久久99精品久久久久久琪琪,久久人人爽人人爽人人片亞洲,熟妇人妻无码中文字幕,亚洲精品无码久久久久久久

對中日文化交流的切身感受

時間:2019-05-12 00:41:29下載本文作者:會員上傳
簡介:寫寫幫文庫小編為你整理了多篇相關的《對中日文化交流的切身感受》,但愿對你工作學習有幫助,當然你在寫寫幫文庫還可以找到更多《對中日文化交流的切身感受》。

第一篇:對中日文化交流的切身感受

中日文化比較這門課我上了大概一個學期了,在老師的積極教學與耐心指導下我對中日的政治、經濟和文化都有了初步的認識與了解。在課程學習當中我不僅深刻地明白了文化間的博大精深,而且還進一步地認識到了文化交流也會帶來的社會影響。中國和日本,隔海遙遙相望,在現代交通日益發展的今天,簡直可以說是近在咫尺啊。但中日關系一直是一個敏感的話題。相當多的國人談起日本就咬牙切齒,憤憤不平。去年發生的中日釣魚島撞船事件更是激化了兩國的矛盾。但這都與文化無關,中日文化的交流史源遠流長所以,中國和日本開始見交的歷史,應該也算是源遠流長。

一般的朋友都認為兩國的見交開始于唐代,但是中日兩國的研究者發現,實際上兩國的見交遠遠早于唐代。很多朋友都學過歷史:日本的文字來源于中國,時間是唐朝,大多數朋友認為中日交流起源于唐代。但是,據中日兩國學者研究發現,比這個時間實際上還要早。從漢朝時期開始,中日之間就有了相互借鑒的經驗。到了隋唐,尤其是唐朝,日本進一步開始了與中國的友好往來。他們不僅用中國文字造出了日語假名,而且在行政、建筑上有很多借鑒了唐朝,甚至行事習慣上也有所影響。眾所周知,除了文字以外,日本的都道府縣制就是仿造唐朝的“道州郡縣”制;日本的飲食上也有諸多在中國文化的基礎上演變的地方建筑風格上,日本的京都等地至今仍然保留著唐朝的風格。不僅文化上,思想上也有相互借鑒的影子,中國的首都自南向北逐漸遷移,而日本也是由東向西,最后定都東京;而且于中國 的北京、上海一樣,日本也是一個政治中心東京、一個商業中心大阪。總而言之,中日交流有著相當長的一段歷史。

正因為中日之間的文化交流已經深深地印上了時代的烙印,我們才能夠更清楚的發現,在我們身邊方方面面都閃現著文化融合的痕跡。中日文化交流極其豐富多彩,涉及文化的方方面面,無論是從狹義文化概念所包含的哲學、文學、史學、科學、宗教、教育、美術、音樂、舞蹈、書法、體育、建筑、工藝、園林、民俗等領域,或者按廣義文化概念所述的物質文化、制度文化、精神文化諸層面,無處不有。日本著名學者內藤湖南曾把中國文化在日本文化形成中所起的巨大作用,比喻為做豆腐時加鹵水。至今在日本的文化和社會生活、風俗習慣中還處處可以看到中國古代文化影響的烙印。近年來,雙方在商業展演、音樂影視、動漫游戲等新興文化產業領域的交流與合作蓬勃發展。目前,日本已成為中國最重要的文化貿易伙伴之一。近年來,中日兩國舉辦了眾多大型文化交流活動,更是促進了兩國的交流。

雖然沒有真正去過日本,但從電視劇,紀錄片中我都能發現中日文化的相似之處,這也算是我對中日文化的切身感受了。

首先是語言文字方面,電視劇中,看著日本大街上一個個似曾相識的字體,我還曾對盆友說過我會日語,但現在看來,日本文字的形成應該是當時的中日文化交流的產物,據了解,一千多年前,大量的日本來華留學生—遣唐使、遣隋使,將先進的中華文明,包括語言文字帶到了日本。日本從此正式開始了使用文字記載語言的歷史,最初日語的每一個音,都是由一個漢字表達。公元九世紀,日本人在漢字基礎上創造了假名。現在日語中,假名共有71個,最基本的有46個,排列成“五十音圖”(字母表)。日本人引入中國漢字時模仿該字漢語發音的讀法。由于中國漢字進入日本是一個較長的過程,中國不同朝代的“普通話”有所差異,這在日語漢字的讀音上也留下了不同的痕跡。因此,在現代日語中一個漢字的普通讀音通常有兩種,稱為“吳音”和“漢音”

其次是建筑,在我的印象當中,中國,日本,韓國這三個國家的古代建筑總有那么一點相似之處,日本在南北朝時主要以朝鮮半島為中介與中國進行文化交流。公元588年日本建法興寺,佛教通過朝鮮半島東傳日本,以后,隨著日本佛寺的大量興建,中國建筑體系也不斷傳入日本。日本于公元593年建的四天王寺,公元607年建的法隆寺,都是經朝鮮傳入的中國南北朝末年式樣。公元794年,日本遷都平安京后,唐文化雖仍繼續傳入,但日本文化(包括建筑)在融合唐文化后,已逐漸走上自已發展的道路,創出自己的風格。

最后是文學方面,日本直到中國的漢字傳入之后才開始有書寫系統,但在最早漢字尚未能適用于書寫日語時,中國文言文仍是唯一的文學形式。直到后來才發展出能夠用于表記日語的萬葉假名。在日本奈良時代所創作的作品包括712年的《古事記》(為神話與史實參半的史書)、720年的《日本書紀》(以編年體寫成,為日本流傳至今最早的正史)和759年的《萬葉集》。等

第二篇:唐の時代の中日文化交流

唐の時代の中日文化交流

―――遣唐使円仁について

309-2002 陳

はじめに:

中國古代史上では、日本との外交関係に於いて、三大ピークがあった。それは(1)漢の時代、日本と緊密な政治、経済の関係を持っていた。この時期、日本と中國は初めて友好的外交をし始めた。(2)隋唐の時代、中國は封建制社會が最盛期に迎え、日本は中國との政治的、経済的、そして文化的交流を一向深まった。(3)明清の時代に入ってから、日中関係は不幸が被りし始め、両國の交流に陰鬱な影を與えたのである。しかし、古代日中交流の三大ピークの中で、日本に一番影響を與えたのはこの第二のピーク、つまり、隋唐時代とりわけ唐の時代である。今でもこのときの影響が日本社會を響いているのである。序論:

日中交流といえば、はじめで述べたように、古代では三大ピークがあり、そして、それぞれに特徴や原因がある。たとえば:

(1)漢 の時代

概況:中國と日本とがわりに頻繁的な政治と経済の交流関係を持ちし始めた。特徴:日本は始めて中國に使者を遣わし、直接接続での緊密な連絡を立てられた。両方の政府特使の連絡先だけでなく、経済、文化の交流をなされた。

原因:①シルクロードの開通で、世界で漢の経済や文化が、世界の先進國を示したし、大きな魅力を世間に展示した。そして統治者が開明的な外交政策を実施したのである。

そのため、後漢の建武中元2年間(57年)の正月には、倭の奴國王が使節を洛陽に派遣して朝貢をしに來た、光武皇帝の劉秀は倭の奴國王を“漢倭の奴國王”を賜り、「漢倭の奴國印」という印綬を授けた。

(2)隋唐の時代

概況:隋、唐王朝は中國の封建社會の繁栄期であり、経済や文化が世界をリードして、対外交通(陸路、海路)は、過去より発達した。政府の奨勵と支持の元で、唐王朝は、歐州やアジアの國々との交流が前例のない以上壭大な盛況に達した。その時では、中國はアジア各國の経済や文化の交流のハブとなっていた。

特徴:①範囲が広い。中國の対外経済、文化の交流空間的範囲はかなり拡大し、東アジア、東南アジア、中央アジア、西アジアを除いて、ヨーロッパ、アフリカにも頻繁的な接觸があった。②レベルが高い。中國はすでに東方の経済と文化交流の中心となり、いくつかの近隣諸國の経済と文化の交流が、ただ通常の行き來するに限られていなく、人材育成と経済交流の中心になっている。③兼収併蓄。④政策がさらに開放した。中國への外國投資を奨勵し、永続的に中國內に居住する;そして中國人との結婚、中國で公式に官職に仕える。⑤対外交通では水陸を同時に行う。

理由:①唐王朝が強いし、安定した政治環境がある。②経済や文化の世界的リーダーの地位にある。③対外交通は、過去に比べて発達された。④外交政策が開放された。(3)、明清の時代(アヘン戦爭前):

概要:①明の前期には頻繁に外國と接觸し、東南アジアの発展を促進した。②明の中後期、歐米の植民地は東に始めている、中國は外國の侵略の犠牲者となった:日本からの海賊が南東部の海岸に嫌がらせをし始め、北部國境は、ロシアの侵略を受け、オランダ軍が臺灣を侵略し占領、ポルトガルがマカオを占有した。明清政府は侵略に対する闘爭をし、反海賊とロシアの侵略闘爭の勝利を納めた。鄭成功はオランダの植民者を敗れて臺灣を回復した。

特徴:対外政策が開放政策から閉國になり、侵略と反侵略は、この期間の対外関係の要素になっている。

原因:前期開放したのは國家の繁栄と賢明な統治のためであった。後期閉國の原因は、內部要因としては、明、清時代の中國の封建制度徐々に衰弱し、崩壊しにいく;外部要因は海賊が中國南東部の海岸に対する嫌がらせ、と西方の植民者の東來である。

しかしだが、本文は漢の日中交流や明清時代の日中交流を述べるつもりはない、ただ述べたいのは唐の時代の遣唐使によっての日中交流であり。その遣唐使の中の一人として、円仁を見てみたいのである。本論:

唐の時代では、日中交流の架け橋の役として中國に渡って、そして長年に長安に在住し、仏教をとことん研究した留學僧としての円仁はいかにどんな人物であり、そして、日本に中國から何を伝えたのだった、どのように中國で長年滯在したのか?それらについて、見ていこう。1、円仁(794-864)その人

1)背景:紀元七世紀、唐王朝は中國の封建社會の繁栄期であり、経済や文化が世界をリードして、対外交通(陸路、海路)は、過去より発達した。政府の奨勵と支持の元で、唐王朝は、歐州やアジアの國々との交流が前例のない以上壭大な盛況に達した。その時では、中國はアジア各國の経済や文化の交流のハブとなっていた。日本の大和皇朝は大化革新を経て、中國の隋唐文明を學び、だんだん強くなってきた。

隋唐の時代には、古代の中日交往の最高潮に達し、日本は前後として13回(「『遣唐使の見た中國』古瀬奈津子 吉川弘文館発行 二〇〇三年(平成十五年)五月一日 初版印刷」によれば、全部で20回であるとある。また、『中日外交発展史』 2004 MPA中日関係

王頴芳によれば、全部で18回だという)に渡って中國に“遣唐使”を遣わした。日本の大化改新は唐王朝の制度を手本とし、都城が唐の都の長安の様式を真似し、各クラスの學校では儒學を教えになって、唐王朝との貿易往來も頻繁になっていた。2)円仁の生涯:

その“遣唐使”の中で、円仁という留學僧がいた。円仁は日本仏教の天臺宗の開派人である。彼は日本桓武天皇延歴十三年(唐德宗貞元十年)(西暦紀元七九四~八**年)うまれであり、下野縣都賀郡(栃木県都賀郡)出身で、俗姓は壬生氏である。『熊倉系図』の記載によると、円仁の父は首麻呂、かつて都賀郡三鴨駅長を勤め、郡中にある大慈寺の施主であった。円仁の兄は秋主で、従七位下の官職があった。円仁は幼年の時父を無くせ、九歳から兄について「外典」及び「経史」を習って、そのおかげで、彼は小さい時から中國文化と仏教気息の薫陶を受けていた。円仁は「口に俗典を唱え、心に仏乗を慕う」ため、後に原籍の大慈寺名僧である広智の門下で落発した。広智は大慈寺の三祖であり、二祖の道忠の弟子であった。道忠は嘗て平城京に行って日本に東渡ってきた中國天臺宗の第四代祖師である鑑真に師事したことがあり、鑑真に「持戒第一」と稱される高足であった。同時に広智はまた日本の唐に求法した名僧の最澄に従って密教法を受けた。こんな淵源があったからこそ、円仁は十五歳の時に京都滋賀県にある日本の仏教聖地である比叡山に上り、最澄の膝下に來て、日本天臺宗の創作者であった最澄の弟子になった。彼は苦學精進したため、すぐに頭角が露出したし、二十歳に官試に合格し[1]、天臺宗仏學研究の高い學位を獲得し、翌年(紀元813年)十二月「遮那業」によって済度された。最澄に従って仏法を習った最前後して十四年間、円仁は最澄の左右について、天臺教義を高揚するために厭わずにしていた。弘仁十三年(紀元822年)、最澄は元寂した。それとほぼ同時に、朝廷は最澄が生前に於いて提出された比叡山に大乗園頓戒壇を設立する申請を同意してくれた。そこで、逝去以降に及んで、苦行に勵んでいた年がちょうど而立(三十歳)になった円仁は責任を感じて先師の遺志を受け継ぎ、教授師を擔當して、壇を開いて法を弘揚した。従って、円仁は入唐して求法巡禮した前に、すでに日本天臺宗の知名高僧であった。

承和五年(唐の文宗大和十二年、八三八)勅命を奉じて仏法を求めに入唐し(「『遣唐使の見た中國』古瀬奈津子 吉川弘文館発行 二〇〇三年(平成十五年)五月一日 初版印刷」によれば、円仁が遣唐使として入唐したのは20回のうち19回目のことだった)、唐にいる間で師について仏教の顕密各宗を修習し、長安で長年に住んでいて、唐の名僧に度々教えを習得、また天臺山を遊歴し、各地方における密教の奧義を探った。唐の武宗の會昌五年(八四五)に天下の僧侶を俗に返すと命令を下した。唐の宣宗の大中元年(八四七)に日本に帰った。

2、入唐と『行記』

1)円仁入唐:円仁の『入唐求法巡禮行記』は中國唐の時代の社會政治、経済、宗教、文化及び中日両國関係を研究するに貴重な資料であり、日本の學者はこれを「東洋學界の至寶」と稱え、玄奘の『大唐西遊記』、『マルコポーロ行記』と並べて世界の三大旅行記と言われ、世界文化史上では名を馳せている。円仁の『行記』は年代が久遠し、古寫本、影印本、活字本及び中國語で訳された英、法、日等多種の文字がある。

円仁は鑑真の三代目の弟子であり、日本天臺宗を継承と完全された高僧である。日本天臺宗の祖庭は中國にあり、日本仁明天皇承和三年(紀元836年、唐文宗開成元年)、すでに四十五歳であった円仁は毅然として政府が仕組んだ遣唐使について、日本比叡山延歷寺が未決した天臺教義三十條を攜えて、「請益僧」の身分として入唐し仏法を求めに行こうとした。しかし、彼は日本第十八回遣唐使藤原常嗣 について二度も西へ渡ったが、失敗したのであった。そして円仁は承和五年、唐の文宗の開成三年(紀元838年)に第三度に船に上り、遣唐使についてまた訪祖求法のために入唐しようとした。今度は成功を納めた。彼らは六月中旬から出発した。円仁たちは離國してから、唐の開成三年(即ち承和五年)七月二日に海の中で十九日間の風浪揺れ動きで、九死一生になってから、揚州の海陵県の白湖鎮桑田郷東梁豊村に到著して、八月二十八日に揚州に著き、岸に上がってから、開元寺に住み入り、揚州で朝貢史を待っていた。翌年の開成四年(839)二月に揚州を離れて、ようやく楚州(江蘇淮安)に北上し、使節団と會合した。円仁は臺州へは行けないのだから、策を立ててひそかに唐に殘って、朝貢史について日本に戻らなかった。六月七日、円仁一行は登州文登県清寧郷赤山村新羅院について、ここでまた一冬を過ごした。開成五年二月十九日に赤山新羅院から出発して、登州(蓬萊)を経て青州に到著した。四月三日にとうとう五臺山へ行った。四月二十八日に天臺宗聖地—山西五臺山にやっと著いた。赤山新羅院から離れた時より計算すれば、陸上で2300余里の距離を歩いた。日記で書いたように:「虛日を除いて、道中で行くことちょうど四十四日間。」五月一日より、五臺を巡禮し、名僧に參謁して、天臺座主志遠に延歷寺の未決三十條を決釈してもらいたいが、志遠和尚は直接で彼の疑問に答えなかった。円仁らは五臺山で二カ月間過ごした。同じ年の七月一日に五臺を離れて長安に向かって進発した。八月二十三日に長安に著き、功徳使チ牒狀をもらって、暫く資聖寺に寄宿することを許可された。円仁は長安で、元政に従って金剛界大法を受け、義真について胎蔵並蘇悉地法、また法全に師事して胎蔵を受けた。その後また改めて南天竺寶月に従って悉曇をならって、それに少なからず仏典や仏畫を収集した。円仁は長安で一年近く滯在して、會昌元年八月頭になって、求法修行活動がほとんど終わった。従って彼は狀を書いて功徳使に呈上して帰國を申請した。然し、事情の発展は本願にしかずにして、政治気候が変わったことによって、會昌二年三月、巡院帖報が資聖寺に到著し、原帖狀令の保外客僧出寺に対しての処理意見は許可されなかった。もし武宗が廃仏した、天下の僧尼を俗に還させたり、強制出國させたりしなければ、円仁立ちは長安で留らせる時間がもっと長かったのかもしれない。會昌五年三月十六日、円仁一行三人は長安から逃げ出して、淮水(わいすい)を渡って江蘇の煦胎について、もともとここから直接に楚州に赴き、船を探して海を渡りたかったが、県家が許可しなく、必ず揚州に渡さなければならないのであった。江都によって江陽に渡されてから、ようやく楚州へ行くのを許可された。もともと「日本國の朝貢史がここから船に登って海を渡って帰國すると思ったが、円仁たちをここに渡して帰國させ、どうぞここから海を渡ってください」、こうすれば理屈通じるし、問題がないはずだった。しかし、山陽県が「當州はまだ海の極まりではない」と理由づけ、必ず「登州の地極のところに行かせねばならない」。そうして、円仁一行はまた千里の外にある登州に行かせた。會昌五年八月十六日、円仁一行はみすぼらしく二回目に登州に入って、相変わらず赤山新羅院に寄宿した。彼らは本來とりあえず一冬を過ごして、來年春に入ったら渡航帰國しようと考えたのだが、不意に政治気候が多変して、唐の武宗が「會昌排仏」を起こし、官吏たちが橫行ばっこしていて、絶えずに遮りを受けさせられた。これは円仁に十分苦難させられて、二年余の苦労顛倒の後、ようやく唐の宣宗大中元年(紀元847年)九月に帰國した。帰國を求めるために、円仁は南北に走ったりしていて、曲折に力を盡くした最終に、やっと新羅の商船に間に合って海を渡って帰國したことができた。會昌七年九 月十八日に博多津につき、鴻臚館に入った。円仁は唐に入って求法巡禮して、承和五年(838)六月出航から、承和十四年(847)九月祖國の土地を踏んだ時まで、指で計算すると、その間に9年と3カ月間隔て、円仁は後期入唐請益僧の中で唐に滯在時間が一番長く、経歴が最も艱難曲折であった記録を作りだした。

もともと円仁は入唐して求法した時、彼の初願は仏教聖地の浙江臺州にある天臺山の國清寺に行って求法巡禮し、高僧にあって疑惑を解説してもらって、請益僧として(訪問學者)短期留學をしようと考えていたが、開成三年八月の初め、揚州府に到達した直後、急いで州衙に牒文を呈上し、臺州へ師を探して疑を解決しようと申し出た。円仁は都に入る使節団のメンバーに入られなかったため、直接揚州から臺州に行こうと思ったが許可されなかった。十月の初め、使節団一行35人が都に入って朝見に行った、円仁たちは揚州で大使たちの入京した消息を待っていた。天臺禪林寺の僧の敬文が揚州に到達したとき、円仁は彼と筆談で情を通って、そして、敬文はさらに円仁に「先に斬って後に奏上する」、つまり、「先に天臺に行って、それから勅許を待つ」という方法を取ろうと進めたが、これに対して、円仁は軽々でこれに従うことを恐れていた。開成四年二月、使節団は楚州に戻って、円仁たちは揚州から北上して楚州で使節団と會合して、臺州へ行くことの始末がやっと分かった。當初大使が京に著いた日に、すぐに請益僧が臺州へ行くことを奏上したが、禮賓使は「まだ対面する前にはすべてのことを奏聞できない」を意見とした、時間が余り無いので、再三に奏上するように促したが、相変わらず許可されなかった。結局のところ、朝廷の返事は:「使者たちの帰國日が近づいていて、揚州から臺州までには、道がはるかに遠く、僧侶はそこに行って帰るときに、だいたい使節団が帰るのに間に合わないだろう、そうするとまた何によって本國に帰還できるか?依然として臺州へは許さない。」その後「対面の日にまた奏上」して、「後にまた改めて奏上」したんだけれども、終始として許可されなかった。これで、円仁が臺州へ行く計畫の渇望は水の泡になった。このように、なかなか唐王朝の許可をもらえなくて、仕方なく予定を変えざるを得なく、もう一つ仏教聖地の山西五臺山へ朝拝に行くことになって、その後また唐王朝の都である長安へ行って四年十カ月滯在した。

中國にいた約十年間、円仁の足跡が江蘇、山東、河北、山西、陝西、河南、安徽など七省に渡ったのだ。途中で、彼は灌頂を受け、梵語、中國語及び法華顕教、真言密教を學んで、経巻を書き、並びに曼荼羅買功徳幀を描いた。孜々にして厭わず、力を盡して學を受けた。同時に彼もまたひろく當時中國の上下クラスの官吏、僧呂、百姓と接觸して、自分自身の目でその時代で起きた大小の事件を見ていた。この十年間の見聞や感想が、すべて一部の日記體裁で書かれた『入唐求法巡禮行記』の中に凝縮されたのであった。

2)『行記』:円仁は一生では著作が百余部あり、そのなかで最も有名なのは『入唐求法巡禮記』4巻がある。円仁が仏経に関系する典籍著作は甚だ多いのであるが、しかし、彼の特殊な貢獻は彼が一つ価値の極めて高い史料である『入唐求法巡禮記』を世に殘したことにあるのであった。此の本は日本承和五年(唐文宗開成三年、紀元838年)6月から始め、承和十四年(唐の宣宗大中元年、紀元847年)12月まで終わりのすべての見聞を、日記體裁で記録していたものであり、時間が10年近いほど長く、地域が中國の7省計20余州60余県に広い範囲に渡り、內容が晩唐の時代の社會経済、政治、宗教、文化、僧俗の交わり、季節、風俗及び唐、日、(新)羅関系など諸々方面を含め、広い資料的価値があり、日本の學界では非常に重視されている。

日本の學者の牧田諦亮は、日本の僧侶が日本仏教の母體と祖國である中國を遊歴して殘った旅行記は、代表的な文獻が大體3種類を挙げられる、天臺の慈覚大師円仁の『入唐求法巡禮行記』四卷がその3種類の一つであると言っている。アメリカの著名な東アジア研究學者であって、かつてアメリカ駐日大使を務めたエドウイン?オールドファーザー?ライシャワー博士(Edwin O Reischauer)『円仁の日記:入唐求法巡禮行記』(『Ennin's Diary』)を題目として、1955年にそれを英訳にし、また注釈を付けて、『円仁が唐代中國の旅行』の本を編修し、同時でアメリカで出版したし、獨、仏の二カ國語に訳された。賴ライシャワーは評価を言った:「ヴイニス商人のマルコポーロの世界ローミング記録は、それが人々の想像力を喚起するため歴史の長いコースで巨大な足跡を殘している。しかし、円仁の旅行記は、今日になっても読んだ人はほとんどいないし、しかも彼の名を知られていない。それでも、円仁はイタリア人よりはるか早めにこの偉大な中國でその足跡を殘したのである。ある意味では、彼が旅行記に殘された業績はマルコポーロの記録を超えたのだ。」ただ時間的面からみれば、彼は『マルコポーロ行記』より 400年も早かったのである。托鉢僧として、円仁一行は天涯浪跡して、もっと深く社會人情、政治風雤を了解出來た。彼が記録された內容は、正史の不足を補正できるものがたくさんある。たとえば、武宗が廃仏の詳しい事情についてや、寺院の禮懺儀式についてや、唐の書儀尺牘についてや、などなど極めて貴重な資料を殘したのである。日本學界は當該の本が「中國旅行記録の中で最も優れた本である」と言え、「東洋學界の至寶」と評価されている。

3)『行記』見聞:

①、運河:円仁は『行記』の中にたくさんの揚州見聞を書いた。彼は『行記』の中で言った:「江中に大舫船が満ちていて……小船等が數えきれない。」しかし、今現在では、河面にはすでに船の姿が見えなくなった。その原因は、當時の運河が確かに塩運、漕運の通路であり、百舸が流れを爭いながら、行き來して數えきれないのであった。古い運河が町を避けて通り過ぎて行って、二十世紀五六十年代には、運河が灣頭から直接に揚子江に流れ入り、主航路となって、町區の古運河が既に観光地帯に建てられて、円仁は當時で見た舟船喧嘩の景色が消えてしまったのである。②開元寺:円仁は『行記』の中で書いた開元寺は當時の揚州にある大雲寺のことだった。『唐會要』巻四十八ではこのような言を書いた:「天授元年十月二十九日、両京及び天下諸州にそれぞれ大雲寺一所を置く。開元二十六年六月一日に至って、並びに開元寺に名を改めた。」(按:唐の時代では、都と各州の治所に勅命によって建てられた仏寺が置かれた。このような仏寺は、大幅が當地でもともと著名な大寺院から改稱されて來たのである。)則天武后の時では、薛懐義等は『大雲無想経』(竺法念訳本)の中には、「一仏が沒後してから七百年の後に女王になって世に降り、天下を威伏した」と語って、そこで『大雲経疏』を作って、武后受命の符とした。全國各州で大雲寺を広く建てられ、武后の統治を固めるために世論を作った。揚州の大雲寺が後になって開元寺に改稱し、當然ながら、武后が殘した影響を無くすための措置の一つである。円仁はこの古びた寺院で長い時間を渡って住んでいて、數少なくない政府官吏や高僧に合った。然し、開元寺がもう存在しない、ある資料によ れば開元寺はもとの城北郷卜楊村にあったと言っている、上世紀80年代、開元寺遺跡の上に捷康電器工場を建てられた。

4)円仁の功績:日本の比叡山延曆寺が天臺宗の大本山であり、此の一系統の成り立つには、前は最澄がいて、後は円仁がいてから発揚拡大されたのである。現在の日本では、天臺宗が一番盛んで、當該系統の寺院が三萬二千三百余所ある。円仁は比叡山で潅頂壇を開き、総持院を作って修法道場にし、念仏法門を提唱し、菩薩大戒を宣揚した。彼は日本で最澄に次ぎ天臺宗の集大成者であり、比叡山延曆寺の仏教本山の基礎を作った。日本天臺宗の弘揚は、その功績が最も大きいし、その影響が甚だ遠い。八五四年に円仁が六十一歲の時、延曆寺の座主(第三任)に勅任され、日本の貞観六年に亡くなられた。『入唐求法巡禮行記四卷』、『金剛頂経疏』、『顕揚大戒論』等を著作し、中國から帰國した時に仏経、儀規等八百余卷を日本に持ち帰った。

円仁は仏教教疏や儀軌、法器を攜えて日本に帰った後、深く天皇の信任をもらった。それで、彼は比叡山で灌頂臺を設けて、総寺院を建立して密教と天臺教義を弘伝した;それで、「常行三昧堂」を設立し、浄土念仏法門を提唱した。854年に円仁は延歷寺の第三代座主になり、最澄の遺志を引き継いで大力に大乗戒律を高揚して、寺に住んで10年間、日本天臺宗を大きく発展させた。死んだ後に、清和天皇は慈覚大師の謚號を賜った。これは日本仏教史上で僧人が大師という尊稱の始まりであった。

結論:

円仁は日本仏教天臺宗の最澄に次ぎの集大成者であり、比叡山延曆寺の仏教本山の基礎を作った。日本天臺宗の弘揚は、その功績が最も大きいし、その影響が甚だ遠い。彼は遣唐使について、唐王朝に渡って、九死一生を経て、日本の仏教のため、そして日中文化の交流のため、大きな役割を果たした。円仁が10年近い中國での紀行や巡禮して、そしてそのすべてが『入唐求法巡禮行記』に記録を収めったのであり、「東洋學界の至寶」と言われて、世界の三大旅行記の一つでもある。

參考文獻:

「古代を考える『唐と日本』」池田 溫編 吉川弘文館発行平成四年六月二十日 初版印刷 『遣唐使の見た中國』古瀬奈津子 吉川弘文館発行 二〇〇三年(平成十五年)五月一日 初版印刷

『中日外交発展史』 2004 MPA中日関係

王頴芳

「國際関係當代亜太『中日人員交往の回顧と思考』」譚秀英 1999 年第12 期 『揚州日報』 揚州日報社主催 2008年2月2日

『円仁入唐散論』張志宏 百度貼バー

唐朝バー 2007-4-22 「円仁文化」 中國経済網

『人民日報』(2004年02月28日 第七版)人民網 人民日報 第七版 國際副刊

第三篇:關于中日文化交流的整理與感悟

關于中日文化交流的整理與感悟

眾所周知,中日關系現在是最熱門的話題之一,日本這個民族在我們生活中無處不在,從相機到手機,從食品到各種各樣的生活產品,都出自大和民族。日本與中華民族的淵源已不是兩三句話都能表述清楚的。

首先我先聲明,我是純良大學生,忠實愛國者!對于日本的研究只是純粹對一種文化的執著。日本這個民族的很多東西都來自中國,可是我們卻沒有好好珍惜。從日本生活中的方方面面都能看到我們國家曾經的東西,曾經的輝煌。我希望能喚醒我們自己對于文化的意識,借鑒當中積極內涵的地方,為我所用。

今天我從五個方面闡述一下我對中日文化藝術交流的幾個方面的理解與感悟。

一.從古代中國與日本的往來看文化交流

二.從觀念看中日文化交流

三.從環境設計角度看中日文化

四.從學校教育看中日

五.從最初對日本動漫的接觸漫談中日

下面先回顧一下中日交流的歷史吧。

一.從古代中國與日本的往來看文化交流

自古以來,中國與日本就是一衣帶水的鄰國。從時間上看,古代中日文化交流史包括從上古一直到19世紀的漫長歲月。從地理上看,古代中日文化交流從遼東半島一直到海南島。下面就讓我們來一同回顧一下古代中國與日本的文化交流歷程。

自有文字記載的歷史起,可以劃為以下四個時期:

1. 中國秦、漢、魏、晉、南北朝時期,日本是彌生時代和大和時代前期。公元1世紀時,班固所著《漢書》在《地理志》中提到“樂浪海中有倭人,分為百余國”,即指日本南部九州島上的人民。據《后漢書》記載,公元57年(光武帝中元2年),日本和中國即開始交往,光武帝賜以印綬。18世紀,在九州北部福岡發掘出的金印上刻有“漢委奴國王”字樣,從實物上證明一千九百年以前中國和日本已建立了密切關系。這個時期中日交往的路線大多經過朝鮮半島,從陸路過海峽或沿岸航行。交流方式主要通過中國移民赴日本傳播中國先進文明。交流內容偏重于物質文化層面,如生產工具和生產技術。在這個時期,中日文化交流的著名代表人物是徐福。

2.中國隋、唐時期,日本是大和時代后期、奈良時代和平安時代前期,即公元6世紀至9世紀,這個時期的交流路線則以直接渡海為主,交流方式有使節人員往來,尤其是日本派遣大批遣唐使、留學生、留學僧來華,出現了中日文化交流史上的第一次高潮。交流內容則以制度文化層面為主,如日本學習唐朝律令制度實現 “大化革新”,同時也涉及精神文化如佛教、建筑、雕塑、詩歌等方面。從公元7世紀初至9世紀末的兩個半世紀里,日本先后向唐朝派出十幾次遣唐使團,其次數之多,規模之大,時間之久,內容之豐富,可謂中日文化交流史上的空前盛舉。589年,隋王朝統一中國。當時,日本正值圣德太子攝政。為了加速移植先進的中國文化,圣德太子于公元7世紀開始向中國派遣使節及留學生、學問僧等,從此兩國使節往來絡繹不絕,兩國間的友好關系進入了一個新的階段。607年,圣德太子任命小野妹子為使節訪問隋朝。一般認為,這是日本遣隋使的開始。隋煬帝也于608年任命林文郎、斐世清為使節陪送日使回國。我國唐代經濟和文化高度發展,給周圍各國以積極影響。據日本史書記載,自630年至894年的二百余年間,共任命遣唐使達19次,其中一次是為了迎接日本遣唐使回國,稱“迎入唐使”,3次是為了送還唐朝赴日的使臣,稱“送唐客使”,另有兩次任命后終止,正式派遣而到達唐朝的共有13次。作為對公元742年,日本政府派人到揚州大明寺邀聘鑒真及其弟子東渡。弟子們害怕渡海風險,起初無人答應,而年過半百的鑒真卻毅然說道:“為了弘法傳道,何惜身命!”在他的感召下,有21人愿意跟隨師父赴日。但是,在12年中,由于海上風浪、觸礁、沉船、犧牲以及某些地方官員的阻撓,五次失敗,鑒真雙目失明,九死一生,但是鍥而不舍,百折不撓,終于于753年12月20日抵達日本。日本的官方、民間佛教界對鑒真的到來極為重視,為他設壇授戒。756年孝謙天皇任命他為大僧都,統理日本僧佛事務。759年,鑒真及其弟子們苦心經營,設計修建了唐招提寺,此后即在那里傳律授戒,成為日本律宗的 2 始祖。763年鑒真在唐招提寺逝世,享年76歲。

3.中國五代和宋、元時期,日本是平安時代后期、鐮倉時代和室町時代前期。即公元10世紀至14世紀,這個時期中、日之間雖然基本上沒有正式使臣互聘,但是民間貿易和僧侶往來卻十分活躍,兩國也通過這些途經進行官方聯系和文化交流,尤其是僧人,在宋元時期的中日文化交流中充當了重要角色。這個時期的科學技術交流比較頻繁。宋代中日兩國的醫學、陶瓷、建筑等都有了很大的發展。宋代傳入日本的建筑式樣有兩種,一種叫天竺,一種叫唐式。最早把天竺式傳入日本的是日僧重源,最早把唐式建筑傳入日本的是日僧“茶祖”榮西。

4.公元14世紀至19世紀,即中國明清時期,日本是室町時代后期、安土桃山時代與江戶時代。這個時期交流方式更加多樣化,既有貿易(如明代的勘合貿易、清代的信牌貿易),又有移民甚至戰爭。交流的內容除物質的商品貿易外,更突出精神文化,而且逐漸從佛教這一重點轉移到儒學、美術、書法、醫學以及政治和經濟上來。這種政治和經濟方面的交流,反映出日、中兩國在向現代社會轉化過程中的一些特點。例如,日本的雪舟和尚就是這方面的一個典型人物。他1420年出生在一個下級武士的家庭,12歲入寺為僧,繪畫天分極高,在京都相國寺學習禪宗,又 2

學習繪畫。他十分向往來中國加強這些方面的學習,在48歲時終于實現了這一夙愿。16世紀以后,由于城市發展和大名領國獨立性的加強,文化的世俗性和民眾性日益濃厚。這個時期的文藝除了反映大名威武豪華的排場外,主要特點是反映新興市民的思想意識和生活氣息。出現了生動活潑的歌舞劇、詩歌以及風俗畫等,如連歌、茶道、水墨畫等的興起。佛教傳入日本最晚不遲于6世紀初,佛教的因果報應,主張忍耐、順從、寡欲、善行,是一種文化體,具有豐富而高度的文化內涵,因而佛教傳到日本后就受統治階級的青睞和扶持,迅速發展起來。大化改新以后,律令制國家全力吸收中國文化,在歷次遣唐使中都有不少的學問僧隨行,在平城京(奈良建有東大寺,地方各國建有國分寺,此外還有法華寺、西大寺、唐招提寺等許多著名的寺院。

縱觀以上4個時期,可以看出,中日之間的交流源遠流長,兩國人民之間在經濟、文化、政治等層面都有著長久的往來。時至今日,中日兩國雖然在某些問題上有著分歧,但在經濟等方面仍然保持著強勁的發展態勢。

作為一名設計學院的學生,現在對比一下中國和日本的設計中的差異。

二.首先說說設計中的禪意

從觀念看中日文化交流

禪,是東方傳統文化的精髓,現如今,東方禪正在轉化成一種人們生活中的智慧,當禪的思考與設計藝術擦出火花之后,便能創造出有靈性的藝術設計。因為,禪不僅僅是用來提高修養、凈化心靈、啟迪智慧,而且能圓滿回答人類文明的根本問題,蘊含著拯救文明危機的智慧,關乎到整個人類文明的起點和歸宿。

在禪看來,人類文明的起點,應是“識自本心,見自本性”。

一個漫天飛舞的大雪天,日本一禪師靜坐于茶室,凝視著室外紛飛的雪花,坐了一會兒,他便起身進屋,隨后將一個陶罐置于庭院中,然后,坐在榻榻米上,陶醉地注視著陶盆與飛舞的雪花。一旁的徒弟很是迷惑,不解其意,茶師答道:“我在欣賞花道”。

這便是禪的妙趣。禪師將深奧的禪宗理論體現在平凡的日常生活之中,不作冗長的說教,只重實際的證悟。不囿于僵化刻板的形式,也不受成法的約束,只注重于自由、活潑的心態,講究直心是道場,平常心便是道。設計又何嘗不是如此?設計有時就是設計師一種游戲心態的流露。當設計師處于一種禪的無心狀態時,才能達到設計時的最高境界。這是毫無功利心的設計,也是沒有任何欲望的設計。它源于設計師心靈上的自由與精神上的純凈。

日本民族信奉神道教,并理解四季變化中生命的無常和軌跡,感知自然大地中樹木必將老去的滅絕之美,從而體會晚秋或寒冬的物哀之情,日本園林景觀表現的特色是把心情寄托于云霧飄渺的、望不見的彼岸,然后生起追求幽玄的念頭,這都是地理對日本人心理的影響。

日本皇宮建筑,整個建筑的冥想空間與周遭的景觀渾然天成,處處流露著清凈的禪意。參禪的過程通常是一段寧靜、孤寂的精神之旅,人只有在獨處的情況下,才會有更多關于自身,關于與這個世界思考的空間,充滿著禪味的空間,就是要傳達給人們這種感覺。

禪宗以“空無”哲學為理念的現代設計,在現代生活中為我們創造著無盡可能性的精神世界。日本設計師原研哉說:“只有空的容器,才有收藏無盡東西的可能性。”

老子曰:圓氣至柔,能嬰兒呼。所以,設計師須保持赤子之心和一種回歸本心的狀態。因為幼兒對一切事物都是那樣的好奇、新鮮和純粹。禪正好是要讓人的心態回到尚未蒙受塵垢的狀態,以禪的方法使設計師回到最直接、最本質和最佳的心智狀態。

北京798一時裝展示廳大門,設計師顛覆了門的固有概念,將兩扇門轉換成對襟的、有口袋的服裝形態,設計定位準確,而且頗具慧眼,設計師當下開竅了!

清逸起于浮世,紛擾止于內心。禪意設計的意義就在于,禪的精神是直取事物本質,不為形式所拘束,以純潔和簡樸,表達出空靈之美,給人以遐想。北京798一畫廊,建筑即便是運用超現代的鋼架結構,或是后現代的清水混凝土建筑中,我們都可以品味出充滿著現代意味的“禪境”來。

禪認為“無即是有”,用物質上的“少”,去尋求精神上的“多”。這也是將人引入幽玄的禪宗境界的一種手段,它體現出人對自然的尊重,也體現著東方人傳統的沉穩內斂、含蓄的最佳精神氣質。這種充滿著禪意的設計,已成為一種世界范圍內的設計語言,在我國的設計界領域也越來越受到重視。

東京地鐵的裝飾畫,真是獨具慧眼。漆黑的墻面上鑲嵌著凹凸不平的玻璃,急急匆匆的人流與疾馳而過的車輛映照在帶波紋的玻璃上,使玻璃產生強烈的流動感。設計師的一雙慧眼,讓靜止的物體產生動態的效果,這種設計思維可謂是不同凡響。

日本的商品包裝,是以“禪的美學”為核心的,是禪所追求的真我境界。它已經超脫了商品品牌的局限,成為一種生活方式的代名詞。他們將“禪”作為日本商品包裝的核心理念,因而在日本和西方國家大行其道,有深刻的社會文化背景。并且使當代西方人對禪也產生了濃厚的興趣,把它作為人生與科學的哲學,認為禪悟真正代表了東方關于精神自由的智慧。

禪是不說之說,是觸境而生的機趣。設計中的簡素

其實,禪的玄妙之處,在于它只是提供一種思維方式,但不下結論;它只是提供源頭,卻沒有一個終結的目標。禪,其實是讓每一個人在自己的生活方式中去頓悟與體驗。這樣一來,禪宗美學便為設計師帶來了新的美學智慧與思維:真正揭示出審美活動的純粹性、自由性,真正把審美活動與創作自由完全等同起來。

禪是直指人心,見性成就的實證方法。通過禪的方法,可以使大腦引爆激情,頓開智慧。禪就是善用大腦,開發智慧,是回歸智慧和德行的最快方法。

當下的生活已在不經意之間被我們復雜化了,多余而冗繁的設計常常會掩蓋生活本身的使用需要。因為從某種意義上來說,物質的繁盛會凸顯出人的精神空無。所以,禪宗倡導簡素的美學主張,以達到一種 “空寂”的境界。禪的簡素與西方極簡主義設計風格似乎一脈相承。極簡主義是用減少、否定、凈化來摒棄日常的繁瑣,去繁從簡,用感觀上的簡約干凈,獲得物質最本質的元素的再生。它是一種克制的做法,是一種反物欲的精神,當物質向后大 6

步退消時,留下的就是廣袤的精神空間,這與禪宗中的“參禪”有著異曲同工之妙。用最少的東西、最簡單的方式,創造一種深入人心的美,成為當今設計師探索的主題。

禪宗的簡素似乎比極簡主義思潮走得更遠。禪的簡素不僅是一種表象的“極少主義”,它更加注重身心的修為,禪宗崇尚天地萬物皆與人同根一體,由之衍化出的儉樸、單純、自然等理念,通過環境的空寂、幽玄,達到一種“無我”的境界。

禪宗崇尚自然、樸實的風氣,同時注重物體的簡素之美。現代陶藝家,為了體現泥土的本色,陶藝作品常用素燒,或熏燒等方法來完成,使其呈現出樸茂和雄渾的藝術風格,那粗糙的質地、隨意的形態,繁雜與簡約的對比,無不體現出陶瓷材料的自然本色之美。這種簡素的美學主張將禪宗美學中“空寂”的意境作了現代的發揮。設計中的空寂

日本的花道,只是禪宗一種藝術的表現形式,它常運用藝術對比的手法,將自然界生與死,新與舊的矛盾,通過花道特有的語言表現出來,并引起人們對人生意義的思考。插花藝術不追求植物的華麗,也不注重插花瓶的名貴,只崇尚精神,精神就是一切!不重形式而重精神是禪宗的審美理念。因而,日本花道從不追求物質上的富貴與艷麗,而注重于在粗陋與簡樸、甚至廢棄的材料中,抒發自己對人生認知的感悟,對自然美的獨到體驗。日本花道也不以美炫人,而是力求滲入自然深處,表示出純潔和簡樸。

因為受 “無即是有、多即是一、一即是多”禪宗審美意識的影響,日本花道用物質上的“少”,去尋求精神上的“多”,表現出平淡、含蓄、單純和空靈之美,這是禪宗美學把外在世界看成與內在活動相關照的一種擴展的反映。使觀賞 7

者從這自然的藝術形態中體驗一種空寂的景象,品味出一種幽玄之美.既重視“心”的表達,張揚其精神表現,以從中尋求空寂的內省,保持一種超脫的心靈境界。

日本現代庭園,注重于景物的洗練和景觀的靜寂,表現出禪宗淡泊清遠的心志和超凡脫俗的理念。現代庭園之美不僅僅停留在視覺上,其實更多的是靜思和冥想,這恐怕也是受禪宗理念的影響,從禪宗冥想的精神中演化而來的。

大阪公園的簡易公共廁所,建筑之簡單,造型之簡潔,令人茅塞頓開!單看建筑的本身就帶著濃郁的禪房味道。它的設計者定是一個既在佛法中探求生命的本真意義,又在世俗中承擔著自己角色的悟道者。使進入這個空間通透、充滿靈性的建筑中如廁的游客們,也會在這種清凈與自然的順應中,找回本真的自我。

生活在現代都市壓抑的空間之下的蕓蕓眾生,每個人都需要一個精神上的釋放,一個可以靜思冥想的場所。該建筑就是將東方的禪所強調的“直覺、頓悟”等這些需要用心思考的東西,通過引入自然因素,使純凈空間有了強烈的神秘色彩,從該建筑中我們可以感悟到強烈的禪宗的“空靈”意味。設計中的淡定

東京居酒屋的室內設計,體現著東方人特有的禪雅意境。它放棄一切矯飾,只保留事物最基本的元素。用最少的元素(如原木、竹枝、草編等)來展現空間的全部功能。該設計的意義,強調了消費者的需要才是設計存在的必要,要挖掘出生活中的這些充滿著禪意的細節。從這個設計中,其實美感和魅力就充溢在日常的生活當中,就看我們有沒有禪心與慧眼!

莊子曰“天地有大美而不言”。日本許多景觀設計,是一種既不刻意追求象征意義,又不刻意追求視覺效果的藝術形態。它不過分的囂張,也不炫耀輝煌,而是盡可能的沉靜而低調的,但是同樣有著與天地同在的力量。大阪公園的巨石建筑正是用孤寂的美感,“無我”的心態,表達著東方禪的精神格局。

現代設計藝術由于禪宗理念的滲入,顯示出獨特的靈性和靜幽,因為禪意的設計,始終表現出一種自然外物的空寂,它以“象外之象”描繪出一個極靜的空靈意境,藝術家們只有內心與外物合一,才能體會到空寂的禪意,方能步入禪宗的“即空即有,非空非有”之境。因而,作為一個現代設計師,僅有技術性的知識是遠遠不夠的,必須要使技巧升華,使設計成為心靈的藝術,是發自于內心的無意識之中。現代設計師如果不精通禪文化,不親證禪宗的心地法門,就無法真正理解中國傳統文化的內涵和精神的實旨和內容。

當今時代競爭十分激烈,每個國家和每個企業、都非常重視創新和發明創造。設計師如果具有先進的設計的理念和好的方法、有發明創造的智慧,并借鑒“禪”的思維方法,就可以幫助開發設計師的智慧,從而提高其設計藝術水平。

以上就是在中日設計師在思想上的文化對比文化交流。

三.從環境設計角度看中日文化

作為環境設計的學生,向來對環境敏感。今天對比一下日本與中國園林設計。

園林,是人們向往自然,親近自然的棲息之所.中國園林和日本園林同是園林建筑中的經典,體現東方園林精致,典雅,人文的特點.而且中國的園林對日本影響很大,日本園林通過對中國園林有選擇,有發展的兼收并蓄,產生具有自己風格的園林形式.中日古典園林按照園林所屬都分為皇家園林,私家園林和寺觀園林,中國的寺觀園林無明顯特征,講究儒道的和諧和詩情畫意,突出儒性,體現出宗教的世俗化,日本古典園林中的寺觀園林講究禪思枯意,突出佛性,并影響其他類型的園林,表現出世俗的宗教化.兩國的園林都基于道家的道法自然思想,但中國偏于儒,顯現出入世治世的特點和仁者的理想觀,日本偏于佛,以智者的形象帶有出世解脫的色彩.中國園林的布局思維介于具象思維和形象思維之間,日本則在形象和抽象之間.中國園林用文學藝術的手法表達較多,日本則喜歡用擬佛擬神的較為晦澀的語言.中國園林生動形象,表現了樂天愛人的景象,而日本園林則是在荒涼孤寂的山林中體現著孤獨的禪意和對短暫人生的寂寞思考.中國園林是山水詩意園林,日本則是枯山水園林,以山代石,以沙為水。枯山水的意思,簡單的說就是沒有真的山水,而是以白砂代水,以石代山,砂石用細耙梳理出規則的幾何花紋,似云浪似波濤。擯棄了一切繁復,回歸最簡單的禪意,所以枯山水的英文就是zen garden。

從網上借了些圖片簡單說一下日本庭院的枯山水。我個人認為,日本的枯山水最根本的起源就是中國的禪意,就是上文我提到的中國的原始文化對禪宗的理解。只不過

隨著時代的發展,禪宗在日本融入了他們的民族精神與地方特色,相對獨立的發展,于是呈現不同的角度與特色。沒辦法,好的東西我們要接受學習,借鑒,以便更好的超越。

枯山水作為園林設計源于日本,溯其本源卻是中國園林、中國水墨山水畫以及唐以后的佛教禪宗教義的集中傳承。而枯山水在日本最早也是見于寺院,作為僧人禪修的一種延伸,表達著深沉的哲理。后來與茶道的發展出現融合,走進了民間。

從應用的材質上來說,主要有砂、石、苔、木四種材料,通過單一的應用或者幾種材料的結合,構造出石庭、苔庭、型木式、書畫式等幾種枯山水型式。

這幾天在網上查閱一些枯山水的圖片,幻想著自己的家里也能營造一塊這樣小小的院子,心里就生出無限的向往和喜悅。家人喜歡在院子里養許多花草,而我也喜歡那些綠色營造的世界。尤其在這蕭瑟的冬季,花葉凋零的院子實在讓我紛亂的心意更添 12

了幾分失落。于是我期待也有這樣一個院子,鋪滿白砂,幾方大石零落其間,我耙出一道道同心圓。然后,在走廊上品茗,靜靜欣賞這榮枯不變的世界。

以后要是有一個自己的家,那就在院子里鋪這樣一片砂。一沙一世界,一葉一菩提,禪居的地方或許并不要很大。

而我最愉快的勞作,就將是細細的篩凈白砂,用細耙在砂上作畫。今日天晴,便畫出一個流水行云;明天落雨,便畫出一圈圈的同心圓,似水落池塘的漣漪。

落雪的時候,我不必擔心花木是否被凍死。不必打掃一地落葉。我只是抱著暖壺,欣賞這灰與白的世界。

我的愛人會期待回家,因為一回到這里,外面世界的奔波忙碌、觥籌交錯都會被擋在門外。只有我和他呆在這溫暖、靜謐的家里。詩意、靜謐??不知道有時候在這院子邊煮一鍋火鍋,吃幾款親手做的夜宵,喝一杯咖啡,會不會別有一番風味。

這是一片我自己的世界,也在心靈的世界,與外界無關。不管做什么我都覺得是理所當然愜意的。我可以在這片世界里聽歌,聽雨,聽大地的心跳。我可以作畫,寫詩,翩翩起舞。我可以排練四季的交替,我可以天天等愛的人回家。因為這是自己的禪意世界。有時院外有花開,姹紫嫣紅甚是好看,映著我這院子,猶如得道高人,坐懷不亂。

如果有這樣一個家,只希望終老。不徐不疾,一生就這樣過完??

哈哈,說多了~這些都是后話,總之日本的庭院景觀設計帶給我很多感觸,完全不似中國的庭院。我們國家城市以商品房居多,很少有自己的私人空間,景觀也主要以公共空間為主,很少能借題發揮。這也是所處環境的區別吧。

咱們國家這方面的景觀設計,圍繞園林設計。最著名的的園林設計是以蘇州園林為代表,園林設計講究多種技巧,而整體理念始終一貫,即人與環境的和諧。與日本的枯山水主要運用的禪意不同,中國的園林設計雖然講究意境,但更重要的是考慮風水,考慮中國傳統文化,體現了傳統文化天人合一的精神內涵,表達了人與自然和諧相處的意蘊。

來說一說一些園林設計原則

1、強調設計與服務意識之間的互動關系。例如蘇州園林拙政園,園主人對于“拙政”隱逸的概念,對于自身的文化修養喜好等,產生了對園林作為設計與生活的互動關系。

2、設計的職責是創造特性,正如每個人都以其相貌、筆跡或說話方式上表現其各自獨特個性一樣,園林景觀也是如此。每個人都有喜好,不同的地域也有獨特的文化性,所以園林統一中又有獨特的性格。比如說北京頤和園的大氣和蘇州園林的秀氣靈氣,各有千秋。

3、注重研究地域人文及自然特征,并作為景觀形式或語言及內容創新的源泉。忌缺乏人文關懷,不顧人的需要。

4、環境和人的舒適感依賴于多樣性和統一性的平衡,人性化的需求帶來景觀的多元化和空間個性化的差異,但它們也不是完全孤立的,設計時盡可能地融入景觀的總體次序,整合為一體。忌忽視與當地環境的和諧統一,破壞整體的生態環境。

5、要充分考慮氣候因素,盡量節約建設成本和維護成本。

6,植被配置多種多樣,忌只注重一種植物,忽視園林植物配置的多樣性。忌只注明園林植物的種類,不明確具體品種和規格。如蘇州園林,不僅小橋流水,而且四級植被眾多,在不同的季節有不同的特色,使人流連忘返,更不要說住在園林里的古人了,真是一種享受。

四.從學校教育看中日

日本的人口遠遠沒有我們那么多。而且日本特別注重國民素質與教育的普及。他們對于人才的培養非常重視。

日本有很多著名的建筑設計師,比如說安藤忠雄、黑川紀章、妹島和世、西澤立衛、伊東豐雄、磯崎新、隈研吾、丹下健

三、丹下憲孝、藤本壯介、青木淳、石上純也、坂茂、坂本一成等等。

日本也有很多藝術學校,比如說日本著名的藝術大學有東京藝術大學、千葉大學工學院、京都市立藝術大學、女子美術大學、武藏野大學,多摩美術大學筑波大學藝術系還有東京大學等綜合類大學也有藝術系等。

我覺得設計師他們對于學生的培養可以概括為以下幾點:

1,大學的環境相對寬廣,資源豐富,獨立性強,不像中國的應試教育。老師上課的地點不一定是教室,給學生充足的時間和空間自由發揮,激發靈活性與思維。

2,、借鑒的本領,借鑒是日本大和民族的優良傳統,學生們也是充分的發揮了這個優勢。首先在文化的基礎上進行創作,融入時代精神,充分的發揮。其實設計就是敢為人先的創造與發明、大膽設計、大膽改造,大膽實用新工藝,新材料、新科技的全過程。設計的構思階段,在某種程度上,實際上是在頭腦中進行樣式的選擇。設計是一種創造,但不是發明,前無古人后無來者的設計是不存在的。因此,設計就必須要借鑒前人。

3,設計的能力。能力很重要,他們的老師不會說一定要求他們怎樣怎樣,而是根據學生自身條件去安排,每個人都是世界上獨一無二的。老師會盡最大的可能去激發他們的創造力,達到最大效果,在每次“壓迫”中得到升華。設計是一種造物的過程,有了好的構思后,接著就是如何來完成和實現這個構思,把設計構思畫在紙上,不能說是設計的完成,那僅僅是設計的開始。老師基本上都會讓學生落實自己的想法,把自己的作品表現出來,有較強的設計質量,較高的工作效率,“快、捷、勤、節、美”。在這個實現的過程中鍛煉自己的真本領。

4,深厚的藝術造詣。不管是藝術還是設計,每個人都有與生俱來的天賦與靈感,這是我們不可多得的財富。深厚的藝術造詣決定了設計師們無窮的創造力。但是我們也需要進行后天的熏陶。

5,設計師的人格魅力,日本不過設計師還是老師還是學生,都特別注重自己的形象,行為舉止,談吐,極具大師風范與人格魅力。因為老師本身就是一個代表,他們無時無刻不影響著學生,他們是一個表率。這個后天熏陶的過程,成就了日后在設計領域的出類拔萃。

6,日本的學生上課,根本不會局限在教室課堂上。社會上的任何一個地方都可能成為他們的教學

場所。他們注重實踐,有準確地領悟能力,全面地統籌能力,充分的展示能力,注重自我考察了解社會了解資料的過程,在實踐中得到能力的提高與升華。并且對社會要有了解,觀察、分析、主導與開發的能力,(懂得發現哪些時尚品味,發現哪些還有開發的),深入市場,不能閉門選車,坐享其成,更不能意想天開。有獨擋一面的能力。

7,痛痛快快地工作,痛痛快快玩,愉愉快快的學習與生活。前衛、激情、自信、樂觀、青春總之,作為一名合格的服裝設計師,優秀的品德是首要條件。而且工作積極主動,要全力投入,興趣濃厚,體現主人翁精神。

8,團隊合作精神。日本大和民族是一個超級團結的民族,在生活的各個方面都能發揚這種精神我覺得特別好,不僅能雙贏,而且更能適應設計適應社會。

五.從最初對日本的接觸漫談中日

我從小就開始看日本動漫,我特別愛動漫。那時候對日本還是一個模糊的概念,還不知道是一個國家,總以為日本屬于我們國家的呢。日本動漫產業通過與國家的“交流”,引人深思。

日本動漫盛行至今。我們90后的都是在日本動漫的熏陶下成長的,從《鐵臂阿童木》《一休》《機器貓》到《名偵探柯南》《死神》《網球王子》,日本動漫留下了不可磨滅的印記。還有著名的動畫大師宮崎駿,《哈爾的移動城堡》《千與千尋》《虞美人盛開的山坡》等等,這些世上佳作太讓人難忘了!怎一個大師了得。

即便大力支持國產動畫的現在,特別是大學里,日本動漫的市場也是很大的,原因我看主要是日本的動漫不管在劇情還是在宣傳制作上都比國內的要好。日本動漫這種流行是世界范圍內的,發展到今日日趨完善,迎合了社會各個階層不同年齡段觀眾的欣賞水平和領悟力(不像大多數國產的美國的劇情幼齒,主角不是猴子就是熊貓之流的),且越來越注重精神層面,從不同的角度反映著整個日本社會面貌和精神狀態的方方面面。我個人認為,日本動漫完全可以成為了解日本民族精神的一種重要手段。

現在從我看過的一些動漫淺談日本的民族精神。

一、精神和意志的無限超越性

日本人的基本生存觀念就是人的完滿,但是物質條件總是有限的,對人的完滿和神性 的向往促使日本人無限的拔高自己的精神和意志。要想達到神的無限和全能,只能依靠精神的無限性來激發出巨大的能量,即小宇宙的爆發。幾乎所有的動漫,尤其是運動類題材的,積極向上,為了理想而奮斗。風靡全國的《網球王子》中王子們對網球的熱情就是他們不斷完善自我提高球技的保障,河村隆可以為了網球罔顧自己的手臂。作者許斐剛用夸張華麗的手法表現網球的 18

無限可能性——天衣無縫之極限,但其實能打出這種最強網球的就是最初學習網球的熱情。

二、忠誠與報恩,極端的自我犧牲

這些在古代類的題材中非常明顯,《遙遠時空中八葉抄》中所有的一切都是為了解救龍神,不論需要的是什么,甚至是生命,因為是龍神創造了那片大陸,賜予了后世的一切。欠負——報恩是日本人獨特的道德理論體系,就像日本的武士道精神以對天皇的忠。日本真正的民族敘事詩《四十七士物語》贊頌的就是屬下對主君的忠義。為了替主君報仇,報答主君的恩情,他們犧牲了自己的一切,包括父親、妻子、妹妹。當他們為主君報仇后,又在其墳前集體自殺,因為他們的報仇行為雖成全了他們對主君的義,卻導致了他們對幕府的不義,他們只有以自殺來償還。這種拋棄愛情親情的忠義故事深得日本人的青睞。這種欠負——報恩的倫理體系就造就了日本人性格中的一極:極端自我犧牲的精神。

我不建議大家都這樣啊,我們要忠于自己的道德底線,忠于理性愛國!忠于道德。這種精神我們借鑒就好,不能盲從。

三、強烈的自尊

日本人的自尊就是小心謹慎的生活,不是做自己想做的,而是做別人想讓他做的,不是成為自己想成為的人,而是要成為別人希望他成為的人。償還別人的恩情,不辜負別人的期望成了日本人最大的尊嚴。人與人總是存在著這樣那樣的聯系,幾乎所有的人都是為了成為別人心目中的依靠,英雄而存在的。《網球王子》中手冢國光就是為了青學網球部而存在,《棋魂》中進藤光就是因為佐為而開始下棋的。日本的強者就是拋棄個人感情和幸福去履行義務的人。日本人害怕別人眼中的嘲諷和批評,會令他們產生強烈的羞恥感,因此重名譽成為他人心目中的人就是日本人的行為準則。

四、宿命論。

CLAMP創作的《魔卡少女櫻》、《翼·年代記》、《xxxHOLIC》就將這種宿命論演繹得淋漓精致,外號有『次元之魔女』及『極東之魔女』等等的『只要能付出相應的代價,便能實現任何愿望』的商店的主人壹原侑子經典名言:

1、世界上沒有什么偶然,有的只有必然。他們堅持自我,相信自我。雖然有點主觀唯心主義,但何嘗不是積極地自我暗示呢。也許有一天自己真的做到了。

五、戰爭中的“泛正義論”

日本動漫中像《奧特曼》《鐵膽火車俠》《火影忍者》《浪客劍心》《海賊王》等等動漫里都有打打殺殺戰爭的場面。而小朋友么也很喜歡這種“正能量”“陽剛熱血”的題材。這些正義的動漫確實傳遞正能量。日漫里的戰爭題材并不僅僅是“好人打敗壞人”,其中善與惡的界線并沒有那么徑渭分明。在日本動畫中(非弱智的),發動戰爭的一方往往有著所謂不得已的苦衷,于是便有了為了讓人類唾棄戰爭而去發動戰爭的杰克斯這類角色。也像《死神》里為了停止戰斗而戰斗的 19

東仙隊長——并沒有仇恨,但是為了和平也不會討厭殺戮。動漫人物都是為了自 己所謂的道義而戰。日本動畫中對戰爭的態度始終遮遮掩掩,現在細想來通常都是著力于戰爭雙方人物的活動,有意識的安插一些被侵略的一方做壞事的情節來混淆觀眾的判斷力,讓觀眾以為一切都是活該,是‘正義’的。宣稱戰爭沒有絕對的對錯,否認著真正意義上的正義的存在,或認為戰爭的原因只是因為雙方互相不能理解。

當然了這些都是動漫,都是假的,但是不管是正義的還是泛正義的,我們要明辨是非,相信正義。維護和平。

六、唯美。

日本民族的唯美是異常執著的,雅致的茶道和浮世繪就是很好的例子。當然日漫的畫風唯美也是深受大家喜愛的原因,對唯美的執著最鮮明的體現就是動畫人物外型。看著動畫中那一個個大眼睛,手腳修長,服飾光艷華麗的的帥哥美女,觀眾大喊卡哇伊。可以說,日本動畫愉悅視覺的功能已經相當完善了。但是日本民族有著追求極端之美的狂熱,人們認為最美的時候是櫻花凋落的一瞬間。就像《秒速五厘米》新海誠最著名的動漫,也是我最愛的之一。那對感情的描繪,賦予櫻花沉著的遐想。這樣看來,日本民族就是這樣一個崇尚精神和意志,追求人之完滿,強烈的“恥感”,報恩的觀念,矛盾的性格,善變的倫理,極致的唯美的民族,通過動漫向我們灌輸的日式思想觀念,有好的,但也有偏激的,需要我們自己來體會。

七、對人生的感悟,對人性的揭露。

像《歲月的童話》,《幽靈公主》,《再見螢火蟲》等等這些動漫,通過一些事情來達到對人性的揭露,引起我們的深思。也有引導我們自身保護環境,關注周圍的世界等哲理性的動漫,比如說懸崖邊的金魚姬。這些美好的故事更具有說服力不是么。

日本是動漫大國動漫強國,我覺得我們應該吸收借鑒他們的技術與思想,已提高自己的水平,真正做到文化交流共贏的狀態。而且不能讓商業化壟斷我們的動漫市場,使《葫蘆娃》《黑貓警長》《舒克和貝塔》這些幾百年前的經典作品失去更新換代的能力,不能被新技術超越,使《喜羊羊與灰太狼》這種無營養啟示的動漫壟斷整個市場,是文化大發展大繁榮落實不到實處。

第四篇:我對安監工作的切身感受

我對安監工作的切身感受

發布時間:2008-07-21 14:40:35 來源:中國安全生產報 作者:常德市安監局 何永軍

看完中國安全生產報頭版頭條《荊山腹地礦工們的親人——記湖北保康縣安監局礦山安全監管股股長周全意》后,心靈受到了很大的震動,久久不能平靜。周全意同志16年如一日,他用一雙眼睛發現了無數隱患,并及時督促生產經營單位排除事故隱患,用一張鐵嘴糾正了礦工無數次違章行為,挽救了無數生命,他有著質樸的品格,有著高尚的情操,他體現出了中國安監戰線上干部職工的精神風采。他為保康縣礦山撐起了一片藍天,他的名言“礦山安全人命關天,我寧愿聽罵聲,也不愿聽礦工家屬的哭聲!”激勵著我們每一個安監干部。我們基層安監局的工作人員在平凡工作中承擔巨大的精神壓力和工作壓力,總局和新聞媒體能夠大力宣傳弘揚安監隊伍先進事跡,我個人感到很欣慰,相信安監系統還有很多像周全意式的人物,正是有像他那樣的干部的存在和不懈努力,才使我們安監工作卓有成效,使事故發生率逐年大幅度降低,使國家和人民財產損失降到最小限度,他是我們當代安監人學習的楷模。

我作為有著幾年基層工作實踐的安監員,對安全生產工作有著自己切身的感受,主要表現在以下幾個方面:

一、工作做好了會比較欣慰。我從事安監工作五六年了,我也曾患得患失,也曾有過畏難情緒,也曾有過抱怨埋怨;相比之下,我是渺小的,是慚愧的,是小我的。其實安監工作是非常光榮的,因為我們所從事的工作是為人民群眾守護生命財產的安全,少逝去一條生命,我們就少了一份自責和遺憾,多了一份欣慰。

二、工作難度較大。一是基層抵觸情緒大。目前基層確實存在人手少、任務重的局面,存在一定厭戰情緒,不愿意從事安全生產工作。基層同志曾對我們局里說:“我們幫助你們干工作,你們還要追究我們。”“你們安監局除了給我們責任和追究以外什么都沒有!”對此很不理解。二是非公有制企業監管較難。這些企業沒有主管部門,政府與企業間缺少信息溝通渠道,傳統的召開會議、下發文件的方式,很難將信息傳遞到企業,造成政令不通。三是隱患整改難度大。在隱患整改過程中,歷史遺留問題多、欠帳多、隱患治理難度大。有些隱患的整改涉及拆遷問題,需要大量的資金。隱患整改牽頭部門做了很多工作,而責任單位乃至個別政府監管部門卻互相推諉,致使有些隱患多年存在,成為老、大、難,隱患的存在威脅著我區的安全穩定。

三、工作經費不足。我區是中心城區工作量大、面廣,安監局又不同于有些單位和部門,要抓好安全生產工作,就要勤于深入一線,就要勤下鄉鎮街道、進社區(村)、到企業,把各項工作抓仔細抓落實,車輛的油修費用、機關的辦公費用等都是一筆不可缺少的開支等等,區政府下撥的經費有限,可我們卻不能不工作,經費明顯不足造成的壓力大,而我們所負的責任卻更大。要解決經費問題,一方面可以爭取國家投入,另一方面可以建議國務院給地方政府提要求。國家在煤礦方面投入巨資改善條件,而煤礦本身是有錢企業,但對我們安全監管隊伍建設的投入不多,它可能對地方一些領導者產生其他安全監管工作沒有煤礦安全監管重要的誤導,對我們的工作是不利的。

四、鄉鎮街道安全生產監管人員配備不足。現在縣級以上都設立了安全監管機構,人員配備基本到位,各企事業單位也按有關法律、法規配備了相應的安全員,而鄉鎮街道一級安全監管人員配備不足,目前我區各鄉鎮街道安監站均是加掛的,除分管領導外,就只有一個兼職安全員,且這些安全員的工作經費大多數無著落,紛繁復雜且責任重大的安全監管工作僅靠一個安全員還是兼職的安全員是很難做好的,這是當前安全生產監管工作中最棘手的問題。

五、工作裝備較落后。面對現代化程度越來越高的生產經營單位,而我們自己的隊伍裝備卻十分落后,向我們縣級安監隊伍因工作所必須的車輛嚴重不足,根本滿足不了日常的安全監管、檢查、執法工作,致使工作效率降低,就全常德市各區縣市安監局公務車輛,每縣平均為一臺,其它技術裝備就更少了,我局一臺檢測儀也沒有,導致我們的日常工作全憑最基本、最原始的方法來開展。再者,我們安全監察人員到企業檢查工作,發現一些企業該配發的勞動防護用品配發不到位,工人們在無防護用品的情況下冒險作業,安監部門就要求企業整改。而執法人員在檢查過程中,沒有自身安全防護設備,卻還要進入危險場所、隱患環境中去冒險工作,這種情況又如何去整改呢。

六、執法較難。安監人員在日常的工作中經常會遇到執法難的困惑,這些困惑表現在:一是執法手段不硬。例如在日常監管工作中,發現隱患,要求企業整頓,如果企業不整改,按照安全生產的有關法律法規就要處罰,就要求企業停業整頓,但一些企業就是不交罰款、不停業,甚至連封條都可以自行撕掉,我們無法應對,這是我們安監工作的一項難點。二是執法過程操作難。法律、法規、規章明確了處罰、交納的標準,但在基層監管工作中,被處罰的對象,按標準交不起罰金,但執法時還必須依法按標準處罰,低于標準處罰我們自己違法,按照標準處罰企業交不起,這種現象常常讓安監人員左右為難。三是法律法規的修改太慢制約著安全生產工作的開展。如中編辦〔2003〕15號文已把作業場所職業衛生監督管理職責劃到安監部門,關于職業衛生監督管理職責,2005年衛生部、原國家安全監管局雖有一個職責分工,但《職業病防治法》的監督管理部門和有關職能還沒有作出相應修改,市、縣等基層安監部門具體操作起來存在一些困難。安監部門負責職業危害申報、職業危害事故和違法行為的查處、有毒物品作業場所職業衛生安全許可證的發放等,但安監部門又不是法定執法的實施主體,工作不好開展,加上要做好這些工作,需要技術服務機構強有力的支撐,而安監部門卻沒有職業衛生技術服務機構資質認定與監督管理、建設項目職業病危害預評價等方面的職責,難以做到“關口前移”,存在著嚴重的責、權、事相分離、不統一狀態,這是當前制約職業衛生監管工作的主要原因。

七、從事安監工作不后悔。從事安全生產工作幾年來,雖然體會了幾多艱辛,付出了常人難以想象的努力,犧牲了大量休息時間,但是看到全區安全生產工作一天天步入正軌,廣大人民群眾安全意識普遍提高,企業安全管理水平有較大提高,事故總量不斷下降,安全形勢逐步好轉,我區連續5年獲得全市安全生產工作先進紅旗區縣。我們全區的安全生產監管人員都覺得從事安全生產工作雖然有很多困難,但不后悔

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

假如我是一名安全員,我就要讓人人都來重視安全,絕對的 遵章守法,不折不扣地遵操作規程之章,守安全生產之法!我清楚地認識到違章就是走向事故,就是傷害自己、傷害他人,甚至走向死亡。認識到違章的重要性,就不會抱有任何饒幸心理。我還深刻地領悟到:或許一次不經意的違章,造成大的傷害或損失,就變成了違法。

假如我是一名安全員,我會深刻感受到安全的重要性。企業成于安全,敗于事故。任何一起事故對企業都是一種不可挽回的損失,對家庭、個人更是造成無法彌補的傷痛,所以我必須在這一刻起認真履行職責。我清楚地認識到違章就是走向事故,就是傷害他人,甚至走向死亡。當一天安全監督員,就要讓安全思想牢牢扎根在每個人的心中,讓大家知道若責任心不到位就會釀成事故,讓我們正確認識到安全不是一個人的問題,而是你中有我我中有你,是一個上下關聯人人互保環環相扣的鏈,是一張錯綜復雜緊密相連的網。我要讓人人成為安全員,我會把公司倡導的“責任連帶安全互保”體系真正落實。

假如我是一名安全員,我決不搞形式上的安全,而是要追求內容上的真實。一線崗位安全隱患和死角多,習慣性違章較普遍,從而制約采油一線的安全生產管理水平。如果只在形式上講安全,應付檢查,那么即使是投入再大付出再多,安全環境也不能得到本質改善,安全管理水平永遠不能得到本質提升!只有每個職工在每日的工作中相互監督、相互提醒、相互檢查,查找漏洞和薄弱環節,防止不安全的因素存在;杜絕事故隱患,從小事做起,點點滴滴匯集在一起,就能筑起安全大堤。無危則安,無損則全。安全就是人們在生活和生產過程中,生命得到保證,身體免于傷害,財產免于損失。安全生產是我們油田企業管理的重點,是我們發展的根本保證,安全就是效益。假如我是一名安全員,我會把這種觀點跟植于每個人(包括我自己)的心中。首先武裝好自己,熟知熟會各項操作規程安全制度,認真學習安全有關法律法規;其次,養成良好的安全操作習慣,杜絕習慣違章,敢于同身邊的甚至是上級的不安全行為較真兒;第三,勤于檢查,及時發現整改事故隱患。履行好安全員職責,做好總結,向上級多提合理化建議;最后,從戴好安全帽,扎好安全帶,穿好工作服,開好作業票等這些點點滴滴的小抓起,做起,持之以恒。

一線工人是安全生產主力軍,沒有工人參與監督和管理,安全生產很難搞好。人人當一次安全監督員,并不只要求在當安全員那天才記得安全生產的重要性,才去按章辦事,還要求時時刻刻地關注安全,即使并不是安全監督員,也要將“安全生產”銘記心中,如果我們每個人都能真正擁有這樣的境界,那么我們的安全生產工作必能做得更好。作為一名安全員,就更應該用一顆赤誠的心,去維護勞動者的安全和健康,用安全的規章制度和周到的服務為人們營造一個良好的生產環境。這樣,我們的企業就能長盛不衰,我們個人就能在一個安全和諧的環境中幸福生活。

我當一周安全員”心得系列

(三)發布時間:2010-06-02 16:11 瀏覽次數:

379次 作者:zgb 來源:未知

地點:太原項目部

時間:2010年4月26日—5月2日

安全員:鄭航(安全要實現從“要我安全”向“我要安全”轉變)

要做好安全工作,就要實現從“要我安全”向“我要安全”的轉變,對于我們全體員工來說,應立足于安全第一,對于安全是永恒的主題,安全是公司各項工作的保障,有了安全才有效益。員工的生命是第一位的,我們只有一次生命,對我們每一個人來說生命都是彌足珍貴的。無論在生活中還是在工作中,我們心中必須時刻謹記:生命第一,安全第一。為了確保生命的安全,在工作中我們必須認真學習安全管理、安全操作、牢記禁令、杜絕三違、反三違,爭取把安全隱患消滅在無形之中。要樹立正確的安全人生觀,安全工作是社會性工作,安全工作做好了,于人、于已、于企業、于社會都得益。反之,安全工作做不好,發生事故,傷到自己,給自己帶來痛苦;傷著他人,給他人帶來災難,給企業造成損失,對社會造成不良影響。因此,樹立正確的安全人生觀,是搞好安全工作的基礎;

樹立正確的安全法制觀,安全為天,法律至上。安全工作是“人命關天”的大事,是企業的首要工作,“安全是?天字號?第一大事”。

生命只有一次,不要拿自己的生命開玩笑。讓我們共同遵守安全規則,做一個珍惜生命的人,做一個文明的人,那么,展現在我們面前的將是一個七彩的世界。讓我們攜起手來,關注安全,關愛生命。從我做起,共同遵守規則吧!安全員:賀小明(安全要防微杜漸,從小事做起)

在這個春意盎然,萬物復蘇的季節里!我們的企業,也如同這季節一樣,興旺發達、蓬勃發展!

對我們電力企業來說,安全就是生命,安全就是效益,安全是一切工作的重中之重!與此同時,我們山西太原項目部積極響應公司號召、領悟公司文件精神同時開展“每周安全員”活動,作為其中一員我無比自豪,通過一周時間,我感悟頗深。

人人事事保安全,關鍵要從我做起,從現在做起。在工作中,“安全第一”,“生產必須安全,安全促進生產”,安全是最大的效益,每當我們不遵守規則時,實際上是在醞釀著一場悲劇。“千里之堤,潰于蟻穴” 更是警示我們,事情的發展是一個由小到大的過程,當存在微小的安全隱患時,如果不給予足夠的重視和正確及時處理,就會留下無窮的后患。所以,我們在實際工作中要防微杜漸,從小事做起,及時處理好不安全因素,避免事故或災難的發生。想一想,生命如此美好,每個人只有一次,我們要是因為不遵守安全規則,不僅會失去自己可貴的生命,還會摧殘別人的生命。

安全生產是一項復雜的系統工程,需要全員動手,綜合治理,常抓不懈,只要安全在我們心中,沒有克服不了的困難。讓我們共同努力,心存安全,在每一個個工程竣工同時,同時也要建起一座座平安的豐碑。

安全連著你、我、他。安全就在我心中,在你心中,在大家的手中,我們要牢記心中。

時間:2010年5月3日—5月9日

安全員:趙龍飛(每個安全責任人都要樹立“只有滿分”的思想)

從公司開展“每周安全員”活動后,作為參與者我感到我們每一個電力施工人員自踏入電力行業的大門,就開始接受安全教育。“安全第一,預防為主,綜合治理”,我們牢記在心,我們是時時講、周周學,月月喊,安全工作規程翻破了一本又一本,安全學習記錄是厚厚一大疊,那為什么一出事故進行分析,結果就是“違章”。我想不會有人對安全工作規程、技術操作規程、企業紀律章程有任何懷疑,這些都是鮮血教訓的經驗凝結,每個人都對這些耳熟能詳,它是每一個從業人員的三件法寶,但為什么最終卻不能落實到行動上?究其原因就是抱著及格就行的思想,懷著僥幸心理,心里頭少了安全生產這根弦,有資料顯示,在責任事故中,90%以上的是責任人心存僥幸,安全措施未做到位而造成的。的確,在企業的安全生產實踐中正是一些人有了“及格就行”的思想,才導致了事故的發生,輕則設備受損,重則人身傷亡,如果每個安全責任人能夠樹立“只有滿分”的思想,100%嚴格按安規辦事;檢查到位,不漏過一個細節;措施到位,不漏過一個疑點,許許多多的事故都是可以避免的。

作為一個每周安全員活動的參與者,使我深深的體會到了“安全第一,預防為主,綜合治理”的方針政策是多么的重要。

今后我們要更好的學習安全知識,努力的去發掘隱患,阻擋違章,確保我們的工程圓滿結束。

時間:2010年5月3日—5月9日

安全員:趙軍(做一名安全員要端正心態)

作為一名安全員,應該用——顆赤誠的心,去維護勞動者的安全和健康;用安全的規章制度和周到的服務為人們營造一個良好的生產環境;以辛勤的工作,為企業的大船護航。應該做到:一,端正自己的思想作風。有“責任重于泰山”的責任意識,從嚴要求,敢抓敢管,大膽揭露矛盾,果斷解決問題;在嚴格執法的同時熱情服務,公正清廉,在安全管理以及檢查過程中始終要體現公平、公正、賞罰分明;要不斷創新,注重與時俱進,完善自我,增加安全管理的超前性。二,熟練掌握安全專業知識,才能預知危險、分析和控制危險,同時,還必須掌握和熟悉國家、地方、行業有關安全生產的一系列法律、法規和操作規程,以便在安全管理和監督工作中做到依法監督、按章指揮。三,要有系統的管理理論,提高安全管理業務水平,促進安全管理科學的發展。四,要有崇高的敬業精神,做到“三心兩意”,即工作上的“專心、細心、耐心”,思想上的“憂患意識、責任意識”,時刻緊繃安全之弦,發現隱患及時組織整改,把事故扼殺在萌芽狀態。

一名普通安全員的工作心得

1275

李雪松 原創 | 2009/9/19 18:38 | 投票

關鍵字:心得 工作

從事安全管理十年來,接觸了大大小小的事故,統計分析有90%以上是由于各類違章所致,雖然在安全生產管理中會出現各類問題,但遏制作業者習慣性違章是安全管理的關鍵中的重點。我作為一名普通的安全員是怎樣理解違章的產生,又應如何開展安全管理工作呢?在此談一點心得。

1.嫌麻煩,存有省事心理。嫌麻煩,圖省事,總想以較少的付出獲取最好的效果。但在安全生產方面卻常常引起不良后果。許多因違章造成的事故都是在嫌麻煩、圖省事、省力氣、少出汗、走捷徑等心理作用下發生的。殊不知按照安全操作規程作業,才是省力又省事還出效果的真正捷徑;因為安全規章制度都是前人用生命和血汗換來的,我們沒有必要再去驗證。

2.闖大運,存有僥幸心理。有些人在幾次違章后沒發生事故,就以為永遠也出不了事故。這是把偶然性和長期違章遲早要出事的必然性混淆了。

3.盲自信,存有表現心理。有些人技術差、經驗少,卻喜歡自我表現,以求改變不被人重視的處境。不懂裝懂,硬充好漢;有些人自以為技術好,有經驗,違章習以為常,滿不在乎。雖然預見到違章可能發生危險,但盲目自信,用冒險炫耀自己的技能,把蠻干當本事。有表現心理的人在工作中同時又想引起別人的注意,注意力分配不當,會因失誤而造成事故。

4.虛榮心,存有經驗心理。習慣性違章是經驗心理的一種表現。過分相信直接經驗的人,聽不進別人的勸告,不容易接受新的防護裝置或新的操作法。“這幾年都是這么做的,也沒出事啊”、“我師傅就是這么做的,也沒出事啊”這就是經驗心理在作祟。

5.跟隨型,存有從眾心理。

這是適應群體生活的一種心理反映,不和大家一致就感到有壓力。如進入作業現場應該戴安全帽,如果多數人不戴安全帽,少數戴安全帽的人可能受到奚落或嘲笑。為了避免精神上的孤立,于是“少數服從多數”。這種心理像傳染病一樣威脅安全生產。但如果在一個安全秩序好的單位,從眾心理又可以起到鞏固安全秩序的作用。

6.情緒人,存有逆反心理。在職工與領導關系緊張的時候,工人常常產生逆反心理:“你叫我這樣做,我偏那樣做”有逆反心理的人往往負氣大于理智,以至違章造成事故。

7.明知者,存有搶時心理。為趕任務、搶時間而違章蠻干。任務越急、時間越緊,越容易出錯,越注意安全,越需要專監護。但實際工作中常為趕時間搶任務而省略安全措施,免去必要的檢查,因人手緊而取消監護人員,以至因多人違章而造成重大事故,在檢修中發生的事故多與此有關。

在處理好對待習慣性違章的同時,應該樹立預防為主的科學觀。要控制事故的發生,控制人的不安全行為是關健。安全的本質含義應該包括預知、預測、分析危險和限制、控制、消除危險兩個方面。無數事實說明,對危險茫然無知、沒有預防和控制危險能力的“安全”是盲目、虛假的安全。僅憑人們自我感覺的“安全”是不可靠的,要采用現代的安全管理技術,變縱向單因素管理為橫向綜合管理;變事后處理為預先分析;變事故管理為隱患管理;變管理的對象為管理的動力;變靜態被動管理為動態主動管理;才能實現企業本質的安全。

首先認識到作業者是勞動保護的主體,同時也是生產事故傷害的主體,他們的安全素質和意識高低反映了企業安全生產水平的高低,所以就應該注重以下幾個方面的問題:

一要控制人的不安全行為。

從事故的致因理論告訴我們,人的不安全行為是導致事故發生的直接原因。因此,有效地控制人的不安全行為,是現有條件下控制或減少事故最直接、最有效的辦法。

二要拒絕違章作業和冒險作業。

有較強的自我保護意識的職工,能夠在自己權益受到不法侵害時,運用法律武器,采取正確的方式和途徑來維護自身的合法權益。

三要營造安全生產人人有責的氛圍。

落實勞動保護措施和實現安全生產目標,落腳點都在職工群眾。因此,職工在享有最完整權利的同時,也承擔著最重要的義務,履行了義務也就實現了權利。

四要切實貫徹實施依法治企。

在安全生產的問題上,人們往往說起來重要,做起來次要,甚至是不要,導致事故層出不窮,周而復始犯著同樣的錯誤。人死不能復生。我們不能親身經歷了一次事故,一場災難才能增強安全意識。只有樹立了正確的安全生產觀,才可能有合理、準確的安全生產組織和管理行為,最終實現安全生產的目標。

認真貫徹實施《安全生產法》,時刻抓好“五大保障”

一是制度保障。安全工作是一項非常嚴肅的游戲活動,必須嚴格遵守游戲規則——這就是有關安全生產的規定和法則。一是要建立健全完整的組織領導機構,有完善的、系統的管理考核辦法,明確安全生產的法律地位;二是要建立健全并及時修編安全生產規程制度和細則。使其更加具體、實用、明了,便于操作,便于考核,有力地指導現實工作,切實做到規范人的行為,規范物的狀態。

二是責任保障。單位的主要負責人是安全管理第一責任人,對安全工作全面負責,各個專業、各個層面,必須各負其責。從上到下,對各項安全生產責任逐級進行分解,分管領導、職能部門、所屬車間、車隊(調度區)、指導組(班組)分別承擔相應的責任,做到人人有責任,個個挑擔子,達到不留空白,不留死角,全方位堵住事故的發生。

三是素質保障。以人為本,提高職工技術業務素質,增強職工安全意識,現場作業環境復雜,點多、線長,人員分散型生產經營單位,無論是安全技術管理人員還是現場職工都必須具備相應的業務素質,首先是本身要具備一定的基礎,其次是加強崗位練兵,加強教育培訓,不斷提高技術水平,提高安全資質,做到不犯“糊里糊涂的違章錯誤”。

四是關口保障。當前全國各行業安全生產,基本上是層層把關。近年來所組織開展的“安全性評價”及其整改,就是關口前移,堵住事故的源頭,把住源頭關,從源頭上消除事故隱患。在生產現場,工作負責人、監護人,都是有明確職責的,只要大家嚴格遵章,各司其職,一定能夠把住關口,使生產活動安全順利地進行。

五是投入保障。投入保障,就是通過對安全生產的必要和有效投入來保障相應的設備設施滿足安全生產的條件。目前,整個社會對安全生產的投入不足,欠帳頗多的矛盾十分突出,主要表現在對設備的更新改造投入不足、不及時,對設備檢修維護的費用欠缺,那就是拼設備的耐受力,拼人員的意志和毅力。

當然,作為一名普通安全生產管理人員,對超期的設備,就要用加強巡查檢測的頻度、加大運行維護的力度,來確保其正常運行。

總之,抓安全,必須從上到下,堅持把工作抓嚴,抓細、抓實,把握方方面面,把握細枝細節,達到“縱向到底,橫向到邊”,我們的安全工作水平,就能得到全面提升,安全生產

安全員心得體會-安全在我心中

安全員心得體會-安全在我心中

作者:admin338 資料來源:網絡 點擊數:

熱 ★★★

更新時間:2006-8-10 8:20:45 文章

來源蓮山

課 件 w w w.5y K J.Co m 無危則安,無損則全。安全就是人們在生活和生產過程中,生命得到保證,身體免于傷害,財產免于損失。安全生產是企業管理的重點,是企業發展的根本保證,安全就是效益。我們肩負著國家的財產、職工的安全。血的教訓,時時刻刻印在我 心中。企業要搞好安全生產工作,就是要時刻把人民和職工的安危放在心上。“安全在我心中”就是要做到“人人事事保安全”。

人人事事保安全,關鍵要從我做起,從現在做起。作為一名安全員,就更應該用——顆赤誠的心,去維護勞動者的安全和健康;用安全的規章制度和周到的服務為人們營造一個良好的生產環境;以辛勤的工作,為企業的大船護航。應該做到:一,端正自己的思想作風。有“責任重于泰山”的責任意識,從嚴要求,敢抓敢管,大膽揭露矛盾,果斷解決問題;在嚴格執法的同時熱情服務,公正清廉,在安全管理以及檢查過程中始終要體現公平、公正、賞罰分明;要不斷創新,注重與時俱進,完善自我,增加安全管理的超前性。二,熟練掌握安全專業知識,才能預知危險、分析和控制危險,同時,還必須掌握和熟悉國家、地方、行業有關安全生產的一系列法律、法規和操作規程,以便在安全管理和監督工作中做到依法監督、按章指揮。三,要有系統的管理理論,提高安全管理業務水平,促進安全管理科學的發展。四,要有崇高的敬業精神,做到“三心兩意”,即工作上的“專心、細心、耐心”,思想上的“憂患意識、責任意識”,時刻緊繃安全之弦,發現隱患及時組織整改,把事故扼殺

在萌芽狀態。

人人事事保安全,還在于領導的重視和安全責任制的落實。為官一任,保一方平安。領導要把安全生產工作擺上議事日程,從人力、物力、財力等方面保證安全生產各項制度、措施的貫徹落實,支持安全監督,維護安全員的權威,控制和杜絕事故的發生。

人人事事保安全,重視安全宣傳、教育和培訓。只有把職工的安全意識提高了,安全技術能力提高了,才能在生產勞動過程中自覺遵守勞動紀律和安全操作規程。從“要我安全”轉向“我要安全”、“我應安全”、“我能安全”、“我懂安全”,這是安全意識的飛躍,這種飛躍只有通過經常的反復的安全再教育。

人人事事保安全,采用科學管理手段,通過危險源的辨識,根據后果的嚴重程度和發生事故的可能性來進行風險評價,確定重大危險源,再進行重大危險源的有效控制和管理。為了貫徹我國《安全生產法》和執行《建設工程安全生產管理條例》的有關規定,必須制定本單位安全生產事故應急預案,建立應急救援組織或者配備應急救援人員,配備必要的應急器材、設備、并定期組織演練。原創文章,盡在網絡絡.com網。

安全生產是一項復雜的系統工程,需要全員動手,綜合治理,常抓不懈,只要安全在我們心中,沒有克服不了的困難。讓我們共同努力,心存安全,在建起一幢幢高樓的同時,也建起一座座平安的豐碑。

安全,連著我和你,它在我心中,在你心中,在大家的心中。文章

第五篇:中日文化交流之茶道往來

中日文化交流之茶事往來

茶是當今世界三大飲料之一,而且三者之中茶居咖啡、可口之首。群球現有53個國家種植、加工茶,157多個國家和地區的人群有飲茶的習慣,茶在人際交往中發揮著重要的紐帶作用,以茶會友正成為當今社會的一種風尚。縱觀歷史,茶在中日兩國文化的交流過程中扮演著重要角色,作為藝術和文化的載體,茶的東傳對中日兩國意義深遠。

中國是最早用茶飲茶的國家,其淵源最早可以追溯到5000年前的農神時代。最初茶是被作為藥物來使用的,人們將其搗碎放入罐盆中烹煮以其為羹二食,這大概算的上是最早的茶食了。到了周代,出現了關于茶的最早記載,據傳為周公旦所撰《爾雅·釋木》有:“槚,苦茶”;又《周禮·地官·掌茶》載:“掌以時聚茶”;《中國風俗史》云:“周初至周之中葉,......有種種飲料,兒茶其最顯著者。”由此可見,茶在中國不僅作為藥品,祭品而且作為飲品,其歷史至少已有三千年了。此外茶葉還曾被用于貢品和食材,與此相關的事例在《華陽國志·巴志》和《晏子春秋》中均有所記述。

茶的真正盛行是在唐宋時期。因為皇親國戚視茶為養生妙藥,傳入民間百姓群起而效仿。為此茶成為中國人生活中的必需品。也正是因為商業繁榮和市場需求,茶葉的炮制技術得到了不斷的改進,形成了以“唐煮宋點”為時代特色的飲法。飲茶向高文化層次的發展,促使以茶為主題的詩詞歌賦等文學藝術作品大量出現,其中最為著名的就是茶圣陸羽撰寫的世界第一部茶葉專著—《茶經》。這部曠世奇作后來也被帶到了日本,禪宗大典法師對其進行注釋著述了《茶經詳說》一書。在民間,茶樓、茶肆也大量興起,各種茶宴、茶會不斷,斗茶成為當時最流行的評選活動。由于中國茶葉生產的不斷擴大,飲茶風尚普及,茶種、茶苗及飲茶習俗隨著貿易和佛教的傳播,帶到了世界各地,以茶代酒的文明之禮受到了包括日本在內的很多國家的歡迎,而中日兩國的茶事往來也正是以此為起點的。

日本茶源于中國,中國茶傳入日本大約是在1200年前的奈良時代,當時日本的茶主要是依靠遣唐使從單方面中國攜入,茶葉作為貢品,異常珍貴。《茶經詳說》記載了公元729年,圣武天皇召見僧侶并賜茶的事件。[2]公元770~780年(日本寶龜年間),西明寺禪僧永忠作為日本遣唐僧到中國,在唐朝逗留近30個春秋,63歲時返回日本,并帶回茶樹種子,種植在比睿山麓懂得坂本。平城天皇大同元年(806)六月,永忠上書朝廷,請求齋日必要飲茶,認為這樣才是大唐風俗。這是有史料記載的中日兩國除遣唐使以外的第一次茶事往來。[1]公元815年即弘仁六年四月二十二日,嵯峨天皇赴近江國滋賀行幸時,永忠在琵琶湖西畔的梵釋寺親手煮茶進獻。就因與中國茶的緣分,嵯峨天皇甚為憧憬中國文化。為此他很喜歡京都北部的嵯峨山,在山下造別墅并在此終老。

在中日茶事交流的過程中,很多具有推動性的進步都與佛教的往來息息相關。

[1][ 出自《日本后經》,轉譯,《日本后經》是日本最早記述飲茶的著作

2]出自《中日飲食文化比較研究·中日茶的履歷表》,作者賈慧萱

與永忠同期在唐的留學僧最澄、空海也是熱心推廣飲茶的人。嵯峨天皇曾與最澄會詩:“羽客講座親,山精供茶杯”。弘仁五年閏七月(公元814),空海在奉獻給嵯峨天皇的典籍中有“奉獻表”,其中寫道[1]“(我)觀練余暇,時學印度文。茶湯坐來,也讀中國書”。最澄、空海還互贈茶葉,可見飲食習俗在留學社鞥中國不僅流行,而且成為一種時尚。

由于永忠在日本在國內對茶的推廣只限于宮廷和士大夫階層,因而在民間沒能像大唐一樣傳播開來,加之日本到公元895年廢止了遣唐使制度,飲茶風俗在日本到9世紀末都少有記述,直到宋神宗熙寧五年(1072)五月十三日,日本大云寺僧成尋攜弟子七人赴天臺山國清寺交流學習,中日兩國才又恢復了茶事往來。成尋的出訪并不順利,九年后成尋客死中國開封開寶寺,然其弟子的回歸,無疑也將宋朝的飲茶風俗帶回了東瀛。

1168年~1191年,繼成尋之后,日本的榮西禪師兩度入宋求法,成為中日茶道交流史上貢獻最為杰出的人。第一次回國時榮西將茶種帶回日本,但由于日本民眾對茶的功效不甚知曉,只種了兩三株。為了鼓舞人們食茶種茶,第二次回國后,榮西編撰了《吃茶養生記》獻給鐮倉幕府,書的一開頭就寫道:“茶也,養生之仙藥也;延齡之妙術也。山谷之生,其地神靈也。人倫采之,七人長命也。天竺唐土同貴重之。我朝日本曾嗜愛矣,古今奇特仙藥也,不可不摘。”從內容 [1] 出自《答澄公奉獻詩》,此詩收錄于《文化秀麗集》

上看,榮西對茶的解讀不無夸大的成分,但同樣也表達了榮西對茶的喜愛和在日本傳播茶的熱情,由于榮西是最早將茶種從中國帶入日本的人,并且對茶道的理論思想作出了極大貢獻,后人遂將榮西稱為日本的茶神或茶師。[1]榮西之后,飲茶在日本逐漸興盛.起初在禪院中流行,后來日本的公家和武家都欣賞飲茶之趣,在日本興起了舉辦茶會之風。根據《吃茶往來》(約為日本南北朝晚期或室町初期的著作)所記,當時高級武士修建了講究的茶亭,在這里舉辦茶會。點茶獻客之后,要玩一種類似于中國那種比茶味、比茶品的斗荼賭賽游戲叫“四種十服榮”。但當時日本茶的種類沒有中國那么多,他們主要是猜測其中哪些是“本茶”(指拇尾茶)、哪些是“非茶“(其他茶),以定勝負。之后,“退茶具,調美肴,勸酒飛杯。先三遲而論戶,引十分而勵飲。醉顏如霜葉之紅,狂妝似風樹之動。式歌式舞,增一座之興;又弦又管,驚四方之聽”(《吃茶往來》)。但這種豪華的茶會被認為是“無禮講”、“破禮講”、是一種敗壞風氣的行為。所以到了室町幕府的八代將軍足利義政(1449—1473年)時,遂命能阿彌(1397—1471年)創立起在書院建筑里進行的“書院茶”,這是一種氣氛嚴肅的貴族茶儀。之后又命村田珠光(1423—1502年)為主持茶會的上座茶人。珠光在繼承榮西茶道思想的基礎上把寺院茶禮、民間的“茶寄合”和貴族書院的臺子茶相結合,并注入禪的精神,排除一切豪華陳設,形成了樸素的草庵茶風。日文中的“茶道”一詞,就是由他開始使用的,在此之前只稱 [1]與下文[2]同出自孫機,《中國茶文化與日本茶道》,此文為作者1994年12月16日在香港茶具文物館的演講稿,有修訂 為“茶湯”而已。

武野邵鷗和千利休等人對日本茶道道義的形成和發展也做出了很大貢獻。禪宗對茶道的影響很大,村田珠光、武野邵鷗、都信奉禪宗,可以說他們都是永忠、成尋、榮西一脈的傳人。其中武野邵鷗參禪,借用禪制定了茶道的“法度”,成為后來茶人的榜樣。[2]千利休將草庵茶進一步庶民化,使之更加普及。他把珠光提出的茶道之四諦“謹敬清寂”改為“和敬清寂”,即將帶有嚴肅意味的“謹”改為沖淡平夷的“和”。但他又強調“敬”,敬體現在茶道的禮法上,這是日本封建等級制度下的人際關系的反映。這種敬意后來逐漸被總結為[2]“四規”“七則”的茶道規范

茶道因為茶會的做法,沏茶技藝以及傳承的茶事有所不同,形成不同流派,在日本多達三千流,各派各有自己的宗師“家元”。日本的[1]“家元”制度,均由長子繼承父業,沿襲父姓,有點類似于中國的嫡長子繼承制。具有代表性的流派如以千利秋為鼻祖的“千家流”,千家流的后繼人又細分為表千家、里千家和武者小路千家。三家的家元又分別以不審庵、今日庵和官休庵為三大本營,各自開展茶道活動。其中今日庵里千家流雨中國交流較多,幾乎每年都派團訪華并并表演

[1] 家元:指那些在傳統技藝領域里傳承正統技藝、管理一個流派事務、發放有關該流派技藝許可證的家庭或家族。以這樣的家庭或家族為核心形成的組織即家元組織。家元組織主要存在于以下三個領域:

1、武家社會,如劍道、柔道等。

2、宗教界。

3、傳統的文化技藝領域,如花道、茶道、歌舞伎、和歌、圍棋等。

四規指“和、敬、清、寂”,乃茶道之精髓。“和、敬”是指主人與客人之間應具備的精神、態度和辭儀。“清、寂”則是要求茶室和飲茶庭園應保持清靜典雅的環境和氣氛。七則指的是:提前備好茶,提前放好炭,茶室應冬暖夏涼,室內插花保持自然美,遵守時間,備好雨具,時刻把客人放在心上等。[2]茶道藝術,北京也有里千家流派的同友會。受日本茶道啟發,中國大力推廣茶道文化,作為中國茶道的兩大代表江西婺源和徽州茶系每年都會在海內外進行定期的茶道表演

如今,茶樓茶肆在中日兩國已相當普遍。在中國北京、上海等大城市,已出現品味高雅的高檔茶肆。而在日本,茶肆的分布則更為廣泛,相關數據顯示,平均每500個日本居民中間就會有一家茶肆,如果不考慮婦女小孩,這個數字還可以縮小到200人。茶樓茶肆作為人們休閑、小憩甚至是商旅活動的場所已成為社會生活中不可缺少的一部分。除此之外,受佛教思想影響,日本還根據自己的飲食習慣發明了茶食,其中最著名的就是懷石料理(又稱大名料理),這也是日本在世界茶文化交流中的又一大創新。

后記:

文章在寫作過程中參考了賈慧萱老師的《中日飲食文化比較研究·中日茶的履歷表》和孫機老師1994年12月16日在香港茶具文物館的演講稿。其中內容多有參考,二位老師的文章內容豐富,其中多有引用,拜讀多遍之后,深感所學之貧乏以及做學問之艱辛。中日兩國一衣帶水,其中茶事往來頗多,所記之處旦有欠缺還請老師多加評點。原題在寫作時曾設為中日文化交流之茶道往來,然翻閱書籍,難尋中國茶道遺存,賈慧萱老師曾在著作中也曾提及婺源茶道和徽州茶道,二者雖然也繼承了地方文化的一部分,但現在都以表演為主,從形式上遠不如唐宋斗茶來的好看,有名無實,難入道、技之流。與之相比,日本茶道在不斷吸收唐宋茶文化的基礎上亦在不斷發展,通過家元制度,日本的茶藝、茶技和茶禮都得到很好地傳承。禪茶合一、和靜清寂的思想逐漸成為日本民族性格的一大特點。從“四規”、“七則”上我們可以看到日本人對茶道的那份敬意和認真,反觀中國茶道,缺少的不就是那份認真的態度和精神么。除了有感于中日茶道的現狀外,類似于“家元制度”和“日本的佛教文化”等內容也引起了我的極大興趣,日本的茶道能夠形成發展至今,上述兩點因素對其影響頗深。萬法歸一,我相信這種影響不僅體現在中日茶道文化的交流中,在中日文化交流的其他各個方面,“家元制度”和“日本的佛教文化”都是值得研究的內容。

下載對中日文化交流的切身感受word格式文檔
下載對中日文化交流的切身感受.doc
將本文檔下載到自己電腦,方便修改和收藏,請勿使用迅雷等下載。
點此處下載文檔

文檔為doc格式


聲明:本文內容由互聯網用戶自發貢獻自行上傳,本網站不擁有所有權,未作人工編輯處理,也不承擔相關法律責任。如果您發現有涉嫌版權的內容,歡迎發送郵件至:645879355@qq.com 進行舉報,并提供相關證據,工作人員會在5個工作日內聯系你,一經查實,本站將立刻刪除涉嫌侵權內容。

相關范文推薦

    面試考官的切身感受

    面試考官的切身感受【打印版】—面試題型高分經驗、要點解析當了幾天的面試官,今天終于結束了,一點最感慨的是,現在很多培訓學校,真是光想著賺錢,誤導考生。這樣下去,考生怎么能夠......

    關于信息工作的一些切身感受

    單位集體學習講話稿 關于信息工作的一些切身感受 各位領導,同事下午好: 按照辦公室安排,這周由我來主持這周的學習。自己參加工作時間有限,從事的大多是與信息有關的工作,所以今......

    新馬泰游之切身感受

    新 馬 泰 游 之 切 身 感 受 首先向公司領導為我提供這次出國旅游觀光的機會表示感謝! 經過12天的新馬泰繽紛之旅讓我領略了三個國家不同的人文風光,開拓了視野,同時也增長了見......

    做好黨委秘書工作的幾點切身感受

    做好黨委秘書工作的幾點切身感受 我曾在黨委秘書崗位上工作了8年時間,這期間,不僅得到很大鍛煉,豐富了經歷,而且學到了很多東西,提高了綜合素質。現將自己這方面的切身感受和體會......

    關于建筑物傾斜監測的切身感受

    關于建筑物傾斜監測的切身感受 在進行基坑周邊環境監測時,本人感覺建筑物傾斜變形是一項非常關鍵的指標,在這與大家探討一下。1、對于基坑周邊建筑物規范要求的監測項目主要為......

    節約用水之——切身感受體會深

    切身感受體會深 在學習《節約用水》之前,我向同學們宣布今天學校要停水一天,而且飲用水也不能及時送到。這時我觀察他們的表情,很多同學都擺著一副事不關己高高掛起的模樣。一......

    學習十八大,切身感受(5篇范例)

    學習十八大,切身感受 黨的十八大舉國關注,舉世矚目,是我國全面建設小康社會關鍵時期和深化改革開放、加快轉變經濟發展方式攻堅時期召開的一次十分重要的大會。這是一次勝利的......

    切身感受注會職業技能培訓的魅力

    切身感受注會職業技能培訓的魅力 本人有幸參加了學校和北京注協培訓網聯手打造的注會職業技能培訓,這里就簡單地談談自己的切身心得體會。 北京注協花了很多心血給我們安排了......

主站蜘蛛池模板: 亚洲人成无码网www动漫| 久久只精品99品免费久23| 一区二区三区内射美女毛片| av人摸人人人澡人人超碰| 人人妻人人狠人人爽天天综合网| 四虎国产精品永久地址99| 香蕉久久一区二区不卡无毒影院| 奇米影视7777狠狠狠狠色| 亚洲色成人中文字幕网站| www插插插无码免费视频网站| 欧美xxxx黑人又粗又长精品| 亚洲成a人片在线观看无码| 成人精品动漫一区二区| 亚洲色偷偷av男人的天堂| 精品无码国产一区二区三区麻豆| 无码乱肉视频免费大全合集| 熟睡人妻被讨厌的公侵犯深田咏美| 免费观看黄网站| 在线观看亚洲精品国产福利片| 欧美日韩人妻精品一区二区三区| 亚洲香蕉视频天天爽| 国内少妇高清露脸精品视频| 亚洲高清无码视频| 国产日产欧产精品精品免费| 92国产精品午夜免费福利视频| 久久综合香蕉国产蜜臀av| 亚洲中文 字幕 国产 综合| 人妻无码中文字幕永久在线| 久久国产自偷自偷免费一区调| 国产无遮挡又黄又爽高潮| 国产亚洲人成无码网在线观看| 日本二区三区欧美亚洲国| 亚洲一卡二卡三卡四卡无卡麻豆| 亚洲高清国产av拍精品青青草原| 女人被狂c躁到高潮视频| 欧美黑人疯狂性受xxxxx喷水| 欧美亚洲精品一区二区| 直接观看黄网站免费视频| 在线日本国产成人免费不卡| 日本少妇春药特殊按摩3| 国产欧美丝袜在线二区|