第一篇:原創(chuàng)日語(yǔ)作文《銀河鉄道の夜》讀后感
『銀河鉄道の夜』感想 日研生:馬 原
文學(xué)作品の中に、私は童話(huà)を特別に好きだ。なぜかと言うと、童話(huà)は幻想の宮殿であり、面白いストーリーの中に人間の知恵が入っている。いい童話(huà)は時(shí)間と空間の壁を越えて、どの年齢の人でも読める獨(dú)特なものになる。そして、宮沢賢治の童話(huà)はまさにそのようなものだ。
『銀河鉄道の夜』はある貧しい家の子供、ジョバンニを主役としてスト―リーを始めた。ジョバンニの母は病気で床に臥せっており、めジョバンニは毎日アルバイトをして家を支えた。同級(jí)生はジョバンニのことを嘲笑して、同じ職場(chǎng)の大人たちの態(tài)度の冷ややかである。カムパネルラはジョバンニのたった一人の友だ。でもこの友も自分から離れていくっとジョバンニが感じた。銀河祭の夜、ジョバンニは一人町外れの丘へ向かて、天気輪の柱の丘でジョバンニは一人寂しく孤獨(dú)を噛み締め、星空へ思いを馳せる。突然、耳に「銀河ステーション」というアナウンスが響き、目の前が強(qiáng)い光に包まれ、気がつくと銀河鉄道に乗っている。見(jiàn)るとカムパネルラも乗っていた。窓の外の景色はとても麗しくて、列車(chē)の中も時(shí)々ほかの乗客が來(lái)て、ジョバンニたちといろんな話(huà)をした。ジョバンニはこの人たちのことを聞いて、困惑と悲しみに包まれた。ジョバンニは本當(dāng)のみんなの幸いのためにがんばることを決めて、列車(chē)から降りた。そしてこれは夢(mèng)だと言うことを気づいた。そしてジョバンニはカムパネルラが川に落ちで死んだことを知らせた。ジョバンニは本當(dāng)のみんなの幸いのためにがんばることを決めた。この小説は現(xiàn)実から夢(mèng)に、そしてまた現(xiàn)実に戻って、終わった。
面白い銀河旅行の中に、作者は宗教の本質(zhì)と人生の価値のような厳しい問(wèn)題の考えを入った。作者が書(shū)いた銀河鉄道から見(jiàn)る外の風(fēng)景はまさに天國(guó)のように美しい。このような美しい環(huán)境の中に、人にとって何が本當(dāng)の幸せっという問(wèn)題を考え続けた。それはこの童話(huà)の中心だと私が思う。そして文書(shū)から見(jiàn)れば、作者は純粋の心への追求も分かった。私はこの童話(huà)を読むとき、一番感じたのは「愛(ài)」だ。作者の宗教の本質(zhì)が「愛(ài)」だと思うだからこそ、こうして書(shū)いただろう。他人を助けて、正直で、人を愛(ài)する心を持って、それは天國(guó)へいけるチケットだ。このように『銀河鉄道の夜』はたくさんの愛(ài)を溢れているから、今でも人々に愛(ài)読されているんだろう。
第二篇:日語(yǔ)作文-溫泉の王國(guó)
溫泉の王國(guó)
火山や地震の多いから、日本の各地ほとんどには天然で、有名な溫泉がある。日本人にとって、溫泉に入るのは十分楽しむことばかりでなく、さらに生活の大切なことだ。確かに日本人のようにお風(fēng)呂が好きな民族がない。以前の日本は男女混浴が普通ことだが、今は少なくなる。私はこれが不思議だと感じるけれども、特別な風(fēng)習(xí)だと思う。でも、私が好きなのは日本人のお風(fēng)呂を重視することだ。お風(fēng)呂は體を洗うということだけでなく、父と息子、上司と部下あるいは多年の友達(dá)も感情を深めることができる。これこそが最も大事なことだと思う。
溫泉が気持ちのよいものだということは日本人なら誰(shuí)でも知っている。気持ちのいいものは誰(shuí)でも好きだ。水道水を沸かした家庭のお風(fēng)呂とは違う、実際に溫泉には體をリラックスさせる成分があるし、自然の豊かな環(huán)境で湯につかることで精神的にもリラックスし、相乗効果を持つ。
日本溫泉の歴史も長(zhǎng)い。初めて溫泉が文獻(xiàn)資料に登場(chǎng)するのは『古事記』『日本書(shū)紀(jì)』などの本。本によると、昔々から日本人もう溫泉を利用することができたようだ。これらの本の中には、日本武尊が東方遠(yuǎn)征の帰りに草津に立ち寄って溫泉で傷を癒したことや、持統(tǒng)天皇の御代に飲泉によって多くの病者を治療したという記述が見(jiàn)られる。
奈良時(shí)代になって、仏教の伝わたので、日本の各地はお寺を建てきた。僧侶は溫泉の開(kāi)発に大きく影響した。室町時(shí)代に、溫泉は主に僧侶や貴族、武士たちのレクリエーションの場(chǎng)で、一般庶民に普及することはない。安士桃山時(shí)代に、溫泉もう戦いで傷ついた武士の治療するために広く応用した。
數(shù)千年が流れた日本溫泉は年月に魅力が消されなくて、卻って年月を重ねるにつれて味わいが濃くなって、各地の溫泉は人文の息吹がいっぱい溢れていった。日本に行けば、絶対に溫泉を楽しむ。長(zhǎng)い時(shí)間の旅行の後で、露天溫泉に入って、窓の外の景色を見(jiàn)たり、お茶を飲んだりしたので、一日の疲れを洗える。雪のちらつく天気に出會(huì)ったら、もっと素晴らしい。43度の湯気がたっているお湯の中で、舞い落ちる雪を見(jiàn)て、ロマンチックや純粋を感じられる。こんな感じは世の中で珍しくて天國(guó)にいるようだ。でも、溫泉は夏に楽しむのはもちろん唯一の選択ではない。
有名な溫泉の故郷――箱根は季節(jié)に応じて、違う溫泉のテーマを提出してある。春にはピンクの桜やツツジが満開(kāi)している山を見(jiàn)て、夏には緑で溢れていて山々を眺めたり小河の水がさらさらと流れる音を聞いたりして、秋には赤い紅葉の世界を楽しむ。それこそがのんびり人生を味わうことだ。
溫泉の治療効果も顕著で、日本人は溫泉を利用して、病気を治したり健康を促したりする。違う地方の溫泉の水質(zhì)は違うから、効果も同じではない。靜岡県の熱海溫泉が塩などを含んでいるから、溫泉を出てから塩は體に殘って、保濕効果があって寒さも感じない。群馬県の草津溫泉が酸性なので、リューマチを緩和できる。佐渡溫泉にはカロチンを豊富に含むので、視力を高められる。月岡溫泉は肌に白くする効果があるから、女性の中で人気が高い。もちろん、これ以上は日本溫泉の部分だから、日本には特色のある溫泉がたくさんある。
でも、どんなに効能の高い溫泉でも、たった一晩だけ入っただけで、また、日帰り入浴だけで、効果を期待するのは無(wú)理だ。
日本で溫泉に入るのは他の國(guó)家のに比べて、違うものだ。日本の溫泉文化と見(jiàn)れば、日本人の生活の細(xì)かいところが味わえる。溫泉に入る前に、體をよく洗ってからきれいな體で溫泉に入る。タオルが溫泉の池內(nèi)に持ってはいけないので、そして、タイルは池のそばにおいてあるいは頭を巻いてもいい。また、溫泉の池內(nèi)では石鹸で體を洗うわけにはいか
ない。しかも、溫泉の池內(nèi)でも大聲で叫べなくて、走って追い合えなくて、泳げなくて、靜かにしているべきだ。溫泉の溫度は熱すぎても冷たすぎてもよくない。最もよい溫泉を楽しむ時(shí)間は10分だ。日本人は晩ご飯の前にも、寢る前にも、朝に起きる前にも溫泉に入ることになっている。その中で、日本人はほんとに溫泉好きなのようだ。日本人の溫泉好きと同じくらい西洋人の水泳好きは多いのである。加えて、ホテルでは浴衣を提供して、正確な著方に従うべきだ。
溫泉のある國(guó)家がたくさんある以上、日本と海外で溫泉はどう違う。それは溫泉の使われ方に違いものだかもしれないと思う。しかし今や世の中グローバリゼーションの波に乗って、溫泉文化も急速に國(guó)際化が進(jìn)んでいることを知って頂こう。海外の溫泉では日本の「溫泉」ブームが起っているし、日本でも溫泉が「スパ」になり、やがてサウナ、マッサージ、美容、グルメが溫泉の主要メニューになり、裸で混浴の露天風(fēng)呂が普及してくるに違いない。でも、西洋の人工的で豪華である溫泉施設(shè)と比べると、日本溫泉の大自然に近いなのは取り替えのきかない。
日本で溫泉を楽しんだら、きっと獨(dú)特な感じはある。まず、古色の旅館や中の靜かな気分は旅人に神秘的な感じを與える。また、ウェイトレスは人間味のいっぱいおばさんやおばあさんなので、いつも笑っていて、細(xì)かい心が遣って、旅人に暖かいフリを與える。そして、その親密に大自然に觸れることこそが最も大事で獨(dú)特なことだ。
私にとっては、また溫泉はのんびり楽しむこととしてとっても憧れている。いつか溫泉の王國(guó)の日本に行って、自ら體験したい。
2010年01月08日
第三篇:日本の茶道 原創(chuàng)日語(yǔ)作文(范文模版)
日本の茶道
――茶道から見(jiàn)出された日本の文化
茶道の歴史
抹茶は中國(guó)から日本へ來(lái)たのは、鎌倉(cāng)時(shí)代と言われています。鎌倉(cāng)時(shí)代のお坊さん栄西が日本に伝え、僧侶の間で睡魔を取り除く薬として広まりました。室町時(shí)代になると僧侶の村田珠光(むらたじゅうこう)が內(nèi)面的な心を追求した「わび茶」をはじめ、その後、その心を受け続いた武野紹鴎(たけのじょうおう)が禪の奧義にも徹し、その弟子利休がこれを推し進(jìn)め、新しい茶の在り方を開(kāi)きました。
珠光から紹鴎、さらに利休によって日本の伝統(tǒng)的な詩(shī)情を加えた茶道が大成したと言えます。
茶道の道具
茶道の席には「掛物」「茶花」が飾られます。そしてお茶を點(diǎn)てるために「釜」「風(fēng)爐」「水指」「茶入」、または「茶器」「茶碗」「建水」「茶杓」「茶筅」などさまざまな道具が不可欠であります。そして道具へのかかわり方は実用性を超えています。
歴史的には茶の湯の成立期禪宗の影響を受けて中國(guó)の器物、いわゆる唐物に対する関心が高まり、唐物數(shù)寄の時(shí)代もありました。しかしおよそ15世紀(jì)後半から數(shù)寄の対象が和物へ移行し始めました。立派な唐物よりも素樸な和物のほうがかえて味わいがあると思われます。村田珠光が「月も雲(yún)間の無(wú)きはいやにて候」といったと伝えられていました。雲(yún)ひとつなくこうこうと照る月よりも雲(yún)の中に少し隠れている月のほうがもっと情調(diào)があります。このような素樸なものへの數(shù)寄がさらに徹底され現(xiàn)れるのがわび數(shù)寄であり、わびの美意識(shí)でもあるのです。
茶道の精神
日本の茶道は「日常茶飯事」という言葉をもとずいて発展しました。茶道は日常的な行動(dòng)と宗教、哲學(xué)、倫理と美を一體になって、総合的な文化活動(dòng)でもあります。
そして茶道は物質(zhì)的の楽しむだけではなくで、茶會(huì)を通して茶禮を?qū)Wぶ、性情を陶冶し、審美眼と道徳観の育成にとっても、とても大事なことだと思われます。
茶道のお茶は「わび茶」と呼びます。わびは靜寂意味があります。友何人集まって、靜かの茶室の中にお茶を飲みながら軽いお話(huà)をする。世間の紛爭(zhēng)を問(wèn)わず、憂(yōu)いもない、心配もない、ただ自分の身を修めて、心身を浄化します。これが利休さんが言った「茶禪一味」の意味です。そしてこの靜寂の心は茶の湯の心でもあるのです。
茶道はいろいろな規(guī)定があります。たとえば、季節(jié)によって風(fēng)爐と水指の位置が変わります。これは人に対する心掛かりです。茶室には必ず茶花が飾られます。でもたくさんの花を採(cǎi)って飾られません。これは命に対する心掛かりです。茶室の中に縁を踏むのはいけません、皿を畳の上にズラと動(dòng)かすのもいけません。これは物に対する心掛かりです。このようにたくさんの心掛かりは日本茶道の「和」と「敬」の精神を現(xiàn)しています。そして前が言った「靜寂」の心を合わせて、「和敬清寂」は茶の湯の大成者利休さんが唱えた茶道の根本的な精神です。
金沢の茶道
金沢の茶道は前田利家によって発展されました。利家は織田信長(zhǎng)や豊臣秀吉の影響を受けで茶の湯に関する関心を持ち始めました。茶道の大成者である千利休や織田長(zhǎng)益に學(xué)び、加賀藩に茶道の文化を定著させ、諸大名などを招いて頻繁に茶會(huì)を開(kāi)くようになりました。そして江戸時(shí)代になると、利休から派生した茶道は三人の孫に引き続かれ:表千家、裏千家、武者小路千家の三派に別れました。加賀藩三代目藩主利常は裏千家の千宗室(千叟)を指南として招いたことで、加賀藩に裏千家が普及しました。五代目藩主綱紀(jì)のころになると、職人や町人までもお茶の作法を身につけるほど幅広い層にまで広かっていました。今の金沢でも茶道が好きな人は少なくありません。金沢の茶室もたくさんあります。
お茶は中國(guó)から日本へ來(lái)て、日本人によって発展され、日本獨(dú)特の風(fēng)景いなっています。最近歐米の人も日本や中國(guó)からお茶を持って帰って、歐米で茶文化を開(kāi)こうとやています。これはとでもめでたいことだと私が思います。お茶はもともとただの
飲みんものにすぎないが、人々は自分の考え、理想、思いを加えてお茶は飲み物から文化になります。私だちはお茶を飲みながら、この茶道の歴史、茶器の美、和敬清寂の精神を感じています。このようなものを茶道の中に溶けていたこそ茶道が文化たるゆえんだと私が思っています。
第四篇:日語(yǔ)作文 私の大學(xué)生活
私の大學(xué)生活
私は開(kāi)封から來(lái)た魏海麗です。2007年の夏、私は西安交通大學(xué)に入りまし た。その時(shí)は、優(yōu)秀な大學(xué)生になるのを決心しました。そして、3年間に経済 學(xué)部で私は努力に勉強(qiáng)しっています。専攻學(xué)科の知識(shí)は勉強(qiáng)して、おもしろい だと思います。はじめの時(shí)は、大學(xué)で言葉や食事のことなどがとても苦手でし た。大學(xué)生活に慣れるために、生徒會(huì)やいろいろなクラブに入りました。3年 間で、たくさんの友達(dá)に付き合って、知識(shí)を勉強(qiáng)していました。私の大學(xué)生活 はおもしろく、豊富だ思っています。今私はよく仕事を探されたいです。3年 の大學(xué)生活を思い出して、幸せと満足を感じしています。大學(xué)に入ってから、もうそろそろ3年が終わりました。わたしの大學(xué)生活につ いて言えば健康の方式だと思います。私は毎朝7時(shí)に起きます。それから友達(dá) といっしょに食堂で朝ご飯を食べます。授業(yè)は 8 時(shí)に始まります。大學(xué)では、専攻は勉強(qiáng)ということが忘れではいけないです。そして、よく図書(shū)館に行きま す。図書(shū)館で本を読むことを通じて、いろいろな知識(shí)を勉強(qiáng)することができて、暇の生活も豊かになれる。9 時(shí)ごろ寮に戻ります。寮は 4 人部屋です。みんな は、仲のいい友達(dá)です。週に2回くらいスポトをします。ときどき映畫(huà)を見(jiàn)て、音楽を聞きます。土曜と日曜は休みです。私はよく友達(dá)にyいっしょに遊びに 行きます。西安の観光地を観覧の時(shí)をきっかけにして、歴史を知っていました。ほんとに楽しかったです。大學(xué)の自由時(shí)間は高等學(xué)校のよりもっと多いです。週末には、普通に寮でネッ トサーフィンをしています。ンターネットで世界中のことを知ることができま
す。そして私は暇な時(shí)間に日本語(yǔ)を勉強(qiáng)しています。私は日本が大好きですか ら、日本語(yǔ)を勉強(qiáng)して以來(lái)、日本との距離がますます近く感じるようになりま す。それで、日本語(yǔ)の勉強(qiáng)はもっと積極です。日本のドアマとテレビ番組はい つも見(jiàn)ています。卒業(yè)までに、わたしの目標(biāo)は日本語(yǔ)能力試験の二級(jí)をとるつ もりです。大學(xué)で、毎日時(shí)間がとても楽しくて、多くの友達(dá)を知って、多くの知識(shí)を勉強(qiáng) してます。私の大學(xué)生活はまだ続いています。もっともつと勉強(qiáng)して、いろん なことを挑戦したいと思います。今后の大學(xué)生活を楽しみにしています。この 學(xué)期は、仕事を探したら、きっと最高の楽しく旅行が期待します。大學(xué)で勉強(qiáng) した知識(shí)を活用して、自分の目標(biāo)を達(dá)成できるように頑張ってと思います。私 は將來(lái)の生活に大きな期待をしています。
私の大學(xué)生
第五篇:日語(yǔ)作文《私の父親》
私の父親
學(xué)校:渤海大學(xué) 班級(jí):11級(jí).十六班 姓名: 熊月影
私の父は平凡な社會(huì)人です。これと言って取り柄はないけれど、私にとってはヒーローみたいな存在です。
若い頃の彼はの経験が今の彼を形成するに至ったのでしょう。そんな彼の若い頃の経験をここで話(huà)してみたいと思います。
小さい時(shí)の父は遊びが大好きだったそうです。仲間と一緒に川で泳いだり、蝦を捕まえたり、時(shí)には隣りの庭の果物を盜んだりして、悪がきでいつもばかなことしていましたが、素直に育ちました。そういう楽しい思い出ができて本當(dāng)によかったと私は思います。
學(xué)生時(shí)代の父はとても頭のいい人だったそうです。いい成績(jī)でその時(shí)代の數(shù)少ない高校に入りました。家族の期待に答えるため必死に勉強(qiáng)しましたが、やはり自制心がなくて、友達(dá)とタバコを吸い始め、カコフーを始めました。そればかりでなく、父は山を超えて隣村の友人とギャンブルをして本當(dāng)に不良少年のようでした。このようにして三年が過(guò)ぎた後、やはり大學(xué)の試験に落ちました。
父はそれでももう少しで受かるところだったそうです。もしもうちょっと勉強(qiáng)して大學(xué)に受かっていたらどんなにいいことだったでしょう。それから、友人と上海に行きました。そうして中國(guó)では有名な許文強(qiáng)のような成功者になるという夢(mèng)を持って上海で生計(jì)を立てました。世間のことはあまり知らないからこの世の中を簡(jiǎn)単に見(jiàn)ていました。いろいろ苦労したけれど、とうとうお金がないためご飯に調(diào)味料を入れて食べることも出來(lái)ない狀況となりました。こんな狀態(tài)となったからには、結(jié)果は言わなくてもお分かりでしょう。上海で戦い、成功する夢(mèng)も破れてしまいました。
その後、北京とかたくた人の所を回って、家族のために隨分苦労しました。その間に、騙されたこともあれば、事故で怪我をしたこともありました。にもかかわらず、私たちのために頑張ってきました。父は味わった苦労は私には想像できません。ただ、感謝するのみです。
父は迷っていました。自分の生活にも、未來(lái)にも。でも、私達(dá)がいるからここまで辛抱してきました。近頃よく父と話(huà)をして、父の気持ちがだんだん分かってきたような気がします。「もう迷わない。何のために生きてゆくのかもう分かった。生活の意味も命の意味も分かった。」と父が言いました。それを聞いて私も本當(dāng)に安心しています。
「望みは何かと訊かれたら、君がこの県に居てくれることだ、君を思えば立ち迫れることだ?!工长欷先毡兢斡忻矢瑜胃柙~です。でも、この歌詞はまさに私の本音を代弁しています。父がそばにいるから、私も頑張れる気がします。
父は今居る北京は冬がとても寒いです。年を取り始めた父は一人で過(guò)酷な環(huán)境の下で頑張っています。でもきっと父は家族のために何かができることを幸せだと思っているでしょう。
最後にここで父に言いたいことがあります?!袱袱丹?、ありがどう。私達(dá)のためにここまで頑張ってきてくれて本當(dāng)にありがどう。體に十分気を付けてね。私もここで一生懸命頑張るから?!?/p>
以上でスピーチを終わります、ご靜聴ありがどうございました。
2013年11月15日金曜日