呢?唯一的辦法,只好求助于“酒仙杜康”。曹操這首詩可說是文人“借酒澆愁”的代表作,也生動再現了曹操“老驥伏櫪,志在千里”的豪邁氣慨和建功立業的雄心壯志。接下來便是阮藉、嵇康、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎等所謂“竹林七賢”。這些在文學史上頗有名氣的人物,不僅喝得多,而且也醉得厲害。酒幾乎成了他們生活中不可缺少的部分和主要的特征。時人競相效仿,影響很大。歷史書上說山濤“飲酒至八斗方醉”。一斗酒酒有多少?各家說法不一。但看《三國志》說姜維死時,“剖膽如斗大”,以及“太白斗酒詩百篇”,“斗酒十千恣歡謔”的情形,八斗酒,怎么說出不會太少。阮藉則更有這樣故事,說他“聞步校尉缺,廚多美酒營人善釀酒,求為校尉,遂縱酒昏酣,遺落世事。”堂堂“名士”為了喝酒,不惜隸身卒伍,一醉而昏,也可算夠典型的了。這些人為什么要嗜酒如命?有人說他們是在冥想中超脫現實世界,當時“實際的社會情勢逼得他們不得不飲酒”,“不得不沉湎”。但是,我們說他們多少有點在逃避現實,甚至抱有宿命論的觀點,也應該不算冤枉。還有那位“田園詩人”陶淵明,也是“性嗜酒”的。不僅喝酒,而且“春秫作美酒,酒熟吾自斟”,自己也動手釀酒。至于我國古代偉大的浪漫主義詩人李白和偉大的現實主義詩人杜甫對酒的酷愛豪飲,就更是人所共知的了。李白少年出游,長期離開故土,他對自己的家鄉是十分懷戀的,“仍憐故鄉水,萬里送行舟。”(《渡荊門送別》)“夢繞邊城月,心飛故國檔。思歸若汾水,無日不悠悠。”(《太原早秋》)特別是那首《首夜思》:“床前明月光,疑是地上霜。舉頭望明月,低頭思故鄉。”表現出眷戀故鄉故土之情,你再看:“蘭陵美酒郁金香,玉碗來琥珀光。但得主人能醉客,不知何處他鄉。”(《客中作》“瓊杯綺食于玉案,使我醉飽無歸心。”(《憶舊游寄譙郡元參軍》)只要有好酒,他便忘記了故鄉所在,也不想回家了。杜甫也不亞于李白。他自己說,從十四、五歲便“性豪業嗜酒”;而且越喝越厲害,直至最后死于牛肉白酒。郭老作過一個統計:李白現存詩文1050首,說到飲酒的170首,占16%強;杜甫現存詩文1400首說到飲酒的共有300首,占21%強。郭老說:“當李白醉了的時候,是他最清醒的時候,也是他最糊涂的時候。”“因而他的好詩,多半是醉后作的。”這樣說來,酒醉以后,豈不正是這偉大詩人藝術創作的理想境界么!

在我國的詩歌中,到處可以看到酒的影子,到處可以聞到酒的醇香。有人作了這樣的假設:如果沒有酒,陶淵明不能安享田園之樂,李杜文章不會上天入地,宋詞可能會交了白卷。

在中國文學史上,許多詩人以酒釀詩,以詩喝酒,是一種奇特的文化現象。而且由于用于“發酵”詩歌的“酒母”不同,每個詩人釀出來的詩,亦同我國名目繁多的美酒那樣有千家風味,萬種情調,令人嘆為觀止。故晉代陶淵明的“田園詩酒”,閑適而恬淡;又不乏酒的清芬;以岑參為代表的“邊塞詩酒”,是大漠里悲壯的豪情與歡歌;李白的“浪漫詩酒”,融曠達與豪邁于一爐子,映照出一個“醉魂歸八極”、“嘯傲御座側”的自由、奔放的不屈性格;與李白同為“唐詩雙璧”的杜甫,釀的大多是“民間詩酒”,與沼興花雕一般,醉香中略帶苦澀之味,大多都是因為滲透了他上憫國難、下痛民窮的一片苦心之故??

“酒能釀詩”,也是詩人們自己道出來的一種奧秘。“溫酒澆枯腸,戢戢生小詩”;“俯仰各有態,得酒詩自成;”“形冊槁木因詩苦,眉鎖愁山得酒開”;“酒腸無酒詩不流”、“一曲新詞酒一杯”;“百歲光陰舉歸酒,一生事業略存詩”??

“以詩喝酒”,是詩人們天生愛酒的緣故,以至有人評論詩酒文化時說,似乎是酒成中國文學發展的一個重要因素。王安石說:李白的詩“十句九句言婦人、酒耳”。其實,李白的詩,《樂府》之外,言女人者極少,言酒者固多。從李白留存下來的詩文中,大部分寫到酒。他的許多直接寫飲酒的詩,直到今天還為許多酒客吟誦不已,如“且樂生前一杯酒,何須身后千載名”、“人生得意須盡歡,莫使金樽空對月”、“古來圣賢皆寂寞,唯有飲者留其名”、“蘭陵美酒郁金香,玉碗盛來琥珀光”等等,都是千古傳誦的佳句。中國的詩酒文學,到了李白的手中,已達到了前所未有的高潮,以至皮日休驚嘆說:“召愛李太白,身是酒星魄;口吐天上文,跡作人間客。五岳為辭鋒,四海作胸臆 ;惜哉千萬年,此后不可得。”

詩意與酒情并存。詩人借著一壺酒,往往超脫了現實世界,酣醉之中,詩興勃發,浮想連翩,平添了許多真情與童心,以至能與自然界的萬事萬物把酒言歡,創作出想象豐富、意象活潑的作品,無論是寫唯美的小品,還是作豪邁的長歌;無論是傾訴離愁別緒言,還是抒發興亡感慨,無數精采篇章,大多是酒后放歌而來。陸游那首有名的《紅樓吹笛飲酒大醉中作》就是如此,“世言九州外,復有大九州。此言果不虛,僅可容吾愁。許愁亦當有許酒,吾酒釀盡銀河流。酌之一斛玻璃舟,酣宴五城十二樓。天為碧羅幕,月作白玉鉤,織女織慶云,裁成五色裘。披裘對酒難為客,長揖北辰相獻酬。一飲五百年,一醉三千秋。卻駕白鳳駢斑虬,下與麻姑戲玄州。錦江吹笛余一念,再過劍南應小留。”這詩想象力之豐富,藝術手法這夸張,達到了登峰造極的地步堪稱歷代詩酒文學之冠。

唐代是中國文學史上詩歌的黃金時代,詩人受到社會的尊敬,飲酒周期詩成為風流儒雅之事,受到時人的羨慕,在各種社交場合,這種風氣大盛。詩人李白、賀知章、張旭、崔宗之等經常在長安酒樓中聚會,飲酒賦詩,被譽為“飲中八仙。”杜甫為他們寫下了著名的“飲中八仙歌”,詩中有“??李白一斗詩百篇??自稱臣是酒中仙??焦遂五斗方卓然,高談雄辯驚四篷”的描寫,可以想見當時眾詩人飲酒中詩興大發,揮豪作詩,高吟低唱的熱烈情景。

在古代詩歌中,有不少還寫出了當時的名酒名稱,使我們對古代名酒有了一個大致的了解。如王仲修“郢坊初進荼糜酒”,梁武帝“香浮郁金酒”,沈約“釀酒愛乾和”,庚信“方飲松葉酒”,岑參“五粒松花酒”,陸游“壺中春色松肪酒”,高九萬“先生自釀松精酒”,王建“茱萸酒法大這冊”,駱賓王“山酒酌藤花”,白居易“酥暖薤白酒”,“薄黃酒對病眠人”,李商隱“不勞勸君石榴花,”杜甫“蘆酒多還酒”,李白“小槽酒滴真珠紅”,“蘭陵美酒郁金香,”蘇軾“試開云夢羔兒酒”,丁仙芝“十千兌得余杭酒”,陸機“葡萄四時芳醇”等等。當然,詩人所到只是部分名酒,但從這些描述中足可看到我國釀酒技術的高度發達。

酒后吐真言

宋公明被發配流徙,來到潯陽樓上,多喝了幾杯酒,不覺沉醉狂蕩起來,竟在壁上題起詩來:“他年若遂凌云志,敢笑黃巢不丈夫。”宋江醉后題的這首“反詩”,無疑是他內心思想的真實流露,也就是人們常說的“酒后吐真言。”

酒,作為一種麻醉品,它可抑制人的某些大腦神經,喝得稍多一點,便容易使人的言談失去克制,話越說越多,越說越隨便,一些久埋在心底的話,此刻也可脫口而出。說酒話時,可能語無倫次,但多為真言。即使“多詐”的曹孟德,在與劉備兩人青梅煮酒論英雄時,喝著喝著,也終于喝出“今天下英雄,惟使君與操耳”的真言來了。酒,確能使人言平素之所未言,在醉得可以的時候,慢慢敞開心扉,吐露最隱蔽的心曲,真情畢現。

俗話說:“言多必失。”酒喝多了,話說多了,難免酒后失言,沖撞他人,或被視為“犯上作亂。”在封建專制時代,因酒后講了真話,最后惹來禍水的,可謂屢見不鮮。南宋時期的陳亮,才華橫溢,蜚聲詞壇,只因一日與人飲酒,醉中驪為大言,頗犯上,被人告到刑部,竟被打得體無完膚。唐朝的劉文靜,當年曾與李世民一起打過江山,有殊勛,唐初時當了刑部尚書。由于他平時對任尚書左仆射的裴寂不滿,一次與其胞弟飲酒之中,趁著酒興,大發怨言,甚至撥出佩刀直砍房柱,說:“當斬寂”這話竟被他的一個失寵之妾告發,最后兄弟二人落得個身首異處。

正因為這樣,有人對飲酒顯得特別的謹慎,甚至下決心戒酒。春和時期的政治家、齊桓公的上卿管仲,說過一句有名的話:“湛于樂者洽于憂,厚于味者薄于行。”有一次齊桓問他為什么不飲酒,他說:“我聽說酒喝到肚子里,舌頭就會失去控制,話就會多起來,話多了就會說錯,說錯了就會招來殺身之禍。”最后管仲說:“臣計,棄身不如棄酒。”

最可悲的說,“酒后吐真言”這一特殊的生理現象,在封建專制時代,被一些人用于政治上、軍事上、外交上的圖謀取。因為酒能醉人,幾杯下肚,酒力使人層層卸甲,裸現真心,于是有人便專用酒為試探人心,刺探軍情,作為“攻心”的法寶之一,曾經導演出許多令人心驚膽顫的活劇。

話說回來,雖然歷史上有過因“酒后失言”,觸犯了什么忌諱而獲罪,但也大可不必提倡“棄身不如棄酒”。酒后吐真言,是醉酒的一種自然反應,這時人的思想和情感,也會脫離理性、禮教或利害得失之羈絆,自由自在地馳騁起來,使人平時不能公開表達的內心矛盾自我披露出來,顯示出一個真實的靈魂,達到“返樸歸真”的境界。西劉伶做過一篇《酒德頌》為醉酒大喝贊歌:“兀然而醉,豁爾而醒”,“幕天席地,縱意所如”,“無思無慮,其樂陶陶。”“縱意所如”,便是說真話;“無思無慮,”就是沒有任何顧忌,當今頗有聲望的雜文家老烈也豪不隱瞞自己的觀點,做了一篇近于“游戲之作”的雜文《三杯過后》。他也說,飲了酒,精神亢奮,無法控制自己了思想感情、語言,一下子把肚子里的隱秘都抖了出來,總比不說真話,裝模作樣,口是心非要好。他抨擊“假道學”,頌揚“真名士”,提倡“吐真言。”

然而,也必須記住,酒后未必都有“真言。”有的人靈魂倘有‘妖精’,此刻釋放了來,反成禍害。所以,自然聯想到魯迅先生的一句名言:血管里流出來的便是血,水管里流出來的便是水。

有一位詩人珍視這樣的“酒后真言”:像燒紅了的火炭似的酒滴一經入喉之后,曲曲彎彎的腸子就漸漸伸直了,僵硬的面部肌肉也松弛了,整個靈魂隨之光亮起來。話可能比較多,但常常有異彩,話里有詩,有奇妙的童話,有深刻的哲理。當然,也有像車轱轆一樣不斷重復的嘮叨。但都很美,很可愛,因為真誠。

第五篇:中日兩國共同使用的成語及諺語

中日兩國共同使用的成語:

中國的部分成語,日語作為“四字熟語”來使用,這些“四字熟語”除了有些日語漢字與中文漢字寫法不同外,其“形”與“義”與中文是相同的。這里,就其常用的列出如下:

暗中模索(あんちゆうもさく)

唯唯諾諾(いいだくだく)異曲同工(いきょくどうこう)

一字千金(いちじせんきん)一網打盡(いちもうだじん)

一目瞭然(いちもくりょうぜん)一気呵成(いっきかせい)

一挙両得(いっきょりょうとく)一刻千金(いっこくせんきん)

一視同仁(いっしどうじん)一瀉千里(いっしゃせんり)

一觸即発(いっしょくそくはつ)一知半解(いっちはんかい)

一張一弛(いっちょういっし)一朝一夕(いっちょういっせき)一長一短(いっちょういったん)一擲千金(いってきせんきん)

一刀両斷(いっとうりょうだん)意馬心猿(いばしんえん)

溫故知新(おんこちしん)臥薪嘗膽(がしんしょうたん)

隔靴掻癢(かっかそうよう)畫竜點睛(がりゅうてんせい)夏爐冬扇(かろとうせん)鰥寡孤獨(かんかこどく)

起死回生(きしかいせい)気息奄奄(きそくえんえん)

急転直下(きゅうてんちょっか)驚天動地(きょうてんどうち)金枝玉葉(きんしぎょくよう)金城湯池(きんじょうとうち)

空前絶後(くうぜんぜつご)空中樓閣(くうちょうろうかく)軽挙妄動(けいきょもうどう)鶏鳴狗盜(けいめいくとう)

牽強付會(けんきょうふかい)拳拳服膺(けんけんふくよう)言行一致(げんこういっち)行雲流水(こううんりゅうすい)巧言令色(こうげんれいしょく)光風霽月(こうふうせいげつ)虎視眈々(こしたんたん)五臓六腑(ごぞうろっぷ)

三位一體(さんみいったい)自給自足(じきゅうじそく)

四分五裂(じぶんごれつ)自暴自棄(じぼうじき)

四面楚歌(しめんそか)弱肉強食(じゃくにくきょうしょく)神出鬼沒(しんしゅつきばつ)

深謀遠慮(しんぼうえんりょ)

人面獣心(じんめんじゅうしん)酔生夢死(すいせいむし)

清風明月(せいふうめいげつ)切磋琢磨(せっさたくま)

千軍萬馬(せんぐんばんば)千差萬別(せんさばんべつ)

千辛萬苦(せんしんばんく)戦々恐々(せんせんきょうきょう)先鞭一律(せんべんいちりつ)千変萬化(せんぺんばんか)

大器晩成(たいきばんせい)泰然自若(たいぜんじじゃく)

大同小異(だいどうしょうい)単刀直入(たんとうちょくにゅう)魑魅魍魎(ちみもうりょう)朝三暮四(ちょうさんぼし)

朝令暮改(ちょうれいぼかい)徹頭徹尾(てつとうてつび)

天衣無縫(てんいむほう)天真爛漫(てんしんらんまん)

同工異曲(どうこういきょく)同床異夢(どうしょういむ)

道聴塗説(どうちょうとせつ)內憂外患(ないゆうがいかん)八面玲瓏(はちめんれいろう)撥亂反正(はつらんはんせい)盤根錯節(ばんこんさくせつ)半信半疑(はんしんはんぎ)

繁文縟禮(はんぶんじょくれい)百家爭鳴(ひゃっかそうめい)

風聲鶴唳(ふうせいかくれい)不即不離(ふそくふり)

不得要領(ふとくようりょう)鵬程萬里(ほうていばんり)

本末転倒(ほんまつてんとう)明哲保身(めいてつほしん)

明眸皓歯(めいぼうこうし)夜郎自大(やろうじだい)

唯我獨尊(ゆいがどくそん)優柔寡斷(ゆうじゅうかだん)

落花流水(らっかりゅうすい)流言飛語(りゅうげんひご)

老驥伏櫪(ろうきふくれき)論功行賞(ろんこうこうしょう)中日諺語之間的關系大致分成兩種:

1.直接把中國的諺語翻譯成日文。

如:“百聞不如一見”----「百聞は一見に如かず」(ひゃくぶんはいっけん にしかず)

2.中日兩國的諺語各不相同,但其含義相同。

如:“歪打正著”----「怪我の功名」(けがのこうみょう)

對第一類不必做任何解釋,而對第二類,則有時要進行必要的說明。還有一些很難找到合適的對應諺語,但它有特別之處,也適當地進行介紹。

第一類

“青出于藍而勝于藍”----「青は藍より出でて藍より青し」(あおはあいよりいでてあいよりあおし)

“光陰似箭”---「光陰矢の如し」(こういんやのごとし)

“一年之計在于春”---「一年の計は元旦にあり」(いちねんのけいはがんたんにあり)

“滴水穿石”---「雨だれ石を穿つ」(あまだれいしをうがつ)

“只知其一,不知其二。”------「一を知り二を知らず」(いちをしりてにをしらず)

“一葉落知天下秋。”------「 一葉落ちて天 下の秋を知る」(いちようおちててんかのあきをしる)

“一年之計在于春”------「 一年の計は元旦にあり」(いちねんのけいはがんたんにあり)“歲月不待人”----「歳月人を待たず」(さいげつひとをまたず)

“養子方知父母恩”----「子をもって知る親の恩」(こをもってしるおやのおん)

“知子莫若父”----「子を知ること父に如くはなく」(こをしることちちにしくはなく)

“千里之堤潰于蟻穴”----「千里の堤も蟻の穴から。」(せんりのつつみもありのあなから)

“條條道路通羅馬”----「すべての道はローマに通ず。」(すべてのみちはローマにつうず)

“膾炙人口”----「人口に膾炙する」(じんこうにかいしゃする)

“笑里藏刀”----「笑中に刀あり」(しょうちゅうにとうあり)

“前門拒虎,后門進狼。”----「前門の虎、後門の狼。」(ぜんもんのとら、こうもんのおおかみ。)

“千里之行,始于足下。”----「千里の道も一歩より起こる。」(せんりのみちもいっぽよりおこる。)

“笑里藏刀。”----「笑中に刀あり」(しょうちゅうにとうあり。)“一貧如洗”----「赤貧洗うが如し」(せきひんあらうがごとし)

“前車之覆,后車之鑒”----「前者の覆るは後車の戒め」(ぜんしゃのくつがえるは、こうしゃのいましめ)

“有備無患”----「備えあれば憂いなし」(そなえあればうれいなし)

“隔岸觀火”----「対岸の火災」(たいがんのかさい)「川向いの火事」(かわむかいのかじ)

流水不腐,戶樞不蠹----流れる水は腐らぬ(ながれるみずはくさらぬ。)

快馬加鞭----駆け馬に鞭(かけうまにむち)

恩將仇報----恩を仇で返す(おんをあだでかえす)

子女不知父母心----親の心子知らず(おやのこころこしらず)

照貓畫虎----貓を真似て虎をかく(ねこをまねてとらをかく)

一丘之貉----一つ穴の狢(ひとつあなのむじな)

放虎歸山----虎を野に放つ(とらをのにはなつ)

遂二兔者不得其一(近意:雞飛蛋打)----二兎を追う者は、一兎をも得ず(にとをおうものは いっとをもえず)

千里之堤潰于蟻穴----千里の堤も蟻の穴から(せんりのつつみもありのあなから)

畫餅充饑----絵に描いた餅(えにかいたもち)

雨后春筍----雨後の筍(うごのたけのこ)

一箭雙雕----一石二鳥(いっせきにちょう)

鷸蚌相爭,漁翁得利。--鷸蚌の爭い、漁夫の利となる。

(いっぽうのあらそい、ぎょふのりとなる)

一將功成萬古枯。--一將功成りて萬骨枯る。

(いっしょうこうなりて、ばんこつかる。)

說起來容易做起來難。--言うは易く、行うは難し。

(いうはやすく、おこなうはかたし。)

以毒攻毒--毒を以って毒を制す

(どくをもってどくをせいす)

第二類

“垂頭喪氣”----「青菜に塩」(あおなにしお)

“功到自然成”---「石の上にも三年](いしのうえにもさんねん)

“滿瓶不響,半瓶叮當”---「空き樽は音高し」(あきだるはおとたかし)

“火燒眉毛”---「足下に火がつく」(あしもとにひがつく)

“馬后炮”------「後の祭り」(あとのまつり)“事后搞慶祝活動”

“八九不離十”------「當たらずといえども遠からず」(あたらずともいえどもとおからず)

注:「當たる」是“說準了”,它的否定是「當たらず」;「とも言えども」是“雖然說是”;「遠からず」是“遠”的否定,這是古語說法,和「遠くない」相同。整個意思是說“雖然沒有說準,但也離得不太遠。” “曇花一現”------「朝顔の花一時」(あさがおのはないちじ)

注:「朝顔」是“牽牛花”又稱“喇叭花”,夏天早晨花開得很好看,但是太陽出來后很快就蔫掉; 「一時」有兩個解釋:1是一點鐘,2是暫時,在這里用2。整個意思是說“牽牛花開花雖然很好看,但很快就蔫掉了。”表示是“短暫的美”。

“未雨綢繆”----「転ばぬ先の杖」(ころばぬさきのつえ)

“聰明反被聰明誤”----「策士策に溺れる」(さくしさくにおぼれる)

“多一事不如少一事”----「觸らぬ神に祟りなし」(さわらぬかみにたたりなし)

“久居則安”----「住めば都」(すめばみやこ)

[解釋]:日語中的 「都(みやこ)」是都城、京城,也是最好的地方。說人在一個地方住長了,有了感情,再差的地方也當成了京城。

“天無絕人之路”----「捨てる神あれば助ける神あり」(すてるかみあればたすけるかみあり)

[解釋]:天上的神很多,有的神不救你,有的神會救你,不是所有的神都不救你。

“英雄出少年”----「栴檀は雙葉より芳し」(せんだんはふたばよりかんばし)

[解釋]:「栴檀(せんだん)」是指“白檀”,「雙葉(ふたば)」是剛剛發芽時的兩片葉。是說檀木剛剛發芽就散發香氣,表示英雄人物從少年時就出眾。

“宰雞焉用牛刀”----「大根を正宗で切るなかれ」(だいこんをまさむねできるなかれ)

[解釋]:「大根(だいこん)」是蘿卜,「正宗(まさむね)」是日本傳統的武士用的名刀,「なかれ」是“不要??做”。意思是說切蘿卜不必使用高級的武士配刀。“微乎其微。”----「雀の涙。」(すずめのなみだ。)解釋:麻雀本身就很小,其眼淚就更少了。

“可望而不可及。”----「高嶺の花。」(たかねのはな。)解釋:高嶺上的花,開得很好看,但是只能看見而夠不著。

“口若懸河。”----「立て板に水。」(たていたにみず。)解釋:在立著的板上澆水,很快就流下去。形容說話非常流利。

“天淵(壤)之別”----「月とすっぽん」(つきとすっぽん)「雲泥の差」(うんでいのさ)

說明:表示兩個事物有類似的外表,但是實際上有非常大的區別。云和泥都是不定型的東西,但是云在天上,泥在地下,差別極大。或者說月亮和鱉(すっぽん)都是圓的,但是月亮高掛在夜空,很美;而鱉只能是在泥塘里游,很丑,差別極大。

“好事多磨”----「月に群雲(叢雲)、花に風」(つきにむらくも、はなにかぜ)說明:表示最好的事物總有不完美的情況。十五的月亮很美,偏偏有云遮住一部分;花開放得很漂亮,偏有風把它吹散。

“畫蛇添足”----「月夜に提燈」(つきよにちょうちん)

說明:表示做些沒有意義、甚至不該做的多余事情。中文說:畫蛇加了腿,日本說:有月亮的夜晚打著燈籠走。

“一星半點”----「爪の垢ほど」(つめのあかほど)

說明:表示東西非常少。中文是用“星”和“點”表示量少;而日本則用“指甲里的污垢”來表示量少。日語的“爪”是“指甲”之意。與「わずか」「ほんの少し」同一個意思。

對牛彈琴----貓に小判(ねこにこばん)

說明:“小判(こばん)”是日本古代使用的金幣。對于人來說是很值錢的,但是對貓來說是沒有任何價值的。和中國說的對牛彈琴是一個道理。亡羊補牢----火事の後の火の用心(かじのあとのひのようじん)

說明:“火の用心(ひのようじん)”是“注意火頭,防止火災”的意思。發生了火災之后,要求人們注意火頭,防止火災,這和丟了羊之后,把羊圈補結實是一樣的。看來是已經受到損失,但是引以教訓,也還是有意義的。

丟了西瓜揀芝麻----火事の後の釘拾い(かじのあとのくぎひろい)

說明:由于日本的屋舍過去多是木材、竹子、紙、草等植物為材料,這樣的房屋很適合于潮濕的日本氣候。但是火災特別多,所以用火災的損失來告戒人的諺語就很多。由于不注意而失火,損失了大量財物,事后,再在滅火后的瓦礫里揀釘子。表示對“失大揀小”的告戒。和中國的丟了西瓜揀芝麻出于一個道理。

嬌生慣養----乳母日傘(おんばひがさ)

說明:由于生活條件優越,家里有奶媽伺候,外出有陽傘遮太陽。沒有經過任何艱苦環境的磨練,結果養成了嬌生慣養的習慣。不直接說明嬌生慣養,而是說出它的條件和環境。

真人不露象,露象不真人。----能ある鷹は爪を隠す(のうあるたかは つめをかくす)真正有本事的人,外表不表現,在需要時才顯示自己的本領。在日語在說“有本領的老鷹平時就把利爪藏起來。” 不論中國講的人還是日本所指的鷹,有本領的不輕易流露出來。相反,那些喜歡表現自己本領的人往往是不太有本領的。這一類諺語也很多:

中文中有: 一瓶子不滿,半瓶子幌。半瓶子醋 等等。日語中有: 空き樽は音高し(あきだるはおとたかし)即空桶在滾動時聲音很大,相反,滿桶不大發出聲響。淺瀬に仇浪(あさせにあだなみ)

“淺瀬”是“淺灘”,“仇浪”是“喧囂的浪花”。

說水淺時浪花很大,但是水深時沒有浪花,可是真正可怕的是深水。

這山望著那山高,家花不如野花香,家菜不香外菜香。----隣の花は赤い(となりのはなはあかい)人の花は赤い(ひとのはなはあかい)

隣のぼた餅は大きく見える(となりのぼたもちはおおきくみえる)家の米の飯より隣の麥飯(うちのこめのめしよりとなりのむぎめし)簡稱:隣の麥飯

有的人總覺得別人的東西好,覺得自己的東西不如別人的而感覺自己吃虧。羨慕別人院子的花好看;別人家的甜餅(ぼた餅)比自己家的大;甚至自己家的米飯還不如別人家的麥子飯好吃。這樣只是羨慕別人會引起心理不平衡,導致不滿,甚至造成不好的結果。和中文的諺語但是同樣的意思。

如虎添翼,快馬加鞭----鬼に金棒(おににかなぼう)

形容本來就好厲害的變得更厲害。在日本,“鬼(おに)”是身高馬大的好厲害的害人的東西(妖怪),“金棒”是“鐵棒、鐵棍”。所以很厲害的鬼手上有鐵棍,就更厲害了。本來鬼是害人的,但是這個諺語可以形容好的方面。

山中無老虎,猴子稱霸王。河中無魚蝦也貴。蜀中無大將,廖化作先鋒。----鳥なき里の蝙蝠(とりなきさとのこうもり)

鷹がいないと雀が王する(たかがいないとすずめがおうする)貂なき森の鼬(てんなきもりのいたち)

形容沒有社會公認的強者,差的也來稱王。“里”本來是故鄉,鄉下;在這里指的是山村,如果這里沒有鳥,就有蝙蝠(こうもり)來稱王。天空沒有老鷹,麻雀稱王。森林里沒有兇猛的野獸如貂(てん)之類,黃鼠狼(鼬--いたち)稱王。

當局者迷,旁觀者清。----傍(岡)目八目(おかめはちもく)

在別人下圍棋時 在旁邊觀戰,容易看清勝敗局勢,甚至能看到8步以后。說沒有利害關系的第三者看問題就冷靜而比較正確。由于“傍”、“岡”同音,有時可以互換。

在家是條龍,出門是條蟲。----內弁慶の外鼠(うちべんけいのそとねずみ)

“弁慶”是日本古代的武將,成為強者的代名詞。這里是笑話那些“在家里顯得很強壯,什么都不怕的樣子,可是一到外面,就象老鼠一樣膽小”的人。和這個意思一樣的還有:

“內広がりの外すぼまり”(うちひろがりのそとすぼまり)在家耍威風,到外面就縮在一起什么也不敢干。“內弁慶の外地蔵”(うちべんけいのそとじぞう)“地蔵”是日本各地(主要是小城鎮和村莊)的路邊立著的石制的僧象。在家象“弁慶”那樣強有力,而在外面就象立在路邊的“地蔵”一樣,一動不動。

“ 家の前の痩せ犬”(うちのまえのやせいぬ)很瘦的狗沒有力量和兇狠的強狗爭高低,但是仗著在自家門口,就大聲吼叫。

大草包----獨活の大木(うどのたいぼく)

“獨活”是一種多年生的草本植物,中文叫“土當歸”。嫩時可以食用,可以長到2m以上,但是沒有用處。形容個子很大,但是沒有能力的人。

戀戀不舍----後ろ髪を引かれる(うしろがみをひかれる)

人往前走,有人在后面拉著頭發。表示心里總有牽掛,不能徹底了掉。

半斤八兩--団栗の背比べ(どんぐりのせいくらべ)

中國舊稱是16兩,半斤就是8兩,所以表示2個事物一樣,沒有高低。団栗(どんぐり)是“橡子兒”,是橡樹上結的果實,一個個圓圓的,都差不多大,無法比較哪個個高(せいくらべ=比個高),也是表示不相上下,彼此彼此。與此類似的諺語還有:

五十歩百歩(ごじゅっぽひゃっぽ)--五十步笑百步。

目くそ鼻くそを笑う(めくそはなくそをわらう)==眼屎笑話鼻屎。大同小異(だいどうしょうい)==大同小異。

巧媳婦難為無米之炊--無い袖は振れぬ(ないそではふれぬ)

再有本事的巧媳婦,沒有米也做不出飯來。古代人的袖子很長,所以有“拂袖而去”的表現。但是如果沒有袖子就無法拂袖了。如果沒有,想做的事情也做不了。與此類似的諺語還有:

無い知恵は出せぬ(ないちえはだせぬ)==沒有能拿得出的智慧。できない相談(できないそうだん)==無法進行的商談

隔靴搔癢--二階から目薬(にかいからめぐすり)

“隔靴搔癢”是表示在進行無效勞動。隔著靴子搔癢不能止癢,從二樓滴眼藥水,不知道滴到哪里去了,肯定沒有效果。與此類似的諺語還有: 天井から目薬(てんじょうからめぐすり)==“天井”是房屋的天花板,從天花板滴眼藥水,也是肯定沒有效果。

遠火で手を炙る(とおびでてをあぶる)==天冷了,在火邊烤手取暖,如果用遠處的火烤手,就取不了暖。

月夜に背中炙る(つきよにせなかあぶる)==想靠月亮的熱烤暖脊背。

騎虎難下--乗りかかった船(のりかかったふね)

在河里,乘著船,想下來也下不來。表示前也不是,后也不是,兩頭為難的情況。和中國話的“騎虎難下”是一樣的。與此類似的諺語還有:

渡りかけた橋(わたりかけたはし)==走到一半的橋,只能硬著頭皮走下去。

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