第一篇:日語教學中的漢日反義詞
日語教學中的漢日反義詞
1.日語教學與漢日反義詞對比研究
我們在日語教學中,經常發現學生對中日兩國的詞匯出現混淆不清的窘境,特別是日語中存在很多與漢語形似的漢語詞匯,給學生學習帶來一定的困難,而這些問題我們可以用詞匯學的相關研究幫助學生理清頭緒找到突破口。而本文選取的研究對象則是漢日反義詞。
無論是漢語中還是日語中都存在著大量的反義詞,這些反義詞反映出人們對事物認識的關聯性,在日常的語言表達中起到了極大的作用,在詞匯學研究中也占據了非常重要的地位。研究漢日反義詞,可以幫助學生有條理的區別記憶,并且在受到母語良性影響下更好地聯想記憶日語詞匯,促進日語學習。但目前相關研究并不算很多。本文旨在對兩國反義詞進行對比,其中重點選擇了二字詞[1],更具有對比性。研究主要從反義詞的詞性以及構詞的角度進行。首先,需要對反義詞的概念進行梳理。
2.漢日反義詞的概念
對應漢語中的反義詞,日語中有「対義語」「対語」「反対語」「反義語」「対照語」「対極語」「関連語」等多種說法。其中,詞匯學的專業研究中多采用「対義語」或「反対語」[2]。首先我們來看辭典里對反義詞的定義:
漢語(《現代漢語知識辭典》):
(反義詞)指稱對象不同,但有相同的上位詞,詞的理性意義相反或相對的兩個詞即互為反義詞。
日本語(『大辭林 第二版』により):
(対義語)同一の言語のなかで、その持つ意味が反対の関係にある語。反義語。反意語。反対語。対語。アントニム。
(反対語)互いに反対の意味を表す語。→対義語
綜上所述,日語中的「対義語」和「反対語」幾乎意義相同,但嚴格說來,「対義語」可以泛指意義上對立的詞群,而「反対語」主要特指某一意義上相對立的一對詞[3](下圖)。即是說,對應漢語的反義詞的翻譯,「反対語」可能更為準確。本文為了研究上的統一性也采用「反対語」的說法。
例:
対義語
反対語
3.關于本文的研究對象
日語的漢語詞匯中存在大量的反義詞,而這些反義詞與漢語中的反義詞有最大的共通性。本文以日語中的二字音讀漢語詞以及漢語中的二字詞為中心(統稱二字詞)[4],主要從詞性以及構詞的角度來進行比較研究。
4.從詞性看
構成漢日反義詞的單詞原則上彼此詞性相同。例如,漢語中的聰明和傻子可以在詞義上構成對立關系,但因為前者是形容詞后者是名詞,所以不能構成一對反義詞。在日語中也有相同的原則。例如:「聡明」和「愚人」,前者是形容動詞而后者是名詞,也不能構成反義詞。
4.1漢語
在漢語中,二字詞主要是形容詞、名詞、動詞、副詞和代詞,因此我們從詞性的角度把反義詞分為五類[5]。
1)形容詞形容詞
偉大渺小 美麗丑陋 可喜可悲 樸實華麗 甜美苦澀
2)名詞名詞
天堂地獄 上午下午 干線支線 感性理性 君子小人
3)動詞動詞
污染凈化 坦白抗拒 化妝卸妝 開幕閉幕 膨脹收縮
4)副詞副詞
暫時永久 逐漸突然 經常偶爾 曾經未嘗 最多最少[6]
5)代詞代詞
這里那里 大家個人 自己別人 這么那么 這樣那樣
4.2日語
同漢語一樣,日語中構成反義詞的詞組基本上也以同一詞性為原則。但是,由于某些原因反義詞組中的一方缺失,也有出現以其他詞性的詞語填補的情況。這樣的反義詞詞性各異的現象,從單詞表示的詞義與詞性的關系上來看,是一個有趣的現象。日語中的二字詞構成的反義詞組,可以分為左右對稱型和左右不對稱型。另外,日語中的漢語詞匯主要出現在名詞、形容動詞以及動詞(サ變動詞詞干)當中,下面根據詞性進行分類。
4.2.1詞性相同的反義詞
詞性相同的反義詞數量最多,從詞性的角度進行分類,大致分為以下三類。
1)名詞名詞
奇數偶數 生物無生物 與黨野黨 南極北極 暗黒光明
2)形容動詞形容動詞
異常正常 適當不適當 単純複雑 非凡平凡 怠惰勤勉
3)動詞動詞
解散集合 増加減少 発車停車 輸入輸出 解雇雇用
4.2.2詞性不同的反義詞
構成反義詞組的兩個詞詞性不同的情況只占少數,從詞性的角度進行分類,可以分為以下三類。但是,有部分二字詞同時兼有多種詞性,例如:「退場」既可以作為名詞也可以作為動詞(詞干)來看,但是作為連體修飾語的時候,卻不能用「退場の(人)」的形式,只能使用「退場した(人)」。本文中把「退場」以及類似的詞匯作為動詞分析。
1)動詞名詞
満足した(様子)不平(の様子)開通(した道路)不通(の道路)
2)名詞形容動詞
病気(の人)健康(な人)普通(の酒)特別(な酒)
不貞(の妻)貞淑(な妻)
3)動詞形容動詞
謙遜(した態度)不遜(な態度)完備(した施設)不備(な施設)
5.要素的意義及構詞的關系
從漢日反義詞的定義來看,形成反義詞的兩個詞擁有大部分共通的意義特征,而在某個意義特征上構成對立關系,這是反義詞的第一條件。那么在單詞的形式上又如何呢?狹義的形式,也就是我們這里說的構詞,從中日兩國基礎詞匯看來,構成反義詞的單詞在構詞上沒有共同部分的情況也不在少數。但是,人們往往傾向于賦予意義對立的單詞共通的要素,然后把這些要素加以組合產生詞匯,也就是在所謂的造詞過程中,使意義上的對立反應到構詞上,使這些詞匯漸漸構成一個體系。
第二篇:日語中的一些反義詞
反対ことば(反義詞)
すく
おお
あか
くら
少ない(少的)?多い(多的)
明るい(明亮的、快活)?暗い(暗的、陰郁)
たか
ひく
おも
かる
高い(高的)?低い(低的)
重い(重的)?軽い(輕的)
あつ
さむ
あたた
すず
暑い(<天氣>熱的)?寒い(冷的)暖かい(<天氣>暖的)?涼しい(涼快的)
おお
ちい
やわ
かた
大きい(大的)?小さい(小的)柔らかい(軟的)?硬い(硬的)
あたら
ふる
新しい(新的)?古い(舊的)おもしらい(有趣的)?つまらない(無聊的)
わる
つよ
よわ
いい(好的)?悪い(壞的)
強い(強的)?弱い(弱的)
しず
べんり ふべん
靜か(安靜的)?にぎやか(熱鬧的)便利(方便)?不便(不方便)
お
ね
はい
で
起きる(起床)?寢る(睡覺)
入る(進)?出る(出)
く
い
こ
おとな 來る(來)?行く(去)子とも(小孩)?大人
うえ した
まえ うし
みぎ ひだり
上?下
前?後ろ
右?左
第三篇:日語學習中的那些多音漢字詞
日語學習中的那些多音漢字詞
這篇文章小編給大家介紹日語學習中的那些多音漢字詞,順便推薦一款日語入門APP——日語入門學堂,在日語學習中會遇到一些單詞,它們發不同音的時候意思也會發生變化,比如「市場」了,這個詞讀作「いちば」時,是指集市等交易場所,要表示泛指的市場概念時,就只能讀作「しじょう」,希望本篇資訊對日語初學入門的同學有所幫助。
日語里有一些單詞,發不同音的時候意思也會發生變化。我們最熟悉的應該就是「市場」了。這個詞讀作「いちば」時,是指集市、農貿市場、菜市場這種實際的交易場所,當要表示泛指的市場概念時,就只能讀作「しじょう」。其實除了我們都很熟悉的這個詞之外,還有兩個很常見的單詞也存在異音則異義的現象。
首先是常見的接尾詞「時」,讀作「じ」時,除了接在數字后表示時間上的幾點之外,還可接在一般名詞后,表示“……的時候”。常見的包括「空腹時」「非常時」「大雨時」等等。而當它讀作「どき」時,表示的就不再是“……的時候”,而是“正值~的時節”“應該~的時間”,常見的包括「花見時」「梅雨時」。兩種發音表達的概念不一樣,因此我們在遇到一些能夠同時接「じ」和「どき」的單詞時,需要明確區分它們表達的真正意義。比如「晝食時」這個表達,讀作「ちゅうしょくじ」時就是“正在吃午餐的時候”,讀作「ちゅうしょくどき」時則是一般意義上的“午餐時間”。
另一個單詞是「食堂」,我們都學過「しょくどう」這個發音,可以表示“食堂,家里的餐廳,飯館”等意思,它其實還有另一個讀音「じきどう」。當它讀作「じきどう」時,就失去了原本豐富的含義,只能指代寺院里僧人們吃飯的場所了。
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第四篇:永漢日語高級第六課
實況中文講解2
(總講解時間長度約25分鐘, 分為以上兩段講解.)
課文內之文型解說,置于中文翻譯頁框,可拉大閱讀
高級第六課/ 中文翻譯
怪新郎新娘 陰陽兩氣的(不)喜宴
一般的喜宴是大概兩個半小時就結束了。紺野先生(年滿三十歲)在一家飯店負責宴會,這家飯店的特色是為了提供精致的服務,一天只辦兩組的喜宴,所以辦喜宴之前非常細心地開服務生的說明會。
有個天氣好的黃道吉日,紺野先生上班的飯店舉行喜宴的說明會,宴會單位的主任國谷先生用一種沉重的口氣來說明一些注意事項。他說「今天的新郎新娘容易陷入陰郁的氣分,你們特別留意這一點,盡量制造快樂的氣分,千萬不要破壞本飯店的形象,不要讓客人留下壞印象。」紺野先生問他「主任,為什么是陰郁的氣分?」國谷主任降低聲音來回答「新郎新娘的父母說新郎新娘今天的婚禮結束后馬上要離婚。」在場的人都嚇得快昏倒,最近常聽到「成田離婚(成田是機場所在地,是新婚旅游的出發點,有些新婚夫妻感情不合去蜜月時一到機場就鬧離婚)」未曾聽過「結婚宴會結束就離婚」。
不過稍微可以體諒他們到這個地步還敢舉行婚禮的原因,因為接近婚禮的日期要取消的話,會被扣龐大的違約罰款,前一天取消退一半,當天取消沒有退費全部被沒收,當然不能拿紅包,即使有這種原因,但還是要捧場這么無意義的婚禮,紺野先生在心中皺眉頭而嘆氣。喜宴雖然順利地進行,但是新郎新娘格外地沈著而且他們兩個一對著視線就若無其事地轉移視線,非常冷淡,不久客人也大概發覺到他們兩個有問題,通常講很久的致詞也很快地講完。所以如果服務人員不去搶救這個場合,會越來越鴉雀無聲。紺野先生以及每個服務人員帶滿臉笑容到處跟客人斟酒,雖然他們竭盡全力地服務,但金色屏風前面的新郎新娘仍然欠缺表情。紺野先生他們外表滿頭大汗內心卻充滿憤怒(跟你們陌生的我們也這么努力地撐下這種宴會,主角的你們起碼笑一個吧!)。
據說這種情況并不稀奇,如果你參加喜宴時,服務生的舉動過于明顯的話,搞不好紅包也白送喔!
第五篇:日語中級口譯筆試 日譯中
桜の季節
毎年3月になると、春風が吹き始め、人々の間では必ず「今年は桜がいつ満開になるかなぁ」という話題が出てきます。3月下旬に入ると、毎日テレビなどの「桜前線」の報道を聞き、人々は首を長くして、真冬の後に一番早く咲いてくれる花の満開を待ちます。
桜は日本の國花であることはよく知られています。多くの人が私と同じように日本に來てから、自分の目で満開の桜を見てはじめて、桜とは花が咲いた後芽が出る植物であることを知り、日本人がこんなにも桜に熱狂するのだということを知ります。
桜満開のとき、日本列島はピンク色に染められています。桜の柄や色など衣食住の至るところで見られます。特に花見の名所などは、他よりもっと早く桜色に染められています。
幼いころ、親に連れられて花見に行くとき、桃や梨の花など花林の中を散歩しながら、花見をしていました。しかし、日本ではみんな桜の下に座って、弁當を食べたり、お酒を飲んだり、話をしたりして、ときには歌ったり、踴ったりもしています。特に不思議なのは普段まじめな中高年の男たちが桜の下で子供のように有頂天になって踴ったり歌ったりすることです。帰國の時、「なぜ日本人は桜の下でしかリラックスできないのですか。」と何回か友達に聞かれたことがあります。私もこのような質問をまわりの日本人の友達に聞きました。みんなからはほぼ同じような回答をもらいました。「やさしい桜は一輪が目立たないのですが、一面になると本當に感動を與えてくれます。桜は日本という國だけでなく、日本人の心も表しています。桜の下に座ってはじめて安心感を覚え、本當の自分が見つかり、一年間溜まったストレスが解消できます。」
日本で何回か花見をしたあと、友達の言っている日本人の桜に対する戀しさの解釈が少しずつわかってきました。自分もそれに共鳴を覚え、桜に対して戀しい感情が芽生え始めました。
櫻花時節
每逢三月,當春風剛剛吹動時,人們便開始了每年此時必談的話題:“今年的櫻花哪天會全開呀?!”進入三月底,在媒體每天的「櫻花前線」的報道中,人們更是好象坐立不安似的等待盼望著嚴冬后春天第一花的到來。
許多人都知道櫻花是日本的國花。我知道有許多人和我一樣,來到日本親眼看到櫻花盛開的情景,才知道櫻花是屬于那種先開花后長葉的樹種,才了解到日本人對于櫻花如此執著地懷戀。
在櫻花時節里,整個日本仿佛是都被染上了粉紅色一般,無論是衣、食、住,到處都可以看到櫻花的圖案、櫻花的顏色等。尤其是在賞櫻的“寶地”之處,更是比其它地區更早地染上了櫻花的顏色。
記得小的時候,在春天被父母帶去賞花時,在開滿了桃花、梨花的花林中,邊散步邊賞花。而日本則是大家坐在櫻花樹下,邊吃「弁當」,邊喝著酒,高談闊論,有時還會又唱又跳。尤其是平日那般嚴肅認真的中、高年日本男人們在櫻花樹下,仿佛是頑童般地手舞足蹈、引亢高歌??。回國時,多次被朋友問起:“為什么只有在櫻花樹下,日本人才會放松自己、打開自我?”我也曾將此等問請教于我周圍的日本朋友們,大家幾乎是同樣地回答我:“溫柔的櫻花,一朵看上去并不起眼,但一群看上去會令人激動。櫻花代表日本,更代表著日本人的心,只有坐在櫻花的樹下人們才能感受到心安、找回自我,才會將壓抑了一年的情緒釋放出來。”
經過在日本的幾次賞櫻后,我慢慢地理解了朋友們所講的日本人懷戀櫻花的解釋。而且自己也被感染,漸漸地蒙發了對櫻花的懷戀之情。
日漢対訳読物 02 新米
新米
日本のお米は世界で一番おいしいお米かもしれない。また秋の新米は、さらにみずみずしくいっそう美味しいものだ。毎年新米が出回るころ、料理店や米屋はみな、黃金の稲穂を描いた紙に大きな字で「新米入荷!」と書いた広告を貼り出す。
最近、白血病を患っている前千葉大學の留學生、劉學東が私に新米にまつわる話を聞かせてくれた。電話の向こうで、彼がぽたぽたと涙をこぼしているのが聞こえた。
劉學東は言った。彼には篠崎栄行さんという50すぎの日本人の闘病仲間がいた。彼も同じ白血病で、一緒に入院していたとき、彼は劉學東にいつも飲み物を買ってくれるなど、とてもよくしてくれた。劉學東が遠慮すると、彼は劉學東にこういった。「あなたは學生で大変でしょう、私は保険に入っていて入院すると毎日2萬円くらい出るんです。」篠崎さんの実家は米の名産地である千葉の東金で、毎年新米が出ると、彼はいつも劉學東に10kg送ってくれて、日本人と同じように新米の芳醇な香りと豊作の喜びを分かち合わせてくれた。彼らはこの病気になると先はそう長くはないことを知っていたが、お互いの友情によって楽しく生きているのだと話していた。
篠崎さんは去年6月退院したが、今年の1月病狀が悪化し再び入院した。このとき彼はすでに危篤狀態で、薬ももう効かなくなっていた。7月20日、劉學東は妻の陸新紅を連れて彼の見舞いにいった。自分がもうそう長くないと知っている篠崎さんは陸新紅も不治の病を患っているらしいと聞いて、陸新紅に言った。「あなたはきっと元気に生きられますよ、天國に行ったら私が神様によくお願いしておきますから。」
8月2日、劉學東が再び篠崎さんを見舞ったとき、彼はもうとても弱っていて、身の回りの世話をしてくれている姉にむかって、「わたしはもう長くはないが、姉さん、忘れないでくれよ、新米が出たら必ず劉さんに送ってくれよ。」と言った。
8月19日、篠崎さんは靜かにこの世を去った。臨終の際、彼がとても弱弱しい聲で劉學東にいった最後の言葉は、中國語の「謝謝」だった。
9月12日劉學東と陸新紅は、篠崎さんのお姉さんから送られてきた新米と一通の手紙を受け取った。手紙には「弟が入院中は大変お世話になりました。ほんの気持ちばかりですが新米をおおくりします。」とあった。
中秋の満月が水のような輝きを放っているなかで、またみずみずしい香りを振り撒いている新米のなかで、二人ははらはらと涙を流した。篠崎さんは靜かに逝ってしまったが、彼がもっとも殘念だったのは二人に自らの手で今年の新米を贈れなかったことだろう。しかしながら彼の、その新米よりもつややかな友情、その無情な死をもってしても斷ち切れない友情は、永遠に絶えることなく劉學東と陸新紅の心の中に殘るだろう、この友情があるかぎり、生も孤獨ではなく、死も孤獨ではないのだ...。
劉學東は電話の向こうで涙に咽びながらこういった。「どうか、私の代わりに文章を書いて、私に代わってありがとうをいってください。」
私はこの美しい聲をどんなにかあなたに伝えたいことか。私たちは出會ったこともない異國人だが、きっとあなたには聞こえるはずだ、見えるはずだ、篠崎栄行さん...。
新米
日本的大米也許是世界上最好吃的米了。而每年秋天的新米,吃起來更是滿口清香。每到新米下來,飯店和賣米的商店都會貼出畫著金黃稻穗的廣告,上面用大字寫著:“新米到了!”
最近,身患白血病的前千葉大學留學生劉學東給我講了一個有關新米的故事。在電話機里,我聽到了他的淚水在簌簌地墜落。
劉學東說他有一個五十多歲的日本病友叫筱崎榮行。和他一樣患的也是白血病,一起住院時,他對劉學東非常照顧,總為劉學東買一些飲料什么的。在劉學東過意不去的時候,他就對劉學東說;“你是學生,很苦的,我有保險,住院每天還可以得到兩萬多元。”筱崎的家鄉是大米的著名產地千葉的東金,每當新米下來,他都要送給劉學東十公斤,讓他和日本人一起分享醇厚的清香和豐收的喜悅。他們都知道得了這種病來日不很長,但他們都說,由于彼此間的友誼,他們活得很開心。
筱崎去年六月出院了,但是今年一月病情惡化,他又住進了醫院,這時他的病情已進入了危篤期,藥物已經不起作用了。七月二十日,劉學東攜夫人陸新紅去看望他,知道自己將不久于人世的筱崎當聽說陸新紅也身患絕癥時,對陸新紅說:“你一定要好好地活下去,到了天堂我會拜托上帝照顧你的。”
八月二日,當劉學東再去看筱崎時,他已經很虛弱了,他對守在自己身邊的姐姐說:“不久我就要去了,可姐姐你可不能忘記呀,新米下來要給劉先生送新米喲。”
八月十九日,筱崎靜靜地離開了人世。在彌留之際,他用極微弱的聲音對劉學東所說的最后的一句話,是用中國話說了聲“謝謝”。
九月十二日,劉學東和陸新紅接到了筱崎的姐姐寄來的新米和一封短信,信中說:“弟弟住院時,多虧你們照顧他了,送上一點新米,小小的一點兒心意······”
在中秋圓月如水的清輝中,在新米散發著的清香中,劉學東和陸新紅簌簌地留下了淚水。筱崎靜靜地去了,令他更遺憾的也許是不能親手把新米送到兩人的手里。然而他那比新米更清醇的友情、那令無情的死也無法割斷的友情,永遠綿綿不斷地留在了劉學東和陸新紅的心中,讓人感到只要有了這種友情,那么,生也不孤獨,死也不孤獨······
劉學東在電話里哽咽著對我說:“請你在文章里替我說一聲:謝謝,謝謝······”
我多想把這美好的聲音傳達給你,盡管我們是從未謀面的異國人,但我知道,你聽得懂,也聽得見啊,筱崎榮幸先生······
日漢対訳読物 03 蟬の聲
私は子供の頃から中國の東北で育ったので蟬の聲を聞いたことはなかった。のちに北京に出て働き、郊外の農家の敷地(庭)に住んでいた。
夏が來ると柿の木の濃い木蔭が庭をすべて覆う。こまかく砕いた金粉を篩にかけたような陽光の下、誰か一聲命令したのか、紅い屋根と緑の木々のあいだで無數の透明な蟬の羽が突然陽気に動き出す。琴瑟(キンシツ)のような蟬の聲が光と影のなかに流れ込み、まるで陽光の透明な手が萬物の合奏を演奏しているようだ??。雨の後の蟬の聲はさらに美しくて捨ておけない。
杜甫の詩に曰く:晨鐘雲外濕(朝の鐘聲が雲の外側に濕っぽく響いている)。
雨の後の蟬の聲も、緑の潤いをゆっくりと散る白雲のあいだに揉み込んで酷暑の中に一片の清涼をもたらし、白居易の『井底引銀瓶』(井底銀瓶を引く)のなかのすがすがしい詩句を思い起こさせる。
嬋娟両鬢秋蟬翼、宛轉雙蛾遠山色(美しい両鬢はセミのはねのようで、きれいな両の眉は遠山の色のようだ)。
その頃、私には解らなかった、どうして中國詩人のおおくが蟬の聲を悲しく痛切に描くのか。たとえば洛賓王の『獄中詠蟬』(獄中に蟬を詠ず)のように、西陸蟬聲唱、南冠客思沈 不堪玄鬢影 來対白頭吟
太陽が西陸を行くといわれる秋が來て蟬が唄い始めると、異國で捕われの身となっている私の心に旅の憂いが侵み込んで來る。高潔だといわれる黒い美しい翅を持った蟬がやって來て、自分の潔白を訴えて歌う私の白頭吟の歌を聞いてくれるのを見ると、とてもたまらない気持ちだ。
李商隠の『韓弘舎人即事』では 鳥応悲蜀帝、蟬是怨斉王(鳥は蜀帝を悲しんでいると思い、蟬は斉王を怨んでいるだろう)
李商隠の詩は韓弘と柳氏との悲歓離合の故事を詠っている。ついでに「斉后化蟬」の典故を引用する。晉の崔豹の『問答釈意』のなかに書かれていることによると: 牛享問うて曰く「蟬の名、斉女なる者は何ぞや?」
答えて曰く「斉王后怒して死す。屍変りて蟬と為り、庭樹に登り、彗涙して鳴く。王悔恨す。故に世名して曰く斉女なり」
まさに蟬の聲を、恨みを抱いて死んだ女の哀しい聲にたとえているのだから、その蟬の聲も悲しいものだと見なすことができる。
東京にきてからは経緯度の違いか何かはわからないが蟬の聲を聞くのは非常に少ない。しかし蟬がいないわけではない。
一度、私の運命をお祈りしに行ったか、あるいはただ何かのついでだったかはわからないが、ある日の夕方明治神宮に行った(いやきっと観光ではない、日本に來てからずっとそんな暇はなかったのだから)。お參りをしたあとだったか、私は長い林の道を歩いていた。突然、露にしみこまれたようなかすれた蟬の聲が幾層にもなった厚い葉の中から重々しく漏れ出て來た。そして風に吹かれてとぎれとぎれに鳴き続けた。私の心はさっと震え、洛賓王の詩句がわけも無く口から出てきた。
露重くして飛ぶも進み難く、風多くして響き沈み易し。
これはつまり日本の詩人がよく言う“ヒグラシ”蟬で、日本人も中國人と同じく蟬を詠う時は常に悲しみを帯びる。『萬葉集』のなかに三首、蟬を詠った詩がある。巻第十に 夕影に來鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ聲かも
夕方のかすかな光の中に來て鳴いているひぐらし、このひぐらしはこんなにも毎日毎日聞いても決して飽きることのない聲だ
ひぐらしは時と鳴けども片戀にたわや女我れは時わかず泣く
ひぐらしは今こそ我が時とばかり鳴いているけれども、片思い故にか弱い女であるこの私は、一日中泣き濡れている。
とある。巻第十五では 石走る滝もとどろに鳴く蟬の聲をし聞けば都し思ほゆ
巖に激する滝の轟くばかりに鳴きしきる蟬、その蟬の聲を聞くと都が思い出される
がある。日本の詩人が蟬を詠うとき、また非常に面白いことに出會うことが出來る。それはつまり、日本語の中で、“ひぐらし蟬”と夕方を意味する“日暮”の発音が同じなのである!
聽蟬
我從小生長在中國東北,沒有聽過蟬聲,后來到北京工作,住在郊區一個農家的院子里。
一到夏天,柿子樹濃濃的樹蔭籠罩著整個院子,篩動著點點細碎的金子一樣的陽光,不知是誰一聲令下,紅瓦綠樹間無數透明的蟬翼突然歡快地鼓動,一陣琴瑟般的蟬鳴流進光和影,像是陽光透明的手撥響了萬物的合弦??。雨后的蟬鳴更是美不勝收。杜甫詩云“晨鐘云外濕”。
雨后的蟬鳴也是把一陣綠色的濕潤,揉進散漫的白云之間,讓酷暑中流進一片清涼,這也會令人想起白居易《井底引銀瓶》中的清新詩句:“嬋娟兩鬢秋蟬翼,宛轉雙蛾遠山色。”
那時我不明白,為什么有許多中國詩人都把蟬鳴寫得那悲切。
如駱賓王《獄中詠蟬》:“西陸蟬聲唱,南冠客思沉。不堪玄鬢影,來對白頭吟。”
李商隱《韓弘舍人即事》:“鳥應悲蜀帝,蟬是怨齊王。”
李商隱在詩詠韓弘和妓女柳氏悲歡離合的故事時巧用了“齊后化蟬”的典故。
在晉人崔豹的《問答釋意》中寫道:
牛享問曰:“蟬名齊女者何也?”
答曰:“齊王后忿而死,尸變為蟬,登庭樹,彗唳而鳴,王悔恨,故世名曰齊女也。” 將蟬鳴喻為含恨而死的女子的哀鳴,可見其聲也悲。
到了東京后,不知是經緯度不對還是什么別的原因,很少聽到蟬鳴,但并不是沒有蟬。
不知道是為了祈禱我多舛的命運還是為了順路,我在一個傍晚來到了明治神宮(反正不是觀光,因為從到了日本就沒有了這種悠閑),也許是參拜完神,我走在長長的林蔭路上,突然,一陣被露水滲透般的嘶啞蟬聲在層層的厚葉中沉重地泛起,又被風扯得斷斷續續,凄切而哀婉。
我的心猛地一顫,駱賓王的詩句不由地脫口而出:“露重飛難進,風多響易沉。” 這也就是日本詩人們常說的“暮蟬”、“晚蟬”。日本人和中國人一樣,詠蟬常含悲,在《萬葉集》中,有三首詠蟬之詩。卷十中有“夕影斜映,晚蟬低鳴。日日聆聽,不棄不厭。”“晚蟬哀鳴,時泣時停。悲戀在心,泣之不停。”卷十中有“巖飛瀑布,陣陣轟鳴。蟬鳴不停,故國鄉情。”日本詩人在詠蟬時,還可以遇到一個非常有意思的事情,那就是在日語中,“晚蟬”和“日暮”的發音是一樣的。
日漢対訳読物 04 風景としての日本語
日本語と中國語は、どちらも漢字を言語の骨組みとして成り立っている。漢字のなかには、一つの文字がいきいきとした畫像として完成されているものもある。これは単なる意味を伝達する記號ではなく、われわれの視覚に直接訴えかけているものでもあるように思われる。中國語を母國語とする者にとって、日本語の仮名に引き付けられる時もあり、また漢字を「薄めた」後に殘された線にいささかの違和感や困惑を覚えることもある。かなの存在は既に文法的なレベルだけではなく、漢字を見る我々の視覚にとっては、その?メージを緩和するような働きをも持っている。かなは、漢字の偏旁だという定義がある。が、厚味のないかなの筆畫が、漢字の群の中を織り込むように遊泳するさまは、まるで沙漠のなかにあわれてきたオ?シスのようである。
ひとつの畫像としての漢字の存在を考えると、その形の豊満さもさることながら、意味空間にまで溢れ出て奧深い潭のように水底はほとんど見えてこない。人間の想像力に與える漢字の影響は、実に大きなものであるが、そのすべてが、表形でないと言い表わせないような內なる企図で、時には人に苦労を重ねさせる結果にもなる。畫像は空であり、また人間を束縛する籠でもある。二つの言葉で文筆活動を行っている私は、最近になって日本語に対する?メージがずいぶん変わった気がする。
言語は、一枚の風景畫のようなものだ。美術館で作品を鑑賞することを連想される方もあるだろう。人間ははじめて絵に接した時に、距離感というものを忘れがちになるが、実際に視覚と作品の関係は、作品と自分との間に存在する距離によって決められることが多い。例えば、手元に持つ絵と、それを3メートル先に置きながら見る場合、さらに10メートルも離れてその絵がひとつの點景にしか見えない場合を考えると、我々の感じ方は果たして一緒だろうか。言い換えれば、距離というものは、一枚の絵に対するわれわれの凝視を和らげる効果があるに違いがない。そして絵を除いた周りの空間は絶えず視覚の領域にしぼりこまれてきて、人間の感受性にますます大きくなっていく參照係數を提供してくれる。一枚の絵は、ただひとつの畫像であるが、それは動き続ける現実の世界を切り取り紙面上に靜止狀態で凝固させたのであろう。人間は、生きている限り、思惟という活動を止めることが容易にできない。だから靜止畫像も一種の流動する感性に変わりながら、われわれの感覚を刺激することがあるように思われる。
日本語もひとつの畫像であり、時には風景そのものである。とりわけ、かなと漢字の共用は、あたかも水と油を混ぜたような狀態にみえる。水はかなで、透光に澄みきっている。ぎりぎりまで省略されたわずかな筆畫は、まるで樹枝のように漢字の中をひっきりなしにかき回している。その一方、かなによって壊された漢字は、妙にさっぱりしている。漢字は油で、かなの中に滴らせるとすぐに凝固する。そしてその痕跡だけは、かなと共に流れ漂いはじめる。漢字はひらかなと共に揺れ動きながら、かたかなによって浮かび上がることもある。漢字は動きまわるかなによって、その隠喩が解釈されるのであろう。かなを海とすると、漢字は島である。私は、一隻の船のように海と島の間を自由に往來する。出身地が漢字の島であることは、私の宿命かもしれないが、それは実に愉快なことでもある。なぜなら私は更なる広大な空間を目の前にして、島を取り囲む大海原をも満喫することができるからである。二つの言葉で書き物をしているこの私に、神様が新しい生命を授けてくれた気がする。
日語是風景
無論是日語,還是中文,它們都是以漢字為語言框架的,而且在這一框架之中,每一個字形的出現都是通過生動的圖像而完成的,這里不僅傳達了具體的意義,而且還為使用者提供一個直訴視覺的機會。對于把中文當作母語的人來說,當他的目光被日語中的假名所吸引,或者被那種淡化漢字以后所呈現的簡單筆劃所困惑的時候,日語假名似乎就不僅是一個語法上的存在,而是變成了為視覺服務的一種印象緩沖劑。假名是漢字的偏旁,而且它每一次單薄的筆劃漫游在漢字當中,有時就像沙漠中的綠洲一樣。
作為一個圖像的存在,漢字的形象是飽滿的,它充斥了意義的空間,像一處深深的水潭,看不到水底。漢字賦予人的想像力是豐富的,但同時,凡是都以表形作為企圖的內部擴張有時卻令人疲勞。所謂內部擴張,是指那種非表形不可的表達方法。圖像是天空,同時也是牢籠。無疑,獲得如此的感受是有條件的,至少對于我個人來說,當我開始用兩種語言從事寫作的時候,我對日語的印象開始發生了明顯的變化。
語言是一種風景畫,這可以讓我們聯想到在美術館里面欣賞一個作品時的情景。當人的視覺第一次跟作品接觸的時候,我們或許忽略了距離的存在。但實際上,人的視線與作品之間的關系許多都是由距離決定的。你看一幅畫,拿在手邊看和離開它3米以外看,甚至離開它遠達10米以外而把這幅畫看成了一個點的時候,我們的感受能夠一樣嗎?換句話說,距離沖淡了我們對這幅畫的凝視,而畫外的空間不斷地擠入視覺領域,為人的感受提供了越了越大的參照系數。一幅畫無怪乎是一個圖像,它把動態的世界定格在一個靜止的狀態,但恰恰是人的思維永遠不會停止活動的緣故,圖像的靜止卻往往變成了一種感性的流動迷惑了我們的認知,乃至于把距離的概念堵之思考范圍之外。
日語也是圖像,有時更像風景,尤其是假名與漢字的并用,猶如水和油注入到一起的狀態。水是假名,清徹而透光,看上去是一些枝節破碎的筆劃在漢字中穿梭,但假名之于漢字的拆卸作用卻使漢字顯露出被稀釋以后的爽朗。漢字是油,滴入假名當中的那一瞬間或許是凝固住的一塊痕跡,它隨著假名而蕩漾,不僅依靠平假名的托起,而且還借助平假名的游離,使漢字的隱喻得以最大限度的釋放。
日漢対訳読物 05 日本の「建前」と「本音」
恐らく日本にいる外國人の中で、日本の「建前」と「本音」に悩まされない人はいないと思います。「建前」と「本音」は、大和民族特有の表現文化です。前者は表に出しているもの、後者は內心に思っているもので、両者間のギャップは、時には天と地の差があると言っても決して過言ではありません。「建前」を通じて「本音」をいかに的確に摑むかは日本人の幼い時からの訓練の積み重ねであって、外國人の我々にとっては決して簡単に身につけられるものではありません。取りあえず、日頃からダ?レクトに自分の意思を表現しない日本人が表に出している事に対しては、文字通りの単純理解は極めて危険です。
殆どの外國人は進學なり、就職なりで日本で面接を経験したことがあるわけです。そこで一つの経験談があります。もし、面接官が目の前であなたを褒め盡くしているとしたら、ほぼ結果ははずれに違いありません。
私自身も要領を得なかった経験があります。ある日、自分の?ンダースカートのレースが表に露出してしまったことに全然気が付かない私は、日本の友人に「綺麗なレースですね」と聲をかけられました。その意味を間違って褒め言葉として受け止めた私は、気分揚々得意になり、全く自分に対する注意とは思いもしませんでした。あの日から幾年も過ぎましたが、思い出すたびに自分の鈍感さに顔が赤くなります。
會社の有給休暇はもう一つの例です。
有給休暇は、労働法により保護される働く人の権利であり、社員として年間一定日數の有給休暇を貰えることは明白に會社の社則で決められています。しかし、だからと言って、正々堂々とその権利を享有するわけにはいかないものです。実際は、社員に権利を與えるのはあくまでも會社の「建前」であって、いったん本當に休もうとすると休む間は擔當業務はほかの人に分擔してもらわなければいけないので、迷惑だという事で有給休暇を取るのは會社にとっても、同僚にとっても決して喜ばしい行動ではないというのが「本音」です。その為に、年間に1ヶ月くらいの有給休暇が水の泡になってしまい、せっかくの権利を放棄せざるを得ない社員がずいぶんいます。
まあ、働いている間は自分のポジションを確保する為にやむを得ないかも知れませんが、會社を辭める前には、せめて貯まりに貯まった有給休暇を消化したいのが普通でしょう。
しかしそうもいかないのです。こんな事例があります。私が勤務している會社で日本人の同僚と外國人の同僚が同じ時期に會社を辭めました。お二人とも前々から會社に辭める意志を伝えていたにも関わらず、なかなか引き継ぎの後任者を配屬してもらえませんでした。日本人同僚は有給休暇を消化するどころか、辭める前日も遅くまで殘業せざるを得ず、業務処理に追われました。もちろん、當たり前ですが會社からも周りからもそれなりの評価を貰いました。一方、僑居生活の経験で自分の権利を自分で守る知恵を身につけた外國人同僚は、辭める前に自分の受けるべき権利をちょっと主張しただけで、廻りに白い目で見られてしまいました。私は外國人として、その日本人同僚の行動から、お人好し志向の日本人の民族性を幾らか読めたような気がしますが、日本企業の主張と現実の不一致に疑問を感じます。
類似事例がいっぱいあると思います。要するに、日本で生活する以上、「建前」と「本音」という文化は避けては通れないもので、みんな絶えず悩まされるうちにだんだん賢くなって、成長していくのです。
日本的「表面」和「真心」
恐怕在日本的外國人沒有不被日本人的「表面」和「真心」所困惑的。「表面」和「真心」是大和民族特有的表現藝術。前者是表現在表面的,后者是內心所想的,要說兩者之間的差距有時具有天壤之別都絕不言過。如何透過「表面」準確地抓住「真心」是日本人從小訓練的積累,絕非我們外國人輕易可以掌握的。總而言之,在日常生活中對不直截了當地表達自己意思的日本人所言之事,從字面上去單純理解的話,那是十分危險的。
絕大多數的外國人在日本都經歷過升學或就職的面試。這里有個經驗之談:如果考官當面竭盡全力夸獎你,毫無疑問結果多半是落選。
我個人就有過不得要領的教訓:有一天,我對自己的襯裙花邊暴露在外毫無察覺。日本朋友便對我說「好漂亮的花邊呀」。我錯將這話理解成是贊揚話而得意洋洋起來,卻全然不知是在提醒我。事過幾年了,每當回想起來都自己的遲鈍而臉紅。
有薪假又是一個事例。
有薪假是受勞動法保護的就業人員的權利,在公司里的規則里面明確有規定每年職工可享用一定天數的有薪假。但是,決不可因此就大搖大擺地享用這個權利。其實,給職工權利這僅僅只是公司的「表面」,一旦真要休假,由于在休假期間所負責的工作得由其它同事分擔,所以被視為添麻煩的事,休假無論對公司還是對周圍的同事來講都絕非是受歡迎的事,這就是「真心」所在。就因為此,一年內一個月左右的有薪假泡湯,特意獲得的權利也不得不放棄的職工大有人在。
唉,在供職期間,人們惟恐自己的飯碗喪失,那樣做也許是出于無奈。但在辭掉工作前想消化掉過去積攢下來的有薪假這是人之常情。
但是那也是不行的。有這樣一個事例:在我所供職的日本企業里,日本人同事和外國人同事同時辭職。倆人都提前很早就提出辭呈。但公司卻遲遲不配備接班人。無奈,那位日本人同事不要說是有機會消化有薪假了,就在辭職的前一天還不得不加班到很晚以處理業務。當然理所應該地得到了公司和周圍相應的評價。可是,那位從僑居生活經歷中學會自己的權利自己保護的外國人同事,卻由于在辭職前稍為強調了一下自己應該享有的權利,而公司和周圍就對此頗有微詞。作為外國人,從那位日本人同事的行動中我仿佛能讀董一點努力做好人的日本人的民族性,但對于日本企業的不言行一致而有疑問。
類似的事例不勝枚舉。總之,在日本生活,就無法回避日本的「表面」和「真心」文化,因此大家都會在不斷的煩惱之中漸漸地變得聰明、成長起來。
日漢対訳読物 06 料理小話(中國料理と日本料理)
料理のことを持ち出すと中國人はきっと誇らしげにこう言うでしょう。「そりゃ當然中華料理でしょう!」
たしかに、遠く數千年前には、我が先祖は『斉民要術』『玄宴春秋』『食珍録』などの書物のなかで、料理の材料、調理方法そして食物の薬効に至るまでを詳細に記載しました。
歴代の王が世界の山海の珍味を集め、天下一の料理人を雇ったことは言うまでもありませんが、宮廷の高官、裕福な商人たちまでもがその権力と財力で各地の特産物や料理人を集め、はては退職した有名な宮廷料理人を招聘し、「観之有色」(目に楽しい)、「聞之有香」(美味しそうな匂いのする)、「食之有味」(食せば美味しい)酒宴を設けてその権力を誇示しました。文人たちはさらに、その美酒佳肴を味わい、賞賛し、永遠に詩に遺しました。また、たとえ兵馬相亂れる戦亂の世の中でも、「朝に酒があれば朝に飲んで酔う」(明日は明日の風が吹く)という消極的な概念が中國人にはあり、生存のあらゆる希望をすべて「食べること」「飲むこと」につぎ込んだのです。
だから、私見によれば、中國料理は先に述べたように、泰平の世と戦亂の世のなかで積極的に消極的に発展したのだとおもいます。
これに比べて日本料理からは、平靜さや優雅さ、平安が伝わってきます。日本料理のどの宴席の、どの皿、椀、鉢を見ても、その獨特で珍しい「美」「雅」「靜」を感じることが出來ます。思うに、ほとんどの中國人は、初めて日本料理を味わった時、私と同じように深い感動を覚えるのではないでしょうか?
以前、一人の日本人が真剣な様子で私にこう話したのを覚えています。「日本料理というものは、半分は見るもので、後の半分が食べるためのものだ」私もこの意見に賛成で、またこうも思っています。「ただ単に料理だけを味わうというのではなく、運ばれてくる皿、椀、小鉢など、料理にあわせてさまざまに変化する器の大きさやかたち、色、そして凝った盛り付けなども一緒に味わうべきだ」と。日本料理の中の「懐石料理」が使用する皿、椀、箸は、料理と日本の伝統である茶道、花道との関連、また、その時と場所に合わせたもてなしの心がもっともよく現れています。料理を味わう者は、皿、椀、鉢に盛られた料理の中から日本料理の「美」「雅」「靜」を感じ、日本の伝統思想を深く理解することが出來るでしょう。
ところで、來日して隨分たちますが、家族や友人と溫泉旅行に行くという話があると、いつもとても嬉しくなってしまいます。実を言うと、溫泉に入るのが嬉しいというのではなく、またあの「皿」や「椀」や「鉢」に會えるから嬉しいのです。もしあなたが日本で溫泉にいく機會があったなら、どうか必ず、その運ばれてくる、料理と組み合わせられた「皿」「椀」「鉢」などの器に少しだけ注意を払っていただきたいとおもいます。
輕描料理
提起料理(烹調),中國人一定會很自豪地講:“那當然是中國料理!” 的確,早在幾千年前,祖先便在《齊民要術》、《玄宴春秋》、《食珍錄》中,對料理的原料、料理的方法、以及食物的藥用、都有過很詳細地記載。
不用說是歷代君王收盡天下山珍海味,任用天下最好的名廚,就連宮廷的高官,富有的商人財主也會依其權力財力,收集各地特產,廚師,甚至聘用宮廷退役的名廚,并以能夠擺出一席“觀之有色”“聞之有香”“食之有味”的酒宴而為炫耀,文人墨客更是以能夠品嘗到美酒佳肴而贊不絕口,留詩千古。即使是在兵荒馬亂的戰爭年代里,中國人也有“今朝有酒今朝醉”的消極概念,把生存的所有希望,全部注入到“吃”“喝”中去。
所以,依我的淺見,中國料理就是如此這般的在太平盛世和戰爭年代中,得到了積極和消極的發展。
與此相比,日本料理就會顯得十分平靜,優雅,和平。你可以從它的每一個宴席的每一種碟、碗、盤中,領會到那獨特的、奇特的“美”、“雅”、“靜”。我想,大概所有的中國人在第一次品嘗到日本料理時,都會和我一樣被它深深地感到了的吧?!
記得以前一位日本朋友曾經很鄭重地對我講過:“日本料理一半是為了‘看’的,另一半才是為了‘吃’的。” 我也是贊同這種說法,而且還認為:與其說是單單品嘗料理的味道,不如應該說是連同一起品味了那些、隨著料理的變化端出來的、與其相配的、不斷變換的盤、碗、碟的大小、形狀、顏色、以及其上的料理的各種講究擺法。日本料理中的“懷石料理”所使用的盤、碗、筷,更尤為體現出了料理與傳統的“茶道”“花道”的關聯,與周圍環境的協調,使品嘗者從每一道盛在“小盤”“小碗”“小碟”的料理中,感受到日本料理的“美”、“雅”、“靜”,領會到日本的傳統思想。
來日多年,每逢和家人,朋友一起去溫泉旅行時,我都會很興奮。對我來說,并不是為去“泡溫泉”而興奮,而是為又可以同那些“小盤”“小碗”“小碟”再會而感到興奮。
倘若您有機會在日本“泡溫泉”的話,請您也務必留意一下那些與端出來的與料理相配的“小盤”“小碗”“小碟”???。
日漢対訳読物 07 「なまもの」好きの日本人
食物には必ず火を通すなどして、調理されたものを口にする習慣をもつ學生にとって、日本での食文化はなかなか馴染みにくい。
日本には「生」の食べ物として広く知られている刺身以外にも、「生肉」「生水」など、「なまで」、つまり、煮たり焼いたり乾かしたりしないで食べる物がかなりある。
「生菓子」や「生卵」など、昔から使われている言葉も多いが「生」を使った新しい言葉もどんどん生まれている。「生チョコレート」、生クリームを多く使用し、あまり日持ちしないチョコレートのことをこう呼ぶ。「生絞り」、これはあるメーカーが自社の缶ビールに付けた商品名だ。
食べ物以外で「生」という言葉が使われる場合も多くある。「生番組」通常、テレビ番組は撮影された後編集されて放映するものだが「生番組」は撮影されると同時に放映もされる。「生腳」、これはストッキングや靴下などを履いていない狀態あるいはその腳を指す。若い女性の間で作られた俗語で、主に女性の場合に使われる。
嗜好“生”物的日本人
在日本飯菜中生吃的食物很多。除了廣為人知的生魚片以外還有“生肉”、“生蔬菜”等生吃的食物。也就是說有很多食物既不用燉也不用烤就可以吃。這對于習慣了食用經過加工制作的食物的留學生來說似乎很難適應日本的飲食文化。
但是我們日本人好“生”之程度可并非一般冠有“生”字的新型食品在不斷涌現。例如“生巧克力”這是指使用了較多的鮮奶油且保存期限短的巧克力“生扎啤”則是一家啤酒廠為本廠生產的罐裝啤酒所起的名稱。
“生”(なま)這一詞匯含有“新鮮的、未經加工”之意,除了食物之外,還廣泛用于其它領域。比方說“生番組”一詞其意為電視直播節目。電視節目通常是在拍攝后經過編輯才播放的而“生番組”則是指不加剪輯、邊拍攝邊播放的節目。還有一個新詞匯為“生腳”這是指女孩子腳上沒有穿襪子或是穿裙子時不穿長筒絲襪。該詞是產生于女青年之間的俗語,同時也主要用于女性。
早餐時吃生雞蛋,中午一邊吃著生蔬菜一邊觀看“生”直播電視節目,到了晚上則吃生魚片。由此可見日本人的生活的確是離不開“生”字的。
讀完這篇文章后如果你能在一分鐘內造出帶有“生”字的詞匯那么也許可以說你是一個相當了解日本的日本通了。
日漢対訳読物 08 「多子多福」を願う伝統
中國では普通、子供の多い家庭が繁栄し幸福だとされている。だから人々は、社會的地位や身分の上下に関係なく、子供を多く生む女性に対しては、一種、感謝の気持ちを抱いている。
中國悠久の歴史の中で、儒教は重要な働きをした。儒教が理想國家としているのは周代の文王の世である。彼は100人の子供に愛されただけでなく、數萬人の人々から長として仰がれた。昔から人々に知られている「百子戯蓮」はここから伝わったものである。
中國では他にも「多子多福」(子供が多ければ幸せである)の伝統的な吉祥畫がたくさんある。これら家の居間に掛けられている吉祥畫でよく見かけるのは、蝶の群がたくさん実をつけた瓜畑の上を飛び交っているものだ。その瓜の果実はまさに子供の象徴で、家庭に幸せを満ち溢れさせるものなのである。
日本の伝統である家紋にも、多く吉祥を願う意味が含まれている。女性にとって欠かすことのできない櫛にもこのような家紋が描かれてある。この櫛は往往にして母親から娘に伝えられるもので、「和櫛」と呼ばれる。日本の漆器に多いのもワラビ、つくし、蝶蝶など、多子多産に関係のあるデザ?ンだ。お祝いの宴席で出される食器にもしばしば母子草の模様が登場する。刀のつかに刻まれる「花紋」のデザ?ンはたくさんの男の子に恵まれますようにという願いを現している。このような伝統は、結婚の宴席での和服にも現われている。著物の絵柄には10數羽から2、30羽におよぶ鴛鴦が描かれているものが多いのだが、鴛鴦はつまり、仲睦まじい夫婦の象徴なのである。たくさん子供を産む女性が賞賛を受けるのは古來の習いだが、これは當時、死産.早産が多かったためであろう。
明治時代の女性記者.磯村春子は、かつて「報知新聞」でめざましい活躍をした。彼女は産休などのない過酷な労働條件のもとで出産し、8人もの子供を育てたのだ。彼女は多くの子供を育て、円満な家庭を築くと同時に、自分のラ?フスタ?ルを貫いたスーパーウーマンの先駆者と言っていいだろう。
1世紀近くを経た今、若い人たちの中から新しい??ドル――歌手.安室奈美恵――が現われた。彼女がレコーデ?ングしたCDの売上げ枚數は毎回記録を更新した。97年秋彼女は記者會見で、自分が妊娠していて近く結婚すると発表した。そして、出産準備のため、1年間歌手としての活動をしないとも言った。その記者會見のあいだじゅう、彼女は満面、幸せそうな笑顔で溢れていた。それはまさに、母親になる喜びの表情だった。その後98年5月、安室奈美恵は無事に男の子を出産し、また話題になった。
女性は命を創造し、生命を育むことができる。これが男性と根本的に違うところだ。10ヶ月間妊娠し、出産、子育てを體験する女性は、その経験を通して一つまた一つ成長してゆくのだといえる。そしてそれと共に人間性もゆっくりと成熟してゆくのだ。母親になる一つ一つの課程は、女性が成長してゆくための、いはば節目の連続なのである。
大阪市の中心、JR大阪駅近くの、ある病院では97年5月から週に1度のホットラ?ンを開設し、不妊に悩む女性達の相談を受け始めた。そこでは3ヶ月間で527件の相談があったという。その1年前にも、東京のある出版社で1ヶ月に1回の不妊相談のホットラ?ンを開設している。専門醫師らはこのようなホットラ?ン上で、実にたくさんの女性から不妊に関する悩みを打ち明けられた。これは、女性が自然と母親になりたいと願うことの現われであろう。
明治時代、「青踏」が「元始女性は太陽であった」という宣言をした時から、徹底的な女性解放運動が始まった。原始社會は即ち母系社會であり、女性は當然尊敬されていた。後には、代々生命を生み育てる母體は、人々から豊作を願う象徴とされた。母體がなければ生命の継続もないのだ。
しかし、すべての女性がこの點を認識しているわけではない。日本女性の中には安室奈美恵と正反対の人も多い。若者の中では今、母親になりたがらない風潮が広がっている。多くの若者が「子供はいらない」「子育てはめんどうくさい」と明言している。その一方で彼女たちは大量の寶石類を買い、流行のフ?ッションを追うことに命を懸けているのだ。自分の趣味に満足し、生命の意義を考えようとはしない。このような日本女性が増えてきているのは実に殘念なことである。
期望“多子多福”的傳統
在中國,人們通常相信多育的家庭是繁榮和幸福的。所以,人們不論社會地位的上下,貴賤,都對能夠多生孩子的人抱著一種感謝的心情。
在中國漫長的歷史中,儒教起了重要的作用。把儒教作為理想國家的是周代的周文王。他不僅贏得了一百個孩子的喜愛,更贏得了數萬人的擁戴。古今人們所熟悉的“百子戲蓮”,就是從這里流傳下來的。
中國還有不少多子多福的傳統吉祥畫。這些掛在家庭居室中的吉祥畫,畫面上常常是蝴蝶飛舞。環繞著飽結果實的瓜田。那些瓜果,就象征著孩子,讓家庭中洋溢著幸福。
日本許多傳統家紋也含有祈愿吉祥的意味。女性們離不開的梳子上面就有這樣的家紋。這種梳子往往是由母親傳給女兒的,稱之為“和梳”。日本的漆器表面也大多是繪著蕨菜、馬草及蝴蝶等等與多產多育相關的圖案。祝賀宴席上拿出來的食器上面,也時常有著“母子草”的圖案。在刀柄上刻上“護把”的圖案,可以顯示出希望要很多男孩子的愿望。那些出現在結婚宴會上的和服,圖案經常是十幾只乃至幾十只鴛鴦,而鴛鴦則是能夠生育的和睦夫妻的象征。
多產的女性受到贊譽,這是古來的習慣,這可能是因為那時死產、早產太多的原因吧。
日本明治時代的女記者磯村春子曾經活躍在《報知新聞》。她在沒有妊娠假、產假等苛刻的勞動條件下,居然生育、撫養了8個孩子。她養育了眾多的孩子,維持了家庭的美滿,同時實踐了自己的生活方式,真可謂非凡女性的先驅。
經過將近一個世紀以后,年經人中出現了他們的新偶像--著名歌手安室奈美惠,她錄制的CD唱片,其販賣數被一次又一次歷史性地刷新。1997年秋,她在會見記者時,宣布了自己已經懷孕并要結婚的消息。同時她還宣布,為了準備生育孩子,她將停止一年的歌手活動。在整個記者招待會過程中,她的臉上洋溢著幸福的微笑,這是期待著成為母親的表情。1998年5月,她順利地生產出一個男嬰后,她再一次成為人們的話題。
女性可以創造生命,培育生命,這是和男性根本的不同。懷胎十個月,體驗了生產,育兒的女性,可以說經歷了一次又一次地成長,其人性也漫漫地成熟了。成為母親的過程,才是一個女性成長起來的后續節目。
在大阪市中心的JR大阪車站附近有一家醫院,從1997年5月起開通每周一次的熱線電話,給因不孕而煩惱的婦女排憂解難。3個月間,他們接到了527個電話。在此前的一年,東京有一家出版社也開設了一月一次的不孕熱線電話。由專門醫生開設的這種咨詢機關,使許多不孕婦女得以傾訴煩惱。這也體現出女性自然地渴望成為母親地心愿。
日本明治時代,青踏派發出“自古以來女性就是太陽”的宣言,開始了徹底的婦女解放運動。
原始社會就是母系社會,女性當然受到尊敬。以后世世代代的孕育生命的母體被人們作為祈禱豐收的象征。沒有母體便沒有生命的延續。
但是,并不是所有的母性都能夠認識到這一點。不少日本女性與安室奈美惠截然相反。年輕人中正在流傳著做母親的恐怖癥。很多年輕人明確地表示“我不想要孩子”、“撫養孩子很麻煩”。與此同時,她們卻在大量地購買金銀飾品,拼命地追趕時裝潮流,滿足自己的興趣,卻不考慮生命的意義。這樣的日本女性越來越多,實在是太可惜了呀。
日漢対訳読物 09 だめなパパ
私のこどもは四歳をすぎた女の子である。こどもというのは、短期間にいろいろと人相がかえるもので、過去、我が子ながらかわいいと思ったことが三度あった。また、我が子ながら不 器量だと首をかしげたことが六度ほどあった。
現在は、その中間型くらいである。それにしても、かわいく思うとには変わりがない。親バカというものはもっともないものだが、正直の話、喜んで、バカになりたいとも思う。
そのくせ、彼女は一年ほど前まで、あまりこの私になつかなかった。仕事部屋から追い出したり、出したり、あまりいっしょうに遊んでやらなかったことが原因らしい。ことらが都合のいいときだけかまおうとするので、ダッコをしようとしても逃げていったりする。
パパは悲嘆に涙にくれたものだ。
ただ、私が甘い子とだけはしていて、ままに隠れてお菓子をとりにゆこうとするたくらみを抱くときのみ、「パパ、ダッコ」と私を誘う。そういわれると。このパパは身體中グニャグニャになるのである。
しかし、最近、この経過が変わった。私は不健康な自分の身體を何とかしようと思って一大意志を奮い起こして。體操とランニングを始めた。
中年の男が晝間からその辺りをドタバタ走っているのはみっともないから、こどもを利用することにした。いかにも子どもをあそばせているふうに見せかけて、彼女といっしょにランニングをした。
「パパ、ランニングちよう」 と、彼女が誘いにくる。
その內、家から五分ほど離れた場所に空地があって、ここに土が盛られて小山をなしている場所を発見した。
「パパ小山にゆこう」と彼女がいう。
私は子どもといっしょに山へゆき、手をひいてかなりの急坂をくだらせ、ついで手をひいて坂をのぼらせた、だんだんと子どもも勇気が出てきて、このごろでは一人きり滑りながら登ったりする。
その後姿を見ながら、「小學生になったら日本日本?ルプスに連れて行こう。女性?ルピニストにしてもいいぞ」などと、愚かな父親は思う。
そんなふうに、私が彼女といっしょに遊んでやる時間が多くなるに連れ、がぜん彼女は私になつき始めた。その上、かんざんに甘いパパである。
このごろでは、「パパはやさしいからすき。ママは怒るからきらい」などともいい、教育上よくないと思うが、そういわれると、自然と私の顔はほころぶのである。
壞爸爸
我的小孩是剛滿四歲的女孩。小孩的容貌在短期內會不斷變化,曾有過三次我覺得我的孩子可愛。然而,也有六次竟讓我覺得納悶,她怎么那么丑。
現在雖說長相屬于一般。但她的可愛之處仍然如舊。所謂溺愛子女是不好的,但說句老實話,我倒也樂意放縱她。
可是,大約一年前,她和我不太親近了。原因好像是把她趕出我的工作間,此外,也不太和她一起玩了吧。如今,只有當我空閑時才去照顧她,所以,即使想要抱抱她,她也是躲得遠遠的。
做爸爸的真是傷心啊!
我嬌慣孩子,這一點她是知道的,所以只有在企圖躲開媽媽去拿點心時,才會來叫我“爸爸,抱抱”。被她這么一叫,我這個當爸爸的整個身體好像都酥軟了一般。
但是,最近這種情況發生了變化。我想鍛煉一下自己那虛弱的身體,鼓起很大的勇氣,開始做體操和跑步。
大白天的,一個中年男子在那一帶呱嗒呱嗒地跑步,不太好看,所以想利用孩子,裝成帶孩子玩耍的樣子,和她一起跑。
“爸爸,跑步去!”
她來約我了。
不久,我發現在離我家約五分鐘的地方有塊空地,那里堆著土,像一座小山。
“爸爸,爬山去!”
她說。
我和孩子一起去爬山,牽著她的手從很陡的山坡上跑下來,接著,又牽著她的手讓她爬坡。逐漸孩子有了勇氣。最近,會一個人一步一滑地爬上去了。
看著她的背影,傻爸爸這樣想,“等上了小學后,帶她去日本阿爾卑斯山,還可以把她培養成女子登山運動員呢!”
就這樣,隨著與她一起玩耍的時間增多,她開始與我親熱起來。由此,我完全成了嬌慣孩子的爸爸。
“爸爸和氣,我喜歡;媽媽好生氣,我討厭。”
最近,她竟這樣說。雖然這在教育方面是有問題的,但經她這么一說,我的臉上很自然會泛起笑容。
日漢対訳読物 10 潘老人
唐の元和年間(806~820)のことである。
河南の嵩山(すうざん)少林寺で、大風が吹いたことがあった。風がようやくやんだ頃、杖をついた老人が門を叩いた。
「すみません、一晩、宿をお借りしたいのじゃが」
すると、門の中から面倒くさそうな聲が返ってきた。
「門はもう閉めました。外に小屋があるでしょう。そこに泊まりなされ」
小屋には寢床もなければ、筵(むしろ)一枚ない。しかし、老人は何も言わずにその小屋に泊まった。
二更(注:夜十時頃)を回った頃、僧侶の一人が目を覚まし、門の外が妙に明るいことに気づいた。燈りの出所は老人の泊まっている小屋であった。
不審に思いながらそっとのぞいて驚いた。
何もなかったはずの小屋の中には豪華な褥(しとね)が敷かれ、帳(とばり)がしつらえてある。しかも、膳まで用意されており、珍味佳肴が並んでいる。老人は膳を前にして悠然(ゆうぜん)と飲み且つ食らっていた。
一體、いつの間にこれだけの物を持ち込んだのか、と僧侶はいぶかしく思った。部屋には老人一人きりで、従僕らしい姿は見られない。僧侶は同輩を呼び、ともにこの光景を見守った。しばらくすると、老人は柔らかな褥に身を橫たえて眠り込んだ。
五更(注:朝四時頃)を回った頃、老人は起き出した。口をすすぎ、顔を洗うと、懐から拳くらいの大きさの瓢簞(ひょうたん)を取り出した。老人は褥や帳、膳などを瓢簞の中へしまい始めた。小さな瓢簞にどうして入るのかわからないが、ともかく老人が手に取って瓢簞の口へ持っていくと、入ってしまうのである。
すべてしまい終わると、老人は瓢簞を懐に納めた。小屋には元通り何もなくなった。
驚いた僧侶達は小屋の扉を開け、老人の前にひれ伏した。
「失禮をいたしまして、申し訳ありません」
「いやいや、まあまあ、大したことではござりませぬ」
僧侶達が老人に名前を問うと、「潘と申します」と答え、南岳(注:湖南省の衡山)から太原(注:現山西省)へ向かう途中だとのことであった。
その後も潘老人の姿は時折、見かけられたという。
(唐『原化記』)
潘老人
這件事發生在唐朝元和年間(806~820)。
在河南的嵩山少林寺,刮起了大風。在風漸漸停了的時候,有一個拄著拐杖的老人敲門。
“對不起,能讓我在這兒借宿一晚上嗎?”
這時,門里傳出了不耐煩的聲音說。
“門已經關上了。門外不是有個小屋嗎?就在那兒呆著吧。”
小屋里沒有鋪蓋,也沒有草席。但老人什么也沒說,就在那個小屋里住了下來。
在過了兩更(夜里十點左右)的時候,有一個僧侶醒了,發現門外非常明亮。光亮來自老人住的那個小屋。
那個小屋里過去什么都沒有,可現在卻鋪放著豪華的褥子,還支起了帷帳。而且還擺放了食案,堆滿了美味佳肴。老人在食案前悠然地吃著東西,還喝著酒。
這個僧侶感到很奇怪,心想這個老人什么時候搬進這么多東西呀。他就把師兄弟叫來,一起盯著看這個老人。過了一會兒,老人躺在柔軟的褥子上睡著了。
在過了五更(早晨四點左右)的時候,老人起來了。他漱了口,又洗了臉,接著從懷里拿出了一個拳頭那么大的葫蘆。老人開始把褥子、帷帳和食案等往葫蘆里裝。那么小的葫蘆怎么能裝進呢?可是老人用手把東西往葫蘆口那兒一放,東西就進去了。
都裝完以后,老人把葫蘆揣進了懷里。小屋里就和以前一樣什么都沒有了。
僧侶們都驚呆了,打開了小屋的門,跪在了老人的面前。
“失禮了。對不起。”
“哎呀呀,算了吧,不值一提。”
僧侶們請教老人叫什么名字,老人說:“姓潘。”潘老人說是從南岳(湖南省的衡山)到太原(山西省)路過這兒。
據說后來還有人看到過潘老人的身影。
(唐《原化記》)
日漢対訳読物 11「ほのぼのローン」
「ほのぼのした」という語句を説明していたときのこと。學生たちが?メージをつかめるようにと、この語句が當てはまるような情景はどのようなものかを學生たちと話し合っていました。このとき學生たちから挙げられた「ほのぼのした」情景は、『春の暖かい日におじいさんとおばあさんが一緒にお茶を飲んでいる情景』、『田舎.牧場』、『犬を連れた親子がのんびり散歩している情景』など。そんな平和でゆっくりとした溫かい例がいくつか続いた後、ある學生から「先生、ほのぼのローンはどうですか。」という聲。
「ほのぼのローン」とは、ある金融會社がコマーシャルのキャッチコピーとして使用している言葉です。暖かさやのんびりした感じ、やさしい?メージとは結びつきにくい金融業界が、敢えて近づきがたい?メージを隠すために、「ほのぼの」という言葉を使ったのではないでしょうか。
學生からの質問がなければ、私は日本語教師でありながら、そのコマーシャルのキャッチコピーを何ら気に留めなかったでしょう。が、考えてみると「ほのぼのとローンをする」「ほのぼのとしたローン」なんて言う人はいません。実はかなり思い切ったキャッチコピーだったのですね。教師は日本語を教える立場ですが、このように、普段気付かない日本語の使い方や面白さを學生から教わっていることも多いのです。
“讓您感到溫暖的貸款”
那是我給學生們講解“感到溫暖的”這一詞句時的事情。為了讓大家能掌握該詞句所表達的概念,我和學生們一起對其適用于何種情形進行了討論。此時,學生們列舉的“感到溫暖的”情景有:“在春天暖和的日子里,老爺爺和老奶奶在一起喝著茶”;“鄉間·牧場”以及“家長和孩子一起牽著狗悠閑散步的情景”等等。在列舉了幾個類似的和平而安逸、暖人心房的例子之后,一個學生問道:“老師,那‘讓您感到溫暖的貸款’也屬于這種情形嗎?”。
所謂“讓您感到溫暖的貸款”,是一家信貸公司在做廣告時使用的吸引人的詞句。信貸行業在人們的心目中是很難與溫暖、悠閑的感覺以及和善的印象聯系在一起的,之所以使用了“感到溫暖”一詞,我想大概是為了掩飾其難以接近的印象吧。
盡管我是日語教師,但如果不是學生提問的話,也許不會留意那一句廣告詞吧。不過,仔細想想看,在現實生活中,沒有人會說“懷著溫暖的心情去貸款”、“暖人心田的貸款”。實際上,可以說它是一句非常大膽的廣告詞。教師的工作是教學生們學習日語,但是像這樣,平時自己沒有注意到的日語的一些用法及其有趣之處,有很多是學生們教給我的。
日漢対訳読物 12 乞食と福の神
乞食(こじき)が,ぼろぼろの袋(ふくろ)を擔(かつ)ぎながら,街(まち)を歩いていました。歩きながら,獨り言(ひとりごと)を言っていました。「どうして,お金持ちというものは,お金や物を、たくさん持っている上にも,なお,もっと欲しがるのだろう。人というものは,その人のみについた分(ぶん)ということを,知っていなくてはいけない。」
そのとき,どこからか,ふいに福の神(ふくのかみ)が現れました。「わしはお前の今の獨り言を聞いて,感心(かんしん)したよ。ちょうど、よい具合(ぐあい)に,ここに金貨(きんか)をたくさん持っているから,お前にみんなやってもよい。さあ,その袋へ入れてやろう。」
乞食は喜んで,袋を福の神の前に,出しました。
「ところで一つ約束(やくそく)がある。それはもしこの金貨が,袋からあまって出て,土(つち)の上に落ちたら,みな塵(ちり)になってだめになってしまうということだ。お前の袋は,大分(だいぶ)古いようだから,あまりたくさんいれないほうがよいぞ。」
乞食は大(おお)喜んで両手で,袋の口を広げました。
その中へ福の神は,バケツに水を入れるように金貨を注ぎ込みました。
「もう,これくらいで,いいだろう。」
「もうすこし、ください。」
「わしは構(かま)わないが,ふくろが破れ(やぶれ)はしないか。」
「大丈夫(だいじょうぶ)ですから,もうすこし。」
「 おい,もうこんなに、大金持ちになったぞ。」
「でも,もう一つかみだけ。」
「さあ,これで一杯(いっぱい)だ。」
「でも,もう一枚だけ。」
「よし,いれるぞ。」
そこで,福の神が,一枚の金貨を落としますと,一緒にたちまち袋の底(そこ)がぬけて,金貨は,一度に土の上に落ち,そうして,約束通りに,みな塵になってしまいました。
それと一緒に,福の神の姿(すがた)は消えて,乞食の手には,空(から)の袋が,殘っただけでした。
つまり,乞食は,この袋の底が抜けただけ,前よりも損(そん)をしたことになりました。
乞丐與福神
一個乞丐肩背一個破袋子在街上走。他邊走邊自言自語地說:“為什么有錢人已經有了很多的錢和物,還想要更多呢。人啊,應該懂得各自的本分。”
這時,不知從什么地方忽然出現了一個給人帶來幸福的神仙——福神。
“我聽了你剛才的自言自語,很欽佩你的為人。正好,我這里有很多金幣,可以全部都送給你。來吧,我給你裝進袋子里。”
乞丐很高興,把袋子伸到福神面前。
“不過,我們得有言在先。假如金幣太多了從袋子里滾出來掉到地上,它們就會全部變成塵土,再也沒有用了。你的袋子看樣子很舊了,最好別裝得太多了啊!”
乞丐非常高興,用雙手撐開了袋子口。
福神就象往鐵桶里倒水那樣把金幣裝進袋子里。
“差不多了吧?”
“再來點。”
“我倒是沒關系啊,可是你的袋子不會破嗎?”
“沒問題,再來點。”
“行啦,你已經是大財主啦。”
“再來一大把!”
“行啦,這下已經滿了。”
“再來最后一枚。”
“好吧,給你放。”
說著,福神把一枚金幣往下一丟,只見袋子立刻漏了,金幣一下子全部掉到了地上,們事先說好的那樣,金幣全部變成了塵土。
同時,福神也不見了,乞丐手中只留下一只空袋子。
乞丐除了袋子的底漏了以外,什么也沒得到,他比以前更窮了。
正像他 日漢対訳読物 13 「ワリカン文化」
ある聴解問題を解いているときのこと。男女2人の會話を聞いて、答えを選ぶタ?プの問題だった。問題は、「男の人はどうしてカラオケに行かないのですか。」會話は次の通り。
「女:ねぇねぇ今日カラオケに行かない?/男:うーん、こないだ遊びすぎちゃって、実は余裕ないんだ。」
答えは4つの選択肢中の「お金がないからです」だ。
學生から、次のような質問が出た。「どうしてこの女の人は男の人の分までカラオケのお金を払ってあげないのですか。わたしの國では友だちがお金をもってないときにその人の分も出してあげるのに。」ここで、単なる聴解問題対策の授業が、異文化理解の授業に早変わりする。
日本人の「ワリカン文化」は外國人留生にとって、ときに妥當に、ときにうっとうしく感じられる出來事の一つである。日本人學生と交流したり?ルバ?トをしたりという體験を通して日本人の「ワリカン文化」に驚きあきれる外國人留學生は少なくない。
日本人はどのような気持ちでワリカンするのだろうか。他人のお金なんて出したくない、自分が食べたり使ったりした分だけを出せばいいというケチで合理的な考えから?いや、決してそうではないだろう。実際に、レストランや喫茶店のレジ前で、「わたしが出します」「いや、わたしが」と言い合う人々の姿をあちこちで見かける。これは「相手に払わせてはいけない。」「自分が負擔しなければ。」という気持ちからお勘定を自分で出すと主張しあう日本人の姿である。
しかしこのような「主張」、「気の遣い合い」が疲れることは言うまでもない。そこで人間関係を長続きさせるには「気を遣わないこと」が一番だという考えから「ワリカン文化」は浸透していったのではないだろうか。一見、冷たく、けちに見えるワリカンの習慣も実はその経緯を考えてみると日本人の和の心につながっているのかもしれない。
ともあれ、聴解問題がこのような形で異文化理解の授業になるのは學生に余裕があるいい証拠だ。
“均攤文化”
記得有一次上課時,讓同學們練習解答聽力問題。練習方法是聽完男女二人的會話錄音后,根據會話內容選擇正確答案。
會話內容如下:
女:今天一起去卡拉OK吧?
男:呀,最近總出去玩,手頭不寬裕。
根據這段會話,請回答“為什么男方不去卡拉OK呢?”。在四個供選擇的答案中,正確答案為“因為他沒有錢”。
聽了解答之后,一位同學問道:“為什么女方不把男方的費用一起付了呢?在我國,如果朋友沒有錢,另一方是會替他代付的”。于是,這一節學習聽力問題解答方法的課轉變成了理解不同文化的課堂。
對于日本人的一些習慣或作法,外國留學生有時會覺得很正當,而有時卻認為很煩瑣,“均攤文化”即為其中之一。不少留學生在同日本學生的交流中,以及通過打工等親身經歷對日本人的“均攤文化”很感驚訝。
那么,日本人是懷著什么樣的心情與他人均攤某項費用的呢?是出于不愿支付他人的費用,認為只要付清自己所消費的部分即可這種吝嗇而又合乎道理的想法嗎?不,我想絕不是如此。事實上,在一些餐館或是咖啡廳的收款臺前,我們也經常目睹顧客之間互相爭著要付款的情形。這正是日本人出于“不能讓對方付費”、“今天得由我來付款”這種心情而互相堅持要自己付款的。
但是,不言而喻,像這種“主張”以及“互相為對方考慮”的做法會令人精神上很疲勞。為了使人際關系不會因此而受影響,人們認為最好的辦法是在這一問題上雙方“不必費心”。基于這種思想,“均攤文化”才得以在人們之間滲透吧。乍一看,“均攤文化”的習慣似乎很冷漠、吝嗇,但是在了解了它所產生的背景后發現,這種習慣或許與日本人的“和睦之心”有關。
總之,聽解練習課能以這種形式轉變為一堂了解不同文化的課時,可以說是一種好現象――學生們除了學習課堂知識外,還能積極主動地了解與此相關的其它知識。
日漢対訳読物 14 「回し飲み」
ある暑い日のことです。休み時間に、學生たちがペットボトルの回し飲みをしていました。
「回し飲み」というと、日本人の感覚では同じ容器に複數の人間が口を付けて飲むことを想像します。
ところが、學生たちは皆、容器の飲み口から數センチ離し、口が容器に觸れないようにして飲み物を口に流し込んでいたのです。その光景がどこか不思議だったので、ある韓國人學生に質問してみると、韓國では友達同士でも、日本人がするような「回し飲み」はしないのだというのです。私の驚いた顔を見て、不思議に思ったらしい韓國人學生は、「じゃ、先生、日本人はどうやってみんなで飲むの?」と質問してきました。
日本では普通、同性の友人同士なら、時には相手が異性であっても、同じ飲み口から「回し飲み」をすることに抵抗はありません。逆に友達に飲み物をすすめられた時に「數センチ離して」飲んだりしたら、少し失禮な印象を與えてしまうでしょう。「回し飲み」をしようという時點で、それは、ある程度、親しい人だと思われていると考えたほうがいいかもしれません。逆にいうと、たいていの場合、「回し飲み」をしたくない人には同じ容器をすすめることがありません。日本人は、「回し飲み」をする際にもさりげなく相手との「心理的な距離」を見極めているのです。
“輪流喝飲料”
有一天,天氣很熱。在休息時間,學生們輪流著喝一瓶裝在硬塑料瓶中的飲料。說到“輪流喝飲料”,日本人會覺得是幾個人使用同一個容器,而且是嘴對著容器口喝。
然而,學生們喝飲料時,嘴離開瓶口幾公分,不接觸瓶口而是將飲料倒入口中。看到這種情景,我覺得有點兒不可思議,于是詢問一位來自韓國的學生。據他說,在韓國,輪流喝一瓶飲料時,即使是朋友之間也不會像日本人那樣嘴對著瓶口喝。聽了這番話,我有點兒意外,而看到我臉上顯出驚異的神色,那位韓國學生似乎覺得不可理解地反問我道:“老師,那么日本人是如何輪流喝一瓶飲料的呢?”。在日本,同性朋友之間,有時即使對方是異性,一般并不忌諱從同一個容器口輪流喝飲料。相反,如果接過朋友遞過來的飲料,喝時嘴離開瓶口幾公分的話,我想會給對方留下不禮貌的印象吧。也許應該如是考慮:欲與他人輪流喝一瓶飲料的人,此時已把對方看作是與自己關系親密的人。反過來說,一般情況下,如果不愿意與對方同飲一瓶飲料,就不會主動將飲料讓給對方。日本人在輪流喝同一瓶飲料的時候,也若無其事地在衡量著與對方之間的“心理距離”。
日漢対訳読物 15 桜に思う
春が來た。中國の大地には、季節の交代を告げる色様々な花が咲いているだろうと思う。日本は桜のシーズンだ。亜熱帯の沖縄では、1月から咲いているが、そろそろ九州や四國からも、桜の開花の便りが屆くころだ。日本は南北に細長い國だ。長い時間をかけて、南から北へ、順に桜の花が開いていく。
桜(主にソメ?ヨシノ)の開花日が等しい地點を結んだ線を、「桜前線」と呼んでいる。前線が東京を通過するのは3月末ごろ。東北地方の大部分は4月。5月になると、やっと北海道の各地に至る。
桜は日本人の生活の中にも深く根をおろしている。
中國と違い、日本の學校は4月に始まる。小學生になった子供と親たちが手をつないで入學式に出かけ、桜咲く校庭で記念寫真をとるのは、昔から変わらない日本の風物詩だ。
「花見」も春の楽しみの一つだ。人々は桜で有名な行楽地へ出かける。東京の上野公園や新宿御苑、大阪の大阪城公園や「造幣局の桜の通り抜け」には多くの人たちが押し寄せる。
花見客たちは桜の下に座って酒を飲んだり、食事をしたりして春の一日を楽しむ。歌ったり、踴ったりする人もいる。會社などでは、職場の同僚たちが桜の下で宴會を開く。宴會の幹事はいい場所を確保しなければならず、夜の宴會のために、晝から「先鋒隊」を公園へ派遣することもある。
古都?京都は桜の名所が多い。秋の紅葉の美しさが名高い嵐山は、桜でも有名だ。ここには、桜のある景色を描寫した故周恩來首相の詩碑もある。日本に留學した周氏は1919年4月5日に嵐山を訪れた。ピンクの桜と、緑の松は霧雨の中にけぶっていた。しかし、しばらくすると、雲間から太陽の光が差し始めた。そんな光景と、自らの思いを込めながら、周氏は詩を詠んだ。碑に刻まれた詩は、この時のもので、60年後の1979年4月、トウ穎超夫人を迎えて詩碑の除幕式が行われた。
周氏が嵐山を訪ねた1カ月後、中國では五四運動がまき起こる。周氏は帰國して運動に加わった。嵐山の詩は革命家の若い日の記録として殘っている。
1972年9月、周氏は首相として、日中國交正常化の交渉に臨み、北京を訪れた田中角栄首相ら代表団を、歓迎夕食會を開いてもてなした。人民大會堂の華やかな會場では、解放軍が奏でる日本と中國の歌の數々が流れた。最初の日本の歌は「さくらさくら」だった。周首相は、嵐山の桜を思い出しただろうか。
中國にも、たくさんの桜があるようだ。
私が仕事で、北京に駐在していた時、家族で、玉淵潭公園へ、花見に出かけた。訪れた時期が少し早かったためか、桜の花は少なかったが、公園は大勢の人たちでにぎわっていた。人民日報海外版は、玉淵潭公園には7種類、約3000本の桜があると紹介している。一斉に、満開になると、さぞかし美しいだろう、と想像している。
中國の人たちがたいへん親しんでいる春の花は何だろうか。やはり牡丹だろうか。私が中國の牡丹を初めてじっくり見たのは、山東省済南市の公園を訪ねた時だった。ずいぶん大きな花だなと思った。梅の花もまた中國の人たちに愛されているように思う。
桃園も、菜の花畑も美しい季節だ。うららかな一日、中國の春の花を見ながら、散歩してみたい。
五十川 倫義(朝日新聞)
櫻花
五十川 倫義
春天來了。中國大地當是百花斗艷,正在宣告季節的交替吧。日本正值櫻花時節。位于亞熱帶的沖繩,一月份花就開了,接下來,從九州、四國,很快就會傳來櫻花開放的消息。日本地形南北狹長,櫻花從南到北依次開放,能開很長時間。
把櫻花(主要是“染井吉野”櫻花)同時開放的地點連接起來,這條線叫“櫻花前線”。前線通過東京大概是在3月末,東北大部分地區是4月份,到了5月份,才能到達北海道各地。
櫻花的根,也深深地扎在日本人的生活中。
和中國不同,日本的學校是4月份開學。剛剛成為小學生的孩子們拉著爸爸媽媽的手參加入學典禮,在櫻花盛開的校園里照相留念,這是一首經久未變的日本風情詩。
“賞花”也是春天的樂趣之一。人們去有名的櫻花勝地賞櫻。東京的上野公園、新宿御苑,大阪的大阪城公園和“造幣局櫻花通道”,總有很多人紛至沓來。
賞花的人們在櫻花樹下飲酒、吃飯,享受一日春光。也有人唱歌跳舞。公司的同事們在櫻花樹下舉行宴會。為了晚上的宴會,組織者們有時白天就要派“先遣隊”去公園,以確保能占一個好地方。
古都京都有很多櫻花名勝地。以秋天紅葉之美而聞名的嵐山,櫻花同樣負有盛名。這里有周恩來總理描寫櫻花景色的詩碑。1919年4月5日,當時在日本留學的周恩來來到嵐山,看見粉紅色的櫻花和綠色的松樹在雨霧中若隱若現,不久,陽光從云間照射下來。面對此景,周恩來賦詩抒懷,碑上刻的就是這一首。60年后的1979年4月,鄧穎超夫人訪日時,舉行了詩碑的揭幕典禮。
周恩來游嵐山一個月后,中國掀起了五四運動。周恩來回國參加了運動。嵐山之詩,記錄了革命家的年輕歲月。
1972年9月,周恩來作為總理舉行歡迎宴會,招待來北京進行中日邦交正常化會談的田中角榮首相率領的代表團。在人民大會堂金碧輝煌的宴會廳,人民解放軍奏起了日本和中國的樂曲。第一首就是日本的“櫻花”。不知那個時侯,周總理是不是想起了嵐山的櫻花。
中國好象也有很多櫻花。
我因工作常駐北京時,曾全家去玉淵潭公園賞花。可能是去得稍早了一點,櫻花還很少,可是公園里人很多,熙熙攘攘,十分熱鬧。人民日報海外版介紹說,玉淵潭公園的櫻花有7種,約3000株。可以想象,這些櫻花一齊盛開的時候,一定是非常美的。
中國人最喜歡春天的什么花呢?大概還是牡丹吧。我第一次仔細觀賞中國的牡丹,是在山東省濟南市的公園里。當時覺得牡丹花可真大。印象中,梅花也很受中國人的喜愛。
春天來了,這是一個桃花、菜花也非常美麗的季節。真想在明媚的日子里,一邊散步,一邊欣賞中國春天的花。
日漢対訳読物 16 桜を知る
王 京
私は去年3月末に日本に著いたが、空気はまだやや冷たかった。何人かの日本の友人に會うと、最初の言葉は決まって「いい時期に來ましたね」であった。この「時期」は言うまでもなく、桜の季節である。
今、日本では「花」といえば、説明を加えない限り、必ずと言っていいほど桜のことをいう。しかし、昔からそうだったわけではない。西山松之助先生の研究によれば、古くは「花」といえば梅の花だったが、後になって次第に桜に定著してきたそうだ。詩を詠みながらお酒を飲み、歌や踴りを楽しむということは、宮廷貴族の「風流」な花の宴を物語っていたが、これは大陸への憧れから生まれた模倣である。ただ、「花」の?メージを桜に集中させるのは、日本人の獨特な美的感覚だと言わざるを得ない。
外國人の心の中でも、桜は日本を代表している。中國でも日本で制作された宣伝用の絵を常に目にすることができる。絵の上部には、日本のシンボルとされる富士山がうっすらと雪化粧をしてそびえたち、その山麓(さんろく)をみめ麗しい新幹線が疾走する。手前の一角をみると、斜めに何本かの桜が満開して、薄いピンクと澄み切った青空とがよく映えている。たとえ、富士山を日本人の心の中の永遠の古里といえば、新幹線は日本経済の飛躍的発展を表しており、桜は日本人の自然に対する思い、美的風情のシンボルだと言えよう。
中國で花といえば、人々は豪華絢爛たる牡丹(ぼたん)を思い浮かべるだろう。また、優雅で奧ゆかしい蘭の花、雪の中で鮮やかに咲く梅の花、すらりと美しい蓮の花??地域の違い、経歴の違いによって、思い浮かべるものも多様である。日本と比べ、多くを包容している気がする。この點において、斎藤正二氏の見解はかなり面白い。同氏は、日本の國の花―桜は社會神話であり、民族主義、國家主義の産物であるという。これは、「花と言えば桜、人と言えば武士」という言葉からもその面影を見ることができる。
もちろん、日本人の桜に対する愛著を政治に帰結させることはできない。中國人と日本人の花を観賞する最も大きな違いは、中國人の対象拡散に対する日本人の集中だと言うより、中國人は開花」を観賞するのに対し、日本人は「落花」を観賞することだと言った方がいいかもしれない。中國人は、花が満開した時の鮮やかで美しい様子が好きであり、日本人は、花が散り去る時の淡々とした哀傷を観賞するようである。
桜の特徴は姿が消えやすいことで、普通1週間ももたず、しかも風や雨に會えば、一瞬にして散ってしまうのである。京都の有名な「哲學の道」に沿って散策すると、春日よりの日差しの切れ間から、ひとしきりひとしきりとそよ風が頬を撫でてゆく。それにつれて、桜の花びらが舞い落ちる。地面に落ち、谷川に落ちる。そして、さらさらと流れ去る川はこれらの精霊を運んでゆっくりと、しかも戸惑うことなく、遠くに流れ去る。確かに、ある種の生命のはかなさ、盛者必衰の感を覚えてしまう。
桜にはある種の魔力があるかもしれない。それでもって、遠い昔と今を結びつけ、慎重というものを奔放へと導き、無常の感嘆を現世の大事なものに変えているのかもしれない。桜を知り盡くせば、日本人を知り盡くすことになるのではないかと思われてならない。
王 京(人民日報)讀解櫻花
王 京
我是去年三月底到的日本,空氣中還略帶著些寒意。幾位日本朋友見到我們的第一句話便是“來得正是時候”,這個“時候”,不用說,是指賞櫻時節了。
今天在日本說到“花”,如果不加以說明,幾乎一定指的是櫻花,然而并非自古如此。根據西山松之助先生的研究,“花”在上古,最初是梅花,后來才逐漸定格于櫻。吟詩飲酒,絲竹歌舞,體現著宮廷貴族“風流”的花宴,可以說是源于對大陸憧憬之下的模仿。然而“花”的意象凝聚于櫻之中,則不得不說是出于日本人獨特的審美意識了。
在外國人心中,櫻花也代表著日本。記得在國內常常可以看到日本制作的一幅宣傳畫:上面是被認為最具代表性的日本——青峻的富士山頂白雪皚皚,頭部呈流線形的新干線高速列車由山麓呼嘯而過,近處一角,是斜斜的幾枝綻放的櫻花,淡雅的粉紅與澄凈的藍天相互映襯。如果說富士山是日本人心目中永遠的故鄉,新干線是日本經濟騰飛的標志,那么櫻花則是其自然感受,審美情趣的象征。
在中國,提到花,人們也許會聯想起雍容華貴的牡丹,清幽素雅的蘭花,傲雪怒放的梅花,婷婷玉立的荷花??,因地域不同,經歷不同,浮現出的意象不一而足。相對日本而言,顯現出一種多元包容的姿態。在這一點上齋藤正二的意見頗為有趣,他認為日本的國花櫻花,是一種社會神話,是民族主義、國家主義的產物。這可以在“花推櫻花,人數武士”的口號中看到一些影子。
當然,日本人對櫻花喜愛不能歸結于政治。中國人與日本人的賞花的最大的不同,也許并不在于中國人的對象擴散而日本人的集中,而在于中國人賞“花開”,日本人則是賞“花落”。中國人喜愛鮮花盛放時的嬌艷美麗,而日本人則欣賞落花紛飛時那份淡淡的哀傷。
櫻花的特點便是易逝,一般只能持續不到一周,而一遇風雨便會滿樹凋零。沿著京都著名的“哲學之道”漫步,春日斜陽之中,陣陣微風拂過,白色的櫻花花瓣便飛舞而下,輕盈地散在地上,落入溪中,而淙淙的流水就輕輕載著這些精靈緩緩地,卻是堅決地遠去了。的確有一種生命易逝,盛者必衰的感觸。
櫻花也許是有一種魔力,聯系著遠古與今天,引導著拘謹走向奔放,將無常的感嘆變為現世的珍惜。也許讀懂了櫻花,便會讀懂日本人吧。
王 京(人民日報)
日漢対訳読物 17 桜と牡丹
西園寺 一晃
前々回のコラムで王京さんと五十川さんが桜について書いていました。今日は4月15日、東京の桜は散りはじめ、いたる所で花吹雪が見られます。世の中の不景気を吹き飛ばすような染井吉野の艶姿を見ているうちに、私はかつて北京で友人と交わした花談義を思い出しました。私は中學校3年から大學を卒業するまで、10年間を北京で過ごしました。當時の中國は政治運動の連続で、経済的にも大変貧しい時代でした。東西冷戦の最中で、緊張した毎日でしたが、それでも學生たちはそれなりに生活をエンジョ?していました。當時の中國は外國との交流はあまりありませんでした。でも周りの學生たちは結構外國のことを知っていて、日本人の桜好きのことも知っていました。
北京大學在學中の春のある日、學友の1人がおもしろい議論をふっかけてきました。
「やっぱり日本人は桜そのものだな、國民性といい、思考方法といいまさに桜だ。ところで君は中國人を花にたとえればなんの花だと思う」というのです。私たちは「花と國民性」について大いに議論しました。
彼の意見によると、日本人は桜、中國人は牡丹だといいます。桜はパッと咲いてパッと散る、咲くときも一緒、散るときも一緒。散り方が美しい。一輪一輪の花はこれといった特徴はなく、目立たないが、樹全體、林全體の花となると圧倒されるような華麗さと迫力がある。つまり日本人は、行動様式が集団主義的で、規律を重んじ、集団からはみ出すことはしない。1人ひとりの個性はないが、集団では大きな力を発揮するというのです。
一方中國人は、個性が強くあまり集団行動は好まない。他人と同じことをするより獨創的なことをしたいという意識が強い。牡丹という花は、同じ木の花でも咲く時期は一緒ではないし、形や色が微妙に違う。同じ木の花同士妍を競う。だから中國人的だというのです。
たしかに日本人はあまり自己主張はしませんし、議論が下手だといわれています。それに比べ中國人の議論好きには定評があります。彼の「中國の指導者は大変だよ、何億という個性の固まりをまとめなければならないのだからね」といって笑った顔が印象に殘っています。
時代が進み、世代が変わる中で、「桜」の日本人は変わりつつあります。たとえば會社というのは1つの集団ですが、古い世代はこの集団のために個人や家庭を犠牲にしてまで粉骨砕身働いてきました。公休をとるのも何となく後ろめたさを感じるほど「會社人間」が多かったのです。今の若い社員は組織に縛られるのを嫌います。もちろん公休は権利として堂々ととります。前は年に1,2度あった社員旅行は、最近あまりしなくなりました。若い人が嫌がるからです。旅行は個人で、あるいは気のあった者同士で行くべきであり、個人の時間を制約されたくないという理由です。堂々と自己主張する人も増えました。これは決して悪いことではないと思いますが、やはり年配者の中には何となく割り切れない人がいることも事実です。これは良い悪いというよりジェネレーション?ギャップでしょう。
「牡丹」の中國はどうでしょうか。「新人類」という言葉も生まれるほど、やはり世代間の考え方や習慣の違いは大きくなっていると聞きます。
絢爛(けんらん)たる中華文明にはぐくまれた中國人と、その文明から大きな影響を受けた日本人。しかし若い世代は本來の伝統的文化に加え、グローバリズムが席巻する中で、さまざまな文化の影響を受けるのは必至です。新しい中國人と日本人の誕生です。
私はいくら時代が変わり、世代が変わっても、「桜」と「牡丹」はそれぞれよき伝統は引き継いでもらいたいし、なによりも仲良くしてもらいたいと切に願います。日中の友好と協力は?ジ?の安定と平和の基礎ですから。
櫻花與牡丹
西園寺 一晃
上上次的欄目中,王京和五十川就櫻花暢談了各自的感受。今天是4月15日了,東京的櫻花已經開始凋零,到處落“櫻”繽紛。
欣賞著怒放的染井吉野櫻花直欲把世間的不景氣吹得云飛霧散似的艷姿,我想起了在北京曾經和朋友進行的一場關于花的清談。
從中學三年到大學畢業,我在北京住了十年。當時的中國,政治運動不斷,經濟也極為困難。而且,正值東西方冷戰,每天都很緊張。但是,學生們還是以自己的方式享受著生活。當時的中國與海外幾乎沒有交流,可周圍的同學對外國的情況知道得并不少,也知道日本人喜歡櫻花。
在北京大學上學的一個春天,一天,一位同學向我提起一個很有意思的話題。
“日本人其實就是櫻花嘛,國民性也好,思維方式也好,簡直就是櫻花式的。如果用花來比喻中國人的話,你說用什么花好?”我們就“花與國民性”展開了熱烈的議論。
依他說,日本人是櫻,中國人是牡丹。櫻花開得快謝得也快,一起開放,一起凋謝。花謝的樣子非常美麗。一朵一朵的櫻花單看時沒有什么特征,不怎么顯眼,可是,如果是一棵櫻花樹、一片櫻花林,其華麗和氣勢能夠壓倒一切。也就是說,日本人的行為方式屬于集團主義,注重紀律,不脫離集體。具體到每個個人,沒有什么個性,可是集合起來,就能發揮巨大的力量。
相反,中國人個性較強,不太喜歡集體行動。傾向獨創,不愿與他人雷同。牡丹花即使同處一株,花期不同,花形花色彼此微妙區別,相互競艷。因此,牡丹更像是中國人。的確,一般來說,日本人不太強調自我,不善論辯。相比之下,中國人的好辯是有定評的。“中國的領導人太難當了,要把幾億充滿個性的人攏到一起。”同學說這話時的音容笑貌,至今難忘。
隨著時代進步和世代交替,屬“櫻”的日本人也在變化。比如說,公司是個大集體,有很多“公司人”為了這個集體,到了可以犧牲個人和家庭,為公司粉身碎骨工作的程度。休個公休日,都要感到有點說不出來的內疚。現在的年輕職員則不同,不愿意受組織束縛,公休日作為自己的權利,堂堂正正地享受。以前公司每年要搞
一、兩次集體旅行,現在也不怎么搞了,因為年輕人不太喜歡。理由是,旅行應該是個人或者是同合得來的朋友一起去的,個人的時間不希望公司支配。另外,公開堅持自己主張的人也多起來了。我認為這不是壞事,當然同時也要承認,有些上點年紀的人對此多少有些不快也是事實。這不是好與不好的問題,應該說是一種代溝吧。
屬“牡丹”的中國現在如何?我聽說,已經到了出現“新人類”的程度,不同世代之間想法和習慣的差異,同樣也是越來越大。
絢爛的中華文明哺育的中國人,受中華文明極大影響的日本人。然而,年輕的一代在接受傳統文化的同時,身置國際化浪潮的席卷之中,各種文化必然對他們產生影響。新中國人和新日本人也就由此誕生。
不管時代怎樣變化,世代怎樣變化,我殷切希望,“櫻花”和“牡丹”能夠繼承各自的好傳統,世世代代,友好相處。因為,日中的友好與合作是亞洲和平與安定的基礎。日漢対訳読物 18 牡丹と桜の縁 徐 志剛
花と國民性に関する西園寺先生の見解には獨特なものがある。よく考えてみると、日本人を桜にたとえ、中國人の性格特徴を牡丹にたとえることは、十分に適切だとは言えないが、しかし、それほど強引でもないような気がする。
私の古里―山東省の青島にも桜が多いが、いずれも遠いところからの來客で、ド?ツの西洋桜、日本の東洋桜と、それぞれその美しさを競っている。青島は季節的に東京よりやや遅く、晩春初夏、東京の桜がとっくに散ってしまったころ、我古里の桜はちょうど花盛りを迎えるのである。メーデー前後の何日かの休日は、絶好の花見の時期となる。
桜を「輸入」花とすれば、牡丹は中國の原産だと言えよう。牡丹は山東省荷澤と河南省の洛陽に多い。西園寺先生が訪れた済南から西に3時間ぐらい行ったところに荷澤がある。花咲く季節になると、果てしない花の大海原が広がり、東西南北から観光客が次々に押し寄せる。満開の牡丹は人々に我を忘れるほどの喜びを與えてくれるのだ。牡丹は妖艶であるわりには、辺ぴなところに育つ。それが、楊貴妃のちょう愛と文人たちの文筆のおかげで、ますます華やかさが膨らみ、早々と花王の栄冠を手にすることができたのである。
しかし、牡丹をここまで持ち上げた楊貴妃は惜しくも美人薄命で、美しくて悲しい物語を殘した。
日本留學の時に、この物語の日本版続編を聞くことになるとは思いにも寄らなかった。名古屋の熱田神宮は1000年の歴史を誇る神社であるが、楊貴妃がここで牡丹と相伴って生活していたという美しい物語が伝えられている。聞くところによると、多情な皇帝は、人々の目を忍んで、楊貴妃を遠い日本に送り、楊貴妃はここで寂しい一生を過ごしたそうだ??。楊貴妃が日本に渡ってきたというこの伝説は、人々のやるせない気持ちを幾分慰めるものである。
時代は発展するものである。先生がおしゃったように、社會も人間も少なからぬ変化を起こしている。ただ、一つだけ変わらないものがあると言えるなら、それは、日本人の桜に対する熱い愛であり、中國人の牡丹に対する一途な愛だと言えよう。
つい先日、日本?沖縄の某高校生からわれわれのところにお手紙が屆き、牡丹の栽培方法を尋ねられた。彼が通っている學校は中國の學校と姉妹校を結んでおり、彼らが桜を送ったら、中國から牡丹の種が送られてきたという。どうしてもこの牡丹を無事に咲かせたいが、経験がないため、手紙で牡丹の種からの栽培方法を尋ねようとしたのである。
私は、この互いの交流と理解を象徴する桜と牡丹に祝福を捧げたい。その花が、根を下ろし、芽を吹き、花を咲かせることを願ってやまない。実は、中國の各地にも桜林があって、桜の花見はずいぶん前から中國人の春先の一大行事として定著しており、日本人も同じく牡丹の花が好きなようだ。今後、中國に桜の木がますます多くなり、日本で牡丹の花がますますきれいに咲くことと信じている。このような桜と牡丹の交流は、中日両國人民の交流の歴史に、牡丹と桜の縁として殘るだろう。そして、知らず知らずのうちに、両國人民の「國民性」にも影響を及ぼすだろう。
ちなみに、ちょうど今日(4月15日)、第18回國際洛陽牡丹祭りの幕が上がる。西園寺先生はしばらく中國にいらしてないのでは?できれば、ぜひお忙しい中から、お時間を割いて荷澤と洛陽に來られ、牡丹の風貌を一目ご覧になってほしい。牡丹櫻花緣
徐 志剛
關于花與國民性,西園寺先生的見解很有獨到之處。細細想來,以櫻花比喻日本人、牡丹比喻中國人的性格特征,雖難說十分吻合,卻也不算勉強。
在我的故鄉山東青島,也有許多櫻花,都是遠道的來客。德國的西洋櫻,日本的東洋櫻,在這里爭奇斗艷。青島的季節比東京略晚,春末夏初,東京的櫻花早已開過,故鄉的櫻花卻是盛開時節。“五一節”前后,幾天休假,給人們提供了極好的賞櫻時機。
如果說櫻花是“進口”花,那牡丹就是中國原產了。牡丹以山東菏澤和河南的洛陽為多。從西園寺先生到訪的濟南,西去三個小時就是菏澤。花開時節,一望無際,天南海北的游客摩肩接踵,盛開的牡丹給人們帶來了忘情的歡樂。牡丹嬌艷卻生于僻鄉,但承楊貴妃的寵愛,加之文人墨客的鼓吹,富貴有加,早早贏得花王的桂冠。
然而,成就她們的楊貴妃卻是紅顏薄命,留下了一個美麗而凄慘的故事。
留學日本時,沒有想到,居然聽到了這個故事在日本的下篇。名古屋的熱田神宮,一所千年神社,流傳著楊貴妃在此與牡丹相伴的美談。據說,多情的皇帝避開人的耳目,偷偷將貴妃送到了遙遠的扶桑,貴妃在這里伴著牡丹渡過了寂寞的一生??。這個貴妃東渡扶桑的傳說,給人們在遺憾中留下了些許安慰。
時代是發展的,正如先生所說,無論是社會,還是人,都會有不小的變化。如果說,有一點不會變的,大概就是日本人對櫻花的熱愛、中國人對牡丹的鐘情吧。就在前兩天,我們收到來自日本沖繩某高中的一封來信,詢問牡丹的栽培方法。他們和中國的學校結成姐妹校,他們送去了櫻花,對方回贈的是牡丹種子。他們一心要把這牡丹栽培成功,因為沒有經驗,特來信詢問從種子開始的培育方法。
很愿意為這象征交流和理解的櫻花、牡丹祝福,希望她們能夠生根,發芽,開花。實際上,中國各地已有很多櫻花樹林,欣賞櫻花早已成為中國人春天的一大盛事,而日本人也同樣喜愛牡丹。相信今后,中國的櫻樹會越栽越多,日本的牡丹也越開越旺,這種櫻花和牡丹的交流,將在中日人民相互交往的歷史上,留下一個牡丹櫻花緣的佳話,甚而潛移默化地影響兩國人民的“國民性”吧。
順便一提的是,第十八屆國際洛陽牡丹節剛好于今天(四月十五日)開幕。西園寺先生有些時間沒有來中國了吧?如能抽出時間,不妨忙里偷閑地來荷澤和洛陽走走,觀賞一下牡丹的風采。
徐 志剛(人民日報)
日漢対訳読物 19 食在中國
野口 拓朗
年をとると、食べることに執著してくる。あと、何回飯を食えるのか。指折り數えるとまではいかないが、日々の楽しみのひとつが食事である。
「食」といえば、中國は本場である。「四本足で食べないのは機だけ」と言われるほど中國の人々は食い道楽である。おかげで、中國に滯在していた折、奇妙なものまで口に入れる幸運に恵まれた。
貴州省でのこと。車に乗っていると、突然、食堂の店先に丸裸の動物が陳座しているのが見えた。下りてよく見ると、犬の肉だった。道路の両側長さ200メートルほどにわたって犬肉を食べさせる食堂がひしめいている。初めて見る光景だった。同行した貴州省政府の職員がにやりとして言った。「ここの名物です。體が溫まって元気が出ますよ」
どこに行っても、「野味」という看板にぶつかる。カエルやヘビ、タヌキ、ハトなどが檻の中で出番を待っている。上海の知人にお呼ばれした時に、カエルとヘビが出た。カエルは鳥肉のようにサクサクとして美味だった。ヘビは空揚げで、細長いせんべいのように見えた。我が家の家系はどうもだまされやすいようだ。小學生の息子は當時、足が速くなりたくて仕方なかった。同席した日本人の友人に「ボク、これを食べると足が速くなるよ」と言われてコロリだった。パクパクとたくさん口にした。その甲斐があったのか、運動會では堂々2位だった。
サソリを初めて體験したのは山東省でだった。この地方の特産で、サソリの養殖で大もうけした「サソリ大王」の記事がよく新聞に出る。これも空揚げだったが、せんべいのような口ざわりで、淡泊な味だった。北京のホテルのレストランでたまたま山東省フェ?をやっており、サソリもあった。子供達は嫌がるかとも思ったが、「スナック菓子みたい」と意外に歓迎された。
最近、日本にも直輸入されるほど、日本人の間で人気急上昇なのが上海ガニだ。「左黨がシーズンを待ち焦がれる」と言われるほど、あのねっとりとしたカニのミソと熱燗の紹興酒が合うのだ。食べ頃は10月から12月まで。上海近郊にある陽澄湖、洪沢湖、太湖などが産地だ。大きさにもよるが、市場では1匹50元-100元、ホテルでは3、4倍の値段になる。
上海に赴任した頃、こんな話を聞いたことがある。ある日本人の婦人がカニを市場で買った後、ヒモで足を縛られたカニをかわいそうに思い、ヒモを切って袋に入れた。翌日、食べようと思って、袋を見たら、もぬけの殻だった。
いやな人とお付き合いで食事する場合、カニを選ぶとも聞いた。足を割って肉を出すことなどに労力を費やし、食べるのに一生懸命になるので、自然と會話をしなくてもすむからだ。カニは體が冷えるので、食べ過ぎると腹をこわす。
企業の駐在員がこぼしていたのを思い出す。秋になると、顧客や上司らがだんご狀態で出張して來る。お目當てはカニ。毎晩、おつきあいした揚げ句、胃の調子がおかしくなった、というのだ。
中國にいると、日本人はどうしても刺し身が戀しくなる。北京では大連あたりからいい魚が入るが、南ではそうはいかない。作家の陳舜臣さんから面白いことを聞いたことがある。刺し身はもともと中國でも食べていたが、食中毒で死んだりしたので熱を通すようになったという。南でも?ケスを泳いでいる魚介類を自分で選んで食べさせる海鮮料理屋があるが、確かに蒸したり炒めたりだった。「用心深いのかな」とも思う反面、東京で刺し身に目がない中國人を見ると、頭の中が混亂してしまうのだった。
食欲は人間の三大欲望のひとつだ。食文化ひとつをとってみても、中國人の嗜好は果てしがない。人間の研究という意味でも、盡きることのない、奧深い、最も面白い民族であると、私はつくづく思う。
食在中國
人上了歲數,對飲食也執著起來。雖不到掰著指頭數今后還有幾頓飯可吃的地步,飲食確實成了每日的樂趣之一。
說到“飲食”,中國當數第一。“四條腿的只有桌子不吃”,中國人對吃津津樂道。我在中國的那段時間里,有幸嘗到了許多稀奇古怪的美味。
有一次在貴州省,我坐在行駛中的汽車里,突然發現了一家飯館的門口,擺著一個光溜溜的動物。下車仔細一看,原來是一只被剝光了皮的狗。200多米長的馬路兩側,密密麻麻的排列著賣狗肉的小飯館。這光景還是有生以來頭一回看到。同行的貴州省政府的人微微一笑,告訴我說:“這可是本地的特產,吃狗肉既暖身又提勁兒。”
在中國不論走到哪兒,都能看到寫有“野味”的招牌。青蛙、蛇、貍子、鴿子等,關在籠子里,等待食客挑選。一次一位上海朋友招待我,就上了青蛙和蛇。青蛙肉像雞肉一樣松軟可口,干炸的蛇肉,很像細長的脆餅干。我們家好像有那么一種容易上當受騙的遺傳,兒子當時還是小學生,特別希望自己能跑的快些,同席的日本朋友就對他說:“你吃了這個,會跑快的”。兒子信以為真,大吃一通。也許是因為這一吃的緣故,學校開運動會,他居然堂堂地拿了個亞軍。
頭一次吃蝎子是在山東省。蝎子是山東的特產,報上不時出現一些養蝎子發大財的“養蝎大王”的報道。蝎子也是炸著吃,吃起來就象脆餅干一樣,淡淡的。有一次一家北京飯店的餐廳舉行山東省商品展銷,其中就有蝎子。本以為孩子們可能不會喜歡這東西,沒想到卻很受他們的歡迎。
最近,直接從上海進口的上海大閘蟹在日本人氣急升。尤其是愛喝兩口的,望眼欲穿地盼著吃蟹季節的到來,鮮稠的蟹黃配上香熱的紹興酒,堪稱一絕。吃上海大閘蟹的季節通常在10至12月之間。上海近郊的陽澄湖、洪澤湖、太湖等地是大閘蟹的產地。根據大小的不同,一只螃蟹要賣到50—100元,在賓館吃,更是身價3、4倍。
在上海工作期間,聽到過這樣一件事情:一位日本婦女在市場里買了螃蟹,看到螃蟹被繩子綁著很可憐,就把繩子割斷放進了袋子里。第二天打算吃螃蟹時,打開袋子一看,袋子里唱了一出空城計。
聽人說,和不喜歡的人一起進餐,螃蟹為上選。掰開蟹腿取肉等很是麻煩,把勁兒都用在了吃上,可以不必多和對方廢話。螃蟹屬于涼性食物,吃多了會鬧肚子。
說到這兒,想起一個企業駐外人員的牢騷話來。一到秋天,他的客戶和上司就一個接一個地來此地出差,不用說都是沖著螃蟹來的。每晚作陪,把胃都吃出毛病來了。
去了中國,日本人很自然地要留戀生魚片。在北京,可以從大連一帶運來新鮮的魚,到了南方就辦不到了。我從作家陳舜臣先生那里聽到過這樣一件有趣的說法:中國以前也吃過生魚片,因為發生食物中毒出了死人,就改成加熱后食用了。在南方,有些海鮮館兒把活魚貝類放養在魚缸里,讓顧客自己挑選,但都是蒸著或煎著吃的。那時我想,“中國人真夠仔細”,可是當我在東京看到大嚼生魚片的中國人時,就不知該怎樣理解才好了。
食欲為人類三大欲望之一。單拿食文化來說,中國人可說是“欲壑難填”。我常常想,從人類學的意義上說,這真是一個難以窮盡的最有趣的民族。
日漢対訳読物 20 食べ物は最高の友好親善大使
王 麗萍
「舊暦の新年と新暦の新年」という今年正月の文章の中で、著者は日本人が舊暦の祝日を新暦で祝っている習慣を取り上げている。「郷に入れば郷に従え」で、日本にいる私は新しい習慣に従っているが、古い習慣も忘れていない。つまり、日本の新暦で祝うと同時に、中國の舊暦でも祝っているのだ。結局、祝日によっては二回祝うこともある始末だ。たとえば、つい先日の「端午の節句」も、日本人が菖蒲を買って菖蒲湯を楽しむ時、私はもち米と小豆を買って帰り、國內から持ってきたナツメや葦の葉、ネジ?ヤメで粽(ちまき)を包んだ。そして、そこら辺からヨモギを取ってきて家の入口に飾った。中國の舊暦では、端午の節句はまだ早いというのに??。
作った粽はいつも友人たちに分けてあげているが、毎年好評を博している。日本の友人は、とりわけナツメに感心する。そのたびに、私は聞いてしまう。「日本は、中國や世界各地から多くの食品を輸入しているのに、どうしてナツメはないの?」當然、答えはない。中國の漢方でナツメは、補気養血(気を補い、血を造る)の働きがあると言われ、東漢時代の張仲景の『傷寒論』にある「桂枝(肉桂の枝分かれしている細い枝)スープ」は、「桂枝?芍薬?甘草?生姜」のほかに「ナツメ」が入っている。ナツメを食べて體を養うということは、だれもが知っている常識となっている。北方では、10月になると、さくさくする生のナツメが食べられる。赤いナツメだと一年を通して買い求めることができ、デパートにいけば、様々なナツメの加工食品が並んである。
日本人は、飲食と健康に気を使い、自然食品を嗜好するというのに、ナツメを食べる習慣がないとは、殘念で仕方ない。そこで、私が中國から日本に帰る時のお土産は、いつもナツメの加工品、あるいはサンザシなどになってしまう。そして、周りの友人たちもだんだんとナツメに馴染んできて、しかも好きになってきている。
何をやるにも最後まで突き詰めないと気が済まないのが私の悪い癖のようだ。普通、友だちにナツメのよさを紹介し、実物を上げたらそれで十分となるだろうが、私はなんとナツメの木を友だちが植えないものかと考えてしまうのだ。偶然にも、ある大型園蕓店でナツメの木の苗を発見した私は、これこそが問題解決の根本であると考えた。そこで、農園を持っている友だちに、ナツメの良さと美味しさを説明し、ナツメの木を植えることを提案したのである。意外なことに、友だちは私のこの奇想天外な申し入れを快く承諾してくれ、何本か苗を買って來て植えてみるという。6月にナツメの花の香りが漂い、10月になり、赤いナツメが枝いっぱいに実っている風景を想像すると、興奮を抑えきれない。
ナツメと同様、私は日本の友人にそのほかの種類も勧めている。ス?カの種、ひまわりの種、カボチャの種などだ。中國ではひまわりの種の油は、コレステロールの抑制作用があり、しかも、肌の美容によい高品質の食用油として知られている。中國人の家庭では、春節や祝日にはもちろんのこと、日常もこれを手放すことはない。デパートやスーパーマーケットに、種のコーナーがないということは考えられない。日本にいろいろな味のポテトチップスがあるように、中國の種にも多くの種類がある。最近、日本の若い女の子の間で唐辛子を食べるのが流行っているようだが、ダ?エットのためだという。私は彼女たちに勧めたい―─ひまわりの種を食べなさい。美味しくて美容にもよく、それをおやつにすると、太る心配などないから、と。
日本で、ひまわり類の種はもっぱら鳥やリスなどのペットの餌となっており、ペットショップやペットフードショップなどに行かないと、買えない。つまり、優雅な場にはふさわしくないとされているのだ。このひまわり類の名譽復帰を図ろうと、私は常に家に遊びにくる日本人の友だちをもてなした。日がたつにつれ、友だちの中には食べ方がとても上手になる人もいて、みんな美味しそうに食べてくれた。もっと後になると、私が彼女たちの炒めたひまわりの種などをいただくようになったのである。小林という友だちは、私にこんな話を聞かせてくれた。最初、彼女の家でひまわりの種などを食べるのは彼女1人しかおらず、「鳥みたい、リスみたい」と、みんなに笑われた。しかし、少し時間がたつと、子供たちが一緒に食べ始めた。普段、親とも交流が少ない子供たちだが、これを食べ始めると、不思議と會話が多くなる。最後に、彼女の旦那さんが好奇心に駆られて、幾つか食べてみる。「おい、美味しいじゃないか。鳥がこんなに美味しいものを食べているなんて、贅沢だな。」それ以來、旦那さんも一緒に食べるようになったそうだ。
現在、私が友だちの農園に植えたひまわりの苗は青々としていて、すくすくと育っている。この夏にはきっと黃金の花を咲かせるだろう。種が成って、鳥が來て食べたらどうしようかと、心配している友だちに、私は大丈夫だと言った。鳥も食べる権利がある。鳥が半分食べ、人間が半分食べる。これこそ、人間と自然の在り方なのではないか。
私は冗談半分に、自分のことを中國の種の親善大使と呼んだことがある。種の文化交流に力を盡くしているから。野口先生は、中國で多くの珍しいものを召し上がり、「食は中國に在り」という言葉を身をもって體験されているが、今度は何か日本の食品を中國の友人に紹介してほしいと思う。たとえば、納豆―─失禮。先生がお好きかどうかは存じ上げてないが、多くの中國人が臭い豆腐を嫌がるように、多くの日本人も納豆を食べないと聞いている。ただ、私は納豆大好き人間だ。しかも、私に影響されて、我家族と親戚は、皆納豆フ?ンである。なんと、弟の1才になったばかりの娘も納豆愛好家となっているのだ。
王 麗萍(人民日報)
親善食品 王 麗萍
“新歷年 舊歷年”一文中,作者提到日本人按新歷過舊歷節的習慣。入鄉隨新俗不忘舊俗,我現在是日本的新歷過,中國的舊歷也過。結果,有些節就過兩次。比如剛剛過去的日本“端午”。當日本人買回菖蒲,用來菖蒲浴時,我買了糯米、紅小豆,加上國內帶來的紅棗、葦葉和馬蓮草,包了粽子。還從外面采了一把艾蒿放在了門口。其實按照中國舊歷算,端午還早呢。
每年包粽子,總是與朋友共享,每每得到好評。日本朋友尤其對其中的紅棗,贊不絕口。這時,我總是問,日本從中國以及世界各地引進了很多食品,為什么沒有紅棗呢?答案自然是沒有的。中醫認為紅棗有補氣養血功效,東漢時代的張仲景《傷寒論》中,“桂枝湯”一方除了“桂枝、芍藥、甘草、生姜”外,就是“大棗”。在中國,吃棗補身體是常識。在北方,10月份,可以吃到清香脆甜的鮮棗,而紅色的干棗一年四季都可以買到。商店里還有各種棗的加工食品。
對飲食養生很講究,崇尚自然食品的日本人沒有吃棗的習慣總是一件很遺憾的事。每次從國內回來送給朋友們的禮物,不是棗的加工品就是山楂等類。漸漸地,周圍的朋友們熟悉了棗,并且很喜歡。
干什么愛鉆牛角尖是我的毛病。按理,向朋友們介紹棗的功效,送給他們實物,已經可以了。可是,我居然想到種棗樹上。一次,我在一家在大型園藝店,偶然發現了棗樹苗。我想這是從根本上解決問題的辦法。我對一位有農園的朋友,講了紅棗的養生與美食,并建議他種棗樹。對我的異想天開,朋友竟欣然應允,答應買幾棵來種。想象著六月棗花飄香,10月紅棗掛滿枝頭的景象,不能不讓人興奮。
同紅棗一樣,我還向日本朋友“推銷”瓜子:西瓜子,葵花籽,倭瓜子。在中國瓜子油是高質量食用油,對膽固醇有抑制作用,據說對皮膚還有美容作用。中國人家里過年過節自不必說,平日里也少不了它。商店里,自由市場上,沒有賣瓜子的柜臺和攤點,那簡直不可想象。像日本賣的各種口味的炸土豆片一樣,中國的瓜子流派也很多。據說最近日本年輕女性流行吃辣椒,為的是減肥,我想對她們說,吃瓜子吧,又好吃又美容,用瓜子代替甜食,不用擔心發胖。
在日本,瓜子是專門用來喂鳥和松鼠之類寵物的,除了寵物店或寵物食品專柜買不到瓜子,不登大雅之堂。為了給瓜子正名,我經常用它招待常來家玩的日本朋友。久而久之,一些人竟能很熟練地扒瓜子,吃得津津有味。再后來,我就吃他們炒的瓜子了。一位叫小林的朋友對我說,一開始她家中只有她一個人吃,大家笑話她是鳥、松鼠。沒想到,時間一長,孩子們也跟著吃起來。平時和家長交流不多的孩子們,扒起瓜子來,話竟多起來。最后,她丈夫忍不住好奇,嘗了幾個。“嗯,味道不錯嘛。鳥吃這么好吃的東西,也太奢侈了。”從此以后,丈夫也加入到吃瓜子的隊伍來了。
目前,在朋友的農園里,我種下的向日葵已經綠苗茁壯,生機勃勃,相信今年夏天一定會開放出金燦燦的花朵。朋友說,結了瓜子,鳥來吃怎么辦?我說,沒關系,鳥也有吃的權利。鳥吃一半,人吃一半。這才是人與自然應有的關系。
我曾開玩笑地戲稱自己是中國瓜子親善大使,力促瓜子文化交流。野口先生在中國吃了很多稀奇古怪的東西,親身體驗了“食在中國”。建議您也把日本的什么食品介紹給中國朋友吧。比如納豆。請原諒,我不知道您是否喜歡,因為我知道像很多中國人討厭臭豆腐一樣,很多日本人不吃納豆。但我特別喜歡納豆。并且,在我的影響下,我的家人和我在中國的親屬,大家都是納豆謎,就連弟弟剛滿一歲的小女兒也是納豆愛好者。
王 麗萍(人民日報)
日漢対訳読物 21 強い志を持つ朋に會えた
穴吹 史士
有朋自遠方來不亦楽乎(とも有り、遠方より來る。また楽しからずや)。「論語」の冒頭に出てくるこの1節は、日本人の間でも、比較的よく知られている。私の世代では、10代の初めで覚えさせられた。40年たったいまも、新しい友と出會い、古い友人と再會するたびに、繰り返し思い出す。
孫盛林さんと初めて會った2年前にも、孔子のこの言葉が頭をよぎった。彼自身のそのときの説明によれば、「生後の9年を山東省で過ごし、その後の9年を黒龍江省で、次の9年を北京で、そしてまた9年あまりを東京に住み、今に至っている」という話だった。日中間の交通が容易、かつ迅速になったとはいえ、私は「遠方より來る」という思いを持った。
孫さんは私より15歳も年下で、彼は當時、人民日報の?ンターネット版日本サ?トを軌道に乗せるため、文字通り徒手空拳、獅子奮迅(ししふんじん)の働きをしていた。私もまた、印刷媒體からウェブの世界に転じたばかりで、新しい表現スタ?ルを模索して苦労していた。孫さんに、世代、年代を超えた同志を見たのである。
「日中飛鴻」は、ただでさえ多忙な孫さんに一層の負擔を強いることになった。私もまた、その後、がんを発病、入院、手術を経験する。しかし、お互い、?ンターネットというメデ??の未來に揺るぎない確信を持っていたことが、この小さなコラムを続けさせたのだと思う。この間、人民日報?ンターネット版は、飛躍的に読者を増やしたそうだし、asahi.comもまた、急成長した。
「朋」という概念は、幼時をともに過ごした仲間や、學校の級友や職場の同僚といった枠をはるかに超えて、どんどん拡大している。なにやら?ンターネットの広がり方に似ている。実際、?ンターネットが、思いもよらぬ友人を探し出してくれることも多い。
私は、友人たちと私的なサ?トを共有しているが、そのサ?トに30年以上音信がなかった古い友人から連絡が入り、昔に増して親しい交際を再開している。そんな中の1人は、ずっと長く?メリカの地方都市に住んでいるので、會って話をする機會をまだ持てずにいる。朋有り、遠方にいて、來たらず、亦楽しからずや、である。
asahi.comのなかで私が編集しているAIC(?サヒ??ンターネットキャスター)というコラムには、世界中から投書が寄せられる。私は、投書の主と仲よくなる癖があり、うち2人をコラムの正規の執筆者に起用してしまった。また、見ず知らずの別の投書者の誘いで、上海までカニを食べに出かけたこともある。
友人を見つけるのに、?ンターネットは便利だということを、私が説きたいわけではない。本當のことをいえば、知り合いはもうあまり増やしたくない。この年になると、人とのつきあいがめんどうにもなってくる。
しかし、強い志に出會うと、ついつい體と心が反応してしまう。私が言いたいのは、「朋」を作り出すのは、志であるという話だ。強い志は、多くの人の気持ちを揺さぶり、引きつけ、友人にしてしまう。志こそ、國籍や年齢、性別、職業を超えて、人を結びつける、?ンターネットよりはるかに普遍的な力なのだ。
孫さんの活動を、陰に陽に助けた數多くの友人。その多くが日本人であることを、私は誇りに思うし、自分がその中の1人に數えられたいとも思う。
穴吹 史士(朝日新聞)
同志出良朋
穴吹 史士
有朋自遠方來,不亦樂乎。《論語》開篇這一節名句,在日本人中也較為人知。與我同年代的人,在十幾歲時就被灌輸在腦子里。40年過去的今天,無論與新朋相會,與舊友重逢,仍總要想起這句話來。
兩年前與孫盛林第一次相見,孔子這句話再度在腦海中閃現。他自己介紹說:“小時候在山東呆過九年,其后在黑龍江九年,在北京九年,來東京也有九年了。”盡管中日之間交通已經變得容易而迅速了,我還是感到,他是自“遠方”而來。
孫君小我15歲,他當時為了人民日報網絡版日本站早日上軌道,真正是赤手空拳,發憤工作。我自己也處在剛剛從印刷媒介轉向網絡世界的當口,正為新的表現形式苦苦摸索。一見如故,引他為超越世代、年齡的同志。
《日中飛鴻》,給本來就忙的不可開交的孫君增加了新的負擔,而我,在那之后,也經歷了癌癥發病、入院和手術的變故。是彼此對因特網媒介的未來的堅定信念,才使這個小小的欄目得以持續。在這期間,人民日報網絡版日本站讀者人數取得了飛躍的增長,朝日新聞網絡版,也快速成長起來。
“朋”的概念,超越幼時的伙伴、學校的同學和單位的同事的范疇,不斷地擴大。頗像因特網的擴展形式。實際上也是,通過因特網,經常會遇到預期不到的朋友。
我和友人運營的一個個人站點,斷絕了30年音信的老朋友突然找了上來,重續友情,親密不亞當年。其中有一個人,一直居住在美國的地方城市,至今沒有機會見面敘舊。正是,有朋在遠方,未曾來,不亦樂乎?
朝日新聞網絡版中,我編輯的AIC(朝日因特網主持人)專欄,收到來自世界各地的來稿。我有個和投稿人交好的毛病,甚至啟用了其中的兩個人作為專欄的正式執筆人,還應另外一位素未謀面的投稿人之邀,專門跑到上海去吃螃蟹。
要交朋友,因特網是個便利手段——我想說的不是這點。說真話,已經不想多結識人了。到了這個年紀,和人交往有時甚至覺得有些麻煩。
但是,遇到有志者,身心不由自主地發生感應。我想說的是,同志出真朋。強大的志向,能夠打動許多人,吸引他們,終成摯友。志向是一種普遍的力量,遠遠大于因特網,可以超越國籍、年齡、性別、職業等因素,把人聯結在一起。
孫君的工作,得到眾多朋友各個方面的幫助。朋友中有很多日本人,使我感到很是自豪,也希望,自己能成為那其中的一個。
日漢対訳読物 22
外では友だちが頼り
孫 盛林
中國には「家では両親が頼り、外では友達が頼り」という言い方がある。これは、まったくそのとおりで、一生涯のうち、家にいる時間は限られており、人生の大部分は友達に頼らざるを得ない。海外にいて、周りに親族もいない、言葉も文化も違う、考え方も違う、社會制度も違う、となるとなおさらだ。人間はしかり、仕事もまたしかりである。
これほど感無量なのは、5月1日がちょっと特別な日であるからだ。この日は、人民日報?ンターネット版の日本サ?トが設立されて2年半にあたり、日本語版の創刊から1年半になる、ちょっとした記念日なのだ。各分野の支持と協力がなければ、日本サ?トと日本語版の今日の発展は想像もつかなかったことは言うまでもない。その一つに、私達が多くの日本の友人に恵まれたことにある。
海外で仕事を展開する際、常に様々な問題にぶつかるが、まずは、中國と異なる各種規定や制度が一つの難関となる。そこで、経済コンサルタントである私の友人は、ずっと無償でわれわれを助けてくれ、いろいろな??デ?を出したり、私達のためにあちこち奔走したりしてくれた。彼いわく:「私は中國の東北部で十何才まで育っており、そこは私の古里である。日本が過去にやったことに、私は自分の力の及ぶ範囲で償って行きたい。微々たるものに過ぎないかもしれないが、私の気持ちである」 その素樸で誠実な言葉に胸を打たれる。
似たようなことは數え切れないほどある。私達が日本語版の翻訳レベルの低迷に悩んでいる時、私の學生の1人が自分の中國留學時代の友達を紹介してくれ、これによって、われわれは初めて日本語を母國語とする校正者を得たと同時に、編集部で日本人パートを採用する先例を切ったのだ。また、私たちが日本語ができる人材を集められなくて困っているとき、私の東京大學時代の恩師がたまたま北京外國語大學の日本學研究センターの客員教授として赴任しており、そのつながりでわれわれは學生の就職を擔當する先生と知り合い、日本語の優秀な人材を常に確保することができるようになった。ある友人は、日本語版の創刊以來、ずっと訳文に対する批評を?ンターネットを通じて寄せてくださり、私どもの影の先生になっている。さらに、日本サ?トがオフ?スの改裝工事のため、居場所がなくなった時も、1人の友達がうまい具合に、東京近郊にある自分の建物を提供してくれたので、われわれは支障なく仕事を続けることができたのである。
穴吹先生は「學問の海に深まる友情」(4月1日更新)に対する返信の中で、人民日報と朝日新聞が交換しているコラム「中日飛鴻」を取り上げて、そのメーリングリストのタ?トルが「Friendship=友情」となっていることを指摘していた。先生がご存知のとおり、両社の?ンターネット上の友情は、私たち日本サ?トを取材した朝日新聞記者の縁結びで始まり、雙方のリーダーシップとメンバーが精一杯育てて來た賜物(たまもの)なのである。ちなみに、最初のその取材は、東京大學の若い1人の先生の紹介で始まった。
中國には、「一滴の水の恩を涌き出る泉をもって報いる」という言い伝えがある。日本サ?トと日本語版はゼロからスタートしたが、今日では十數人のメンバーを抱え、日本人の正社員もおり、畫面もある程度充実し、改善された。とりわけ、毎日訪れる1萬人に及ぶ「?ンターネット?フレンド」は、私たちの友人の輪を大きく広げ、私たちに苦労の甲斐を教え、発展への自信を與えている。「大きな徳は、感謝の言葉を待つまでもない」と中國では言われているが、実にそのとおりで、感謝してもし切れないのだ。1000字あまりの短い文章では、われわれがこれまでに與えられた支持と協力の萬分の一も書き盡くすことができない。彼らは、私たち一人ひとりに、また私たちの仕事に大きな手助けをしてくれただけでなく、中日友好のために盡力して、さらに両國の民間交流における重要な構成部分でもある。われわれはその全てをいちいち數えるすべもないが、いつまでも忘れず、これからも、ひたすら仕事に勵んで行くだろう。
私はこの短いお手紙をもって感謝の意を表すと共に、日本の慣用語お借りして結びに代えさせて頂きたい‐‐今後とも、どうぞよろしくお願い申しあげます!
孫 盛林(人民日報)
在外靠朋友
孫 盛林
中國有句俗話:在家靠父母,出門靠朋友。這話一點不假。人的一生中,在家的時間畢竟有限,這就決定了人生的大部分,要靠朋友才能成事。身居國外,舉目無親,語言文化不同,思維方式不同,社會制度不同,就更是這樣了。人且如此,事業亦然。
發此感慨,是因為今天有一點特殊的意義:五月一日,是人民日報網絡版日本站建站兩年半、日文版創刊一年半的一個小小紀念日。可以說,沒有各個方面的支持和幫助,日本站和日文版能有今天的發展,是不可想象的。其中之一,是我們受惠于很多日本朋友。
在國外開展工作,經常遇到一些問題,那些不同于中國的各種規章制度首先就是一道難關。我的一位做經濟咨詢師的朋友,一直無償地幫助我們,出謀劃策,跑前跑后。他說,“我在中國東北長到十幾歲,那是我的故鄉。對日本過去的行為,我想在自己力所能及的范圍內做點補償。雖然微不足道,但是我的心意。”樸素真誠,令人動容。
類似的事例,不勝枚舉。在我們為日文版翻譯水平難以提高而苦惱的時候,我的一個學生,介紹了她在中國留學時的朋友,于是我們開始有了第一個母語日文校對,也開了編輯部采用日本臨時工作人員的先河。在我們為招收日文人才沒有進展而發愁的時候,我的東大的導師恰巧在北京外語大學日本研究中心短期任教,通過他的穿針引線,我們接洽到了負責學生就職工作的老師,開始有了日文優秀人才的穩定來源。一位朋友,從日文版創刊開始,堅持不懈地對譯文進行評點,通過因特網,她成了我們不見面的老師。在日本站因為辦公地點改建而一時無著時,又是一位朋友,及時騰出了他在東京近郊的房屋,使我們得以不間斷工作。
穴吹先生在《誼深學海》的回信中提到,人民日報和朝日新聞為“中日飛鴻”專欄進行工作交流的郵件列表,名字就是“友情”。正如先生所知,兩個報社的網上友情,開始于一位采訪過日本站的朝日新聞記者的牽線搭橋,以及雙方領導和工作人員的精心培育,而最初那次采訪,則起源于東大的一位年輕老師的介紹。
滴水之恩,當以涌泉相報。日本站和日文版從零起步,今天有了十幾個人,并開始有了日本正式職員,版面上也得到一定程度的充實和改觀。特別是,每天來訪的這支上萬人的“網友”隊伍,大大壯大了我們的朋友圈子,讓我們感到辛苦的價值,增添了發展的信心。大德不言謝,實際上謝也是謝不過來的。一篇千字的小文,書不盡我們所得到的支持和幫助之萬一。他們所做的,不僅僅使我們個人、我們的工作受益匪淺,更是為中日友好的大業盡心盡力,是兩國民間交流事業的一個重要組成部分。對這一切,我們無法一一盡數,但始終不會忘懷,無法一一報答,唯有努力工作而已。
我愿意用這封短信,在聊表謝意的同時,借一句日本俗話來結尾:今后還請,多多關照!
日漢対訳読物 23 學問の海に深まる友情
王 麗萍
今年の1月、私はまた、保定の古蓮池を訪れた。
前回來たのは去年の秋であり、五十川倫義先生への返信の中で、その感想を述べている。実は、保定古蓮池で私は、「張裕ザオ宮島大八師弟記念碑」を見つけ、同じく深い感銘を受けていた。あれ以來、詳しいことまでは知らなかったこの記念碑は、時折、私の頭の中に浮かんできたものだ。
後になって、「中國語と近代日本」(安藤彥太郎著)という小冊子を何気なくめくっていると、なんと、宮島大八の名字が目についたのである。それで、やっと謎をとくチャンスに恵まれ、嬉しくてしかたなかった。
この本いわく、1887年、19才の宮島大八(1867―1943)は父宮島誠一郎の紹介で、直隸省(河北省)の保定府にある蓮池書院に行き、當時、桐城派學者で、著名な古文學者、碑學派書法大師でもある張裕ザオ(1823―1894)の下に弟子入りしたという。
1895年、宮島大八は帰國し、自宅で私塾を開いて中國語を教えはじめ、後に善隣書院と名付ける。當時、日本には正規的な中國語教育がなかったため、私塾は日本での中國語教育の中心となっていた。その後、宮島大八は東京外國語大學中國語學科の主任に任命される。ところが、張裕ザオが湖北省の出身であったため、宮島大八にも湖北なまりがついてしまい、その影響を受けて、當時東京外國語大學を出た學生はみな多少湖北調になっていた。彼の著作「急就篇」は、戦前日本の中國語教育の経典であり、40年間で170版あまり出版されたのである。
保定の蓮池書院が清代の名學府であったことは知っていたが、日本の中國語教育とこれほど深い関係があるとは知らなかった。
1月、再び保定古蓮池を訪れた時は、ちょうど降雪後の初晴れで、園內には観光客もなく、亭や樓閣、小橋や遊歩道、うまく作られた山や枯れきった柳の木は、みな靜まり返っていた。去年きた時、咲き散った蓮がそこら一面に広がっていた池は、氷と雪に覆われ、靜かに眠っている。小さな石を散りばめた遊歩道に沿って、私は奧ゆかしい西の庭に辿りついた。黒玉石で造られた「張裕ザオ宮島大八師弟記念碑」はここに立っている。正面は日本の著名の書法家で、張氏書法の第三代継承者である上條信山の書で、橫の額面「誼深學海」という大きな四文字は、中國の有名な書法家―啓功の題字である。そして、碑の後ろの銘文には、遠い昔の物語がつづられていた。
蓮池書院は詔書を受けて1733年に設立され、170年あまりの歳月を経て、1908年に閉院する。1883年から1889年まで、張裕ザオは李鴻章の招へいを受け、蓮池書院の院長となる。
蓮池書院が日本の留學生を受け入れ始めたのは、張裕ザオからであり、宮島大八はその第一人者であった。宮島大八が蓮池書院にきた時、定員はすでに決まっていた。そこで彼は、自分はご高名を慕ってきたので、張の下以外には入れないと表明した。その実直な意志を見た張裕ザオは、特別、李鴻章に事情を説明し、許可を得た後に、この海を渡ってきた學生を受け入れたのである。中國の習慣に基づいて、ひざまずいての師弟の儀式が行なわれた。宮島大八は、中國の學生達とより多く交流すると共に學問に対する自分の心を表すため、辮髪を長し、中國の服裝を身にまとった。
宮島大八は張裕ザオに付いて、まずは蓮池書院に、後は一緒に武昌と襄陽書院にいた。その間、大八は結婚のため一時帰國するが、彼が再び襄陽に戻った時、先生の姿が見えなかった。あちこち訪ね、先生がすでに長安に行っていることを知った彼は、漢水を遡って荊紫関を通り、厳冬に秦嶺を超えて、やっと先生との合流を果した。宮島大八は張家の一員となり、張に隨って経學、訓詁、書法と、日夜、筆と墨の世界に浸っていた。1894年1月14日、張裕ザオはこの世を去るが、宮島大八は、先生のお體を清め、喪に服し、最後まで見送ったのである。
宮島大八は8年間張裕ザオに連れ添い、古文儒學を深く取得したが、最も収穫の大きかったのは、なんと言っても書法であった。宮島大八は張裕ザオ碑學派の真髄を身につけ、日本に戻ってからも引続き勉學に勵み、日本書法界の大家となると共に、獨自の流派を形成するまでに至る。
蓮池書院を後にしていると、いつか東京の代々木にある善隣書院に行って見ようという思いが私の脳裏を掠めた。聞くところによると、百年あまりの歴史を持つこの書院は、今も相変わらず中國語の學校として殘っていると言う。
王麗萍(人民日報)
誼深學海--張裕釗與宮島大八
今年一月,我又一次來到保定古蓮池。
上次來訪是去年秋天。在給五十川倫義先生的回信中,我談到了保定旅游的感想。其實,在保定古蓮花池看到一塊“張裕釗宮島大八師生紀念碑”,同樣給我留下深刻的印象。以來,這塊我不知細節的紀念碑不時地在腦中閃現。
后來,無意翻閱一本叫做《中國語與近代日本》(安藤彥太郎著)的小冊子時,居然讀到了宮島大八的名字。終于有了揭謎的機會,令我興奮不已。
書曰,1887年,19歲的宮島大八(1867-1943)在其父宮島誠一郎介紹下,到直隸省(河北省)保定府的蓮池書院,師從桐城派學者、著名古文學家、碑學派書法大師張裕釗(1823-1894)。
1895年宮島大八回國,在家中開設私塾教中文,后稱善鄰書院。當時日本沒有正規的中文教育,私塾成了日本中文教育的中心。后來,宮島大八出任東京外國語大學中國語科主任。由于張裕釗是湖北人,結果宮島大八也有了湖北口音。受其影響,當時東京外語大出來的學生多少都帶湖北腔。其著作《急就篇》是戰前日本中國語教育的經典,40年中出了170多版。
只知道保定的蓮池書院是清代的名學府,卻不知還與日本的中文教育有著如此深的淵源。
一月再訪保定古蓮池時,正值雪后初晴,園中沒有游人,靜靜的是那亭臺樓閣,小橋曲徑,假山荒柳。去年來時的滿池殘荷,變成平靜的冰雪池面。沿著碎石小徑,我來到幽靜的西小院,黑玉石的“張裕釗宮島大八師生紀念碑”就立在那里。正面碑文為日本著名書法家、張氏書法的第三代傳人上條信山所書。橫額“誼深學海”四個大字,是中國著名書法家啟功的題字。碑的背面銘文,記述了一個很久以前的故事。
蓮池書院奉詔建于1733年,1908年停辦,歷經一百七十多年。1883年至1889年,張裕釗受李鴻章之聘,任蓮池書院院長。
蓮池書院接收日本留學生始于張裕釗,宮島大八為第一人。宮島大八到蓮池書院時名額已滿,但他表示,自己慕名而來,只愿入張門下,不愿他就。見其心誠,張裕釗特報請李鴻章得準,收了這個渡海而來的學生。按照中國的習慣,行了師生跪拜禮。為便于與中國學生交往和表達自己向學之心,宮島大八也留起發辮,穿起中國服裝。
宮島大八隨張裕釗先在蓮池書院,后又一起到武昌和襄陽書院。其間,大八因婚事回國,當他再返襄陽時,卻不見了老師蹤影。他四處打聽,得知老師已去長安,溯漢水,過荊紫關,嚴冬時節翻越秦嶺,得以和老師會合。宮島大八成了張家一員,隨張學經學、訓詁、書法,日夜相隨筆墨之間。1894年1月14日,張裕釗辭世,宮島大八為老師凈身,送終服喪。
宮島大八跟隨張裕釗8年,除了古文儒學受益匪淺,更大的收獲在書法上。宮島大八得張裕釗碑學派書法真傳,回到日本后繼續潛心研習,成為日本書法界的大家,并且自成流派。
游完蓮池書院,我突然冒出一個念頭,什么時候還得去位于東京代代木的善鄰書院看看,據說,歷經一百多年,它仍舊還是一所中文學校。
日漢対訳読物 26 友情の積み重ねが大切
穴吹 史士
恥ずかしい話だが、宮島大八という名も、張裕ザオという名も、私は初めて聞いた。いいわけをすると、このコラムの日本人執筆者の中で、中國の専門家でないのは私ひとりである。ほかの執筆者にとっては、當然知っておくべき有名な人物なのかも知れない。しかし、多くの日本人は私同様、この2人に関して、なにも知らないと思う。
日中間の爭いは、太平洋戦爭や日清戦爭、さらに歴史をうんとさかのぼった戦爭まで、日本史の授業で教えられる。また、一般向けの本もたくさん刊行されているので、みんな初歩的な知識は持っている。しかし、日中間の友情、それに盡くした人々の話となると、情報は極端に少ない。
戦爭を常に思い出し、反省を重ねることは、同じ悲慘な事態を繰り返さないために、重要な営みである。だからといって、友情の足跡に無知でよいという意味にはならない。だが、あまり友情面に言及すると、戦爭から目をそらそうとしているのではないかと受け取られたり、相手國におもねっているのではないかと思われたりすることが、日中間に限らず、ままある。
7世紀から9世紀にかけ、日本は隋、唐へさかんに公式使節を送り出した。船の難破で多くの死者、行方不明者を出しながらも、送り続けた。遣隋使、遣唐使といい、小學校でも教えられる史実だが、専門的研究者は他分野に比べて少なく、まとまった研究書も多くないのだそうだ。深く研究すると、日本の古代や中世の政治や文化の基盤が、ほとんど中國からもたらされた事実が明らかになり、自國の優位性を強調する戦前の風潮に合わなかったからだともいう。なんと狹量な學問的姿勢だろう。
私はいま、仕事の関係で、9世紀中葉に唐に渡った円仁という仏教僧のことを調べている。遣唐使の一行から脫走する形で中國にとどまり、武宗が行った中國史上最大の宗教弾圧で追放されるまで、9年にわたって、各地を転々とした。宮島大八と同じく、「師を求めて」の中國行きだった。その學問を志す情熱には、すさまじいものがあり、苦労の末、長安にたどりついて、何人かの師に巡り會うことになる。
円仁は克明な日記をつけていて、中國の正史に欠落している貴重な記録もそのなかにはある。この日記が持つ世界史のレベルの価値を見いだしたのは、元駐日米國大使のラ?シャワー博士だった。日本の歴史家が國際関係の研究に冷淡だった証拠のひとつといえるかもしれない。
円仁の日記で印象的なのは、行く先々で出會う市井の中國人のこまやかな友情である。ある人は、遠路の道案內を買って出る。ある人は、友人や宿舎を紹介する。またある人は、路用の衣類や食糧を準備してくれる。円仁は帰國後、有力な宗派の長となり、彼が中國で學んだ當時の最先端思想が日本に広まることになるが、長安の師だけが、それに貢獻したわけではない。円仁の仕事の完成には、市井の中國人の親切な友情が不可欠だった。
戦爭は國と國との関係、友情は人と人との関係だと、つくづく思う。友情の記憶が戦爭のそれより伝わりにくいのは、そんなスケールの差と関係があるのだろう。それだけに、こまめな友情の積み重ねが大切になる。この「日中飛鴻」というコラムも、新聞社と新聞社という関係より、記者と記者、人と人という要素が強いように見える。そういえば、このコラムの筆者、編集者が記事をやりとりするメーリング?リストの名前は、確か「friendship=友情」と名付けられていたはず??。
穴吹史士(朝日新聞)
重在友情積累
說起來不好意思,宮島大八和張裕釗的名字,我都是第一次聽說。說句搪塞的話,執筆這個專欄的日本人中,只有我一個人不是中國問題專家。對于其他執筆者來說,也許是理所應當知道的人物,可是,我想大多數的日本人同我一樣,對于這兩個人,均是一無所知。
日本的歷史教學,對中日間的紛爭,比如太平洋戰爭、甲午戰爭還有那以前的戰爭都有所介紹,面向一般讀者的書也很多,因此大家都有些基礎知識。但是說到日中友情,說到為增進日中友情不遺余力的人們的事跡時,信息資料卻極其地少。
為了不使悲劇重演,經常回想戰爭、反省戰爭是很重要的工作。但這并不是說,對友情的足跡一無所知也無所謂。然而,友情的話題涉及太多,被懷疑是不是要轉移人們對戰爭的視線,是不是在討好對方等等,這種情況也是常有的,而且不僅限于日中之間。
從7世紀到9世紀,日本不斷向隋、唐派遣正式使節,史稱遣隋使、遣唐使。雖然海難帶來了死亡和失蹤,派遣仍然持之不懈,日本的小學校也在教授這些史實,然而與其他領域相比,這方面的研究者很少,象樣的研究著作也不多。原因在于,如果深究的話,日本的古代和中世的政治、文化基礎基本上都是從中國來的事實就會明白無余,這不符合戰前的強調本國優越性的潮流。多么狹隘的學術姿態啊。
我因為工作關系,現在正在研究9世紀中葉越海留唐的一位叫圓仁的佛教僧的情況。他以逃離遣唐使隊伍的方式滯留中國,直到遭遇武宗的中國歷史上最大的宗教鎮壓,受到追放為止,九年中輾轉中國各地。同宮島大八一樣,圓仁去中國也是為了“拜師”,追求學問的精神十分感人。經過一番勞苦,最后到了長安,幸遇了幾位名師。
圓仁寫有詳細的日記,其中包含了中國正史中遺漏的貴重記錄。首先發現這部日記所具有的世界史價值的是原駐日美國大使賴舍爾博士。也許這也可以說是日本的歷史學家對國際關系研究冷淡的一個證據。
讀圓仁的日記,給我印象很深的是,他所到之處接觸的市井平民們的深厚友情。有的人主動給他當遠路的向導;有的人把自己的朋友和宿舍介紹給他;還有的人,為他準備路途用的食糧與衣物。圓仁回國后,成為大宗派之長,他在中國學到的當時最先進的思想在日本得以傳播光大,這其中不僅是他的長安老師的貢獻。圓仁事業能有所成,更與那些平凡的中國人的友情分不開。
我深切地感到,戰爭是國與國的關系,友情是人與人的關系。友情之所以比戰爭難以流傳,大概是由于二者的規模太過懸殊。也正因為如此,點點滴滴的友情積累就更為重要。這個“日中飛鴻”欄目也是一樣,與其說是報社與報社的關系,不如說是記者與記者、人與人的要素更強一些。話說到這兒,我突然想到,這個欄目的筆者、編輯們為共同作業而使用的郵件列表,名字正是“friendship(友情)”??