第一篇:日本留學感想文集
日本留學感想文集
――半年間の留學生活を振り返って
目次
留學の感想……………………………………………0401班 陳 靖
日本の印象…………………………………………0401班 陳 迪思 東瀛との出會い……………………………………0401班 丁 建萍 日本での感觸そして感動…………………………04甲班 耿 貝妮 特別な體験、貴重な経験…………………………04甲班 胡 麗芳 ――日本留學について
留學體験について…………………………………04甲班 蔣 玲玲 留學の感想……………………………………………0401班 李 頴 滑走、離陸、飛行………………………………………0401班 繆 嬋 思い出せば……………………………………………0401班 王 琳 半年の留學を振り返って……………………………0401班 王 洋 「さようなら」から「ただいま」へ……………0401班 徐 哲紋 私の日本留學…………………………………………0401班 葉 楠
私の留學日記………………………………………0401班 張 叔傑 半年の留學生活を憶う……………………………04甲班 周 倩倩
浙江工商大學日本日本語言文化學院
留學の感想
日本語學科0401班 陳 靖
2008年3月1日、広い関西空港のターミナルビルの中で、私は出発口に一番近い席に座りながら、12時30分発の中國杭州行きの飛行機を待っていた。再びこの場所に來た時、日本に到著した時のことが突然脳裏に浮かび、同時に私は再び原點に戻るという錯覚を覚えた。正直、自分が今どんな気持ちなのかよく分からなかった。興奮、焦り、未練、困惑…。日本での生活は奇妙、感動、そしてとても魅力的だったと思う。
2007年9月10日、二時間を経て日本の地面を自らの足でしっかり踏みしめた時、私のハラハラした気持ちはやっと落ち著いた。初めて飛行機に乗る時の感覚と同じで、日本での生活がすぐに現実になると考えると、自分の興奮する気持ちを抑えならなかった。他のクラスメートを見ても、みんなとても興奮しているようだった。
カートに積まれた重い荷物を押して、綺麗な地面を踏みしめながら、私はこれからの生活へと歩いていった。私の吐息と歩みの中には僅かな不安と焦りがあった。教科書やテレビの中での「日本」、そして憧れていた日本での留學生活が皆現実になる。初めて中國から出て、初めて日本人の世界へ入って、初めて日本の學校で勉強して、初めて……。ひょっとしたら數え切れないほどの「初めて」がこの半年の間に起る。
大阪へきたばかりのころ、天気はまだ暑かった。しかし、青空と綺麗な空気は私にとってはとても久しぶりだった。私たちが生活するところは羽曳野市というところだった。寮は日本人の住宅団地の中にある。寮の建物はあまり大きくなかったが、家の前に小さな庭があって、とても綺麗だ。
來たばかりの時、まだ夏休み中だったのだが、毎日二人のルームメートと一緒にスーパーへ買い物に行くことが日課になった。夜の八時ごろ、寮は急に賑やかになる。それはその時間帯にスーパーでは商品を半額で販売し始めるため、みんながそれを買いに出掛けるからだ。肉はもちろん、果物は一つ一つで販売ずる。これらは中國人の私たちにとっては初めはかなり不慣れであった。
寮で生活を始めて十數日が過ぎ、新學期がやっと始まった。私たちの科目はうちの學校と一致しなければならなかったので、四天王寺大學での科目もほとんど規定された。しかし、ほかの科目も學生は自分のレベルに基づいて選べる。日本の大學から私が受けた印象は自由であるということだ。科目を選ぶ前に先生の授業を先に受けることができる。専門の課程以外に、日本文化、歴史、文學などの科目があり、學生は自分の好みによって自由に選べるのだ。こんな形で、學生には大きな選択の自由が與えられ、個性と趣味も発揮できる。半年の學習生活で私が受けた一番大きな印象は、日本人の先生は普段の學習を重視する反面、テストは意外に簡単であるということだ。ほとんどの先生は新學期の初めての授業でどうやって成績を評定するのかを學生にはっきり伝える。
実際に日本で生活してみて、教科書から學んだ「日本」に関する私の知識が如何に貧弱であるかということに気が付かされた。日本人はみんな電車で貍寢入りしたり、漫畫を読んだりだけではない。私は一體右側を歩いているのか、それとも左側なのかよく迷った。また使い終えた電池を捨てたいけど、捨てる日をいつも忘れてしまう。しかも、何度も恥を掻いたことがある。最も印象深かったことは橫斷歩道での出來事だった。日本に行ったばかりの頃、橫斷歩道で人が道を渡っているときに、車とあたりそうになると、人が先に淺いお辭儀をしてから通る光景をよく目にした。中國には「郷に入っては郷に従う」という諺がある。さすが禮儀正しい國だなあと感じながら、今度、私も私を先に通してくれた 2 車に対し、九十度以上のお辭儀をしてしまった。
10月12日、私は人生初の仕事を始めた。仕事先はあるレストランだった。そして、3ヶ月ぐらいのアルバイトの経験を通して、私は日本人の生活に一歩近づいた気がした。アルバイトをして、ひとつのことに気がついた。耳に入る最も多い言葉はおそらく「すみません」だろう。日本人は人に迷惑をかける時はもちろん、ほかの場合にも「すみません」と返事することが多いようだ。アルバイトを始めたばかりのころ、客に料理を出すとき、私が想定していた「ありがとう」という返事ではなく、意外にも「すみません」という言葉を頻繁に耳にした。別に客が私に謝る必要はないのに、なぜ私に謝るのかどうしても理解できなかった。
それは日本人が恩を感じることを重視するのだとひとつの授業で習ったことがある。日本人は「比較的に縁の遠い人から、図らずも恩恵を蒙ることは、最も不快に感じるところである」と。たとえ私のような縁もない店員であっても、日本人に見れば、恩を蒙ることになるのだろう。
大學祭の中華カフェー、反省會のたこ焼きパーティー、京都の紅葉、優しい先生方、バイト先の友達……。たった半年だったが、日本での生活は私にとって一生忘れられない思い出である。
日本の印象
日本語學科0401班 陳 迪思
光陰矢のごとし。半年間の日本での留學生活があっという間に過ぎてしまった。この半年間は長いようで短い時間だったが、日本や日本文化について學ぶことができ、またいろんな人と出會い、いろんなことを経験し、これからの長い人生にとって、すばらしい経験であったと思う。収穫の多い半年間であると同時に、感慨の深い半年間でもあった。ある國の言葉と文化を勉強するには、自分でその國に行き経験せねばならぬとある學者はそう言っていた。私もそう思う。留學前に遊學という形で半月ぐらい日本に滯在した。飛行機から降りた瞬間のあの感動と言ったら、「あ、ここが日本、自分が勉強している日本語の母國なんだ!」と興奮してたまらなかった。半月はさすがに短かったため、殘念ながら見聞できたことはそれほど多くはなかったが、今回は前回と違って新しい日本を感じた。まずは日本人の謹厳実直な仕事振りである。計畫から実施までどんな細かいところでもきちんとしている。參加者全員の行動の一致を求めるために何度も説明會や會議をすることが多い。大學祭の時、日本人の學生たちと一緒に中華茶館を開いた。當日接客用の臺詞まで皆で考えて、そして何度も演習した。そんなに細かくしなくても勝手にやればいいのではと思ってしまうこともあるかもしれないが、その拘りがあるからこそ、例えば日本のバスや電車がいつも時間厳守で遅刻があまりないとか、電車に乗り込むために走ってる人以外慌てている日本人をあまり見かけないとか、そういう狀況が生まれるのである。それはすべて計畫通りだから。それに、日本の電気製品など品質がいいという評判もそれとかかわっているのだろう。中國の場合は効率が大切だ。つまり速くやれ、よくやれと二つの意味を持っている。しかし、日本人の場合はスピードよりも出來栄えのほうが大事である。日本人の仕事ぶりを見ていると、なぜそんなにのんびりでいられるのだろうと思うことがよくあるが、その素敵な出來栄えを見てたら、さすが日本人だとまた思わず感心してしまうのだ。私が感じたのは、日本人はアクシデントとか想定外の出來事とかあんまり好きではないようだ。たぶん、起り得るアクシデントもすでに前もって計算されていて、それを防ぐための計畫も立っているのだろう。そういう謹厳なところはわれわれの參考にもなるのではないかと私は思っている。日本は優しい國である。バスは乗客がきちんと座ってから動き出す。電車には冬になると座席にも暖房が入る。トイレには、予備のトイレットペーパーがいつも置いてある。それに、赤ちゃん連れのお母さんのために、オムツ替えのシートもある。そういう細部に至るまで人のために考えているところがすごく優しいと思う。日本のサービス業界の「顧客第一」の考えもすばらしいと思う。買い物に行ったら、店員さんの笑顔がいつも素敵だ。釣りを出す時は、ちゃんと一枚ずつ數えながらお客さんに渡す。それはどんな店に行っても同じである。それに、販売されるものにはいつもサンプルがついている。アイスクリームの場合、各味各サイズ、全部サンプルとなって羅列されていて、実物とほとんど同じように作られている。包裝のある商品もちゃんと中身を示すサンプルがついている。それに、試食できるものもよくある。お客さんがその品物をよく知ってから購入するため、騙されることも少なくなる。一つすごく印象に殘ったことがる。それは日本に行ったばかりの時だった。みんな揃ってソフトバンクの営業店に攜帯電話を買いに行った。でも、外國人登録証とか銀行口座の都合とかいろいろな理由で、なかなか順調に契約を結べなかった。しかし、次の日またその店に行ったら、店の中に一つの本が増えていた。「中國語入門」の本だった。それに店員さんが何かを説明してくれる時、時々変な中國語の単語が出たりし 4 て、びっくりした。ただ私たち十何人のためにそこまでしてくれるなんて、その気持ちに本當に感動した。中國では「お客様は神様」という言い方があるが、それは日本にこそ當てはまる言葉であると感じた。
この半年間、いろんな人と出會った。親切な方々ばかりだった。中國からの留學生だと分かって、親切に聲をかけてくれる人もいた。バイト先のラーメン屋さんで、ラーメンを食べながら中日文化を語っているお客さんもいた。それを聞いて、みんなかなり中國文化に熱心だなと感心した。しかし、こんな質問をされたこともあった。「中國の人って、やはりみんな日本人のこと嫌い?」とか「日本に留學に來て、両親に反対されてない?」とか。どうしてと尋ねてみたら、テレビのニュースで反日のデモを見たと答えてくれた。わたしが何度もそうではないと言っても、相手は半信半疑のようだった。
テレビをよく見てから、こんなことに気づいた。日本のテレビは、中國の悪い事情を放送するのが好きなようだと。例えばダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地とか中國でも周知されていない話について、むしろ日本人のほうがテレビを通じてよく知っているようだ。日本人の中には中國のことが好きな人、中國文化に興味を抱いている人は結構いるが、実際に中國に來られる人は少ない。そこで、テレビなどのマスコミに頼る人が多い。もしマスコミがマイナスなものばかり放送したら、人々に相當な悪影響を與えてしまう。中國の話をすると、ダンボールの饅頭餡、偽者の遊園地、偽者のブランド品のバックとか、まるで中國が偽者や悪者のパラダイスみたいに言われている。私が見た広州の偽バッグのニュースも、カメラマンがわざわざ広州までやってきて、取材したものだそうだ。そこまでするのなら、もっと積極的なものを調査したほうがいいのではないかと私は思った。もちろん否定できないのは、中國のマスコミも同じく日本の悪いニュースを流す傾向があるということだ。悪いことだからこそニュースになるのであるが、中國と日本の間にはやはり歴史の影が重いと思う。もし両方のマスコミがお互いに攻撃するのをやめて、もっと積極的に交流し、活躍すれば、きっと良い狀況が生れると思う。
最後に、この長いようで短かった旅の間に出會ったみんなに一言。本當に楽しかった。ありがとう、そして、またね。
東瀛との出會い
日本語學科0401班 丁 建萍
日本に行く前、留學をする甲斐が果たしてあるのかどうかずっと迷っていたが、今この半年を振り返ると、あっという間な感じで、もっと長く滯在できれば良かったのにと思っている。一つの言葉を勉強するのには、その國についていろいろ學んだりしても、実際に行ってみないと、抽象的なイメージに過ぎないと思う。行く時は、今回の留學が自分の語學力のアップにどのぐらい助けになるのかぐらいのことしか気になってなかったのだ。今考えると、語學力の上達はもちろん重要だけど、私が一番大切だと思ったのは実際に自分の目で見たり、心で感じたりして、様々な日本人と接することができたことだ。日本人の考え方についてもいろいろ勉強になった。
異國での生活は充実しており、新鮮だった。楽しいことがたくさんあった反面、困ったことも決して少なくなかった。コンビニでのバイトを始めた時「御袋ご利用ですか」と言ってしまって、店長に笑われたことがある。切符の販売機に向かった時、うっかりして「呼び出し」というボタンを押してしまった。すると隣の小さな窓が開き、或る人の頭がまるで童話の啄木鳥のように、ぎゅっと窓から出て來て、心配そうな顔で「どうしましたか」と私に聞いた。さすがに私は驚かされた。あれから、友達と寮までずっと笑いながら帰った。東京に著いて、トイレに行ってきたら、訳もわからなく急に警察に取り囲まれて、パスポートを出してくださいと言われたこともある。また、私が自転車で怪我したお陰で、病院に行く経験もできた。保険に入ってない場合は、さすがに診察費も高かった。それから、日本人の友達ができてから、一緒にカラオケに行ったり、ボーリングをやったり、USJに遊びに行ったりした。割り勘にはまだちょっと慣れていなかったけど、遊びながらお互いの感情が深くなるのが感じられた。私がずっと感心しているのは日本人の熱心な仕事ぶりである。一緒に働いていた人は私ができるまで、皆熱心に何回も教えながら、なぜああせずに、こうすべきかもちゃんと説明してくれた。皆いつも一生懸命仕事をやっていて、人に迷惑をかけないという意識がすごく強かった。そのため、學生は學校をサボることはあっても、バイトを休むことは非常に珍しい。また仕事中、彼らはいい加減に対処することなく、強い責任感を持って頑張っている。時々、駅で勤めている人や宣伝をやっている人がずっとお辭儀をしながら、大聲で 「ありがとうございます」、「ありがとうございました」と言っている場面を見ると、感動で胸が熱くなった。中國では多くの學生が自分の勉強に情熱的に取り組むのに対して、日本の大學生はクラブ活動をやるときが一番やる気満々に見える。特に私を驚かせたのは、車で學校に通っている學生が結構多い事、大勢の女性が持っているのはLVのかばんであるにも拘らず、學費を払えないとか言って、學校を辭めようとする人がいる事、また家に帰りたくなくて、外で一人で一晩中お酒を飲んだりする人がいる事などである。自分の國から出ると、母國への深い愛情さえ感じられるとある先生がおっしゃったように、日本へ行ったら、何かをやる前に自分自身のことだけではなく、母國の體面にかかわることもよく考えるようになった。普段、ルームメートと私は中國人の顔に泥を塗らないためにも、遅刻してはいけないとお互い注意しあったりした。またルームメートがバイトを始めた時、オーナーがご飯を持ち帰ることはできるけど、多く持っていってはいけないと言った。なぜなら、それはあの店で働いていた一人の中國人がよくたくさんのご飯を持って帰っていたからだ。ルームメートはそれを聞くと苛立って、一回もご飯を持って帰らなかった。私も賛成した。私たち中國人の名譽のために、お米がいくら高くても、持って帰ってはいけないと思った。今振 6 り返ると、その時ちょっとやりすぎだったかもしれないと思うこともあるけど、もう一度こういう狀況に直面しても、たぶん同じようにするだろう。このようなことは日本にいた時よくあった。正直に言うと、日本人の中國に対するイメージは決してよいものではないと感じられた。そのため、自分がちゃんとできていてなかったら、日本人の中國人に対する悪い印象を更に強めるだろうという心配がずっとあった。異國に住んでいる時、自分の國の悪口を耳にするほど恐ろしいことはないと思う。スナックで働いている中國人女性が多いと聞いた時、またバイト先の店長から中國が現在直面している一番の問題は経済発展と環境保護のバランスを考慮することにあると言われた時、自分の気持ちは複雑だった。帰國してから、私たちは日本の先進的な面から學ぶべきだとよく口にするけど、日本にいた時には自分の國に様々な問題があると分かっていても、なかなか口に出せなかった。留學の最後の一ヶ月、餃子中每の事件について毎日何度も放送されていた。その時は一刻も早く中國に帰って、そのニュースから遠ざかりたくて堪らなかった。
一方、私たちは中國人として、違う文化を持っている國に行き、違う教育を受けて來たわけだが、中國人も日本人も同じ人間で基本的には共通しているということも感じた。日本人の國民はみんな優しかった。初めて會話を交わした時、私はいつも両國の違うところをよく口にしてしまったが、実は多くの考え方もやり方も一緒だと感じられるようになった。何と言っても、中國も日本も同じアジアの一員であり、そして日本は中國からの影響を深く受けてきた國だからだ。お互いの國境を忘れた上で、より深いコミュニケーションができれば、お互いの文化をより深く理解できると思う。
日本での感觸そして感動
日本語學科04甲班 耿 貝妮
日本に行った半年間は、喜びもあり涙もあり、寂しさもあり激情もあったが、今振り返ればそれら全ては感動であった。
考えのきめ細かい大阪人
9月10日、私達14人はM875フライトに乗り20年間生活してきた馴染み深い杭州を離れ、日本に向かいました。日本語と日本の文化を3年間學んで、ずっと日本を憧憬の眼差しで眺めてきた私にとって、日本に対するイメージを教科書の內容から思い描くだけで終わらせたくはないとずっと思ってきました。初めて自分の國を離れた時は、ドキドキ緊張していました。でも、その緊張感は空港までわざわざ來られたIBU國際交流センターの先生達の笑顔を見た瞬間、一気に解れました。私達の荷物を持ってくれて、私達は旅行中の見聞について話しました。関西空港は海岸に位置しており、海の景色を鑑賞しながら先生達と話しているうちに、すぐ寮に著きました。寮は二階建ての別荘のようでした。寢室は小さいけど、必要なものが全部準備してありました。電子レンジ、湯沸かし器、エアコン、カラーテレビ、冷蔵庫、包丁、ハンガーまで何でも揃っていました。まるで自分の家のように感じられました。ちょっと整理して休んでから、先生達は私たちを連れて一番近いスーパーに行き、必要なものを買ってくださいと言いました。先生たちは私達の買い物が終わるまでずっと外で待っていてくれました。みんなの買い物が終わってから先生達は私達を寮まで送ってくれました。そして、先生はその後一週間のスケジュールを私達に紹介し、私達を連れて銀行カード、健康保険、攜帯電話などの手続きをしてくれ、自転車の購入にも付き合ってくれました。初めて日本に行って、感じたのは9月の強い日差しと考えのきめ細かい大阪人でした。
情熱的、友好的な仕事仲間
10月、人生で初めての仕事を始めました。コンビニでの仕事です。偶然買い物に行った時、入り口に従業員募集のポスターが貼ってあることに気が付きました。是非やってみようと思い、私は人生で初めての履歴書を持って、オーナーとの面接に臨みました。オーナーは主に私がアルバイトの未経験者であることを心配し、また5ヶ月しかできないので、最初は少し悩んでいるようでしたが、私にアルバイトのチャンスを與えてくれました。仕事も日本語も頑張ってと私に言ってくれました。最初は「いらっしゃいませ」という簡単な言葉も口に出せませんでした。私が一人前になる為にまず必要なのは自分自身の努力ですが、更に欠かせなかったのは同僚達助けでした。最初は何をどうやるのかよく分からなくて、いつも間違いました。同僚にもいろいろ迷惑をかけました。しかし彼らは毎回私のことを親切に助けてくれて、更にはお詫びの気持ちでいっぱいの私を慰めてくれたりもしました。床掃除、商品の補充、レジ、郵便小包など仕事のやり方を覚えられたのは彼らのおかげです。仕事以外の時間に彼らはいつも私をカラオケに誘ってくれて、食事をしたり、旅行に行ったり、私の生活を豊かにしてくれました。日本人との付き合いを通して日本の風習と日本人の考え方を更に深く理解しました。中國人という理由から差別されたりすることは全くなくて、彼らは完全に私を仲間に加えてくれました。日本を離れる前にオーナーに別れの挨拶をした時、彼は私にまたもし大阪に來る機會があるならぜひうちの店で働いてくれと言い、その話を聞いて私はすごく感動しました。私の5ヶ月の仕事に対して高 8 く評価してくれたものと思っています。
無私な先生達とかわいい學友達
日本の先生は私達の特殊性まで考慮して、私達14人のために単獨で多くの授業をしてくれました。このような教授法は確かに私達に多くの収穫を齎してくれました。いつも満面の笑顔の矢羽野先生、厳格ですが私達を最も愛してくれた南谷先生、博學で面白い高原先生…。先生たちのおかげで私達は多くの知識を身に付けることができました。ちょうど日本に行く私達には現地に友達がいないから、授業を受けることだけで、他の課外活動はほとんど何もありません。先生達は多くの活動の方案を制定し、日本の學生と私達が一緒に活動できるように、中日の學生の交流の場を準備してくれ、また一方では私達の課外活動を豊かにして、私達の日本語のレベルの向上に気を遣ってくれました。先生達の獻身的な努力と學友達の積極的な協力のおかげで、歓迎會、神宮旅行、京都旅行、送別會など様々な活動を行うことができました。私達はそれらの活動を通して日本人の情熱に深く心を打たれました。
謙虛で環境保護意識の強い日本人
日本に行ってから、毎日日本を経験する中で、以前教科書で學んだ「禮儀の國」という4文字が最も完璧な解釈を得ました。エレベーターではみんな右側に整然と一列になって立ち、急いで行かなければならない人のために左側通路を開けておく點、バス停では秩序を重視し一列に並んで待つ點、ゴミを厳格に分類する點、街にゴミ箱は多くないにもかかわらず、道はきれいで衛生的である點、犬の散歩時に責任を持ってフンの後始末をする點などなど。全てが整然と秩序立てて行われているのには感銘を受けざるを得ませんでした。「申し訳ありません」は日本で使用頻數が最も多い一句であり、自分の行為が他人に迷惑をかける場合にはどんな些細なことでも相手に謝罪をする。
目がくらむ美食とアクセサリー
日本に行く前、日本はショッピングの天國であると聞いていたがまさにその通りであった。どこに行っても見られるたこ焼き、お壽司、おにぎり、そして裝飾がとてもかわいい商店。私は知らず知らずのうちに吸い込まれるようにして中へ入ってしまった。中へ入った後そこから出たくなくなる。精巧に作られたペンダントなど小さなかわいらしい商品を見た時、私は思わず日本人のアイデアと構想に感嘆させられた。
半年間はあっという間に過ぎてしまったが、それは私にたくさんの財産、たくさんの美しい記憶を殘してくれた。これらは私のこれからの生活の中できっと役に立つと思う。
特別な體験 貴重な経験
――日本留學について
日本語學科04甲班 胡 麗芳
半年の留學生活はあっという間に過ぎてしまいました。生活にしても、勉強にしても、非常に充実して過ごしました。思い出す度にいろいろな感情が心に湧いてきます。
四天王寺大學が私達留學生のために開設した課程は浙江工商大學日本言語文化學部の課程と同じように、日本文化、日本経済、日中翻訳などの科目を含んでいます。それらの中で、日本人の學生さんと一緒に受ける授業がある一方、私達十四人で受ける授業もあります。そのような形式により、日本人の學生さんと交流することができるだけでなく、私達交換留學生の語學レベルによって効果的に授業を受ける事ができました。日本で授業を受けて感じたのは、日本人の先生が非常に學生の勤勉性を重視しているということです。それこそ中國と歐米の成果主義とは異なっているところだと思います。中國で三年間も日本語を勉強してきましたが、日本に來てから、日本社會と日本人の國民性の奧にあるものを理解できるようになってきました。日本人はいつも「恩」、「情」、「恥」などの禮儀を大切にします。他人から何かを受けたら、恩返しをしなければなりません。それに、他人との関係の親しさによって、恩返しの仕方も変わります。また「恥」というものも常に意識されています。日本人の國民性の特徴については日本文化の授業でいろいろと學びました。それらはわれわれ中國の學生にとってとても興味深い內容でした。日本人と日常生活で接する中で、「日本人は禮儀正しい」という言葉が一層理解できるようになりました。日本人は「立場」をどのように認識するかということにいつも気を配ります。どんな職場でもその地位に相忚しい「立場」を正く意識し、出來る限り自分の能力を発揮し、努力しようとします。このように「日本人はいつもこつこつと働く」という印象を外國人に與え、強い責任感を持っていると外國人に感じさせます。日本語と文學を専攻している私たちは、日本社會に実際に身を置いて、自ら體験する必要があると思います。この半年間、生活を通して體験し、感じたものは本で學んだ知識よりも遙かに貴重です。「體験が成長の糧」と言われるように、その社會に身をおいて実踐的に體験してこそ、その社會の奧にあるものを心で感じ取ることができます。教科書から學ぶことはあくまでも知識の習得であり、実踐することこそが本當の勉強だと思います。生活の面において、半年の日本滯在期間中はずっと四天王寺大學の先生方から至れり盡くせりのお世話になりました。寮の中には何種類もの電気製品が設置されており、生活する上ではとても便利でした。それに、先生方がいつもいろいろ配慮してくれて、生活の面で何か不便なところがあるとすぐ解決してくれました。そのおかげで、半年の留學生活は本當に楽しく過ごせました。
生活といい、勉強といい、非常に細やかな問題であっても、先生方がいつも非常に熱心に解決してくれました。
授業と日常生活の両方で日本語を勉強し、日本社會を體験することができただけでなく、半年の留學生活の中で色々な貴重な體験もできました。クラスメートは皆それぞれ自分なりの人生の目標を持っており、半年の留學生活の中でどのようにすれば時間を無駄にしないで、自分の目標に少しでも近づいていけるかということがとても大切でした。みんな半年という時間を有効的に利用し、日本社會の奧に潛む魅力的なものを発見し、その面白さと美しさを吟味しようと夢中でした。また日本人との日常生活上での交流を通じて、會話力が一層よくなってきただけでなく、日本人の話の運び方、思考方式など前から理解し難 10 かったことも、日本に來てから理解できるようになってきました。四天王寺大學は靜かなところに位置していますが、生活の上ではとても便利でした。寮の近くにはバス停があって、町に行くのも便利です。とりわけ、日本は交通網が非常に整備されている國で、各駅の間は電車線で繋がれていて、電車のスピードも速く、時間の節約にもなります。それらは日本人の「よく働く」、「時間を無駄にしない」という意識にも関わっていると思います。この半年の留學生活は、勉強と経験を同時にする過程であったとも言えます。二つの面に分けると、授業中の勉強と體験、実踐中の勉強と體験に分けられます。授業中には言語と文學を勉強しますが、日本人と接すると日本人が持っている勤勉性、謙虛性、責任感といったものがひしひしと伝わってきます。それこそ日本人が人格を重視している原因だと思います。もう一つは、日本人が自國の尊厳を大切にしているということです。日本の街を歩く時に、いつも日本人の友好さに胸を打たれます。
例えば、道に迷ってしまった時、近くにいる日本人に道を聞いたら、すぐに返事をしてくれます。知らなくても、他の日本人に聞いてから教えてくれます。日本人のそのような友好さに感動してしまうのは當たり前のことでしょう。だから、日本人は「他人に対する禮儀を重んじ、良い印象を與えてくれる」とよく言われます。それこそ「日本が住みやすい」と言われ、日本人が誠実で友好的な性格であると言われる有力な証拠です。現在、日本のあらゆる町に數えきれない程の外國人が住んでいます。日本は大いに外來の文化を受け入れつつ、自國の経済を発展させてきました。僅か半年という短い期間ではありましたが、日本を自らの足で歩き、その魅力をじっくり味わうことが出來て本當に良かったと思います。たくさんの日本人の友達が「日本は住みやすい國だ」と言っていましたが、私は日本の國民の積極的、友好的そして前向きな態度をいつまでも覚えていると思います。日本に対する感情が認識から理解に変わり、理解から熱愛に変わりました。日本でのいろいろな出來事を思い出す度に、日本が私の第二の母國だという気がします。半年の留學生活でいろいろな勉強ができたことに満足している一方、日本に対する熱愛の感情で今は胸がいっぱいです。
留學體験について
日本語學科04甲班 蔣 玲玲
去年の九月、學校の手配により、私たち14人は大阪に交換留學に行くチャンスを手に入れた。半年間はあっという間だったけど、私たちはいろいろ貴重なものを得ることが出來た。
大阪に著いたばかりの時は、大阪弁がすごく苦手で、勉強した標準語が全然役に立たないと痛感した。それに、周りの人は皆早口で、私はあまり聞き取れなかった。だから、最初は言葉のせいで私はさびしくて、強い孤獨感があった。早くこの半年を過ごして、家に帰ろうと思っていた。でも、時間が経つにつれて、私はだんだんその環境に馴染んできて、帰國したいという気持ちもそんなに強くなくなってきて、逆にこの國に好感が持てるようになって來た。その理由の一つが國際交流センターの先生方から多くの支援とお世話も頂いたことである。両親のように、至れり盡くせり私たちの生活の面倒を見てくれて、その親切は私たちの心に深く刻まれた。したがって、言い換えると、この半年間もし國際交流センターの先生方の十分な忚援がなかったら、私たちはそのように楽な留學生活を過ごせなかったと思う。
半年の留學のおかげで、私たちは日本的な學習生活を十分に體験した。日本人の學生と一緒に授業を受けて、交流することはすごく楽しかった。學校ではどこにでも日本的な雰囲気が満ち溢れている。私たちが體験した日本文化は學校の教科書とぜんぜん違っていて、授業だけでは學べないものである。日本の教育は學生の個性の発展を強調する。発表、スピーチ、論文など先生方は大きなスペースを提供し、學生に自由に個性や能力を発揮させる。こういう方法を通じて、學生の考えや意見などを聞くことが出來たのは私の中で一番深く印象に殘っている點である。特に南谷先生の日本文化論は私たちに日本文化について詳しく理解させてくれた。いくつかの論文を通じて、日本文化に対する私たちなりの考え方が生まれた。そして、この方法で先生とやりとりしてよく交流した。これは日中交流に役に立つのではないかと思う。文化論を勉強する前に日本文化は私たちにとって抽象的で理解しにくいものだと思っていたが、先生は具體的な事物を使って説明してくれた。日本人の學生は休日にはそれなりに有意義な生活を送っているようだ。特にクラブ活動が大部分の時間を占めている。普段、學校で學生たちは三々五々クラブのこと等について話してよく笑っている。その光景を見て彼らの集団主義を強く感じた。彼らの集団に入るのは難しいけど、彼らと付き合ってみたら、いろいろ勉強になるかもしれないと思った。特に日本でのアルバイトの経験は私にとって一番大切な思い出である。やさしい同僚、店長そしてお客さん、皆は私に親切にしてくれた。初め自分が外國人だから偏見があるのかなとずっと心配していた。長い時間が経って、皆は私が彼らの集団に入れるように支援してくれていることが分かった。日本に好奇心をいっぱい持っている私はバイトを通じて、様々な生活を體験した。もし多くのやりとりがあれば、日中の交流はもっと順調になって、両方の距離が縮まるかもしれない。
そして、計畫を重視する日本人にも深い印象を受けた。學習でも生活でも仕事でも、一般の日本人は事前に計畫を作ることが好きだ。彼らは計畫が急に変更することを嫌う。そのことを私はバイトの過程を通じてよく分かった。初めはこういう方式にぜんぜん慣れていないから、いろいろなミスを犯した。しかし、彼らの生活を理解した後、私もこういう習慣を身につけるようになっていった。半年は短いけど、いい習慣を身につけることができたと思う。
日本人の部屋は大體皆きれいである。日本人の先生の家に一回行ったことがあるが、非 12 常に清潔であることに私たちは驚いた。私はこういうような日本人の國民性に心から感心した。そして、日本のゴミは燃えるごみと燃えないごみ二種類に分けて、捨てる時間も決まっている。最初は慣れなかったけれど、このようなやり方は地球にやさしくて、リサイクルにもいいと言われているから、できるだけ協力すべきだと意識するようになった。確かに、日本には多くの長所があると認めなければならない。誰にでも長所があるように、どんな國にでも優秀なところがある。この半年、私は人の長所を學んで自分の短所を改善するということがよくわかった。この半年いろいろな経験をした。また海外にいる時、自分は中國人であるということを強く意識するようになった。祖國のために栄光を勝ち取るというのが私たちの使命になった。
私たちの成長は私たちだけで感じられるものである。日本語の勉強はただの資格証明書取得のための知識や教科書の知識だけでなく、忚用や実踐力を伴うものでなければならない。留學はその近道だと言われる。確かにその通りだ。いろいろな人と出會って、自分の経験が豊かになるなど、私たちの成長に大きな影響を與えたと思う。今回の留學経験は私の今後の生活に影響をもたらすに違いない。自分の人生は自分の力で作るということをちゃんと痛感した。どんなに辛くても、頑張っていればきっといいことがあると信じているし、私はこれからの人生に自信をいっぱい持っている。また、學校にもう一度感謝したい。學校のおかげで、この留學は私の大學生活における最高の寶物になった。
留學の感想
日本語學科0401班 李 頴
半年の留學生活はあっと言う間に終わりました。本當に短かったです。日本に行った日の光景が今でも目の前に浮かぶようで、私はあの時のはらはらどきどきした気持ちを昨日の事のようはっきり覚えています。20年間、一度も親元を離れたことのない私にとってこの留學生活は一種の挑戦であったとも言えます。何もできない私には留學生活を前にして不安がたくさんありました。
日本に來る前日、興奮と不安とで私は全然眠れませんでした。次の日、親と挨拶を交わし、ついに門出の時を迎えました。しかし私は決して一人ではありませんでした。私の周りにはたくさんの友達がいました。留學とは私にとって夢でしかなかったけど、學校のおかげでそれは現実になりました。向こうの學校からこのような貴重なチャンスをいただいて、本當にありがとうって言いたいです。特に國際交流センターの先生たちが優しく、いろいろお世話をしてくれました。初めて親元を離れるわけですから、時々寂しさや悲しさを感じることもありました。もし先生方そして友達の支えがなければ、この寂しさを克服しようという勇気は湧いてこなかったと思います。皆が傍に居てくれたから、留學生活は幸せでした。
また留學してから、以前當たり前のように親にして貰っていたことがどれだけ尊く、また家族とは如何に掛け替えのない存在であるのかが分かるようになり、親のありがたさ、親の優しさを身に沁みて痛感しました。でも日本にいる時、私の友達は皆まるで私の家族のようでした。留學が終れば友達とまたばらばらになると思うと突然落ちこんでしまいました。あの時、私は中國に帰りたいけど、帰りたくないという複雑な気持ちでした。日本に滯在している時、いろいろな所に行きました。例えば奈良には何度も行きました。先生のおかげで、奈良の観光地やお寺や公園にもよく行きました。奈良といえば、今でも鹿を思い浮かべます。奈良では街中にも公園にも、鹿がたくさんいます。まるで奈良の主人公見たいな存在です。鹿煎餅を持っていると、すぐ鹿に取り囲まれてしまい、この靜かな動物は急に獰猛な動物に豹変したかのように餌を追いかけます。奈良は不思議で綺麗な町です。京都にも行きましたが、奈良と京都とでは趣が全然違います。京都の美しさはもっと深い感じがします。嵐山の紅葉は人の心に染み入るほど美しかったのを覚えています。一番思い出に殘っている所は東京のディズニーランドです。音楽もいいし、キャラクターもかわいかった。まるで物語の世界にいるような感じがしました。
それぞれの場所を巡り歩いて感じたことは日本が本當に綺麗な國であるということです。この綺麗な國にいる間、私は色彩にとても敏感になりました。例えば化粧品の色使いです。日本に行く前、私は全然化粧しなかったけど、日本の街を歩いている時に見かける女の子は皆必ず化粧しています。だから、私も化粧を始めました。化粧することによって人に好感を與えられるということが分かり始めました。そして、ご飯の作り方も習いました。私は女の子なのに掃除や料理など全然できなかったけど、日本に來てから毎日自分でこれらの家事をしました。將來いい女にならなきゃとあの時はそう思いました。でも殘念なことに今中國の家に帰って、また元に戻ってしまいました。日本にいる時、日本の學生さんにいろいろお世話になりました。私たちの寮に來てくれて、遊びにも付き合ってくれました。いろいろ話し合う中で、言っている事が通じない時もあったけど、気持ちは言葉なくても通じるのだと信じています。また大學際の時、彼らは私たちを助けてくれて、私達の催し物である中華茶館は大成功でした。あの時のうれし 14 さはいつまでも忘れられません。
今の私は日本に行けて本當に良かったと心からそう思っています。日本の先生方、友達などいろいろな人と出會えてよかったです。もう二度と會うことはないかもしれないけど、一生に一度きりの出會いであったと思うと尚更會えて良かったという気になります。
また日本でいろいろなことを初めて體験することができました。親元を離れての自炊生活や家族のいない中で初めて過ごす舊正月等等…。この半年間で私は大きく成長したと思います。
滑走、離陸、飛行
日本語學科0401班 繆 嬋
飛行機は滑走して、離陸して、空に飛び立つ。私の大學時代も、三年の努力と準備で、この6ヶ月の交換留學のチャンスを勝ち取った。工商大學、先生方そして両親と離れて、自分の期待や夢を胸に抱き、憧れの日本へと飛び立った。
この短い半年の中で私たちは寂しさやホームシックなど外國生活の苦しさを時々感じたが、周りの新しさと充実感はすぐに私たちを楽しい勉強と生活へと戻らせた。
四天王寺國際仏教大學で日本文化論、中日通訳、経済常識などの科目を勉強して、日本語能力にも、日本についての知識にも、もっと自信を持つようになった。授業でとても厳しい南谷先生はいろいろな本や雑誌を贈ってくださったり、何回も私たちの論文や宿題を直してくださったりした。今は本當にありがたい気持ちでいっぱいだ。矢羽野先生はいつも親切な笑顔をしておられて、授業でも生活でも皆と仲良くなった。何でもきちんとする高橋先生は皆の希望した內容を真面目に準備して教えてくださった。皆の聞き取りや読解、作文能力も上級日本語の授業を通じ、進歩してきたと信じている。熱血の中原先生はいつも無味乾燥な経済循環や金融危機を面白く皆に伝えてくださった。忘れられない元気さだ。いろいろすばらしい先生方のおかげで、皆ずっと頑張ってきて、期待に背かないような成績が取れたと思う。
國際交流センターの村上センター長、氏家課長、夢田さん、三輪さんは私たちの留學生活を充実させるために、職場以外でも「サービス殘業」をたくさんしてくださり、皆に家族のように信頼された。滯在中、私たちのわがままと油斷によってすっかりご迷惑をかけたが、國際交流課の職員たちはいつも親切に手伝ってくださった。私も他の留學生たちのように、日本語能力を高めるために、また日本各地を旅行するために、授業以外の時間を利用して、寮の近くの藤井寺特別養護老人ホームにアルバイトに行った。園長は長い時間の面接をして、初めて外國人のバイトさんを採用した。老人ホームの仕事は大変だし、老人たちと介護たちの連絡や報告もちゃんとしなければならないし、初めての時、次長も主任もすごく心配してくれた。いつも「慣れますか」、「行けますか」と聞いてくれた。私は一生懸命仕事をしたが、介護の経験がぜんぜんなかったし、老人たちの性格も知らなかったし、何回もやめようと思った。しかし、外國で「中國人は駄目だ」とか絶対に言われたくないから、頑張って最後まで続けた。1ヶ月後、私は老人ホームの仕事に詳しくなった。老人たちが手招きしたら、私はすぐ欲しい物が分かるようになった。5ヶ月ぐらいのバイト経験のおかげで、一緒に仕事をした介護たちや老人たちと仲良くなった。いろいろな人生の哲理を教えてくれるお婆ちゃんたちは私がすぐ中國に帰ることを聞いて、涙をぼろぼろ流した。介護たちは心暖まるアルバムを作ってくれた。日本に行ったばかりの時、日本人というと冷たいイメージを持っていた。しかし、今の私から見ると、人間は一緒だ。私が正直に精誠を込めて日本人と付き合えば、相手も心の戸を開けてくれる。
帰國してから、もう1週間だ。日本の先進技術や禮儀作法などは中國人にとって勉強に値する。もうすぐ卒業して社會に入る私にとって、この半年は専門知識を高めることができ、肌で感じた日本の感觸はこれからの人生でもきっと役に立つに違いない。
日本はすばらしい國だ。高層ビルが林立している新宿、山が赤く染まる紅葉、立派な世界遺産の姫路城……。さまざまな畫面が今でもはっきりと私の脳裏に刻まれている。滑走して、離陸して、空に飛び立つ私はこの美しい思い出を連れて、またあの笑顔と汗を殘した島國に行くだろう。
思い出せば
日本語學科0401班 王 琳 「光陰矢の如し」と言うように、半年間の留學生活が知らず知らずのうちに終わってしまった。この半年間を振り返ってみると、とても充実した時間だったと思う。日本語を三年間も勉強したけど、今まで日本語を実際に話す機會が多かったとは言えない。授業や日本語コーナー以外に、日本語を話すチャンスはほとんどなかったと思う。留學のおかげで、思いっきり日本語を話す機會を手に入れることができて、本當にうれしかった。私は日本に著いたばかりの日、迷子になってしまった。「すみません。ここに行きたいのですけど」と小さい聲で地図を見てもらった方にそう言った時、胸がどきどきした。「ああ。まっすぐに行って、二番名の信號を左に曲がったらすぐ目の前にあるよ」と教えてくれて、私は「ありがとうございます」と答えた。私にとってこれは初めての海外生活であり、全て順調にいくと思っていたのだが、著いた翌日たこ焼屋さんの早口関西弁にすっかり參ってしまい、自分の考えは甘すぎたと分かった。自分の日本語はまだまだで勉強すべきところがいっぱいある。関西弁は東京弁と比べ、否定形の言い方やアクセント、イントネ-ションなどの面で違いがある。始めは全然わからなかった私だが、この半年間で関西弁もちょっと分かるようになった。それは優しい関西の方々のおかげだと思う。通じなくて焦っているこの私を見て、向こうはいつも微笑みながら、普段よりもゆっくり話してくれたり、略語や外來語を丁寧に説明してくれたりしたからだ。この半年間、友達もいろいろできた。其の中には若者ばかりではなく、お年寄りもいる。若い友達は主に大學祭の時できた。日本の大學祭というのが私には何となく分かるようでありながら、今一ピンと來ない感じがあった。それは私が見たドラマやアニメの中に大學祭と関わるシーンがよく出てきて知ってはいたものの、実際に參加したことがなかったからだ。せっかくのチャンスだし、その雰囲気を是非感じてみたかった。そして、中國に関する情報をできるだけ多く日本人に伝えるために留學生の私たちは參加させていただいた。先生たちは初めて大學祭に參加する私たちの為にわざわざボランティアの學生を募集してくださった。テーマの決定から最後の片付けまで、彼らは積極的に助けてくれて、私たちの催し物である「中華茶館」は大成功だった。一緒に道具や服裝を準備したり、見所を考えたり、會場を飾ったり、ボランティアで集まった日本の學生達の創造力にはとても驚かされた。私たちの方が先輩なのに私たちの方が遙かに不器用で恥ずかしかった。そして、ディスカッションする時まめにメモを取る姿も、またリハーサルの時根気よく敬語の正しい使い方を教えてくれる姿も印象深かった。そういう一所懸命やる姿に深く感服させられた。他人の意見に熱心に耳を傾けながら任された仕事を真面目にやる彼らのそういうところを私たちも學ぶべきだと思った。藤井寺には日本語教室がある。そこではボランティアで集まったお年寄りたちが日本語の話せない在日外國人に日本語を教えている。またそのお年寄りたちも外國人から外國の情報をいろいろと得ているようだ。それは一種の異文化コミュニケーションとも言えるだろう。日本語教室のおじいさんやおばあさんたちはみんなやさしくていい人たちだった。一緒に伊勢神宮に行った時伊勢神宮のことを教えてくれたり、クリスマスの時料理を作ってくれたり、帰國の前には送別會を催してくれたりして、家のような暖かさを感じさせてくれた。本當にありがたかった。人生は一期一會と言っても、人と人の縁が結ばれればそれは一生の寶だと日本語教室のおじいさんが言っていた。私もそう思っている。今は日本にいた時のように頻繁に會えなくても、インターネットを通じて連絡している。今回の留學で、私は生活の勉強もした。17 今まで、料理がほとんどできなかった私はカレーやチャーハンもできるようになった。帰國してから、両親に作ってあげて、両親は大変喜んでくれた。この半年間は両親の元から卒業する準備期間であったとも言えるかもしれない。この半年間いろいろな方にお世話になった。それらの方々の恩に直接報いるチャンスがないかもしれない。しかし私もいつか誰かの為に奉仕し、誰かを助ける事を通して、この恩に報いたいと思う。それを心に刻んで、これからも頑張っていきたい。
半年の留學を振り返って
日本語學科0401班 王 洋
帰國して二ヶ月。親戚と友人に會う時によく「日本での留學生活どうだった?」と聞かれる。日本での半年の生活を思い出すと、僕はいつも懐かしく思うのだ。その新鮮さと楽しさと孤獨、それに感動に溢れた日々を。
日本に到著し、日本の土を踏みしめ、日本の空気を呼吸している僕は、學校の宿舎行きの車に乗っている間中、ずっと夢のような青い海を眺めていた。僕は海を見るのが初めてだったのだ。興奮の中にも少し緊張。なぜなら、これは僕にとって初めての異國體験だから。20年間暮らしていた母國を離れて、異國で生活するのは人生の中で初めての體験である。「僕は今後の半年の間に、どのような學校で勉強するのか、どのような環境に住むのか、そこの先生やスタッフはどんな人たちなのか、それに日本人の生活様式と飲食習慣に慣れることができるのか」などの沢山の疑問は僕を不安な気持ちにさせた。ラッキーだったのは接待していただいた國際交流センターのスタッフたちがとても親切だったことだ。空港まで迎えに來ていただいたお姉さんの笑顔は素敵だった。そしてもう一人のスタッフさんは僕らが車から降りた後、部屋までスーツケースを運びながら、僕らの住む環境について紹介してくれた。結構ユーモアな人だった。話の中に冗談が多かった。まるで初めて會うという感じがしなかった。これは僕の心の底にある不安感を少し和げてくれた。その後の半年を通じて僕の第一印象は正しいと分かった。國際交流センターのスタッフたちと學校の先生たちは皆親切でまじめだった。僕らの半年の留學の間に色々細かいところまで助けていただいた。最初の頃は大変だった。見知らぬ環境の中で生活するのは確かに大変なことだ。バスや電車の乗り方、日常用品の使い方、ごみ処理のやり方、すべて分からなかった。コンビニの自動販売機で電話カードの買い方さえ店員さんに聞かないと分からなかった。その上、學校はまだ始まっていないので、暇なときはいつも家族や學校の友達に會いたくなるのだ。孤獨感が強かった。
學校が始まってから皆忙しくなった。僕も少しずつ日本での生活に慣れてきた。新しい學習環境は留學生の僕らにとっては新鮮で面白かった。三年も勉強した言語や文化の知識はいよいよ役に立つのだ。「暇な時が多すぎると皆退屈じゃないか」と學校側が考えてくれて、僕らの意見と合わせて授業の數を予定より少し増やした。その授業の中で、五つくらいは日本人の學生たちとともに受ける。僕が一番難しいと感じたのは日本文學史Ⅱと日本文化論。理解するのに時間がかかる。通訳理論と実踐や上級日本語及びビジネス日本語などは留學生向けの授業だから、人數が少ない。授業の雰囲気は比較的楽だった。運動や友達作りのため、僕は放課後の時間を利用して學校のバスケ部に入った。毎週クラブのメンバーたちと二回練習していた。週末は時々彼らと関西のバスケのリーグ試合に參加し、各學校のクラブ文化を體験し、関西周辺の學校で遊びまくる。年末の頃も彼らと忘年會に參加した。
日本に著いた二ヶ月後僕はアルバイトを始めた。日本料理店だった。店長は楽天的な性格で、いい人だった。休憩の間はいつも僕とおしゃべりしていた。僕に中國の社會事情を尋ねた。それによく生活の中であったことについてアドバイスしてもらった。お正月の時もわざわざ家まで招待してもらった。映畫も誘ってもらった。初めてのバイトなので、僕も普段自分のできるかぎり頑張っていた。餃子を作るのは僕には苦手だったが、帰國直前、感謝の気持ちを込めて中國式の水餃子を作ってあげた。それに、中國ではいい縁起を象徴 19 する「中國結」という飾り物をあげた。店の人は特色のある調味料やおやつを送ってくれた。最後の日は皆涙を流しながら別れを惜しんだ。とても感動的だった。今だに時々店のたまご丼が食べたくて仕方がない。
留學の半年はバイトの給料で沢山の旅をした。たとえば、京都の金閣寺、清水寺、平等院、宇治上神社、奈良の橿原神宮、三重の伊勢神宮、大阪市內の大阪城…。それ以外に東京と神戸に旅行に行ったこともある。僕が一番好きなのは清水寺。秋の紅葉は今までの人生で見たこともない美しい赤色だった。大學での活動にも沢山參加した。一番印象深かったのは大學祭。僕らは日本人の學生たちと中華茶館をやった。中國の女の子たちはチャイナドレスで、日本人の女の子たちは浴衣の格好をして、國際交流センターのスタッフたちと學生皆の努力の下で、中華茶館は大成功だった。お祝いの為、その後皆でたこ焼きパーティーをやった。
半年の留學生活は充実していたけど、とても忙しかった。でも、本當に勉強になったと思う。つらい事もあったが、楽しかった。
帰國直前、沢山の人が送別に來てくれた。感動的だった。親切な學校の先生方、交流しに來た學生たち、それといつもお世話になっていた國際交流センター、教務課、総務課、図書館のスタッフさんたち及びバスケ部の友人たち、バイト先の人たち、それからいつも國際交流活動を行っていただいた藤井寺市國際交流協會のスタッフたちに、心から感謝している。
帰國前最後の夜。一人で帰りの最後の電車に乗っていた。車窓からの夜景はいつもと同じように美しかった。気持ちは言葉で表せないほど複雑だった。半年はあっという間に過ぎってしまった。桜満開のキャンパスを見るチャンスは結局なかった。殘念だった。しかし、半年の短い留學生活は桜が散るのと同じようだった。花びらが枝から離れて散ってしまうのは確かに殘念だが、それより重要なのは開花してから散るまでの短く美しい過程なのだ。それで僕は満足できた。そんなに悲しく思わなくなった。
將來またいつか會えることを期待している。最後に心から挨拶したい言葉がある。「どうぞお元気で!ザイジェン!(またね)」
「さようなら」から「ただいま」へ
日本語學科0401班 徐 哲紋
2008年3月1日、私たち14人はアモイ航空MF875便の飛行機に乗って杭州に帰りました。これで半年の留學生活は完全に終わりました。
帰國する前、私たちは忙しい日々を送っていました。部屋掃除、送別會、帰國手続き、お土産買いなどなど。本當に心の整理の余裕もないぐらいでした。お世話になった一人一人にちゃんと「さようなら」、「ありがとう」を言うこともできませんでした。飛行機が離陸した途端に日本への名殘惜しさがこみ上げてきました。
正直、大學四年生の時に交換留學するなんて今でも信じられないと思います。去年、王寶平先生がそのビッグニュースをみんなに知らせてくれた時のエピソードを今でも覚えています。當時はクラスで誰もが皆信じられないといった表情でした。あれから四ヶ月、申し込み、選抜、出國手続き、一歩一歩進んできて、最後にビザを取った後ようやく自分が留學へ行くことを実感しました。私にとって、今回は日本との初めての出會いです。こんなに長期間家を離れるのも初めてです。ですから、どこに行っても、何をしても全部新鮮で、新しい物ばかりの毎日でした。日本で初めてスーパーに行った時、様々なお菓子に惹かれた私はルームメートに料理をするための物をまず先に買うべきだと窘められました。日本で初めて旅行のコースに悩んだ時、先生が路線の調べ方を教えてくれました。日本で初めて地震に遭い、興奮している矢先に、阪神大震災の遺跡を見て改めて命の大切さを感じました。
私は今回の留學を旅だと思いたかったんです。短い半年の間にたくさんの名所を訪れました。大阪城公園はもちろんですが、奈良公園、伊勢神宮、清水寺、神戸の中華街、北海道の流氷、旭山動物園、東京ディズーニーランド、富士山、伊豆半島などなど。日本人が誇りに思う場所には皆私の足跡が殘っています。旅を通して、自分は今日本という社會に、そして日本人という集団に屬して輝いているということをしみじみ感じました。
たとえ日本語學科の學生でいつも日本のことを勉強しているとしても、実際に日本に行けば、やはり想像以上のことがいっぱい出てきます。
例えば、日本人はすごい恥ずかしがりやであること。來る前もずっと知っていたけれど、まさか若者までそうだとは知りませんでした。それに、日本社會で活躍しているお年寄りのこと。一番印象深いのは、藤井寺國際交流協會の皆様です。みんな、できるだけ自分の力を出し、國際交流に非常に熱心で、特に私たち中國人の留學生と熱心に付き合ってくれたことは本當にありがたいと思っています。
中國に帰ってきてもうすぐ2ヶ月になりますけど、正直に言って初めて日本に行った時よりも、むしろ今の方がこちらの環境に慣れ親しめないようで不自然です。特にあのきれいな空気が懐かしいです。バスを待つ時に日本のバスが時間通りに來ることをいつも思い出しています。今の中國は他の國に習わなければならないところがまだたくさんあります。もちろん、人それぞれ自分なりの欠點があるわけですけど、自分の短所から目を離してしまったら、自分も上達できないはずです。他人の長所を見つけて、自分の欠陥を補ってこそ、國も人生も発展できると思います。
帰國してから、まだたくさんのことをやらなければなりません。今回の留學は終わりましたけど、私たちの人生はまだまだ続いていきます。「人生は不思議です。」一人の先生が日本に戻る時こう言いました。何も分からないままで、一年後日本へしかも彼女が住んでいる近くに、留學に行きました。ですから、今の私はその人生の不思議さに興味を持っています。次はどこへと。
ただ一つ信じているのは、日本との付き合いはこれからです。だから、さようならではなく、よろしくお願いします。最後に若干遅いけれど、半年ぶりの杭州にも「ただいま」って。
私の日本留學
日本語學科0401班 葉 楠
稅関で検閲を受けて、飛行機に乗りました。疲れたせいかすぐ寢始めました。再び目覚めると、もうすでに海の上にいました。キャビンアテンダントのアナウンスの聲が聞こえてきました。ついに日本に著いたということが分かりました。
初めての留學生活に対する憧れと心配の気持ちを同時に心に抱き、荷物を持って飛行機を降りました。日本に対する第一印象は「靜」でした。荷物を待っている人がたくさんいたものの、がやがやと騒ぐ姿はあまり見えません。友達と話す時もわざと聲を小さくして話します。大學で授業を受けた時よく先生方から日本の電車はとても靜かだよと聞いていたけれど、実際に乗ってみると、本當にそうでした。偶に騒いでいる若者たちが見えるけど、皆本を読んだりメールをしたり居眠りをしたりしていて、確かに靜かです。日本の住宅街も靜かで人があまり多くなく、夕方にお年寄りが犬を連れて散歩している姿がよく見えるくらいです。一番驚いたのは、日本人はけっこう犬を飼っていると思いますが、犬の吠えている聲があまり聞こえません。その原因を友人と何度も考えましたが、殘念ながらなかなか答えが見つかりませんでした。
國內にいた時も日本文化などの授業を受けたけれど、実際こちらに來て、毎日の新しい発見を楽しみにしていました。もし2006年の夏の旅が観光であるなら、今回のテーマは生活で、些細なことで日本を感じ、日本人の生活を體験することです。大阪の冬は杭州と同じで寒かったです。毎朝、厚著してもぶるぶる震えながら學校へ向います。そんな時、よく見かけたのは真冬に半ズボンを履いて生き生きとしたとても元気な小學生や中學生たちです。昔新聞で見たあることを思い出しました。日本人の親は冬に生まれたばかりの子を水にいれて、その子の根性を鍛えます。中國の親なら絶対子供にできるだけ多くの服を著せるでしょう。それは中日の家庭教育の違いではないかなと思っています。
また、日本の街を歩いてみると、時々著物を著ている女の人の姿が見えます。美しいと思う一方で、ちょっとうらやましいです。日本の代表的な服といえばやはり著物でしょう。結婚式や成人式など正式な場合だけではなく、普通に著ています。中國の代表的な服というと必ずチャイナドレスと答えるでしょう。殘念ながら、中國では普段の生活の中でチャイナドレスはほとんど著ません。また、京都や奈良に行くと、すごく日本の伝統的な美しさが味わえ、伝統的なものと現代的なものが意外と良いバランスをとっています。そして私が一番感じたのは日本人は細かいところにも気を使うということです。街がきれいで、ゴミがあまり見えないのはもちろんのことです。どこのトイレに行っても、トイレットペーパーがちゃんと置いてあります。切符販売機でも盲人専用の點字があります。普通のお弁當でも必ず花や葉っぱで飾っています。それらは極普通なことですが、もうちょっと考えたら、その裏にはきっと誰かの努力があるはずです。最近、テレビでよくやっているソフトバンクのコマーシャルでも「ぷぷぷっと聞こえたら、相手の方がソフトバンクだと分かります」と宣伝しています。電話をかける時の音にまで気を使っています。だからこそ、日本の商品は世界中に人気があるのだとあらためて感心しました。最後に言いたいことはテレビなどのマスメディアについてです。偶にテレビをつけると、中國のことが放送されます。興味津々で見続けると、殘念ながら中國の悪いところばかり流れています。同じく殘念なことなのですが、中國の新聞でも日本に関するニュースではよくない面だけを載せることが多いです。マスメディアが事実を報道する一方、意識的或いは無意識的に視聴者の関心を惹きつけやすい悪い側面だけを強調する傾向があるよう 23 です。でもお互いの國の人々は大體マスメディアから情報をゲットし、そしてイメージします。それは両國の人々の交流の障壁になる一つの原因ではないかと私は考えます。この半年間でどれぐらい日本語能力が上達したかはっきり言えないですが、確かに成長していると思います。言葉や知識だけでなく、いろんな面で勉強になりました。日本で初めて作った料理の味はまだ心に殘っています。まずかったです。最初の時はフライパンを持って慌てて取り亂しましたが、今は普通に料理ができるようになりました。初めて自転車に乗って家へ向ったこともまだ覚えています。迷ってしまって、近くの坂で何回も行ったり來たりして、家に著いた時外はもう真っ暗でした。でも今は目を閉じても家のまわりの風景がはっきりと頭の中に浮かびます。一人でもよく旅に出て、日本の美しさを味わいました。最初は日本人の友達と話す時とても緊張しましたが、今はぺらぺらとまではいきませんが、普通に會話ができるようになりました。長いようで短かった半年、日本での留學生活がもう終りました。異文化ショックを受けたこともありますが、楽しいことがたくさんありました。やはり日本へ來て自分の目でその國を見ていろいろと體験できたことは本當によかったと思います。
卒業する前の半年にこんな貴重な機會をいただいて日本を感じることができ、心から學院の先生方、日本の先生方に感謝の言葉を申し上げたいと思います。この半年間の思い出は人生の中で貴重な経験だと思います。
私の留學日記
日本語學科0401班 張 叔傑
1月25日(晴)新幹線で東京へ
日本に來て初めて話に聞いていた新幹線に乗り、とても興奮しました。中國國內で「和諧號」に乗ったことはありますが、それともだいぶ違う感じでした。當たり前のことですが、周りは誰もが日本語を話す日本人で、私は中國語を話す中國人だからです。新幹線で約三時間、途中の主要な駅は京都、名古屋、靜岡、新橫浜で、そして最後に日本の首都――東京に到著しました。東京駅を出て目を向けると、誰もが慌ただしい出で立ちのようでした。日本人に恥じない、毎分毎秒を浪費しない働きマンです。
1月26日(晴)東京めぐり
朝食 お粥定食。初めて日本でお粥をすすり、ザーサイを食べました。故郷の味がしました。郷愁。
チーム活動では第4組に。メンバーは井口光吉、池田昭博、張穎、顧雅芳、金暁環、張叔傑、付穎です。チームで皇居の寫真をたくさん撮りましたが、集合寫真を撮りそびれました。殘念。遠くの東京タワーにカメラを向け、數回「カシャカシャ」。その時、集合の合図が聞こえました。淺草の雷門では26人の集合寫真を撮影。「デン」の音にみんなが笑いました。
チームは解散、雷門で北京放送の付さんの取材を受けました。生まれて初めて記者の取材を受けたので、それはそれは緊張しました。取材される感覚というものはこういうものなんだなと思いつつ、これからはもっとうまくできるようになりたいと思いました。自由活動。渋谷109、NHK、代々木體育館前の街頭音楽フェスタ、明治神宮、原宿、レインボーブリッジ、お臺場、フジテレビそして観覧車。いずれも外側から一度ざっと見るだけでしたが、日本の學生との交流で、日本の若者の文化をより多く理解することができました。新しい體験でした。中日學生交流會では、おのおの自分の意見を述べて、言いたいことを思う存分言いました。言葉の壁もなく、國籍の違いもなく、若者と若者がふれあいました。一日の東京での體験を全て言葉に出し盡くしました。その後、東京タワーとレインボーブリッジの夜景が見える船の科學館でビュッフェ。幸せ。
1月27日(雤)東京から沖縄へ
3時間ほど飛行機に乗り、ついに那覇空港へ到著。ずっと行きたかった沖縄。気溫19度。空気の分子一つ一つに海の匂いが溢れていました。暖かな幸せ。ただいま、沖縄。
1月28日(雤)沖縄
ひめゆり平和記念資料館は、戦後に生まれ育った子供である私たちに戦爭の殘酷さを教えてくれました。一枚一枚の絵や寫真、一文一文の文字に胸が締め付けられ、言葉にできない沈んだ気分に。ただ黙禱を捧げて亡くなった方々の冥福を祈り、世界平和と中日友好を願うことしかできません。
首里城はどこかで見たことがあるような感じがして、古代王朝を夢に描きました。沖縄は中國ととても密接且つ複雑な関係を持つ地域で、ただ生い茂る桜の木の陰だけが、ここは日本だと気づかせてくれました。
海辺では大きな子供も小さな子供も砂浜で思いきりはしゃぎ、駆け回り、寫真を撮りました。蒼い空と海、白い雲と砂。夢に見た冬の沖縄をついに自分で體験できて、本當にこの上ない幸せでした。誰もが喜び、はしゃいでいました。砂浜全體にさわやかな笑い聲が響いていました。すばらしい風景を享受すると同時に、私たちも風景の一部になっていました。食後、波の音をバックに私たちは自由討論を行いました。日本について、訪日について、よいところ、改めるべきところ。いつの間にか1時間半も経っていました。余韻は盡きません。最大の成果は「川流會」を結成したことです。私たちの友情も「川流會」とともにたえず育っていくと思います。
1月29日(曇)神戸
10:05離陸、さようなら、親愛なる沖縄。大阪に到著…。有馬溫泉は、日本三大溫泉の一つです。日本人の溫泉好きは來日のだいぶ前から耳にしていました。今回、天然の溫泉を自ら體験できたことは、本當に私たちを興奮させました。唯一殘念だったことは、溫泉玉子がなかったことです(笑)。三十分ほどお湯につかると、バスや旅の疲れが吹っ飛びました。日本人が何故ここまで入浴好きなのかがやっと理解できました。一日の仕事から帰ってお風呂に浸かると、仕事の悩みや疲れを解消できます。入浴の習慣がない國の人も試してみることはできるし、効果的だろうと思います。
1月30日(晴)京都
金閣寺。天気予報では雪が降るとのことでした。雪が大好きな私としては甚く期待していました。金閣寺は前にも一度、訪れたことがありますが、白い雪が黃金の屋根を覆い、水に映える金閣には別格の風情があるに違いありません。しかし天気は思うようにならず、雪景色の中で金閣寺を見たいという期待は空振りに終わりました。ですが、皆と一緒に金閣寺を見學するのは慰めにはなりました。まあ楽しかったからいいです。清水寺。日本には大小の寺院がたくさんありますが、清水寺はそれでも一見に値するところです。景色は同じ景色ですが、見る人は違います。今こうして清水寺を見學する時の気分は2年前とはっきり違い、単純だったものがより複雑になりました。まさに「毎年花は同じように咲き、年々人は変わってゆく」ということです。
以上のシーンは留學生活のほんの僅かな一部分です。日本滯在中の半年間、一日一時一刻一分一秒も、たくさんの人と事物を記録すべきだと思います。四天王寺大學の先生方、國際交流課の職員さんたち、學園祭の「中華茶館」で一緒に盛り上がった日本人の學生たち、バイト先の同僚たち、ずっとたこ焼きを奢ってくれたおばちゃん…。私が知っているそしてまた私のことを知ってくれた皆さん、ありがとうございます。皆さんと出會ったことこそ日本での最高の思い出です。海の向こうのもう一つの國で出會った人々をきっと忘れません。きっと、ずっと、永遠に。
僅かな半年でしたけど、日本と日本文化を體験し、深く理解した外に、どうすれば様々な日本人と付き合うことができるかもよく分かり、同時に日本人との觸れ合いにより一層の自信が持てたと思います。日本での生活の斷片的なものまで記録できればと思いますが、文字にするとここまで無味乾燥な文になってしまいます。けれど、記憶の奧に大事にしまいこまれたこれらの記録を私は永遠に忘れることはないでしょう。
半年の留學生活を憶う
日本語學科04甲班 周 倩倩
時間が経つのは本當に早く、半年の留學生活はあっという間に過ぎてしまいました。留學のチャンスを得て、異國の生活を體験し、自分はなんてラッキーなのだろうと思っています。この半年の生活を有意義に過ごす事ができて、いろいろな人に出會って、今まで體験した事の無い事をたくさん體験して、昔はテレビでしか見る事のできなかったものを自分の目で直に見る事ができて本當に良かったです。日本人の先生方と學生さん達と一緒にいろいろないい思い出を作りました。今振り返ると、本當に懐かしく思います。
到著したばかりの興奮
9月10日、私たち14人は関西國際空港に到著し、以前訪問し時と同じく、かわいくて親切な三輪さんが空港まで迎えに來てくれました。高速道路周辺の景色は前回の訪問時と一緒で、空はいつもの青で、空気はとてもおいしかったのを覚えています。この半年の留學生活に対してずっと憧れを胸に抱いていた私はその時非常に興奮していました。和交寮に著いて、私たちは生活設備が完璧に用意されていることに気づき、日本に著いた第一日目から日本人の周到さとまじめなやり方を深く感じました。學校の授業が始まるまでにはまだ時間があったので、到著後の數日間は學校と寮の周辺をよく散策しに出かけました。また國際交流センターの先生が私たちを連れて銀行の口座を作りに行ってくれ、また私たちは中古の自転車と攜帯も買いました。そうしたら、生活ももっと便利になり、活動の範囲も幅広くなりました。日本に著いたばかりなので、いろいろな新しいものに好奇心を抱きました。そこから、私たちは一歩ずつ日本人の生活に慣れるように頑張り始めました。
ファッションを感じる
學校が始まりました。靜かなキャンパスは活気に溢れるようになりました。キャンパスではハイヒールを履き、髪を黃色く染めて、綺麗に化粧をしている女子學生達がどこに行っても目に入りました。日本は女の子だけでなくて、男の子もとてもお灑落です。そんな若者達を見て、いつか見たファッション雑誌に自分が入り込んだような感じがしました。心斎橋は大阪で一番賑やかなところで、お灑落な若者がいっぱい集まっています。ファッションの為ならどんなに暑くても帽子を被って、長いブーツを履いて、寒さや暑さに構わず、自分のかわいさ、カッコ良さをアピールするそんな光景を見た時、さすが日本はファッション大國だと思いました。私の中では日本はファッションの代名詞と言ってもいいくらいです。
大阪弁
大阪にいるから、學校でも公共の場所でも耳に入ってくるのは全部大阪弁です。最初は分からなくて、慣れなかったのですが、帰國前には私もついに大阪弁で喋ることもありました。
十一月の大學祭
大學祭。前はただ日本のドラマで見たことがあっただけでしたが、やっと自分も體験できることになりました。大學祭前には、學生さんが學校のあちこちに集まって、相談したり、看板を作ったり、大學祭のためにいろいろ準備していて、やはり日本っていうのは集団主義だなあとつくづく思いました。もちろん、私たち14人も國際交流センターの先生 27 方と何人かのIBUの學生さん達のおかげで、「中華茶館」というイベントを行うことができました。中國結、龍井茶、向日葵の種、月餅、春聯、飾り物など、また浴衣を著ている日本人の學生さんとチャイナドレスを著ている私たちは開催の日にいろいろな市民と學生さんを引きつけました。參加してくれた人數は私たちの予想を遙かに超えるものでした。今度のイベントによって、日本には中國の文化と歴史に興味を持っている人がいっぱいいるということが分かりました。またこのイベントの成功ぶりを見て、悠久な歴史と文化を持つ自分の祖國中國を誇らしくも思いました。中華茶館は大成功でした。
伊勢神宮の見學
藤井寺のおかげで、私たちはバスツアーで伊勢に見學に行きました。十一月はちょうど秋なので、赤に染まり始める紅葉と清らかな川がお互いに引き立てあっています。伊勢神宮は二十年に一回遷宮します。式年遷宮と呼ばれます。內宮へと向かう通路で、日本の伝統文化を感じながら、まわりの立派な木々を楽しんでいました。一緒に參加している藤井寺の市民は皆すごく親切で、バスで私たちに話しかけてくれて、日本の文化と歴史についていっぱい教えてくれました。この旅で、日本人の市民文化も體験しました。
アルバイトの生活
日本の學生はほとんど皆バイトしています。社會経験を積めるだけでなく、新しい人間関係の形成や責任感の向上にも大いに役立ちます。12月の中旬に私もバイト生活を始めました。忚募したところは24時間営業のコンビ二です。テキパキと仕事をやっている厳しい店長、優しいマネージャ、高校生の女の子と夜勤で働いている背の高い男の人數人が私の仲間でした。まさに「ファミリーマート」という店の名稱に相忚しい家族的な雰囲気でした。店の皆さんは私に非常に優しくしてくれました。経験がまったくない私はお釣りを間違ったりとか、お客様が欲しいものが探せなかったりとか、よくミスをしました。でも店の人はいろいろ親切に教えてくれて、私のミスを直してくれました。そのバイトのチャンスを與えてくれた店長、そしていろいろ教えてくれた店の皆さんが今ではとても懐かしいです。三ヶ月にも満たない短い期間でしたが、お互いの心が通じ合えたと思います。
半年の間いろいろな人と出會って、その中の一部の人とは一期一會かもしれないですが、私はきっと彼らのことを私の寶物として、忘れずにすっと覚えていることでしょう。
最後に今回の貴重な留學の機會を作ってくれた本校の學院の先生方にまずはお禮を申し上げたいです。また四天王寺仏教大學國際交流センターの先生方にも心よりのお禮を申し上げたいです。日本の先生方は私たちの生活の面でも勉強の面でもいろいろ助けてくれて、その助けがあったからこそ今度の留學が順調に進み、いっぱい素晴らしい思い出を作ることができたと思います。今度の留學で私たちは視野を広げ、大きく成長できました。
第二篇:日本留學感想
月日の経つのは早い。今年で私の留學生活は2年目を迎えました。
振り返ってみると、この一年間は私の人生にとって、かけがえのない貴重な一年間でした。一年前にただただ勉強したい、學位を取りたいという功利心を持って日本留學に來た私は、日本の大學で、學問の厳しさに磨かれ、勉強することはただ単なる知識の獲得、また學位の獲得だけではなく、真理を追究することであると分かるようになりました。
この一年間の日本留學はまた私に愛と理解の大切さを教えてくれました。生活リズムが速い、プレッシャが大きい日本での留學生活は、私にとって、確かにそんな甘いものではありませんでした。この一年間の留學は、私の物事に対する思考、生活態度や將來の生き方などのあらゆる方面において多大な影響を與えるすばらしい體験となりました。特に、私は今回の留學で初めて、いつも生活し、慣れ親しんでいた土地を離れ生活しましたので、生活の些細なひとこまさえ生活の難しさがとても感じられました。
一年半の留學生活はもうそろそろ終止の符を打つところですが、私が今日まで辿りつけたのは、友達の応援があったからだと思っています。最後に、この1年間にいろいろお世話になった日本の先生たち、留學生たち、そして日本での友達たちに感謝するとともに、日本で學び、感じ、思ったそれぞれのよい思い出を忘れずに、この留學での経験を次のステップとして役立てたいと思います。
第三篇:DIY留學:日本留學感想
自助非常多
據360教育集團了解,不是我們常說的,“走,吃自助去!”那個自助,而是自動販賣機。在日本有非常多的自動販賣機,不局限于零食飲料,醫院、超市、加油站甚至許多學校都會有自動販賣機。學校的自動販賣機甚至可以打畢業證明,并且還有鋼印,非常方便,可惜這機器不是二十四小時服務,也有下班時間。
日本的公共廁所很舒適
拋開對公共衛生間臟亂差的印象,我們最多也就會自動補腦到干凈整潔無異味配有衛生紙的衛生間。而日本的公共廁所會有曾經在國內掀起熱浪的日本馬桶圈,有自動清洗功能,冬季還可以加熱,令人舒適的度過如廁時間。
留學生也享醫保
這一點非常有利于留學生,無論在哪里偶爾感冒發燒生個小病都在所難免,日本的醫保制度不僅針對國內人,對國外人也是一視同仁,留學生當然可以享受醫保。日本的大醫院沒有像國內那么多,一般情況下如果是小病大家都會優先去診所,如果診所無法醫治再去大醫院尋求幫助。
第四篇:日本留學
1、問:去日本留學都有哪些形式?
答:按照教育機關的性質來分,留學有(A)日語學校和大學別(預)科等學習日語的教育機構。(B)大學學部(本科)及大學院(研究生院)、短期大學、專修學校等高等教育機構。按照留學的時間和簽證的申請方法分 1 年以上的長期留學和 1 年以內的短期留學。另外,按照留學的經費進行分類的話,又可分為獲各類獎學金的公費留學和個人負擔的自費留學。這些留學形式都是全日制式,或上、下午半天制的,留學不包括夜間授課和以通信方式的遠程授課。
2、問: 日語學校和大學別科有什么區別?
答:日語學校是指經日語教育振興協會認定的日語教育機構,其中包含各種形式的學校。大學別科指的是,大多數私立大學及短期大學在校內為進入本校為目標的學生以實施日語教育為目的的機構。近來,由于日語學校以升入大學及大學院為前提,展開了教學工作,大學別科畢業生的出路也有了多種選擇的余地,所以日語學校和大學別科在機能方面的差別越來越小了。
3、問:“大學”和“短大”、“專修學校”有什么區別?
答:“大學”、“短大”、“專修學校”都是以高中畢業為入學條件的高等教育機構,但學習年限、獲得的學位或資格、教學內容及人才培養的目的等有所不同。“大學”中,除醫學、牙科、獸醫學科是 6 年以外,其它都是 4 年制,畢業時可取得學士學位。“短期大學”是 2 年制,可取得“準學士”。“專修學校”主要以 2 年為主,可取得“專業士”稱號。一般來說,“大學”以學習知識為重點,專修學校以學習技能為重點。從此特征來說,短大則是介于兩者之間。
4、問:“研究生”和“大學院生”有什么區別?
答:研究生與中文的“研究生”不同,它指的是在研究生院及大學,以自己的研究課題為基礎,進行學習的旁聽生,是不授予學位的。中文的“研究生”相當于日語的“修士及博士課程的大學院生”。大學院生指的是研究生院的以獲取學位為目標的學生,一般分 2 年碩士課程(博士前期課程)及 3 年博士課程(博士后期課程)。近年來,由于研究生的學習時間可作為考大學院的準備時間,故希望成為“研究生”的留學生在增加。(注:“研究生”指旁聽生,“大學院生”指碩士或博士課程的學生)
(二)留學手續
辦理留學手續主要分為三個步驟。一是獲得留學學校的入學許可,二是通過學校等向日本法務省入境管理局申請、領取在留資格認定證明書,三是申請并領取簽證。
5、問:到日語學校留學需要辦理什么手續?
日語學校每年分四次招生,開學時間分別為 4 月、7 月、10 月和 1 月。各個學校的招生時間、條件和方法都不相同,但大都比開學時間提前半年開始招生。4 月份開學的一期
招生人數最多,此外,依次為 10 月,7 月和 1 月開學的。大部分學校都是集中招收 4 月和 10 月開學的兩期,也有一部分學校招收 7 月和 1 月開學的這兩期,但總體來說不多。決定了去哪所學校留學之后,就請先取得該校的招生簡章,做好申請的準備。
6、問:到專修(門)學校留學需要辦理什么手續?
答:專修(門)學校只招收 4 月開學的一期,其特點是招生期間比較長。去專修(門)學校留學的學生大多是先去日語學校留學,學習日語。但如果符合入學條件的話,也可以直接進入專修(門)學校留學。但是,并不是所有的專修(門)學校都能夠接收留學生,申請時需要加以確認。
7、問: 到大學留學需要辦理什么手續?
答:大學一般只招收 4 月開學這一期留學生,也有一少部分學校招收 9 月或 10 月開學的。另外,也有一些學校對 4 月入學的學生分幾次進行招生。大多數學校都以日本留學考試的成績,本校設有的筆試和面試為標準來選拔學生。學生必須在日本參加入學考試。但是,也有一些學校在中國設有特殊的入學考試,或只需根據個人資料進行審查就可以直接進入日本的大學學習。大學的報名和考試時間為: 4 月份開學的私立大學從前一年的秋季開始到入學年的 1~2 月份; 4 月份開學的國立、公立大學為前一年年末到入學年的 2~3 月份。各個學校的招生時間、條件和方法都不同,所以大家有必要提前作好準備。一般情況下應該先到日語學校或者大學別科留學,一邊學習日語一邊收集信息為考試做準備。
8、問: 到研究生院留學需要辦理什么手續?
答:研究生院招收碩士生和博士生,一般都只招收 4 月開學這一期。也有少數學校招收 9 月或 10 月開學的,還有一些學校設有其他的開學時間。大多數學校都是在本校舉行入學考試,因此學生必須到日本來參加考試。但是也有一些學校只根據個人資料進行選拔,選拔合格就可以直接進入研究生院留學。關于研究生院的報名和考試時間,4 月開學的為前一年的秋季開始到入學年的 3 月份左右,不同的大學、不同的專業安排,時間安排有所不同。還有的專業將 4 月開學這一期學生分兩次招生。
9、問:到日語學校留學需要具有什么資格或條件?
答:要具有高中(12年)或高中以上學歷,日語能力需達到相當于日語能力測試 4 級以上的水平。此外,還要有能力支付留學費用,留學意志堅定并有明確的留學目的。
10、問: 到專修(門)學校留學需要具有什么資格或條件?
答:要有高中以上(12 年)以上學歷,有日語能力測試 2 級資格證書,能夠支付留學費用,留學意志堅定并有明確的留學目的。
11、問:到大學留學需要具有什么資格或條件?
答:要具有高中(12 年)或高中以上學歷,有相當于日語能力測試 2 級以上的日語水
平,能夠支付留學費用,留學意志堅定并有明確的留學目的。到設置英文授課專業的學校留學的留學生,沒有對日語能力的要求,但是這種課程很少。
12、問: 到研究生院留學需要具有什么資格或條件?
答:要有大學本科學歷(16 年)或同等學歷,有相當于日語能力測試 2 級以上的日語水平,能夠支付留學費用,留學意志堅定并有明確的留學目的。對英語授課專業的留學生不做日語能力的要求。
13、問: 準備留學手續的材料時,需要注意些什么?
答:請仔細閱讀你報考學校的招生簡章及通知,按照學校的招生簡章的要求,準備好必要的資料。如果有不清楚的地方或有什么問題,請向我中心電話咨詢。個人資料的遞交一定要嚴格遵守時間規定,請提前做好準備。
14、問: 證明日語能力時,需要日本國際交流基金主辦的日語能力測試的成績嗎?
答:如果留學學校沒有提出此項要求,一般是不需要的。學校會通過考試和面試來考核學生的日語能力。但是,如果有時間和機會參加日語能力測試,還是盡量參加。因為日語能力測試的成績比其他日語能力的證明更具有可信性。
(三)在留資格認定書和簽證的申請
從留學學校獲得入學許可后,接著就要申請去日本及在日本居留的文件。首先,通過學校等向日本法務省入境管理局申請在留資格。獲得了在留資格認定證明書后,通過代理申請機構向日本駐華大使館領事部或各地的總領事館申請簽證。在留資格認定證明書及簽證是進入日本和在日本居留的重要文件,因此要注意有效期限,并妥善保管。
15、問:就學簽證和留學簽證有什么區別嗎?
答:根據留學學校課程的不同,發給留學生的簽證種類也不同。日語學校多數都是就學簽證,一部分日語學校及大學別科、本科、短期大學、專修學校、研究生院都是留學簽證。“研究生”根據專業的不同分為留學簽證和就學簽證兩種。留學簽證和就學簽證的主要區別在于有效期限、有無學生優惠折扣、醫療保險有無優惠政策等。
在留資格 有效期限 學生優惠折扣 醫療保險優惠政策
就學簽證 就學 半年 無 無
留學簽證 留學 一年以上 有 有
16、問:在留資格認定證書的申請需要有經濟能力證明,為此需要準備多少金額?
答:這是為了確認是否有能力支付留學費用的手續,所以請根據個人的留學計劃來計算。日本法務省入境管理局沒有明確規定的數字。根據我們以往的經驗,按照各校的要求,至少需要18萬人民幣以上的存款證明。
17、問: 在留資格認定證明書獲得批準后,要申請簽證需要準備哪些資料?
答:申請者要向管轄本人戶口所在地的日本大使館領事部或各日本總領事館申請簽證,實際操作時請通過指定的申請代理機構辦理。申請簽證需要護照、照片、在留資格認定證明書的原件及復印件、戶口本復印件、暫住證或居住證明(申請人的戶籍不在申請地的領事部或總領事館管轄范圍的情況)和簽證申請書。另外,申請留學、就學簽證時還需要提交調查表、經費支付者的在職證明、畢業證書(僅留學簽證)。需要的資料可能會有變動,請務必向代理申請機構確認。
18、問: 要去日本參加入學考試該如何辦理簽證手續?簽證通過的機率有多大?要等待多長時間?
答:在日本有身份保證人的話就可以申請去日本的短期簽證。在短期簽證中,“為參加考試”去日本一般稱為“考試簽證”,申請時需要提交學校的考試準考證。一般情況下,只要申請內容沒有問題,就會根據考試日期發給簽證。
(四)選擇留學學校的方法
去留學的第一步就是選擇學校。請靈活利用互聯網、留學雜志、留學資料、朋友、留學回國人員及他人的介紹、中介機構、留學咨詢等信息,找到適合自己的學校。請注意收集的信息一定要全面,不能只憑單一的信息就決定去哪所學校留學。
19、問: 請介紹一些比較好的日語學校。
答:好不好要看適合不適合自己,要自己來確定。但是事實上在中國事先自己來確定比較難,應通過多個渠道收集大量信息,對多所學校進行比較的方法來確定報考的日語學校,也是方法之一。大家可以參考我留學中心日本部留學咨詢相關資料。
20、問:請介紹一些比較好的大學。能否提供大學排名?
答:好大學不等于排名靠前的大學。好大學是指適合自己的大學,排名靠前的大學是他人評價高的大學(統計學角度上是否有一定參考價值?)。當然,適合自己的大學是最好的大學,這一點是可以肯定的。
(五)留學費用、獎學金、勤工助學
21、問: 留學需要的費用大概是多少?學費是多少?生活費需要多少?
答:一般來講,留學 2 年最少需要 300 萬日元,但也因個人的條件和情況而不同。國立、公立、私立學校的學費各不相同。私立學校的學費還根據學校、專業的不同或是否減免學費而不同。生活費因地區、住房、個人生活水平的不同而不同。每年的生活費全國平均數字為 100 萬日元左右,但這只是非常節儉的生活所需費用。
22、日語學校、大學預科、大學學部、研究生院、專修學校學費的大致金額。(不包括考試費,未滿 1 萬日元的四舍五入)
學校 學費 入學費(一次性交)
日語學校 60~80 萬日元 / 年
大學別科 50~70 萬日元 / 年
大學學部(國、公立)50~53 萬日元 / 年 28 萬日元
大學學部(私立)80 萬日元 / 年 30 萬日元
研究生院(國、公立)60 萬日元 / 年 20~30 萬日元
研究生院(私立理科)100 萬日元 / 年 20~30 萬日元
專修學校 90 萬日元 / 年 20~30 萬日元
* 上述金額只是一個估計的數字。不同的學校各不相同,也有的學校由于減免了學費而學費變得很低。
23、問:留學生可否勤工儉學?有無限制?
答:可以向法務省入境管理局申請“資格外活動許可”,如果得到批準就可以進行合法的勤工儉學活動。另外,這項申請需要提交所在學校的許可。留學生、就學生是以學習為目的取得的在留資格,因此他們在勤工儉學時有時間和工作種類的限制。
勤工儉學的時間規定
留學 大學、“短大”、“專修學校”的學生 一周不超過 28 小時
長假停課期間一天不超過 8 小時
留學 旁聽生 一周不超過 14 小時
長假停課期間一天不超過 8 小時
就學 就學生 一天不超過 4 小時
24、問: 都有哪些形式的獎學金?
答:從大的方面來劃分有日本政府(文部科學省)獎學金、自費外國留學生學習獎勵金、地方政府等的獎學金、民間團體獎學金、學校獎學金、減免學費等幾類。日本的獎學金大都以“居住在日本國內”為申請條件的,因此來日留學后可以申請符合條件的獎學金。
25、問:去日本之前可以申請到獎學金嗎?
答:去日本之前能申請到的獎學金非常有限。可以申請到一些民間團體的獎學金,但大多都有申請條件的限制。
26、問: 請介紹一下日本政府(文部科學省)獎學金的情況。
答:申請日本政府獎學金的幾種方法中,國外申請的種類有“大使館推薦”和“大學推薦”。“大使館推薦”是通過中國國家留學基金管理委員會進行申請。除一些例外的情況外,“大學推薦”(日本的大學的推薦)是通過與日本的大學有交流協議的中國大學進行申請。
(六)其 他
27、問: 請介紹一下“日本留學考試”。
答:從 2002 年起實施的“日本留學考試”就是日本大學的入學考試的重要組成部分。1 年進行 2 次(6 月、11 月),有日語、數學(A)、數學(B)、綜合(文科)、物理、化學、生物(理工科)等科目。請根據申請學校的要求,選擇考試科目。有些學校只要求參加日語考試,也有的學校不需要參加日本留學考試。這個考試除日本國內以外,在國外還設有 15 個考點,這是為了讓國外的學生能更直接來日本大學留學而不用先到日語學校或大學別科學習。但遺憾的是,在中國還沒有設置考點。另外,有很少一部分研究生院需要提交日本留學考試的成績,請大家留意。
第五篇:日本留學
到日本留學,半工半讀,不僅能學習,而且還不耽誤賺錢,打工每小時能賺800-1000日元。
有兩種選擇一是申請到語言學校留學,二是申請到大學的日本語別科留學。兩種不同處在于前者是就學簽證,打工有限制,簽證也不好辦,一次可簽半年多則一年,而且得選優良校;后者屬于留學簽證,簽證好辦些,一次可簽一年多則二年。兩者學制都是兩年,都是以學習日語為主,前者歸入國管理局管,后者歸文部省管,當然簽證都歸入管局了。東京地區因為屬于熱門,不好申請,最好找信譽好的有資質的合法留學中介可到教育部網站查尋中介名單辦理。注意:提前2-4個月辦理。
主要需以下材料:
1.申請時滿18周歲,具有高中畢業證書原件【普高、職高、技校、中專(含)以上】。
2.本人最終畢業學校成績證明。
3.經濟擔保人(年收入12萬元人民幣)收入證明,在職證明。
4.本人及經濟擔保人的戶口、身份證原件及復印件。
5.由當地公正部門開具的與擔保人關系的公證書。
6.相當于3萬美金的銀行存款證明。
7.8-12張藍底小二寸照片(不能用數碼照片)。
8.日語學歷證明,通常要達到360學時或達到日語三級。
認真填寫入學申請書,要用黑色碳素筆填寫,不能涂改。就學理由書要真實可信,同時要及時辦理因私護照。
經費支付人是指保證你在日本留學期間的生活及學費,按規定,留學生每天打工不能超過4小時,(實際沒有不超的,要不怎么活?中國留學生大部分都靠打工自己供自己留學),不算3萬美金保證金,你準備12萬元人民幣吧(含中介費),如果不找中介能省2萬左右。保證金可找辦留學貸款的辦,大約需3000元費用,可以找親屬幫忙,湊足存到銀行,三個月就能取出來。這樣還能省一些。
擔保金20萬人民幣以上,學費每年60-80萬日元,生活費每年100萬日元差不多。
上面的基本條件達到后,一般還得參加申請學校的面試,一般都會通過,如果委托中介辦理,有些語言校也不用參加面試。
【面試注意事項】
⑴.著裝要得體,整潔、樸素、大方,不要戴首飾,符合學生之身份;
⑵.保持良好的精神狀態,注意禮節,做到落落大方,不卑不亢;
⑶.記清入學、畢業的時間,入小學時的年齡,高中讀的是什么學科(文科或理科)或大專的專業是什么,高中或大專學了那些課程,老師和校長的名字叫什么,參加過高考嗎?成績如何?為什么沒有上大學?
(理科:320,文科:280),⑷.是否學習過英語,水平如何?能用英語做自我介紹嗎?
【英語自我介紹】
①My name is.I’m(years old).我叫××,今年××歲。
(18 eighteen , 19 nineteen , 20 twenty 22 twenty-two)
②I’m a middle school(college)graduate.我是一名中學(大學)畢業生。
③I live in the county(city)of in the *** province.我家住在****省×× 縣(市)。
④There are my parents and I in my family.and we have an income of a hundred thousand each year.It’s a family of great happiness.我家里有父母和我,每年都有十幾萬元的收入,是一個幸福的家庭。
⑤I hope to continue my study in a Japanese university then realize my aim of life.我希望到日本的大學學習,學成后實現自己的人生目標。
⑸.畢業后在做什么?去日本父母支持嗎?父母在什么單位工作?每月或每年的收入有多少?錢存在哪家銀行?(工行或中行)家里還有什么人?(三口之家)在日本是否有親屬或朋友?
⑹.何時開始學的日語?水平怎么樣?面試通過后(辭去工作)到日語學校全日制班學習日語。
⑺.為什么要去日本?過語言關后,想到那一所大學就讀?打算學什么專業?
⑻.去日本后,留學生活會很苦,你能堅持嗎?想打工嗎?
(如果條件允許,想打一份工補貼一下生活費用,減輕家庭負擔)
⑼.按照要求填寫“面試登記表”,攜帶戶口、身份證、畢業證原件,參加面試。
⑽.高中課程及高考科目:
文科:6科 數學、語文、英語,文科綜合:(地理、歷史、政治)。
理科:6科 數學、語文、英語,理科綜合:(物理、化學、生物)。
數學、語文、英語,每科150分,綜合科目每科300分,總分為750分。
申報材料報到入管局后,如果通過審查獲得批準,交給學校一年學費,學校將發給“在留資格認定書”原件,下一步就是要到日本駐中國使領館辦簽證了,一般委托當地外事辦簽證代辦處辦理。如果拿到簽證,那你就準備出國吧!
很麻煩,最好去找中介辦理,成功率會很高,自己辦不好辦呀!
只能給你說這么多了,祝你好運!
材料報上去之后,小日本的入管局要打電話過來(抽查)主要是核實申報材料是否真實,只要是材料上反映出來的,都要記熟,不要答錯。另外要靈活,隨機應變,小日本可鬼著呢,總之,要小心,找一個頭腦靈活的人來接電話。另外,來電顯示為“11111111111或00000000000”,要小心,基本上是入管局或領事館的電話。
60-80萬日元,生活費每年100萬日元差不多。
【附件】:
協議書
甲方:
乙方: 先生 / 女士〈以下簡稱乙方〉
乙方同意由甲方代理乙方赴 自費留學咨詢服務的相關工作。雙方經協商同意簽定以下條款:
一、甲方責任和義務、協助乙方準備相應的申請材料。、為乙方介紹留學學生簽證有關規定,指導乙方準備簽證申請文件。、應乙方要求,協助乙方預定航班;安排人員在國外機場接機,預約住宿。
二、乙方責任和義務、及時提供留學申請所需的各類文件。、按學校和使館要求,自行支付各項相關費用。
三、經濟條款、乙方與甲方簽訂委托協議同時,向甲方交納報名費(不退還)元 , 及咨詢服務費人民幣 元收到簽證后,向甲方繳納剩余的咨詢服務費人民幣 元。、乙方與甲方簽訂合同后,在三十天內不與甲方聯系,則視為乙方單方面終止合同。3、甲乙雙方簽訂委托協議書后,乙方因任何原因不再繼續申請,所交費用不予退還,視為本合同終止。、乙方在申請過程中發生的任何費用和在此期間發生的生活費及由此產生的誤工費、誤學費等相關費用,在任何情況下都應由乙方負擔。、如果申請人的入學申請被拒絕,甲方在 5 個工作日內將本協議第三條第 1 款中已經交納的全部費用退還乙方,負責為乙方追回已經繳納的學費,并不承擔其它責任。6、如果申請人因提供虛假材料而導致拒簽,則甲方所收取的服務費不予退還。、甲方協助乙方獲得通知書或簽證后,因乙方自身原因,不能按期入學或不再入學,所造成的經濟損失,由乙方自負,甲方不退還咨詢服務費。
四、違約條款、乙方對所提供的文件和證明的真實性、準確性、承擔全部責任,并承擔由此造成的一切后果。、即使乙方申請材料齊備,符合所申請學校的入學條件,也存在無法取得申請學校的入學通知書的可能,遇此情況,除按本協議執行退款,甲方不承擔其它任何責任。、即使乙方申請材料齊備,符合所去過的留學政策和條件,也存在被所去國拒簽的可能,遇此情況,除按本協議執行退款,甲方不承擔其它任何責任。、甲乙雙方只在辦理出國留學手續上存在雙方約定的法律關系,乙方如申請成功,其出國后的一切人身合法權益受所去國的法律及中國駐該國使館的保護,甲方不承擔任何直接或連帶責任。、乙方申請成功后,其在所去國的一切行為受該國法律的規施和約束,并對其后果負責,甲方不承擔直接或連帶責任。、乙方在留學期間,如有需要甲方幫助的甲方如能做到的,則盡可能予以幫助,但不屬于雙方約定的責任和義務。、如因甲方過錯造成的在辦理出國留學過程中合法權益受損,乙方可直接向教育、公安等主管部口申請賠償。如非甲方過錯,甲方不承擔任何責任。
五、附則
? ~、本合同字簽字之日起生效,至乙方抵達國外學校之日起兩個星期為止。、乙方和甲方對本合同的執行情況有異議,在乙方抵達申請國家之日起兩個星期應以書面形式同志學校或甲方,否則,視為本合同已經履行完成,雙方不再承擔任何責任。
甲方: 乙方:日期: 日期: