第一篇:日語初級第一張試卷
試験一
名前
得點 一、五十音図(50點)
1、下記の平仮名を片仮名に書いてください。例:あ「ア」
か 「 」 さ 「 」 ぐ「 」
ぬ「 」 け 「 」 ぎょ「 」きょ「 」 ぴゃ「 」
2、下記の片仮名を平仮名に書いてください。例:イ「い」
チュ「 」 セ 「 」ン 「 」 ツ 「 」 プ 「 」 ベ 「 」ポ 「 」 ニャ「 」
3、下記の平仮名をローマ文字に書いてください。例:う「u」
さ 「 」 る 「 」し 「 」 つ 「 」
二、文法「第一課、第二課、第三課」(50點)
「 」に入れるのに最もよいものを 1、2、3から一つ選んでください。
例:私は「2」です。
1李さん 2李
3本
①あなたは「 」ですか。1眼鏡 2だれ 3何
②君は森さんですか?!?」
1ありがとうございます。2どうぞよろしく 3いいえ、違います。③わたし「 」鉛筆「 」どこですか。1の は 2は の 3に は ④これは「 」です。1だれ 2先生 3椅子
⑤この「
」いくらですか。1服は 2森さんは 3人は ⑥あれは「 」ですか。1なん 2だれ 3吉田さん ⑦それは私「 」鍵「 」。
1が です 2の です 3は です ⑧それはパソコンです?!?」
1そうですか 2あのう 3はじめまして。⑨病院はどこですか。「 」
1そちらです。2このです。3ちがいます。⑩森さんの傘はどの傘ですか。
1あの傘です。2ここです。3これは傘です。
第二篇:初級日語作文
我的大學(xué)生活
種類によっての熱心な出現(xiàn)は時間に素晴しい教授で教師、思考の列車に近く學(xué)友と坐るために、歩行者がすべて妨げたそれらを座席のための一見引き出す教科書を、終日大學(xué)生命始めてしまった道の歩行者のプロローグを次第にであるずっとクラスに出席した多數(shù)、壊したキャンパスの靜けさを、すぐに、雑談していた最后の夜スポーツが一致する教室の教室の方に動かされて非常に速く浸るある恐れられていた軽いステップを置くことを可能にしたこと、ちょうど照らされた私の大學(xué)生命天候が何人かの人々陰の外國語を読むキャンパスで見る教師と上向きに飛んで、表面の古い教授は時間后に學(xué)校からの休暇に青年輝きの午后をある最も忘れられない渡している、これは行くために自分自身が割り當(dāng)てる時間、割り當(dāng)てられたアクセス網(wǎng)、一緒に、そしてまたそう食事した任命同時にだった各種類の活動が行なった元気づけた學(xué)生のサッカー競技場のグループの文學(xué)様式ホールからの音、送信された時間蹴る球をだったが、また何人かの何人かの若いメス學(xué)生はだったこの2 年に、住むために燃料を補給された叫ぶこと......意識不明に2 年の大學(xué)渡されて実際によかったそして、成長した育つ、自身の夢に日刊新聞の私達がすべて次第に先に行ってもいかにが生命の悪い狀態(tài)にすべてある
「私の友達」
私は積極的な性格ですから、友達がたくさんいます。しかし一番仲が良いのは你來我網(wǎng)さんという友だちです。彼女と初めて會ったのは、高校生になった時です。你來我網(wǎng)さんは私は反対に、女らしく優(yōu)しくて、すなおです。私と同じ年ですが、いつも私の悩みを聞いてくれて、私には本當(dāng)のお姉さんのような人です。私が寂しい時や困ってにる時は、いつでも力になってくれました。你來我網(wǎng)さんは、今、ゲザイナーになって有名な洋服の會社につとめ、毎日いそがしいようです。私が日本へ來ているので會えませんが、暇があれば手紙を書き、電話も時時かけています。これからもずっと仲良くしていきたいと思ってにます。
「私の夢」
(日本人は理想よりも、夢と言う言葉を使っていると思いますので。)
私はまだ子供のころ、空を見上げることが大好きでした。青々と広がっている空を、ふわふわしている云が、のんきそうに漂っていくのを見て、心が愈されるような気がします。ですから、私はそのとき、「將來パイロットになりたい」と心で決めました。飛行機にのって、鳥のように、空を、云の間を縫いでいくことを、すばらしく思っていました。頭が空っぽになって、すべての悩みが忘れられるようなので。
まだちっちゃいので、パイロットになるために、どうしたらいいのかまだ考えていませんでした。その后、パイロットはみんな2.0以上の視力がなければならないと聞いて、近視眼である私はただ、空しく嘆くしか、しようがありませんでした。
高校に入って、私はサッカーに興味を持ち始めました。サッカー選手たちが、競い合っている姿に、私は惚れていました。あのスピード、パワー、テクニック、あれこそが、男のあるべき姿ではないかと、私は思いました。そして同時に、新たな夢が私の心に芽生えま
した。それは、「中國一のゴールキーパーになって、中國チームを世界の頂點に送るのに、私は自分の力を捧げたい」と思いました。しかし、それには、身長が必要です。1.80ちょうどの私には、中國一は無理だったのかもしれません。大學(xué)に入って、身長がほぼ固定された私の新たな夢は、無殘にも破られてしまいました。
日語
大學(xué)では、日本語を?qū)煿イ筏蓼筏俊U?、初めの頃は、夢なんて、まだ見つけていません。目の前の道をただ走るのみ、そこには私の夢とか、意志とか、ありませんでした。勉強していく中で、ちょっとした問題に気づきました。それは、必死に勉強している人ほど、成績が低く、ということでした。そのとき私はこっそり考えました。実は彼らは努力が足りないってわけではありません。努力の方なら、私なんかより、ずっとたくさんしていると思います。殘念なことに、彼らは勉強の仕組み、つまり勉強の方法を知らないだけに、こういう「空振り」の學(xué)習(xí)を繰り返しているです。そこで、私は「將來日本語の教師になって、知識だけではなく、勉強の仕組みを、御紹介させていただきたい」という、夢を持つようになり、そして今までに至っています
我的家鄉(xiāng)
私は上海に生まれました。故郷は上海だと思います。上海は中國の中では、最も都會らしい都會です。上海には名所名跡が少ないが、中國最大の商業(yè)、工業(yè)、港灣地帯として特徴づけられている。
今、上海の人口がもうすでに1250萬人を超え、世界一のマンモス都市となった。改革開放によって、上海が大きく変わりつつある。毎年上海に帰省するたびに、その発展ぷりに驚き、上海の一員として、夸りと喜ぴを持っている。
上海は長江の南側(cè)、支流の黃浦江の西側(cè)に拓かれた街だ。今世紀(jì)の初めに黃浦江西側(cè)のバンドと呼ばれる地區(qū)は、港灣設(shè)備が整備され、その周辺に各國の租界か集中されていた。上海はまた「冒険家の楽園」と呼ぱれ、このバンドは國內(nèi)だけでなく海外でもよく知られており、観光客が必ず訪れる所となっている。バンドは上海?シンポルとも言え、バンドの周辺に立ち并ぷ建物はそれぞれ風(fēng)格を持ち、「萬國の建筑物」と言われる。
バンドの近くから始まり、市中心まで伸びる世界でも有名な南京路がある。東京の銀座より人がいっぱいで賑やかである。南京路にある第一百貨店は毎日20萬人ほどのお客さんを迎え、祝日になると30萬人を超えるほどだ。(你我 日語)
さらに、夜のバンドと南京路はまた格別だ。ネオンサインがまぷしいほど輝き、日本人は上海の夜景を「五つ星」と絕賛している。
誰にも故郷がある。故郷を離れれぱ離れるほど故郷が戀しくなるのが人情だと思う。上海に帰る回數(shù)が増えれぱ増えるほど戀しくなる私の大好きな上海である。
「自己紹介」
私は中國から來た「ぼくのゆめ」です。今島根にある寮に住んでいます。外國人は私一人です。ですから、はじめのころは、言葉や食事のことなどでとても苦労【くろう】しました。お風(fēng)呂に入る時も恥ずかしくて嫌でした。でも、今はもうすっかり寮の生活にも慣れて、みんなと仲良くなりました。私は料理が得意なので、休みの日は、寮の友だちにごちそうします。すると、みんなとてもよろこんでくれます。私は好奇心が強く
いろいろなことを體験してみたいと、いつも思っています。それで、以前から趣味のあった日本へ來たのです。今熱中していることは生け花です。次は、お茶をやってみたいと思っています。にほんへ來る前は、病院に勤めていました。日本語の勉強が終わって帰國したら、日本語や日本で學(xué)んだことをどんどん仕事に生かしたいと思っています。
星期日(にちようび)
昨日は日曜日で、とてもいい天気でした。あんなにすばらしい天気はほんとにめずらしいです。留學(xué)生の田中さんは日本語科の趙さんと一緒に自転車で淮海路(わいかいろ)行きました。そして、淮海路のショッピングセンターで買い物をしました。趙さんは文房具や食べ物を買いました。買い物のあと、二人はレストランへ行きました。そこで、二人で食事をしました。それから、田中さんと趙さんは公園へ行きました。そこで三十分ぐらい散歩しました。そのあと、二人は映畫館でとてもおもしろい映畫を見ました。
譯文:
星期日
昨天是星期日,天氣非常好。那么好的天氣真是非常少見。留學(xué)生田中和日語系的小趙一起騎自行車去了淮海路。然后在淮海路的購物中心買了東西。小趙買了文具和食物。購物之后,兩個人去了餐廳。在那里,兩人吃了飯。然后,田中和小趙去了公園。在那里大概散步了三十分鐘。之后兩人又在電影院看了非常有趣的電影。
人生
私は一本の長い階段を設(shè)ける。一年三百六十五日たつと、一段上にのぼる階段である。その階段の六十八段目の一番上のところに私が腰を降ろしている。そして妻、二人の息子、二人の娘、その配偶者、そして孫たちというように、長い階段のところどころに、十何人かの男女が配されている。
下から二段目のところに、去年(昭和四十八年)生まれた幼児二人が、転がらないように紐で結(jié)び付けられている。どちらも男の子である。まだ這うこともできず、口もきけない。しかし、なんといっても、この英児二人が際立って溌剌としている。聲から何十段でも階段をのぼって行くエネルギ―を、その小さい體に詰め込み、いかなることでも、実現(xiàn)できる可能性を身內(nèi)に貯えている。まだ人生のいかなる汚れにも染まっていない。本能的に母を求め、乳を欲しがる以外、いかなる欲望も持っていない。人を羨むことも、人を憎むことも、歓心を買うことも知らない。栄譽も、金も無関係である。時時笑うが、神様が笑うことの練習(xí)をさせているとしか思わない。ただ無心に笑うだけである。
人間はみな、この英児から出発している。そんな思いが突き上げてくる。この二人の英児が私の腰をかけているところまでのぼるのは大変である。英児のいる二段目のところから上を仰ぐと、気の遠くなるような遠さであろうと思う。三十段目から四段目あたりにかけてばら撒かれている息子や娘たちは、いつか青春期をぬけて、壯年期に入ろうとしている。當(dāng)然私などの知らないそれぞれの人生の哀歓を経験しているところであろうと思う。私は殘念ながら、そこへ入って行ってやることはできない。いかなる問題があろうと、それぞれ自分たちで処理してゆく他はない。父親がくるしんだように悲しまなければならないであろうと思う。そういう自分で歩き、自分で処理していかねばならぬものが、人生
というものであろうからである。
「私の一日」
私は毎朝6時半に起きます。そしてラジオの中國語の勉強を始めます。中國語の発音は大変難しいです。7時半ごろ朝ご飯を食べます。私の家は郊外にあります。會社は町のまん中にあります。家から駅まで10分あまり歩きます。そして電車で會社へ行きます。家から會社まで55分かかります。電車はいつもたいへんこみます。會社は9時に始まります。仕事はたいてい6時に終わります。どきどき駅からタクシーで帰ります。3分ぐらいです。170円かかります。私の會社は旅行會社にいます。支店は全國に八か所あります。仕事はたいへんおもしろいです。私はよく出張します。來週は九州へ行きます。しかし、出張はとても疲れます。日曜日はほんとんどの會社は休みます。しかし、わたしの會社はめったに休みません。社員は交替で休みます。休みの日は一か月に4回とどです。その日は晝ごろに起きます。あまり外出しません。家でゆっくり小説を読みます。夜はビールを少し読みます。そしてステレオで音楽を聞きます。ときどきテレビも見ます。
私の家族(我的家庭)
私の家族はたくさんの上海の家族と同じ、幸せな3人家族です。父、母とかわいい私です。
父は見るのがちょっと厳しいですが 実は日常の生活中に 時々人に笑われることをします。母はふだんにぶつぶつ言うことがありますが 私と父に対して母はいないと 生活ができない人です。
私は 幸せな家庭があって 未來 両親は私に対して 最重要な人です。
私は父と母を愛しています。
夢を葉える―今考えている『夢』と『現(xiàn)実』について―
『私は將來、なりたものはあるのか』そんなことを?qū)い亭椁欷啤氦Δ?、あるよ』と平然と答えられるような夢を、正直言うと私は持ってはいない。夢を持っていたとしても、きっと家族や身近にいる人間にも影響、迷惑、負擔(dān)をかけてしまう可能性があるからである。おそらく、という私が推測する上では、夢のことを打ち明けたとしても家族は反対するだろう。
その夢のひとつが、『小説家』。
このメビウスリングというサイトでも、私は小説を連載している。正直言うと文章構(gòu)成などはかなり得意分野でもあるし、その勉強にはかなり力を入れている。自分が今、何よりもなりたい職業(yè)――夢。
だがそれを現(xiàn)実的に考えてみると、小説家という職業(yè)は売れて生活できるものである。普通のサラリーマンとは訳が違う。本業(yè)としても売れなければ、必ず家族のほうに私の生活費を負擔(dān)させてしまうだろう。私の家族は七人。祖母と祖父、両親に二人の姉がいる。
將來のことを考えてみれば、きっと姉は二人ともどこかで一人暮らしたり、新たな家族を持つことになるだろう。そうなれば、何よりも両親に負擔(dān)がかかるのだ。
それが、怖かった。
今までずっとわがままを聞いてくれていた両親に、大人になってまでも負擔(dān)をかけるなど…。
だが私はずっと、この夢をあきらめたことはない。
第三篇:日語初級自我介紹
みなさん?和憐挫。暴?わたし?は??と賦?もう?します。書定?ことし?は22嗷?さい?で
書?いま??わたしの晩云囂?にほんご?はただ兜?はじ?めてなので、酒??かんたん?な晩云囂?にほんご?しか聞?つか?えません。?ima no nihongo wa tada hajimete na no de, kantan na nihongo shika tsukaemasen?。
でも、これから適薦?どりょく?に茶膿?べんきょう?するつもりです?demo, korekara doryoku ni benkyo-suru tsumori desu?。
そして、わたしの茶膿薦?べんきょうりょく?と癖丞?Γ┐討④?Δ蠅腓???殖┐弔茖?ぁ△修Δいψ墅釘┐犬靴鵤??孱┐癸?辰討襪?蕁■бoshite, watashi no benkyo-ryoku to tekio-ryoku ga tsuyoi, so-iu jishin ga motteru kara?。
これからお弊三?せわ?になって、どうぞよろしくお垳?ねが?いします。?korekara osewa ni natte, do-zo yoroshiku onegaishimasu?。
暴?わたし?の來鯉?せいかく?は苧?あか?るくて繁?ひと?との俊乾?せっしょく?がうまいです。夭販湖?せきにんかん?が膿?つよ?くて、この碧並?しごと?に??む?いていると房?おも?っています。
徭蛍?じぶん?が桐?きた?えの嶄?なか?で貧序?じょうしん?し、碧並?しごと?のほうもよくできるようがんばります。
第四篇:日語日記初級
2015年3月26日
木曜日
晴れ わたしは 一年間らい 日本語を 勉強しました。しかし、まだ あまり できません?今日は 日本語で 日記を書きます。少し 簡単な文法が 分かりましたが 上手ではありません。
毎朝 6時40分に 起きて、顔を洗います。いつも 7時20分頃 出ます。食堂で 朝ご飯を食べます。そのあと、教室で 本を読んで宿題をします。それから 授業(yè)を受けます
晝 半時間をかけて ご飯を食べた 後 2時間 休みます。午後 また 授業(yè)があります英語の文法が 嫌いですが 毎週 勉強しなければなりません。休みの日、私も授業(yè)を受けます楽しくないです。
夜 図書館で 勉強しに 行きません。よく 寢室で 宿題をします。大學(xué)院生に なりたいです。でも、難しいです。今、まだまだですから わたしは もっと頑張ります。
趣味は アニメを見ることです。ときどき 小説を読みます。よく 2時間くらいかかります。音楽も好きです。毎晩、寢る前に 音楽を聞きます。
いつも どこかへ 行きたいです。しかし どこへも 行著ませんでした。時間も お金も ありませんから。いつか 日本へ 行きます。日本で 日本のおいしい食べ物が ぜひ 食べたいです。アニメが 好きですから 秋葉原に 行きたいです。
毎日、頑張ります。
第五篇:初級日語作文
我的大學(xué)生活
種類によっての熱心な出現(xiàn)は時間に素晴しい教授で教師、思考の列車に近く學(xué)友と坐るために、歩行者がすべて妨げたそれらを座席のための一見引き出す教科書を、終日大學(xué)生命始めてしまった道の歩行者のプロローグを次第にであるずっとクラスに出席した多數(shù)、壊したキャンパスの靜けさを、すぐに、雑談していた最后の夜スポーツが一致する教室の教室の方に動かされて非常に速く浸るある恐れられていた軽いステップを置くことを可能にしたこと、ちょうど照らされた私の大學(xué)生命天候が何人かの人々陰の外國語を読むキャンパスで見る教師と上向きに飛んで、表面の古い教授は時間后に學(xué)校からの休暇に青年輝きの午后をある最も忘れられない渡している、これは行くために自分自身が割り當(dāng)てる時間、割り當(dāng)てられたアクセス網(wǎng)、一緒に、そしてまたそう食事した任命同時にだった各種類の活動が行なった元気づけた學(xué)生のサッカー競技場のグループの文學(xué)様式ホールからの音、送信された時間蹴る球をだったが、また何人かの何人かの若いメス學(xué)生はだったこの2 年に、住むために燃料を補給された叫ぶこと......意識不明に2 年の大學(xué)渡されて実際によかったそして、成長した育つ、自身の夢に日刊新聞の私達がすべて次第に先に行ってもいかにが生命の悪い狀態(tài)にすべてある
我的大學(xué)生活
天色剛亮,就可以看到校園里有人在樹陰中讀外語了,那種專注的樣子,讓行人都放輕了步子,怕打擾了他們.找個座位坐下來,掏出課本,一天的大學(xué)生活拉開了序幕.漸漸路上的行人多了,打破了校園的寧靜,快到上課的時間了,和同學(xué)邊聊著昨晚的球賽,邊走向教室.課堂上很快就沉浸到老師精彩的講課中去,思緒跟著老師在飛揚,年邁的教授臉上透著青春的光彩.下午放學(xué)后的時光是最難忘的,這是自己可以分配的時間了,可以去上網(wǎng),約會,聚餐,等等,同時也是各種活動舉辦的時間,從文體館傳來喝彩的聲音,足球場上一群學(xué)生在踢球,還有幾個小女生在喊著加油......不知不覺度過了兩年的大學(xué)生活了,這兩年中真的是酸甜苦辣都有.不管怎么樣,我們都在一天天的長大,成熟,一步一步向著自己的夢想前進著.「私の友達」
私は積極的な性格ですから、友達がたくさんいます。しかし一番仲が良いのは你來我網(wǎng)さんという友だちです。彼女と初めて會ったのは、高校生になった時です。你來我網(wǎng)さんは私は反対に、女らしく優(yōu)しくて、すなおです。私と同じ年ですが、いつも私の悩みを聞いてくれて、私には本當(dāng)のお姉さんのような人です。私が寂しい時や困ってにる時は、いつでも力になってくれました。
你來我網(wǎng)さんは、今、ゲザイナーになって有名な洋服の會社につとめ、毎日いそがしいようです。私が日本へ來ているので會えませんが、暇があれば手紙を書き、電話も時時かけています。これからもずっと仲良くしていきたいと思ってにます。
「私の夢」
(日本人は理想よりも、夢と言う言葉を使っていると思いますので。)
私はまだ子供のころ、空を見上げることが大好きでした。青々と広がっている空を、ふわふわしている云が、のんきそうに漂っていくのを見て、心が愈されるような気がします。
ですから、私はそのとき、「將來パイロットになりたい」と心で決めました。飛行機にのって、鳥のように、空を、云の間を縫いでいくことを、すばらしく思っていました。頭が空っぽになって、すべての悩みが忘れられるようなので。
まだちっちゃいので、パイロットになるために、どうしたらいいのかまだ考えていませんでした。その后、パイロットはみんな2.0以上の視力がなければならないと聞いて、近視眼である私はただ、空しく嘆くしか、しようがありませんでした。
高校に入って、私はサッカーに興味を持ち始めました。サッカー選手たちが、競い合っている姿に、私は惚れていました。あのスピード、パワー、テクニック、あれこそが、男のあるべき姿ではないかと、私は思いました。そして同時に、新たな夢が私の心に芽生えました。それは、「中國一のゴールキーパーになって、中國チームを世界の頂點に送るのに、私は自分の力を捧げたい」と思いました。しかし、それには、身長が必要です。1.80ちょうどの私には、中國一は無理だったのかもしれません。大學(xué)に入って、身長がほぼ固定された私の新たな夢は、無殘にも破られてしまいました。
日語
大學(xué)では、日本語を?qū)煿イ筏蓼筏?。正直、初めの頃は、夢なんて、まだ見つけていません。目の前の道をただ走るのみ、そこには私の夢とか、意志とか、ありませんでした。勉強していく中で、ちょっとした問題に気づきました。それは、必死に勉強している人ほど、成績が低く、ということでした。そのとき私はこっそり考えました。実は彼らは努力が足りないってわけではありません。努力の方なら、私なんかより、ずっとたくさんしていると思います。殘念なことに、彼らは勉強の仕組み、つまり勉強の方法を知らないだけに、こういう「空振り」の學(xué)習(xí)を繰り返しているです。そこで、私は「將來日本語の教師になって、知識だけではなく、勉強の仕組みを、御紹介させていただきたい」という、夢を持つようになり、そして今までに至っています
我的家鄉(xiāng)
私は上海に生まれました。故郷は上海だと思います。上海は中國の中では、最も都會らしい都會です。上海には名所名跡が少ないが、中國最大の商業(yè)、工業(yè)、港灣地帯として特徴づけられている。
今、上海の人口がもうすでに1250萬人を超え、世界一のマンモス都市となった。改革開放によって、上海が大きく変わりつつある。毎年上海に帰省するたびに、その発展ぷりに驚き、上海の一員として、夸りと喜ぴを持っている。
上海は長江の南側(cè)、支流の黃浦江の西側(cè)に拓かれた街だ。今世紀(jì)の初めに黃浦江西側(cè)のバンドと呼ばれる地區(qū)は、港灣設(shè)備が整備され、その周辺に各國の租界か集中されていた。上海はまた「冒険家の楽園」と呼ぱれ、このバンドは國內(nèi)だけでなく海外でもよく知られており、観光客が必ず訪れる所となっている。バンドは上海?シンポルとも言え、バンドの周辺に立ち并ぷ建物はそれぞれ風(fēng)格を持ち、「萬國の建筑物」と言われる。
バンドの近くから始まり、市中心まで伸びる世界でも有名な南京路がある。東京の銀座よ
り人がいっぱいで賑やかである。南京路にある第一百貨店は毎日20萬人ほどのお客さんを迎え、祝日になると30萬人を超えるほどだ。(你我 日語)さらに、夜のバンドと南京路はまた格別だ。ネオンサインがまぷしいほど輝き、日本人は上海の夜景を「五つ星」と絕賛している。
誰にも故郷がある。故郷を離れれぱ離れるほど故郷が戀しくなるのが人情だと思う。上海に帰る回數(shù)が増えれぱ増えるほど戀しくなる私の大好きな上海である。
「自己紹介」
私は中國から來た「ぼくのゆめ」です。今島根にある寮に住んでいます。外國人は私一人です。ですから、はじめのころは、言葉や食事のことなどでとても苦労【くろう】しました。お風(fēng)呂に入る時も恥ずかしくて嫌でした。
でも、今はもうすっかり寮の生活にも慣れて、みんなと仲良くなりました。私は料理が得意なので、休みの日は、寮の友だちにごちそうします。すると、みんなとてもよろこんでくれます。私は好奇心が強くいろいろなことを體験してみたいと、いつも思っています。それで、以前から趣味のあった日本へ來たのです。
今熱中していることは生け花です。次は、お茶をやってみたいと思っています。にほんへ來る前は、病院に勤めていました。日本語の勉強が終わって帰國したら、日本語や日本で學(xué)んだことをどんどん仕事に生かしたいと思っています。
星期日(にちようび)
昨日は日曜日で、とてもいい天気でした。あんなにすばらしい天気はほんとにめずらしいです。留學(xué)生の田中さんは日本語科の趙さんと一緒に自転車で淮海路(わいかいろ)行きました。そして、淮海路のショッピングセンターで買い物をしました。趙さんは文房具や食べ物を買いました。買い物のあと、二人はレストランへ行きました。そこで、二人で食事をしました。それから、田中さんと趙さんは公園へ行きました。そこで三十分ぐらい散歩しました。そのあと、二人は映畫館でとてもおもしろい映畫を見ました。
譯文: 星期日
昨天是星期日,天氣非常好。那么好的天氣真是非常少見。留學(xué)生田中和日語系的小趙一起騎自行車去了淮海路。然后在淮海路的購物中心買了東西。小趙買了文具和食物。購物之后,兩個人去了餐廳。在那里,兩人吃了飯。然后,田中和小趙去了公園。在那里大概散步了三十分鐘。之后兩人又在電影院看了非常有趣的電影。
人生
私は一本の長い階段を設(shè)ける。一年三百六十五日たつと、一段上にのぼる階段である。その階段の六十八段目の一番上のところに私が腰を降ろしている。そして妻、二人の息子、二人の娘、その配偶者、そして孫たちというように、長い階段のところどころに、十何人かの男女が配されている。
下から二段目のところに、去年(昭和四十八年)生まれた幼児二人が、転がらないように紐で結(jié)び付けられている。どちらも男の子である。まだ這うこともできず、口もきけ
ない。しかし、なんといっても、この英児二人が際立って溌剌としている。聲から何十段でも階段をのぼって行くエネルギ―を、その小さい體に詰め込み、いかなることでも、実現(xiàn)できる可能性を身內(nèi)に貯えている。まだ人生のいかなる汚れにも染まっていない。本能的に母を求め、乳を欲しがる以外、いかなる欲望も持っていない。人を羨むことも、人を憎むことも、歓心を買うことも知らない。栄譽も、金も無関係である。時時笑うが、神様が笑うことの練習(xí)をさせているとしか思わない。ただ無心に笑うだけである。
人間はみな、この英児から出発している。そんな思いが突き上げてくる。この二人の英児が私の腰をかけているところまでのぼるのは大変である。英児のいる二段目のところから上を仰ぐと、気の遠くなるような遠さであろうと思う。三十段目から四段目あたりにかけてばら撒かれている息子や娘たちは、いつか青春期をぬけて、壯年期に入ろうとしている。當(dāng)然私などの知らないそれぞれの人生の哀歓を経験しているところであろうと思う。私は殘念ながら、そこへ入って行ってやることはできない。いかなる問題があろうと、それぞれ自分たちで処理してゆく他はない。父親がくるしんだように悲しまなければならないであろうと思う。そういう自分で歩き、自分で処理していかねばならぬものが、人生というものであろうからである。
「私の一日」
私は毎朝6時半に起きます。そしてラジオの中國語の勉強を始めます。中國語の発音は大変難しいです。7時半ごろ朝ご飯を食べます。
私の家は郊外にあります。會社は町のまん中にあります。家から駅まで10分あまり歩きます。そして電車で會社へ行きます。家から會社まで55分かかります。電車はいつもたいへんこみます。會社は9時に始まります。仕事はたいてい6時に終わります。
どきどき駅からタクシーで帰ります。3分ぐらいです。170円かかります。私の會社は旅行會社にいます。支店は全國に八か所あります。仕事はたいへんおもしろいです。私はよく出張します。來週は九州へ行きます。しかし、出張はとても疲れます。日曜日はほんとんどの會社は休みます。しかし、わたしの會社はめったに休みません。社員は交替で休みます。休みの日は一か月に4回とどです。その日は晝ごろに起きます。あまり外出しません。家でゆっくり小説を読みます。夜はビールを少し読みます。そしてステレオで音楽を聞きます。ときどきテレビも見ます。
私の家族(我的家庭)私の家族はたくさんの上海の家族と同じ、幸せな3人家族です。父、母とかわいい私です。
父は見るのがちょっと厳しいですが 実は日常の生活中に 時々人に笑われることをします。母はふだんにぶつぶつ言うことがありますが 私と父に対して母はいないと 生活ができない人です。
私は 幸せな家庭があって 未來 両親は私に対して 最重要な人です。
私は父と母を愛しています。
夢を葉える―今考えている『夢』と『現(xiàn)実』について―
『私は將來、なりたものはあるのか』そんなことを?qū)い亭椁欷啤氦Δ蟆ⅳⅳ毪琛护绕饺护却黏à椁欷毪瑜Δ蕢簸颉⒄毖预Δ人饯铣证盲皮悉い胜?。夢を持っていたとしても、きっと家族や身近にいる人間にも影響、迷惑、負擔(dān)をかけてしまう可能性があるからである。おそらく、という私が推測する上では、夢のことを打ち明けたとしても家族は反対するだろう。
その夢のひとつが、『小説家』。
このメビウスリングというサイトでも、私は小説を連載している。正直言うと文章構(gòu)成などはかなり得意分野でもあるし、その勉強にはかなり力を入れている。自分が今、何よりもなりたい職業(yè)――夢。
だがそれを現(xiàn)実的に考えてみると、小説家という職業(yè)は売れて生活できるものである。普通のサラリーマンとは訳が違う。本業(yè)としても売れなければ、必ず家族のほうに私の生活費を負擔(dān)させてしまうだろう。私の家族は七人。祖母と祖父、両親に二人の姉がいる。將來のことを考えてみれば、きっと姉は二人ともどこかで一人暮らしたり、新たな家族を持つことになるだろう。そうなれば、何よりも両親に負擔(dān)がかかるのだ。
それが、怖かった。
今までずっとわがままを聞いてくれていた両親に、大人になってまでも負擔(dān)をかけるなど…。
だが私はずっと、この夢をあきらめたことはない。