第一篇:中日茶文化交流
中日茶文化交流概述
內容摘要:
茶,本只是一種植物,可在中日的共同努力下,它脫離了本來的僅為植物,化身成為一個受到歷史積淀,文化洗禮的東方居士,在它這兒有著特殊的東方特質,它起源于先秦,第一次繁榮在唐中期,并且東傳日本。第二次繁榮于兩宋,且點茶法傳入日本最終千利休含笑自殺之后形成了抹茶道,與煎茶道共同構成了日本茶道,明清沏茶泡茶盛行之后中日兩國茶文化分道揚鑣,中國將茶作為可口飲料,而在日本則成為了生活藝術。關鍵詞:茶,交流,茶道,發展,藝術 正文:
說起茶文化首先應從茶來說,應當澄清,茶非茶文化。對于茶,它是一個具有局部特色的飲料,只是伴隨著現代化的進程,它才得以沖出局部走向全世界。
對于茶,一個從一開始就掛著東方名片的植物,對于它的應用從一開始就是東方的專利,應該注明的是,尤其是中國和日本,對茶的認識,發展,以至于凝注成為茶文化都具有不可抹滅的貢獻,而茶文化在中日兩國之間的傳播、交流,同時又見證了兩國歷史的淵源,友好的往來。
首先,針對茶的起源來說,茶源自中國,早在先秦時期就已被運用。相傳“神農嘗百草,日遇七十二毒,得荼而解之”,雖說那是傳說,不足為據,但是在《華陽國志》中有記載說武王伐紂時巴蜀一帶已用茶葉作為納貢珍品,春秋齊景公時“食脫粟之飯,炙三弋五卵,茗茶而已”,由此可知,茶最晚在中國的西周時期已經得到使用,春秋時期被當做粥來食用,實際上中國有相當長時間內都在把茶當做食物來食用,而且現在也有很多的地方仍然食用茶葉,例如佤族、基諾族等。而在同時期的日本卻無這方面記載,最少以現在的歷史研究來看中國出現茶要比日本早。
從神農嘗百草的傳說可以看出:茶在中國一開始并非作為飲料,而是作為藥材彰顯于世。除了這個傳說之外,有精確史文記載的有:東漢時期神醫華佗《食論》中記錄“苦荼久食,益意思”,以及張仲景《傷寒雜病論》中記錄“茶治便膿血甚效”,陶弘景也曾記錄“茶,好主眠”,在此可以看出茶作為藥材在中國古代的廣泛使用。此外,根據西漢《僮約》中記載“烹茶盡具”,“武陽買茶”以及《漢書·王褒傳》記載:西漢時期成都已經是茶葉的集散中心和消費中心,成都人不僅飲茶成風,而且在地主富豪家,飲茶還使用了專門的茶具。茶在西漢時期已經開始被用作飲料,而四川成為了當時的茶葉生產和飲用中心,茶被當做商品來買賣,就不單單供農家自飲自食了,而是為它賦予了商品的職責,也就擴大了茶的受眾,更多的文人墨客就可以接觸到茶,并且在飲茶過程中產生廣泛的思想情感,為茶賦予更多的內涵,茶文化開始慢慢積蓄而成。
東漢末年,劃分三國。人們長期處于戰亂,社會不安定,人們渴望有一個精神寄托,進而佛教傳播興盛。佛教講求念經打坐參悟佛法,但有困神一直是他們的困擾。前面我們也說到了茶具有提神醒腦的作用,便深得佛教人士喜愛,特別是兩晉南北朝佛教盛行時期,茶隨著佛教的盛行而盛行開來。巴蜀文化中的茶文化在相互交流中逐漸傳播到吳楚越幾大文化系統中,但是國家不統一,南北方交流受到阻礙,南方茶文化已相當發達,但在北方卻未獲發展,直到隋唐時期,國家統一,南北方文化交流頻繁,南方的茶文化開始傳入北方,但是一直到初唐時期茶在北方雖說有發展,但也沒有普及,直到中唐時期,情況才有所改觀,北方開始普及茶。以至于在在德宗李適之后“關西、山東,閭閻村落皆吃之,累日不食猶得,不得一日無茶”這正是茶對中國北方百姓的影響寫照,也正是在這時,茶文化才真的普及南北方。
日本是沒有自生茶的,在中國引來,那現在就有一個問題了,茶是什么時候從中國傳到日本的呢?我們知道,徐福的傳說,他在秦朝就帶著3000童男童女,500技工,谷物種子,谷種各樣的大陸文明來到了日本,由此也促進了日本文明的飛躍發展;史料也記載有5世紀自稱秦始皇后裔的秦氏一族來到日本,六世紀朝鮮華裔王氏來到日本;南朝政權也曾派裁縫兄媛,弟媛到日本;專事佛教藝術的司馬氏一族也來到日本,可是這些卻沒有給日本帶來中國的茶文化,連一根茶葉也沒有帶去,甚至日本正倉院收集了九萬多件文物,囊括武具,樂器,服裝,佛像等很多類,可是唯一缺少的是茶,這是什么原因?
我們反過頭來看一下,中國茶直到中唐時期才在全國普及開來,而那徐福出海是在山東半島,是中國北方與日本的交流,對南方的文化傳播極少,正倉院在756年采集完成之時怕中國的茶還沒有普及,在長安,江東地區很難采購到茶。一直到了中唐時期,安史之亂之后,社會不穩定因素再度興盛,禪宗盛行,因而帶動著茶葉盛行,茶文化興盛,茶在南北方都普及開來。還有一個原因,一個非常重大(至少是在茶文化史上非常重大的一件事)不能被我們遺忘,那就是陸羽《茶經》的問世,它是世界上最早的一部茶學專著,創立了世界上最早的茶學,它對中唐時期茶文化做出了很好地總結,也正是在茶經問世之后,茶成了全國普遍性的飲料。又伴隨著這時期中日文化交流頻繁,日本多次派遣遣唐使,在大唐帶去了漢字書法藝術,服飾藝術,佛教禪宗,同這些緊密相連的就是茶文化,日本在學習中國文化時,同樣被中國的茶文化深深吸引,由此日本從中國引進了茶。
唐朝時期,像白居易、劉禹錫、皮日休、杜牧、陸龜蒙等大文豪們都留下了豐富的茶文化的詩。這一時期,中日交流頻繁,特別是日本留學僧人,例如圓載就與皮日休、陸龜蒙交往甚密,也正是由他們這些留學僧人將唐朝的茶文化帶去日本,弘仁茶風也就在那些僧人、貴族之間掀起。其中最具代表性的恐怕就是那三僧一天皇了吧,便是最澄和尚,空海和尚,永忠和尚,嵯峨天皇。正是他們引領了一個時代,引領了那個時代的茶文化,同樣也開辟了整個日本的茶道興旺。
但是,好景不長,自公元607年小野妹子來隋之后287年的交流于公元894年截至。中日官方交流阻斷了,同時中日官方茶文化交流也被阻斷,但是卻促起了中日民間交流。唐末時期,中國政局**,黃巢起義活躍,唐朝政治經濟衰落,加之日本財政緊縮,無法支持遣唐學習,又考慮到民間商人可以為貴族帶來奢侈品,因此就不再派遣唐使了,在此影響下,官方交流阻斷,雖說仍有民間交流,但出于經濟利益,對于文化交流的促進作用是極小的。
進入了五代,政局動蕩,國家不統一,但是在沿海地區的后梁、吳越地區,出于具有優良的港口,它們與日本具有廣泛的交流尤其是吳越,而且更有趣的是在這段時期內中日交往表現出吳越政權更加積極一些,而日本政府卻表現出淡定的態勢,與中國政權不冷不熱,其實原因也很簡單,主要是日本不想被中國當時那混亂的政治所牽扯。而他們又想與中國政府保持密切聯系,以為王公貴族們提供中國的商品。在這樣一種不冷不熱,僅限于商船往來的時代里,日本政府對于中國文化的熱衷程度冷淡,這就自然而然的使日本的茶文化發展緩慢,使中日茶文化的交流陷于窘迫。
在中國的宋代是一個茶文化大發展的時代,具體來說,宋代出現了龍鳳團茶、散茶以及點茶法,同時茶會茶宴斗茶等十分興盛,像歐陽修、梅堯臣等文人墨客對龍鳳差圖案散茶等也做出了描述,把他們記入詩詞,蔡襄《茶錄》中記載“鈔茶一錢七,先注湯調令極勻,又添注入環回擊拂。湯上盞可四分則止,視其面色鮮白,著盞無水痕為絕佳”,對點茶法做出了詳盡的描述,這些都能充分說明宋代茶文化的高度發展。然而處于與北宋同時期的日本平安時代中期至末期這段時間內,茶文化卻是處于“停滯”,這又是什么原因致使中國茶文化高度發達而日本茶文化卻處于“停滯”呢?
這時期,中國的北宋時代,眾所周知,這是一個重文輕武的時代,而文人又是茶的享用者,也是茶文化的主體創造者,加之北宋皇帝的極力推崇,就像宋徽宗曾描述過龍鳳團茶的品飲法,為了與民間飲茶區別開來,就限制了龍鳳團茶的生產,這充分證明徽宗對于茶的特殊鐘愛,由于皇帝的推動而茶文化急速發展。而與之相對應的日本平安時代中期至晚期是什么情況呢?最高統治者藤原氏對于茶的熱情投入太少,中日文化交流冷淡,宋代產生的龍鳳團茶并沒有傳入日本,沒有像唐代那樣直接影響日本茶文化的發展,還有一個原因就是平安晚期時代并沒有像弘仁茶風那樣有來華僧人將中國的種茶制茶飲茶方法帶入日本。
但是,真的是停滯嗎?雖然日本當時茶文化的發展相對與宋朝來說確實比較慢,但是呢,也并非是停滯,當時日本政權被外戚藤原氏控制,天皇家族逐漸成了傀儡,他們中的好多人成為可有可無的人,所以有些就去了寺院,由此日本茶文化的集中中心就從皇宮轉移至寺院中,而在白河天皇將政權從藤原氏手中奪回之后,奉茶儀式等典儀茶在日本興起,所以對那個時期并不能單純的說是停滯。
南宋時期卻出現了另一種情況,日本這時平氏集團崛起,平氏集團很早就嘗到中日交流的好處,所以在他執政起就迫不及待的將原來的私下貿易轉為公開貿易,而南宋這時候正處于相對穩定時期,所以中日進行了廣泛的交流。所以,在這個時期,中國的茶文化傳入日本,而促成他發展的就是被稱為日本茶祖的榮西,他來到中國學習禪宗,將南宋的禪和茶傳入日本,成為了日本臨濟宗的創始人,日本的茶祖。而他的《吃茶養生記》被稱為日本的《茶經》,榮西的茶文化直接傳承的就是天臺山茶史,一個可追溯到東漢的茶種植史。我們可以看到在中日政府以及榮西等僧人的推動下,中日茶文化交流頻繁,促成兩國茶文化繁榮,而日本則迎來了茶文化史第二次高潮。
可是,成吉思汗進入中原之后,元朝建立之后,中原原有的茶文化,煮茶,點差等很繁雜,中原文人們因家國喪滅,已經沒有心情去細細品茶,進行繁雜的茶理了,所以原有那種繁雜的制茶術漸漸被拋棄,而轉入較為簡潔的沏茶,而這一階段的飲茶就失去了前代那種欣賞世事的賞樂心情,而轉為對家國破滅的悲傷情懷,所以在這個時期,中國的茶的主體開始轉為散茶,但是同時像龍鳳團茶這樣的茶仍然存在,卻是作為貢品存在著。這時期,中日之間的交流是尷尬的,原因是中日官方沒有交流,但日本在那時候是非常崇拜中國文化的,所以私下商品交流卻是特別發達,這就使中國對茶文化的新發展可以通過私下商品交流傳入日本。所以呢物品方面特別多,根據這個情況,又有些資料顯示,日本在這個時期引進的中國的文化產品文物特別多,而茶文化本身卻發展不太明顯,不過,總體來說,從南宋到元末這個時期中日交流頻繁,文化發展迅速,日本茶文化迎來再次高潮。
在明朝這樣一個特殊的朝代里,出現了一個特殊的事情,那就是漢族人再次統治中國,然而那種繁瑣復雜的唐宋茶理卻沒有的以恢復,更有甚者,連那作為貢品的龍鳳團茶也給慢慢取消了,這又是什么原因呢?追本溯源還是明太祖朱元璋他是農民出身,深知茶農采茶不易,便取消團茶,而是炒青綠茶,它呢成本低,因此也就使茶真正進入平常百姓家。然而,那是一個奇葩的時代,就注定日本也有了奇葩事情出現,那便是從中唐一直追隨學習中國茶文化的日本,在中國那種沏茶為主的時代當中開始與中國茶文化分道揚鑣,他們就一直沿用了榮西傳入日本的蒸青綠茶點飲法,放棄學習明朝的炒青綠茶,直至千利休切腹之日起,日本茶道最終形成,在它出生之日起就為茶道賦予了一個神圣的內涵。也正是千利休開創那樣一個茶道,后世就完全原封不動的保持400多年,保留的不僅是那種儀式,更是千利休那種精神。
在清代,算得上是一個茶道定格的時代,清朝時期,海禁閉關,日本幕府統治也是同樣,所以中日之間官方交流極少,民間交流也不多,所以中日茶文化的交流是極少的,但在康熙年間,開放了寧波、云臺山、漳州、澳門等幾個對外開放城市。也就是這樣,福建的功夫茶得以傳入日本,除此之外就是中日兩國茶文化在本土的發展,清末時期中國境內由于茶的嫩度增加,以至于最后煎茶淡化,轉為泡茶,這就是中國現代泡茶茶葉繁多,煎茶極少的原因,也正是泡茶多,但是制作工藝并不繁雜,由此,中國茶分散性極大,尋常百姓幾乎家家必備茶。可日本在千利休切腹之后,一直受到千利休那種茶道的牽引,不肯放棄那種精神,所以那種復雜的茶道保留下來,同時,日本茶道形成了兩種,一種是以兩宋時期點茶為基準的抹茶道,另一種就形成了以煎茶為基點的煎茶道,參與者也非常廣泛,所以就在茶道上占據絕對優勢,所以現在說到茶道也基本就是抹茶道了。
參考文獻:
《食論》華佗
《傷寒雜病論》張仲景 《茶經》陸羽 《茶錄》蔡襄
《中日茶文化交流史》滕軍 《日本茶道文化概論》滕軍 《茶之書》岡倉天心
第二篇:中日茶文化比較
要旨
中國のお茶の歴史は三國時代から遡る。長い間中國の茶が世界に影響を與え続けている名作は唐時代の陸羽が書いた「茶経」である。その時からお茶を飲む活動は次第に王候貴族から一般の庶民へと広がった。宋時代と明時代を通して茶道は大きく変化し茶の葉の改良、茶器の発展、また茶道思想の完善を経て、今のようになった。
日本のお茶は平安時代に僧侶の最澄によりお茶の苗を持ち帰た。その後、村田珠光、千利休、豊臣秀吉などの名人が茶道に新しい製作法や禪の思想を導入し日本獨特な文化蕓術となった。
中日の茶道は自國の文化や歴史の影響により違う所がたくさんある。例えば茶の葉の種類、茶道の規則と過程また國民の性格と美意識などの方面で食い違う。キーワード:茶道 中日文化 比較 茶道の活動 禪 摘要
中國的茶史可以上溯到三國時代。中國的茶在很長時間里對世界產生持久影響的是唐代陸羽寫的《茶經》。那時開始飲茶活動就逐漸從王公貴族普及到平民百姓。經過宋、明兩代茶道發生了很大變化。茶道從茶葉的改良、茶具的發展到茶道思想的完善逐漸成為今天的樣子。
日本的茶最初是在平安時代由和尚最澄從中國帶回日本的。之后,村田珠光、千利休、豐臣秀吉等人將茶道引入了新的制作方法以及禪宗思想使之成為日本特有的文化藝術。
中日茶道因本國歷史文化的不同在茶葉的種類、茶道規則以及國民性格、美意識等面有很大差異。
關鍵詞 茶道 中日文化 比較 茶道活動 禪 序論
茶道というと、みんな日本の茶道を頭の中に浮かぶだろう。中國ではいつも茶文化と言う。なぜ日本の場合は茶道と読むのか、それは道というのは日本の伝統的な文化の一つであり日本獨特な読み方だからである。みんなご存知のように日本のお茶は中國から伝われ、そして絶えず発展し今のようになった。この點から見ればと中國は日本の先生と言ってもいい。でも日本の茶道は中國のと同じものではなく中國と違う道を歩んでいた。なぜその違いが出てくるかそしてその違いがどこにあるか、私はそれについて詳しく解明したい。1.中國の茶文化 1.1 茶道の定義
みんなご存知のように茶道は中國に源を発した。茶道の定義も時代の変化によって変わった。最初茶道の定義を決めたのは唐の時代にお茶を飲むことによって道を得ると言う意味だ。茶道の歴史は今まで発展しつつあり、茶道に対する定義もいろいろあった。ある學者は茶道を文化蕓能としてお茶を飲む活動と文化を完璧に結び、つまりお茶の中には道があり、お茶を飲むことによって道を得ると定義した。ある専門家は茶道を一種の室內の蕓能と呼ばれる。これらの定義を纏めると茶道とはお茶を飲む活動の形で精神的な感じと思想上の需要を満足すると言う意味である。ここでの茶道の活動は茶を植えることや茶の葉に対する研究ではなく、茶器、お湯やまたお茶を飲む場所に対する選択や飾りかたを含む活動である。1.2 茶道の起源と発展 1.2.1 様々なお茶を飲む活動
中國はずっと昔からお茶を飲む習慣があった。「三國志」によると呉國の皇帝が宴會で酒を飲めない大臣にお茶を賜った。その時からお茶を飲む習慣が始まった。最初は生理上の需要を満足するだけで、茶を飲む環境や茶器、茶の葉の質に対する特別な要求がない。その後感覚器官によって茶を味わう活動が出てきた。つまり特定の環境の中でお茶をゆっくり飲み味覚、視覚などを利用してお茶を味わう。これによって美を求め、人生の秘密を探求するという精神的な享受に達する。
もう一つの活動はお茶を入れる蕓術(茶蕓)だ。つまりお茶を味わうことと違い、人の主體性によって茶器やお湯にぴったり合うものを選び、茶の色、味、形などの品質を充分に発揮する活動である。そして茶道の思想もの中に入れてきた。1.2.2 茶道の起源と発展
茶道は中國の伝統文化の一つとしてその起源と発展はお茶を飲む文化の発展につれて生み出されたものだ。そして茶道の産生や形成また復興などは人間が自然や社會に対する認識、改造及び人類の活動と深い関係がある。
世界で第一回「茶道」という言葉が現れたのは唐の時代である。その時茶道は王候貴族の間に大いに行なわれてみんな茶がら付き飲む。それによって茶道が一定の格式を形成した。唐時代には政治、経済、文化がすごく発展し社會も安定していた。その條件の下で様々な茶道の流派が形成された。その中で一つは修行の形での茶道だ。この種類の茶道は一日中三回だけお茶を飲むと道を得ることができる。これは一般の人々にとっては難しいことだ。修行の茶道は古時代の詩人の陶淵明は都會から出て田舎に入って隠居の生活を送り、自分の希望や気持ちを花や森あるいは水の中に寄せるというような修行と同じ、僧侶が素樸な生活を送り現実中の悩みや不幸なこと、または不平等なことを回避するために茶道によって修行することである。一回だけお茶を飲むのは道を得られない。三回ずつ飲むと人間の肉體と心が徹底的に浄化され、神仙と人間を一體にする境界に達する。もう一つは茶蕓の形で行う茶道である。この種類の茶道については陸羽さんの書いた「茶経」がその代表作である。「茶経」は世界で初めてお茶のことを系統的に述べる本であり、中國の茶の歴史の中でも一番深い影響がある本である。茶蕓とは茶器や水などがお湯に対する影響もしくは茶の木の種類、栽培、加工、茶の葉の化學的な変化を研究することによってどのように質のいい茶を生産するかを考える過程である。そのうちにいろいろな道という精神的なものを得るのはこの種類の茶道の鍵だ。例えば、美味しいお湯を作るためにいろいろな調味料を適量に入れ、適當な火で煮る必要があるという例から國を治める時適材適當し、各階層の人間関係をうまく処理する必要があることが分かった。もう一つの例を挙げよう。「茶経」によるとお湯に適する水は一番いいのは山の水であり、次は海の水であり、最後は井の中の水である。この三つの水を見分けるために工夫をすることから物事に対する研究は表面に止まるのではなく、細かい所まで區別し物事をうまく把握する能力を育成する必要があることが分かった。つまり蕓能という茶道は人類が世界のあらゆる物に対する認識のレベルや、身につける程度を反映する。三番目は風雅の種類の茶道だ。これは前の二つと違い、のどの乾きを癒すために飲むのではなく、お湯や茶器などを選び、いいお茶を飲むのではなく、お茶を入れる過程を実演する形で現れる。そのうちに蕓術の趣が含まれ、鑑賞性や美術感に富む。この茶道の代表作は唐時代に出來上がった「氏を閉じてかぐことを閉じる」という本である。その本によると風雅の茶道とはお茶を飲む活動を通じて人々に精神文化の需要に実演の形での茶道を提供するということだ。つまり、物質的な享受と文化蕓術の享受を結び、茶を飲む活動に鑑賞性や文化蕓術性に富まらせることだ。これらの三つの種類の茶道の出現及び茶蕓に趣味を持つグループの形成がこれからの茶道の発展に重要な影響を與えた。
宋時代になると風雅の茶道と茶蕓の茶道が主流になり、以下の二つの特徴を持っている。第一、風雅の茶道は王候貴族から一般の庶民に普及した。その時國が繁栄し國內も安定している。貧しい人もお茶のことに注目を集めた。茶器も複雑から簡単に変わり庶民に受けられやすくなった。第二、茶蕓の形での茶道及び茶道の思想が普及した。具體的に言うと、お茶の精細さ質の良さを比較することによって、人間が世の中の物事に対する認識や理解及び把握の能力を反映した。このような茶道の思想は一般の庶民の中に普及するのではなく王候貴族の間にもよく伝わた。人間は物質の生活が満足している上精神文化を追求するようになった。これも平和の社會に積極的な役割を果たした。
明時代の初め頃朱権を代表とする茶道が人気がある。唐時代の団茶は葉の形の茶に変わった。茶道の思想も変化した。お茶を飲んでいるうちにお客さんが自分の意見を述べ複雑な社會から離れ心を清潔する。朱権の『茶の明細』という本は茶道の過程を詳しく紹介した。明時代の末期になると茶道思想は哲理の意味が弱くなり今のようにお茶を味わう要求と大體同じになった。
清の時代には茶の葉に対する需要が拡大し有名な茶もそれにつれていろいろ出てきた。陶器の現れは茶器に大きな変化をもたらした。その時お茶の産地を重視し茶蕓の活動も簡単になり茶を味わうようになった。改革開放後中國の生産力がずいぶん発展し物質の生活にゆとりがある。精神文化に対する需要が絶えず増えることは茶道活動の発展に條件を提供した。お茶を飲む活動はお茶を飲むことからお茶を味わうことまで茶蕓から茶道までこのように少しずつ浸入し、より多くの科學的な內容や精神文化の內容を含むようになった。二十世紀八十年代後、茶蕓の実演という形での茶道が盛んになった。そして実演の形も沢山ある。例えば宗教の形、風俗の形、古時代の茶道を倣う形などいろいろある。このような茶道は茶の自然科學と人文精神、文化蕓術を結び、時代に応じて新しい內容と形式を含む。
2.日本の茶道
2.1 茶道の文化定義
日本の茶道は中國から渡來したものであり、千年あまりの歴史を持つ。そして日本の社會文化と人文文化の発展につれて完善され、大和民族の獨特の環境の下で宗教、哲學、論理、美學、自然が一體になった。茶道が唱えられた「素樸、純粋、典雅」という精神は日本の茶文化を「道」の境界まで高めた。茶道は日本の伝統文化の代表として國民の生活の中でも不可欠なものになった。茶道の目的は渇きを癒すのではなく同じ茶の本質の優劣を鑑別するのではなく複雑なプログラムと儀式を通して情操を育成し靜寂の境界に達するのである。2.2 日本のお茶の発展
中國の茶文化の歴史と比べると日本の茶道の歴史はそんなに長くなかった。歴史の資料によると、お茶が日本に初めて入ってきたのは平安時代であった。その時中國で留學していた僧侶の最澄によりお茶の苗を持ち帰ったそうである。奈良時代に上層の階級の間に喫茶の風習が始まった。その後、茶の木が近畿諸國をはじめ、各地に広く栽培された。鎌倉時代に栄西禪師をはじめ、沢山の禪僧が茶の製作方法と喫茶法を日本に伝えることによって茶道はどんどん進歩していた。喫茶の目的は鎌倉時代までは思想生活の伴侶として用いられたが(時には薬用)南北時代になると喫茶を遊戯的に用いた。つまり、闘茶として品種を飲み分ける競技の形で行なわれた。このような僧侶茶、武士茶は中國の茶文化に深い影響を受けた。これは日本茶道が生まれる前の歴史だ。本當の意味を持つ茶道は十五世紀の末ごろ村田珠光氏により創立された。村田珠光氏はお茶を飲む行為に思想を入れる初めての人であり、日本茶道の祖先と言ってもよい。その後武野紹鴎によりさらに推し広めていった。日本の茶道の精神も「茶と禪が一體になる」ような境地になった。千利休はもっと具體的かつ系統的な規則を定め茶道を庶民化にさせた。また茶會の種類、茶器の種類や茶室、庭の飾り方なども決めた。日本の茶道は今でも絶えず発展しているが茶道の基本的なものを決めたのはやはり千利休だ。でも茶道の大成については織田信長、豊臣秀吉の成果を無視してはならない。彼らは茶道を政治的に利用したが茶道に精神的な慰安を求めた。千利休は「謹敬清寂」を「和敬清寂」に変化させた。江戸時代に千利休の子孫と弟子が茶道を継続し「家元制度」注①を作り別の流派が現れた。千家流派は表千家、裏千家と武者小路千家三つの大きな流派になった。この時期は日本茶道の輝かしい時期であり、日本民族の特徴を持っている。また抹茶道、煎茶道も形成された。明治維新以來茶道に深刻な変化が現れ文化的な意味が強くなった。そして時代に応じて自國の特徴を持っていて今のようになった。
2.3 中國の茶文化が日本の茶道の発展に対する影響
日本の茶道の形成と発展が中國の茶文化と深い関係がある。まずお茶を飲む風俗は最初に日本に入ってきたのは平安時代のことだった。日本の天臺宗の創始者である最澄は中國の仏教の経典と茶の木を持って帰った。そして栄西は鎌倉時代にもう一度中國の茶を持ち帰り、「喫茶養生記」という書物を作った。その本は日本の茶道の歴史的な転機と言ってもよい。また栄西は茶に対する栽培、茶の葉の摘む方法、飲む方法を詳しく紹介した。それと同時に中國から寺のお茶の飲み方を導入しお茶を飲む禮儀を定めた。例えば団茶、抹茶、闘茶などは全部中國から伝わられたものだ。ほかには毎年の春と秋、奈良で行なわれた茶會特に唐式の茶會は日本の茶道の源である。それは中國の唐と宋時代の茶會によく似、茶を飲む庭の飾り方や點茶の儀式及び闘茶遊戯などが含まれる。これだけではなく栄西は平安時代の終わり頃中國の宋に學び日本に禪宗を開いた。禪文化は日本の伝統文化の中で重要な內容であり、禪宗の導入と伝播につれて形成された。日本の茶道から中國の仏教思想の跡もよく見られる。日本の茶道の和敬清寂という精神は仏教の教義の中にはっきり書かれてある。「茶禪一味」注②という茶禮もそれと同時に導入され、室町時代になると五山僧の間に次第に定著して行った。3.中日茶道の比較
日本の茶道は中國から伝えられたが先生と言える中國とは違う道を歩んでいた。そこには中日の茶道に違うところがあると思う。特に日本茶道は中國の茶文化に深く影響され、自民族の特徴と精神を結び日本獨自なものになった。3.1 茶の葉の種類 茶の葉の種類に対する標準が違い統一することができない。今の茶の學界には茶類に総合的な方法を取った。その方法によって中國の茶は二つに大きく分かれた。一つは基本的な茶であり、もう一つは再加工の茶である。基本的な茶には緑茶、紅茶、青茶、白茶、黃茶、黒茶、六つある。その中で緑茶は中國で一番歴史の長い、生産量も高い茶である。このような分類の方法は茶の作り方によるものだ。再加工の茶は前の六つの茶を原料として再加工後の茶である。その中には花茶、圧縮茶などがある。
日本の茶道に用いられた茶は主に緑茶である。そして茶の産地、栽培の方法、茶を摘む時期、茶を作る方法によって煎茶、ひき茶、玉露茶などの名前が付けられた。例えば、精製された茶の葉をスプンでひいて粉末としそれを茶碗の中に入れ、熱湯を注ぎかき回して飲む。煎茶は中國の明時代で流行したものであり、葉を乾燥し蒸したり揉んだり熱湯を注ぎその汁を飲む。玉露茶は煎茶の一種で今でも高級の茶として知られている。3.2 茶道の規則と過程
茶道の中での規範は人生の道徳心を涵養するために重要な內容であり、茶道の活動の各方面に含まれている。規範は人に良好な行為を養成させる。お茶を入れるなど細かいことや日常生活の中で規範を守り良好な気質、身振りを育成することができる。茶道を修行する人はその過程の中で禮儀、姿勢、順序、位置、服裝などいろいろな規範を守らなければならない。茶道の活動にあるマナーは茶道の種類によって違う。例えば、お辭儀の仕方、跪く仕方、また、握手、目付き、など厳しい規則がある。それらの禮儀はお禮を表し、お客さんに尊敬の意を表し、茶道の中身を協調する規範である。
日本の茶道の規則は禪宗寺でお菓子を食べる規則から來たのだ。僧侶たちは朝ごはんと晩御飯だけ食べ、お腹が空くのでお茶を飲み始めた。それとともに懐石注③を食べる。現代の日本の茶道は面積の小さい優雅の茶室で行われる。茶室の中には珍しい骨董や掛け軸が壁に掛けてある。真中にはお湯を沸かし、器具が置いてある。茶室は飾り方によって違う。歴史の中で有名な茶室は小堀遠州による弧蓬庵、古田織部による燕庵、千利休による草庵茶室、秀吉による黃金の茶室だ。
茶會の前に主な客と陪客を確かめる。茶會をよくするために主人は忙しく、いい茶菓子を選び、茶室を綺麗にする。茶道に用いられたお菓子と言うとお茶の引き立て役といわれる物であり、一服のお茶をいかに美味しい味わっていただくかという重要かつ欠かせないものだ。茶會中いろいろな厳しい約束がある。主人もお客も「一期一會」の思いで茶會に參加する。主人はあらゆる手を盡くしお客を持て成しお客の方もこれから會えなくなると思っていて茶會に參加する。両方ともお互いに協力し合うことと感じる。3.3 國民の性格
文化は國民の性格を反映すると言ったように中國の茶文化は中華民族の伝統に影響され中華民族の性格を反映した。中國は禮儀を重視する國と言われたとおり茶文化は友達同士の友情や家族同士の愛情を體現する。茶を飲む形によって友達になるということは一般の庶民の中に普及されているのではなく集団や國の禮儀にも用いられる。新年の際、會社や工場などで茶話會を行い、上司は會社員に感謝の気持ちを表す。だから中國の茶道は日本より実用性を重視する。そして日本より庶民化を持ち禮儀と形に拘らず、実用性を大切にする。日本ではそれと反対に、厳しい形式を守り道徳を養成するために茶道の活動を行う。それは日本民族の発展と深い関係がある。日本は小さい島國であり、人口の増加と個人の生存に矛盾が出てきた。個人は生きていくために周りの環境がどれほど悪くても我慢する。苦しい狀況の中で人間関係や、仕事をうまくいくためにいつも自分のことを我慢する。それは茶室の入り口が狹くて體を曲げて入らなければならないことからよく分かる。また悪い自然環境の中に形成した日本民族は集団意識も強いし、お互いに協力の意識も強い。茶道は集団による活動が多い。みんな連攜して平和の雰囲気を造る。最後、日本では厳しい身分制度を実行し規範と禮儀を重視する。茶會中厳格なコースを守り形式的な話を言わなければならない。その點から見れば、日本の茶道は本當にお茶を飲むのではなく、人間に禮儀の教育を行う道徳修養の儀式である。このような形式を重視し実用性をあまり重視しない文化は人間の間に自然的な付き合いに悪い影響を與えるのかもしれない。3.4 茶道の中の美意識
中國の茶道の中にある美意識は茶道の活動中のメロデイ、対稱、対比、異同、自然、対応比例などを通して表す。例えばメロデイは自然界の中に存在する永遠の変化と命のリズムを表し生き生きな表現の形式である。また、茶器の排列、動作や言語の音で表す。対稱の美は中國の古典美學にある規則であり、バランスと安定性を持つ美學だ。茶道の活動の中で靜態の物事の対稱もあれば動態の物事の対稱もある。人の位置や茶器の並び方などは中心線を基準として並ぶ。また、お茶を入れる動作や體の姿を対稱的に行うことを通して観賞側に目や心を楽しませる効果が出る。自然の美は人類が自然に対する追求から表す。自然の中で生活しているのは人間の生まれながらの希望である。お茶を入れる時、緑の茶の葉は水の中で自然に広がるのは一種の自然の美である。茶道の比例の美というのは物事の大きさに適當な比例があることだ。
日本の茶道の美意識の主旨は「素樸」ということである。それも禪の本質である。村田珠光は素樸な美を重視しお茶を飲む時日本産の器具を使うことを主張した。千利休は既成の美意識に拘らず小さい茶室を造り朝鮮の陶器を導入し茶道を庶民化する。日本の美意識は素樸のほかいろいろな美もある。自然の美は庭園、建築、花を挿すことなどの配置から人間の注目を集める。欠陥の美は粗末あるいは指紋のある茶碗を上品と見なすことから表すものである。3.5 茶道が反映した思想
中國の茶文化は儒家の思想を核心とし儒教、道教、仏教を一體にすることによって茶文化の內容を豊かにする。儒家文化の本質は実用で中國の茶文化は日本より庶民化を體現する。また儒家の「禮仁徳」と中庸の思想及び道家の「無為、自然、」の思想も茶文化に深い影響を與えた。だから中國の茶文化は自然の美を崇拝しているが日本ほど儀式を重視しないのである。
日本の茶道は主に中國の禪宗思想を反映した。また禪文化は日本の伝統文化の中で重要な內容である。敬と寂という思想は禪宗からきたものだ。敬とは真如の前にみんな平等の地位を持つという意味だ。茶室に入って身分を言わずお互いに尊敬する。つまり茶室の中には平和の世界である。寂とは靜寂でどんな時にも動かないで靜かな心を持つという意味だ。和は禪宗の「心が穏やか」の意味であり、お互いが仲良くすることだ。それだけではなく「茶禪一味」という思想も室町時代になると五山僧の間に次第に定著していった。ほかには日本茶道の形成は仏教との関係もある。清という思想は仏教の「清らかである」ということから來たのだ。結論
本論文は中日茶道についての資料を集め調査を通して纏めたものだ。日本の茶道は中國から導入したものだが、中國と違う道を歩んだ。私はこの疑問を持って中日の茶道の歴史と発展を考察し、中日茶道の相違點を分析した。日本の茶道は中國の茶道の影響を受けるほか、日本民族の発展や日本獨特な伝統文化からの影響も深い。だから中日茶道は茶の種類、茶道の規則と過程などの方面だけで違うのではなく、茶道が反映した國民の性格や思想も違う。中日の茶道の交流はこれから必ず絶えずに行われるうと思うが、実用性を重視する中國の茶道はより多くの日本人に受けられると私は思う。
本論文はこのような視點から中日茶道を比較したものである。個人の能力や知識の不足で文章の中に文法などの間違いや中日茶道に対する分析に足りないところがあると思うので、ご指導くださるようお願いする。謝辭
本研究を執筆するにあたり、始終適切な助言を賜り、また丁寧に指導して下さった王霜先生に感謝の意を表します。また、中須賀剛先生と黃金春先生をはじめ、多くの先生方が常に論文の書き方をご指導くださいました。本當にありがとうございました。注釈
①その流派の本家として、代々の蕓道を受け継いでいる家
②茶が、古來、飲み物として禪の寺院で用いられていたことは知られていたがそこでは禮を持って茶と接していた。特に元の時代にあっては、禮のうちでもっとも重用な禮とされた。やがて茶が日本に伝わると、こうした茶禮も同時にもたらされた。
③茶の湯で茶を勧める前に出す簡単な料理。參考文獻
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第三篇:中日茶文化對比論文
中國與日本茶文化對比
引言:茶葉是起源于中國的世界性飲品,由茶的發展而形成的茶文化也是世界文化史上的一個重要組成部分。中國作為茶文化的發祥地,在茶文化的發展史上占有舉足輕重的地位。而日本,這個毗鄰中國的東方島國,其對茶文化的發展和研究無論是從數量上還是在質量上都位居世界前列。下文將通過中國茶文化與日本茶道文化的對比來發現其差別。關鍵詞:茶 茶道 民族 正文
中國是茶葉的故鄉茶文化歷史悠久層次復雜內容豐富。日本茶道和茶道文化起源于中國的茶文化無論從形式還是從實質來說都同中國文化有著不可割裂的聯系。然而一方面中國茶文化傳到日本已經一千多年了經過日本本土的影響從最初的模仿到不斷地改造和不斷地注入日本的民族特性而最終成為了代表和體現日本民族性的文化另一方面中國茶文化也處于不斷的歷史變遷過程中所以中國茶文化和日本茶道既有聯系又有了較大的差異。
一、中國茶與文化
(一)中國茶文化發展歷程
中國是茶的故鄉,是世界上最早發現茶樹、利用茶葉和栽培茶樹的國家。茶樹的起源至少已有六七萬年的歷史。茶被人類發現和利用,大約已經有四五千年的歷史。茶文化產生之初是由儒家積極入世的思想開始的。兩晉北朝時,一些有眼光的政治家便提出“以茶養廉”,以對抗當時的奢侈之風。魏晉以來,天下騷亂,文人無以匡世,漸興清淡之風。這些人終日高談闊論,必有助興之物,于是,多興宴飲,所以最初的清淡家多酒徒。如:竹林七賢。后來清淡之風發展到一般文人,但能豪飲終日不醉的畢竟是少數,而茶則可長飲且始終保持清醒,于是清淡家們就轉向好茶。所以后期出現了許多茶人。唐代茶圣陸羽的茶經在歷史上吹響了中華茶文化的號角。從此茶的精神滲透了宮廷和社會,深入中國的詩詞、繪畫、書法、宗教、醫學。幾千年來中國不但積累了大量關于茶葉種植、生產的物質文化、更積累了豐富的有關茶的精神文化,這就是中國特有的茶文化,屬于文化學范疇。
(二)中華民族茶文化的社會作用
人們常說,“茶中人生,哲理悠悠”。大概是說的就是飲茶和思茶之人往往能從茶中得到深刻的人生道理吧。這句話并不是沒有道理的,茶文化深刻的內涵和其重要的歷史地位早已經神扎入每一個中華兒女的心中。中華民族在歷史的長河中,不斷改造自然創造物質財富的同時,也創造了光輝燦爛的文化,為世界人類的進步和發展做出了巨大的貢獻,意義十分深遠。茶文化是中華文化教育的一個重要組成部分;茶文化教育的表現及存形式,既有物質形態的,也有精神形態的。表現為物質形態的,諸如茶的歷史文物、遺跡、茶書、茶畫、各種名優茶、茶館、茶具、茶歌舞和茶藝表演等等。表現為精神形態的,諸如茶德、茶道精神、以茶待客、以茶養廉、以茶養性等等,其內涵極其豐富;由于茶文化的內涵極其豐富,既是物質的,也是精神的,因此中華茶文化在發展的過程中所發揮的社會功能和作用也必然是多方面的。傳統的茶文化與人們社會生活的關系,向來就是非常密切的,無論是歷史文人生活中的“琴棋書畫灑詩茶”,還是平民百姓生活中的“柴米油鹽醬醋茶”,茶都是不可缺少的。茶文化發展至現代,茶的社會功能更加突出,例如,以茶會友、以茶聯誼、以茶代酒、以茶養性等等著名詞語,更是將中華茶文化的精髓體現的淋漓盡致。茶能洗凈塵心,導致清和。中華民族是一個文明古國、禮儀之邦,無論貧富,大凡家有客來,均有以茶待客的禮儀。在民間亦有“粗茶淡飯,不成敬意”的說法。國家領導人會見外賓時,也往往以茶贈客,中國茶文化在社交場合中的地位,由此可見一斑。中華茶文化中的“禮”,幾乎貫穿了整個茶文化的所有內容,從倒茶、敬茶、品茶等一系列活動中,均與“禮”有密不可分的聯系。
二、日本茶道
(一)從中國而來的日本茶道
日本的茶道已具有800年的歷史,是日本的傳統文化。茶道,顧名思義,即品茶之道。就是在茶藝操作過程中所追求和體現的精神境界和道德風尚。日本與中國一衣帶水,中日兩國自古以來就有著政治、經濟和文化的聯系。茶文化是兩國源遠流長的文化交流內容之一,特別是茶文化作為中日文化交流關系的紐帶,一直起著重要作用。
唐順宗永貞元年,日本最澄禪師從我國研究佛學回國,在他回國的行李中,就有中國的茶籽,最澄禪師將茶籽種在近江(滋賀縣)。815年,日本嵯峨天皇蒞臨滋賀縣梵釋寺,僧人們獻上清茶一杯。天皇飲后龍心大悅,開始大力推廣飲茶,于是茶葉在日本得到大面積栽培。
(二)日本茶文化
日本茶道是在“日常茶飯事”的基礎上發展起來的,以千利休提出的“和,敬,清,寂”四字為宗旨,將日常生活行為與宗教、哲學、倫理和美學熔為一爐,成為一門綜合性的文化藝術活動。它不僅僅是物質享受,通過茶會,學習茶禮,它還可以陶冶性情,培養人的審美觀和道德觀念。正如桑田中親說的:“茶道已從單純的趣味、娛樂,前進成為表現日本人日常生活文化的規范和理想。” 茶道之茶稱為“佗茶”,“佗”有“幽寂”、“閑寂”的含義。“清”與“寂”指的是環境的清幽與寂靜。邀來幾個朋友,坐在幽寂的茶室里,邊品茶邊閑談,不問世事,無牽無掛,無憂無慮,修身養性,心靈凈化,別有一番美的意境。千利休的“茶禪一味”、“茶即禪”觀點,可以視為茶道的真諦所在。
日本的茶道源于中國,卻具有日本民族味。它有自己的形成、發展過程和特有的內蘊,它將日常生活行為與宗教、哲學、倫理和美學熔為一爐,成為一門綜合性的文化藝術活動。它不僅僅是物質享受,而且通過茶會,學習茶禮,陶冶性情,培養人的審美觀 和道德觀念。日本茶道在許多方面受禪宗影響的成為一個完整的生 活體系。日本茶道的鼻祖僧人村田珠光強調“茶道之美來自自身的內心功夫”。這正是禪宗所提倡的“內省”或“自悟”。而歷代茶人要去禪寺修禪后,返回茶室過茶人的生活,對茶人來說,佛法就存在于茶湯之中,別無他求,飲茶的過程就是追求“茶禪一味”的境界。也就是說茶道里“禪”的內涵,在于通過繁瑣的規則來磨練人心,當這些規則不再令飲茶者厭煩,當飲茶人信手而為就符合茶道禮法時,才算領會了茶的真諦,才能喝到一杯好茶,才能最終達到“茶禪一味”的境界。
三、中國茶文化的繼承發揚者
(一)兩國茶文化聯系
中日茶道都是取茶的清心、靜氣、養神、助智等健康向上的精義。兩者之間有頗深的淵源。中日茶文化雖有不同,但淵源頗深。中國茶葉傳入日本,最初,應是圣德太子派遣遣隋使并且隨著唐朝的強盛發展,日本已不在滿足于當時沒落而又單純的部民制形式,試圖探索和汲取中國文化的精髓。而隨著“大化改新”的推行,日本從政治制度,土地制度,科學文教,風俗習慣等向唐朝開始了全面的模仿和學習,這其中也包括茶文化,所以中日茶文化頗有淵源。
(二)兩國茶文化差異
由于地理環境,社會發展程度以及思想文化的不同,中日茶文化又存在巨大的差異。中國茶文化以儒家思想為核心,融儒、道、佛為一體,三者互為補充、絕少抵觸,從而使中國的茶文化內容非常豐富,無論從哪個層次、哪個方面講都能做出宏篇大論。而日本茶道則主要反映中國禪宗思想,當然也融進了日本國民的精神和思想意識。中國人“以茶表禮仁”、“以茶表敬意”、“以茶可行道”、“以茶可雅志”,充分貫徹了儒家禮、義、仁、德的道德觀念以及中庸和諧的精神標準。日本茶道吸收了中國茶文化思想的部分內容,主張“和、敬、清、寂”,公開申明“茶禪一位”,它規勸人們要和平共處,互敬互愛,廉潔樸實,修身養性。但同時日本茶文化注重修性,有非常復雜繁瑣的程序,它的傳播階層多為上流社會,帶有濃重的宗教色彩。
結論:
從兩國茶文化的差異可看出中華民族與大和民族的差異:中國茶文化所反映的中華民族特性主要有四 一是重視現實人生,二是追求人格完善,三是講求和諧,四是以天人合一為最高的審美美感;日本茶道所反映的日本民族的特性也主要有四:一是重規范,二是重禮義,三是重視自我克制和堅強意志訓練,四是獨特的悲劇審美美感。中國茶文化和日本茶道都是東方文化的奇葩在世界文明史上各顯風采、引人深思。日本茶道與中國茶道一樣,其中蘊涵著的文化博大精深,尤其是對于一個外人來說,要把握其精髓,確實需要淵博的知識和不懈的努力茶道在日本傳統文化中占有標致性的主導地位,成為極具代表性的日本傳統文化的瑰寶。茶道是日本民族的文化象征,在世界傳統文化中頗具影響。無論是中國茶文化還是日本茶道,都是一衣帶水一脈相承的文化,經過千百年的演化,它們形成了自己獨特的風格并將繼續傳承下去。中國茶文化和日本茶道都是東方文化的奇葩在世界文明史上各顯風采、引人深思。理解中國茶文化和日本的茶道文化的聯系要結合各自的歷史及茶文化在歷史過程中的變遷才能得到正確的認識。
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第四篇:中日茶文化對比研究
淺談中日茶文化對比
——儒家思想與禪宗思想的碰撞
【摘要】中日文化相互之間的影響深遠,其中茶文化是其中的代表之一。中國的茶文化主要受儒家思想影響,而日本茶文化則受禪宗思想影響。兩者一個是本國主流文化的附屬,一個則是本國主流文化的砥柱。相比之下同宗同源,卻也各有特色。本文講從中日茶文化的起源發展與特征入手,對中日兩國茶文化進行簡略的分析研究。
【關鍵詞】中日文化 茶文化 飲茶 儒家思想 茶道精神 審美
【正文】
自隋唐時代以來,中日兩國就展開了悠久的文化交流。從政治制度到語言文字,從吃穿習俗到建筑規劃,無一不互相影響著。而中日的茶文化交流,更可以說是兩國歷史交流歷程中的一顆光彩奪目的珍珠。中國有茶藝,日本有茶道,若是論對于茶的喜愛,兩國人民可是誰也不輸給誰。
什么是茶道?著有《わびの茶道》一書的京都學派學者久松真一先生是這么認為的:茶道文化是以吃茶為契機的綜合文化體系,它具有綜合性、統一性、包容性。其中有藝術、道德、哲學、宗教及文化的各個方面,其核心是禪。主張“本來無一物”、“無一物中無盡藏”的禪十分重視日常生活的修行,即修行不必去讀經,而要求在起居飲食的修煉上下功夫。茶道忠實地實踐了“禪”的這一思想。[1]
本文講從中日茶文化的起源發展與特征入手,對中日兩國茶文化進行簡略的分析研究。
中國的茶文化——儒家思想影響下的產物
茶文化作為東方文化的精華之一,最初的起源點,就是在中國。中國是茶的故鄉,是茶文化的發源地,也是最早栽種茶樹、利用茶葉的國家。茶樹主要產于我國的南部。飲茶之風據說源于西周時期。然而唐代之前,中國還沒有“茶”這個字。在《詩經》、《禮記》及《楚辭》等先秦古籍中只有“荼”的記載,從唐代的《茶經》開始,“荼”字才“始減一畫作‘茶’”。而且在漢代之前,中國人主要是發現了茶根的醫療作用。直到東漢,人們才開始飲用茶葉。
就這樣直到780 年,陸羽寫下了世界上第一部茶學專著《茶經》,才創立了世界上最早的茶學。《茶經》,是中國乃至世界現存最早、最完整、最全面介紹茶的第一部專著,被譽為“茶葉百科全書”。其分為一之源、二之具、三之造、四之器、五之煮、六之飲、七之事、八之出、九之略、十之圖。共十個部分。[2]自《茶經》出世以后,茶開始成為全中國普遍性的飲料。茶文化的建立,標志著中國茶由“飲用”變為“品飲”,由愛好升華為一種文化。
與日本的茶道文化不同,中國的茶道更多是依附于中國傳統思想,以儒家思想為核心,強調“中庸”、“和諧”的思想,貫徹“禮、義、仁、德”的精神。唐末宦官劉貞亮曾提出所謂“飲茶十德”。“以茶散郁氣,以茶祛睡氣,以茶養生氣,以茶除病氣,以茶利禮仁,以茶表敬意,以茶嘗滋味,以茶養身體,以茶可行道,以茶可雅志。”從中可明確地看出其受儒家思想的影響。
筆者認為,在儒家思想的影響下,中國的茶文化,強調所謂高雅、淡潔、雅志、廉儉等品格。實際上,這些品格本質上都是孔孟的中庸、和諧思想的產物。深受儒教影響的中國人,其實性格就像茶一樣,清醒、理智、平和。自古以來,無論是文人學士還是凡夫俗子,飲茶品茶,其目的都是使人心平氣和,從而達到自省的目的,也能冷靜、理智地待人接物。這些何嘗不是儒家思想的要求呢?通過飲茶文化的推廣,營造一個人與人之間和睦相處的和諧環境,達到互敬、互愛、互助的目的,這就是儒家思想的中庸和諧之道的茶文化。
自宋以后,茶與中國人的生活和文化更是息息相關。開門七件事,柴米油鹽醬醋茶。到了近代茶館業的興起,飲茶與文化的聯系變得更加緊密起來,有評書茶館、京劇茶館和曲藝茶館。著名作家老舍更是利用“一個大茶館就是一個小社會”的特點,創造出不朽劇作《茶館》,揭示出了20 世紀中國的生活場景。
日本茶文化——禪宗思想的充分體現
據目前為止的研究表明,古代日本沒有原生茶樹,也沒有喝茶的習慣,飲茶的習慣和隨之形成的茶文化是在約八世紀時,由遣唐使從中國大陸傳入日本的。可以說,日本茶文化的歷史是隨著中國茶文化的歷史發展而發展起來的。
在日本茶文化的發展史中,有一位日本茶道的集大成者——千利休,他被譽為“日本茶道大師”。千利休將中國禪宗思想引入日本茶道,提出了茶道的“四規”,即“和、敬、清、寂”。“和敬”是寄語社會安定, 國家和平以及主客諧和,人與人之間,突出了“平和”之意。而“清寂”,則表示茶室環境的幽雅清凈與陳設的古色古香,隱含著潔身自好,清心寡欲之意。這四個字,是茶道的精髓和宗旨,也是日本茶道的精神理念。筆者認為,如果沒有千利休或者其他的人物把禪宗的思想內涵引入茶道,那么如今日本人席間的茶水可能早就被可樂或其他飲料所代替了。日本茶道之所以在文化中擁有如此高的地位,與它的傳入與發展過程是密不可分的。日本茶道形成的過程,實際上也就是日本國民文化的形成過程。日本人選擇茶來賦予特殊意義,與禪宗思想密不可分。茶道之茶被稱為“侘び茶”,“ 侘び”在日語中是“幽居安樂”的意思。日本茶道強調“茶禪一體”,吸收了中國茶文化的一部分內容,卻也發展出了自己的一套精神追求。它勸告人們要和平共處,互敬互愛,樸實廉潔,修身養性。這一點實際上也與儒家思想有著微妙的共同點。
日本的茶道注重內觀內省,自我修養,其真諦是悟禪宗之精神,成為融宗教、哲學、美學為一體的文化藝術活動。
中日茶文化的異同
【異】
(一)中日茶文化,從表現上來看最大的不同,可謂是形式的不同。中國近代出現的茶館成為中國茶文化的主要載體之一,其帶有平民性、隨意性、開放性的特征。而日本茶文化的載體主要是茶室,眾所周知,其以程式嚴謹、繁瑣為特色。
筆者曾有幸到北京的老舍茶館體驗一番,周邊的環境很幽靜,館內陳列著各種精美的茶具,種有花草,養有魚鳥,還有大熒幕上的皮影戲表演,實在是很符合中國傳統觀念中“悠閑”、“自在”的生活方式。除了北京,筆者的故鄉四川也有其獨特的飲茶文化。四川人,特別是成都人,愛喝蓋碗茶,其飲茶習慣就更為悠閑一些,通常是評書人在一旁說書,臺下的飲茶人們就著各種點心——大概就是瓜子和花生之類“上不了臺面”的干果——開始擺“龍門陣”(聊天)。比起日本茶道的形式嚴謹,中國茶文化更多的帶有隨意性在里面。
(二)而往深層次了說,兩者文化的來源也不盡相同。中國茶文化以儒家思想為核心,融儒、道、佛為一體,而以儒家思想為主導思想。所謂飲茶十德中,“以茶利禮仁”、“以茶表敬意”、“以茶可行道”、“以茶可雅志”,這四條都是通過飲茶貫徹儒家的禮、義、仁、德等道德觀念以及中庸和諧的精神
日本茶道則主要反映中國禪宗思想,當然也融進了日本國民的精神和思想意識。日本茶道的“和、敬、清、寂”以及“茶禪一體”,吸收了中國茶文化思想的部分內容,它規勸人們要和平共處,互敬互愛,廉潔樸實,修身養性。
(三)中日茶文化在兩國主流文化思想中的地位也不同。中國茶文化在中國的思想文化中處于輔助性的支流地位,而日本茶道在日本的思想文化中則處于主導性的主流地位。
中國茶文化成熟于唐朝。那時適合于中國地域特點和社會特點的、塑造中國國民性的思想已完全定型。儒家思想提出了適合于中國封建社會特點的社會規范,確立了中國國民的價值追求:“修身齊家治國平天下”。這種思想深深地影響著茶文化,茶文化變為了體現中國的主流思想的一種手段,只能處于輔導性的支流地位。
而日本的主流思想的形成過程和茶道的形成過程是一致的。在公元七、八世紀的時候,日本還沒有作為主導地位的系統的思想文化。那時,他們從中國輸入大量的思想文化(包括中國茶文化),而后進行本土化。他們改造輸入的中國思想文化而創立日本主流文化的過程中,中國茶文化是他們改造而注入日本特性的一種重要文化。因而,日本茶道也就必然成為反映和規范日本國民性的主流文化。
因此,日本茶道成為了日本國民修煉國民性的媒介,在文化中占有主導作用。相反,中國茶文化從來沒有成為修煉中國精神與國民性的手段,而主要是成為了中國國民娛樂、休閑的重要方式之一。
【同】
說到共同點,首先,中日兩國的茶文化都注重精神的內涵。中國茶文化強調“中庸”、“和諧的思想,貫徹“禮、義、仁、德”的精神,并不斷地追求真、善、美的境界。中國人飲茶注重“品”字,“品茶”不僅僅是指能鑒別茶的優劣,還帶有神思遐想和領略飲茶情趣之意。
日本茶道的精神理念則是“和、敬、清、寂”,茶道的每一道嚴格的工序和過程,都是在進行修身養性。禪宗要求人們達到“本來無一物,勿使染塵埃”的境界。從茶室的布置,到茶具的清洗,到碾茶、插花??每一個細節都無不體現著“和”的思想。
同時,兩國茶文化都體現了兩國國民對于舒放性靈的要求。中國自古以來兩千多年的儒家思想塑造了中國的國民性。中國的國民背負著儒家“修身齊家治國平天下”的價值觀,以國家的興旺、民族的發展為己任。背負著這樣的重任的中國人,在緊張的奮斗之中必然需要一種休閑娛樂予以調解。
而對于天生具有悲觀情緒的大和民族來說,舒放性靈和娛樂休閑就顯得更為重要。日本森嚴的等級制度和倫理觀念給了這個民族沉重的心理壓力。再加上如今的日本,經濟高度發達,卻又不景氣。每個人都需要追求精神上的放松與安寧。茶道的在茶道和、敬、清、寂精神恰恰符合了人們這一需要。在茶室的活動中,所有人都是平等的。一切等級可以放下,人們平等相待。一切“忠”、“義”、“理”的觀念都可放下,進入和諧、美好、融洽的心靈解放活動中。
通過茶藝或茶道解放身心,正是中、日兩國國民如此愛茶的共同原因。縱然有著不同的發展過程、境界追求與文化地位,無論是中國茶藝還是日本茶道,對于本國的國民來說,都離不開心靈的放松。理解了茶文化,也就理解了東方文化。此話可謂不假。正是因為茶文化這獨特的魅力,才使得其成為東方文化中最具代表性的文化之一。
注釋:
[1]百度百科——茶道 http://baike.baidu.com/view/39397.htm [2]百度百科——茶經 http://baike.baidu.com/view/69079.htm
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第五篇:中日交流體驗
中日交流體驗
昨天來自日本的老師為我們學生展示了日本的茶道以及樂器表演。首先是茶道的展示,茶道有繁瑣的規程,茶葉要碾得精細,茶具要擦得干凈,動作要規范,既要有舞蹈般的節奏感和飄逸感,又要準確到位。茶道品茶很講究場所,今天的展示是在學院大廳中進行。日本老師邀請了兩位同學作為客人,其他同學在旁邊觀看,待學生入座后,老師的助理先為學生獻上精致的點心,老師按規定動作點炭火、煮開水、沖茶或抹茶,然后依次獻給我們的兩位同學。學生恭敬地雙手接茶,先致謝,爾后三轉茶碗,輕品、慢飲、奉還。點茶、煮茶、沖茶、獻茶,這是茶道儀式的主要部分,飲茶完畢,學生對茶具進行鑒賞,贊美一番。最后,學生向老師表達謝意。
日本茶道是在日本一種儀式化的、為客人奉茶之事。原稱為“茶湯”。日本茶道和其他東亞茶儀式一樣,都是一種以品茶為主而發展出來的特殊文化,但內容和形式則有別。日本茶道源自中國。
現在的日本茶道分為抹茶道與煎茶道兩種,但茶道一詞所指的是較早發展出來的抹茶道。
日本茶道是在“日常茶飯事”的基礎上發展起來的,它將日常生活行為與宗教、哲學、倫理和美學熔為一爐,成為一門綜合性的文化藝術活動。它不僅僅是物質享受,而且通過茶會,學習茶禮,陶冶性情,培養人的審美觀和道德觀念。
茶道展示之后,接下來就是欣賞日本傳統樂曲《北國之春》和《櫻花》和非常好聽的《茉莉花》。首先是一位老師用古箏演奏《北國之春》,接下來是另一位老師用笛子演奏了《櫻花》,然后兩位老師一起演奏了《茉莉花》,演奏完畢之后,老師們非常熱心地教學生們如何彈奏樂器,學習氛圍十分熱烈。
傳統樂器中最有名的是三味線、尺
八、太鼓、十三弦古箏;還有十七弦琴、薩摩琵琶等。三味線的祖先即是中國的三弦。三弦于1560年經沖繩傳到了日本。通過日本藝人的改造,三弦變成了三味弦(線)。最后就是老師與學生的互動,老師為同學們準備了許多好吃的日本點心和抹茶,學生們15人一組,大概有六組,進行品嘗,由老師親自教授日本的餐桌禮儀,在品嘗美食的同時,也能學習到日本的文化。品嘗之后老師還為學生們介紹了一些日本文化和樂器。還進行了提問環節。最后應學生的邀請再次演奏。
整個活動進行地非常順利,學生們十分積極地參與進去,和老師互動。最后還合影留念。