第一篇:武侯祠日語導游詞
武侯祠
武侯祠へ途中案內
皆さん?おはようございます。今日はいい天気ですね。皆さんもお元気でしょうか。まず今日のスケジュールについて、ちょっと説明させていただきます。午前は武侯祠を見學します。そして市內のレストランで食事をします。午後杜甫草堂へ行きます。ここから武侯祠(ぶこうし)まで約15分ぐらいかかります。じゃ皆さん窓の外をご覧ください。この川は「錦江(きんこう)」と呼ばれています。錦はにしきという文字です。三國時代の時蜀の國は錦織(にしきおり)がとても盛んでした。現地の人がその人で錦織を洗った後、その錦織の色が鮮やかになりましたので、その川は?錦江?と呼ばれていました。そのため成都のひとつの別名は錦城あるいは錦官城と呼ばれるようになりました。
はい、皆さん目の前のその橋は「萬里橋(ばんりきょう)」と呼ばれています。これについて中國には昔からある物語があります。皆さんご存知ですか。「千里の道は一歩から」ということわざですよ。その時紀元223年頃?三國時代時?蜀(しょく)の國と呉(ご)の國の関係は戦爭のせいで悪くなっていました。二つの國はもし同盟(どうめい)を建てないと強い魏(ぎ)の國と抵抗できないため。蜀の國の丞相(じょうしょう)諸葛孔明(しょかつこうめい)は費煒(ひい)という幕僚(ばくりょう)を呉の國に派遣しました。費煒が出発する前に諸葛孔明は費煒の手を握ぎりながら「千里の道は一歩から」と言いました。費煒は一生懸命努力しましたので?二つの國は仲良くなりました。
今、この時間を利用させていただいて、武侯祠についてちょっと説明したいと思います。
武侯祠は成都の單にあり、三國時代(さんごくじだい)の劉備玄徳(りゅうびげんとく)と諸葛孔明を祭っている所で全國歴史が一番古い三國文化の博物館です。紀元223年4月に劉備玄徳が白帝城(はくていじょう)で亡くなり諸葛孔明は彼の遺物(いぶつ)をここに埋葬(まいそう)して以來。すでに1780年余りの歴史を持っています。
はい、皆さん、そろそろ武侯祠に著きます?貴重品をお持ちください。足元に気を付けてください。では?降りましょう
武侯祠
ここは黒い壁があります。これは中國の禮儀(れいぎ)では重要な人物がここに祭られていると言う意味です。はい、ここは武侯祠の正門です。皆さん?上の額(がく)をご覧ください。「漢昭烈廟(かんしょうれつびょう)」が四つの文字が書いています。「漢」は劉備玄徳が打ち立てた蜀漢政権(しょっかんせいけん)という意味で。「昭烈」とは劉備なくなった後の贈り名(おくりな)です。「廟」は偉い人がなくなった後祭られた所です。「ここは武侯祠で諸葛孔明を記念して建てたものです。それなのになぜここには“漢昭烈廟”と書かれているのだろうか……」そうです!これは成都武侯祠の特色の一つです。つまり、この武侯祠は漢昭烈廟と合併(がっぺい)されているのです。武侯祠と漢昭烈廟は元元別に建てられ、別々に存在していました。蜀漢の皇帝である劉備玄徳を祭った漢昭烈廟に足を運ぶ人は少なくて。これに対して?彼の部下にあたる諸葛孔明を祭る武侯祠に參拝(さんぱい)する人は多かったのです。臣下(しんか)が君主(くんしゅ)を上回る(うわまわる)ことなかろうという理由で、2つを1つに合併したのですが。でも?人々は皇帝の劉備玄徳を上回る諸葛孔明の才能と人格を偲んで、2つを1つ合併された後にここを武侯祠と呼んでいるです。
はい、皆さん、私について入りましょう。これは武侯祠の地図です。今、私は見學の手順を説明したいと思います。まず「三絶碑(さんぜつひ)」などの石碑を見學してから、二門を経て、文官廊(ぶんかんろう)と武將廊(ぶしょうろう)を通り、劉備玄徳殿へ行きます。後ろの諸葛孔明の記念堂「武侯祠」に行き、三義廟(さんぎびょう)の後、劉備玄徳のお墓を見學します。ここは1時間半ぐらいかかると思います。
はい、皆さん、こちらへどうぞ。これは「三絶碑」です。これは唐の時代の物で非常に有名です。この碑(いしぶみ)の高さは2.9メトールで、厚さは約20センチです。唐の時代の時、宰相(さいしょう)(今の総理大臣にあたる)裴度(はいど)という人が文章が書いて?全文には諸葛孔明を褒める言葉ばかりです。そして、當時孔明のような有能な人が見つからないという現実を嘆いています。また、この石碑は唐の有名な書道家(しょどうか)柳公卓(りゅうこうたく)と彫刻(ちょうこく)の達人(たつじん)魯建(ろけん)の作 品で。文章、書道?彫刻はいずれもすばらしい物で、「三絶碑」と言われるようになったのです。
はい、向こうに「明碑(みんひ)」と呼ばれています。名前の通りに明の時代の石碑です。上には武侯祠の規模や文物などの內容が書かれています。武侯祠の歴史を研究する貴重な資料になっています。下の動物は何ですか。皆さん、あててみてください。一つの説では、もともとこの辺ではよく水害が起こり、亀は水害の元兇(げんきょう)だと考えられて?処罰(しょばつ)するため?この重い石碑を背負わせて、また世間の人々にこれから悪いことをしないよう警告しているのです。もう一つの説では、これは亀じゃなく。竜の息子「ビーシ」と言うものです。権力?長壽(ちょうじゅ)の象徴と認められて、古代の宮殿(きゅうでん)にはよく見られます。
はい、ここは二門です。上の額をご覧ください。「明良千古(みんりょうせんこ)」という四つの文字が書いてあります。「明」は古い文字で?目辺になっています。劉備玄徳は目が鋭いという意味です。「良」はすばらしいという意味で?蜀の國の幕僚たちは忠誠で、偉い専業をしていたということです。「千古」は彼たちの功徳が永遠に続いていくという意味です。
これは「出師の表(すいしのひょう)」です。この文章を書道する人は單の單宋の有名な武將岳飛(がくひ)です。「前出師の表」は孔明が227年に始めて魏(ぎ)の國に出兵する時?皇帝の劉禪(りゅうぜん)に差し上げた上奏文(じょうそうぶん)です。國を盛んにするための教訓や人材の推薦。また、白帝城で受けた劉備の望みを実現すること、必ず漢王朝を再興(さいこう)するという決心が書かれています。「後出師の表」は孔明のもう一枚の上奏文です。後世(こうせ)に大きな影響を與え「國のために力を盡くして?死んでもやめない」と言う言葉はここから出たのです。單宋の有名な武將の岳飛は涙をこぼしながら、これを書いたのです。昔から出師の表を読んで涙をこぼさない人はいないと言われています。この書を全體から見ると前半は気持ちが落ち著いて書いたような感じがしますが。だんだん書くスピードが早くなり?前半の楷書(かいしょ)から草書(そうしょ)に変わって、岳飛の気持ちが高ぶっていく様子が現れています。
はい、今劉備玄徳殿へ參りましょう。目の前に一つの大きな鼎(かなえ)があります。三本の足があるは入れ物のことを「鼎」と言います。昔この鼎では「紙銭(しせん)」を焼きました。「紙銭」というのは死んだ人が天國で使う紙で作ったお金のことです。あの四本の足がある物は香爐(こうろう)です。清の時代の皇帝が娘がお嫁に行く時彼女にありたプレゼントで六匹の龍の模様が描かれています。劉備玄徳の前に置かれたのはここが皇帝の場所だと言うことを強調し、また皇帝の位と権力も表現しています。
皆さん?上の四つの文字をご覧になってください。「業紹高光(ぎょうしょうこうこう)」と四つの文字が書いていますね。一つめの「業」は手柄(てがら)という意味です。つまり劉備玄徳は蜀の國を作ったということですね。次はの「紹」というのは越しえるあるいは當たるという意味ですよね。高い「高」は前漢時代の最初の皇帝劉邦(りゅうほう)を意味します。光りというのは後漢時代の劉秀(りゅうしゅう)という皇帝の名前です。この額の意味は劉備玄徳が蜀の國を建てた功績はそのふたりの皇帝を越えるに値するという意味ですね。ようするに劉備玄徳を褒める言葉ですね。
もうちょっと前に行きましょう。
この金泊張り(きんぱくはり)の塑像(そぞう)は劉備玄徳の像です。正々堂々(せいせいどうどう)の顔をしているでしょう。伝説によると劉備玄徳は耳が大きく肩までのびています。中國のうらないしの話によると耳が大きい人は幸せがある人です。もう一つは?劉備玄徳の手も非常に長いです。膝まで?伸びたそうです。皆さん?手を膝までのばせますか。
劉備玄徳を記念する所は四川省にありますが、実は劉備玄徳は四川省出身ではないですよね。彼は河北省の涿洲(たっしゅ)という所に生まれました。もともと草鞋(わらじ)を編みながら、あちこちを流浪した人で友達と付き合うのは熱心な人ですから?たくさんの友達がいました。中國には昔から一つの言い方があります。友達をもらえば?天下をもらえるという言葉ですね。それじゃ?皆さん<三國志>はご存知ですよね。今から約1800年前中國の後漢の時代、黃巾の亂が起きました。劉備玄徳と関羽(かんう)?張飛(ちょうひ)が桃ばたけの誓いを通じて義理(ぎり)の兄弟になりました。彼らは黃巾(こうきん)の亂をしずめる戦いに參加しました。初めは優秀な幕僚がいなかったので、戦爭でよく失敗しました、紀元207年劉備玄徳は諸葛孔明の家に三回ほ ど訪ねて中國を統一する気持ちを諸葛孔明に真剣にうったえました。諸葛孔明はそれを感謝するため劉備玄徳の丞相になりました。そのあと、諸葛孔明の協力のおかげで、劉備玄徳の勢力はだんだん強くなりました。やっと紀元221年蜀の國が建てられました。その二年後、関羽の仇(かたき)を討っために呉の國に討伐(とうばつ)に行きました。しかし、失敗でした。それで、白帝城で病気になって殘念ながらなくなったんです。
劉備玄徳が蜀の國の皇帝として國を建てたのは、もちろん、第一は人材を大切にしたからですね。有能な人を求めたわけなんです。軍事のことは関羽、張飛にまかせ?政治は諸葛孔明にまかせていたっと言われています。人材はもちろん重要なことですね。現在の會社にたとえるならば皇帝は社長のようなですね。もし皆さんが社長ならば何か一番大事だと思いますか。大事なのは優秀な人材を部下にしして彼らの力を十分に発揮させることでしょう。その點においては劉備玄徳はとても優秀な社長だったわけですね。また、草鞋を編んでいた彼が人材を得て國の皇帝になって部下をうまく使いこなすことができたのは彼の人徳(じんとく)がすばらしかったからでしょう。現在の社長さんにも必ず求められるこどですよね。いくら優秀な部下がいたとしても上手に使いこなせなければ?その會社はよい會社とは言えませんよね。やはり人徳がよい
優秀な部下がうまくかみあってこそ、よい會社ができるわけでしょう。劉備玄徳のもとではそれがうまく行われていました。
はい?皆さん?この看板をご覧ください。これは「隆中対(りゅうちゅうたい)」です。「隆中」は地名です。「対」はふたりの話という意味です。紀元207年の冬ごろ劉備玄徳は三回ほど諸葛孔明の家へ訪れたことがあります。諸葛孔明は「天下三分(てんかさんぷん)の計」を提案(ていあん)しました。まず中國の西單部今の四川省と雲單省(うなんしょう)と貴州省(きしゅうしょう)を占領して呉の國と同盟をたてて強い魏の國に抵抗(ていこう)すること、そして、チャンスを見て、中國全土を統一しましょう。劉備玄徳は諸葛孔明をもらってから、ほんとに「水魚(ずいぎょ)のまじわり」のような感じがして、まったく諸葛孔明の言うとおりに頑張りました。そのふたりの會話をまとめて出來た文章は「隆中対」です。これは三國時代の大切な文章です。
はい、皆さん、こちらへどうぞ、これは関羽殿です。上の額をご覧くださ い。「義薄雲天(ぎはくうんてん)」と書いてあります。中國には「君と君の付き合いは水の如し」という諺(ことわざ)があります。関羽はたいへん義理が大事にする人です。義理は関羽にとって命より大事なことです。雲や天などは関羽の義理と比べたらまだまだ薄いと言う意味です。
これが関羽の像です。その帽子は劉備と同じものです。元の時代、関羽の
皆が學ぶべき手本として大事にして。その時から、関羽が「関皇帝」或いは「関帝」と呼ばれるようになりました。至る所に関羽を記念する廟があり?皆関羽廟と呼ばれています。関羽は劉備と同じような帽子をかぶっていますが?中國の歴史上?皇帝を除き、一般の武將でこの帽子をかぶっているのはただ関羽だけ。文人の中では中國の聖人といわれている孔子だけです。関羽の身分がとても高いです。三國時代、関羽は五虎大將(ごこうだいしょう)の一番目と言われました。虎のように勇猛な武將が蜀の國には五人がいて、みな武術が得意です。中でも関羽が一番強かったということです。
隣には関羽の息子二人、関興(かんこう)と関平(かんぺい)の像があります。関興は何度も孔明について魏の國に出征したことがあります。最後?病気で死んでしまいました。関平は関羽と伴に呉の國に捕らえられなくなったんです。ここには関羽の部下周倉(しゅそう)の像もあり。お話の中の人物ですが、いつも黒い顔つきをしている勇猛な武將で、関羽と一緒に斬られたそうです。
はい?皆さん、こちらへどうぞ。この両側には文官廊と武將廊です。劉備玄徳の幕僚たちの像がそれぞれ14體がある。皆非常に忠実な人物でした。劉備玄徳より近いほどその身分が高いわけだ。そういう話があります。
龐統(ほうとう)、蜀の國の軍師の一人です。彼は孔明と共に「一対の鳳凰(ほうおう)」と例えられています。二人の才能はほぼ同じだと言われています。その時、二人の內一人でも得ることができれば、天下を手にすることができるいわれていましたが、ただ惜しいことに36歳の若さて死んでしまったそうです。龐統がその時もし死んでいなければ、中國の歴史は今と変われっていたかもしれません。
簡雍(かんゆう),文官で、弁舌(べんぜつ)に得意な人です。劉備玄徳と話し合うときにもよく冗談を言い、劉備は大変気に入り、自分の妹を彼に紹 介しました。彼はゴマするのがうまかったということです。
呂凱(ろかい)?少數民族を管理する上では役に立った人物です。その時背が低い人は頭がいいという言い方があったように、雲單省出身の呂凱は背がずいぶん低いですが、頭が非常に明晰(めいせき)でした。戦うより心を攻めるのが第一と言う孔明の政策を忠実に守ったので、就職後は再び反亂がありませんでした。
費煒、紀元223年?呉の國と同盟を結ぶためにかれは孔明に派遣され、出発する前?見送りに來る諸葛孔明の手を握りながら「千里の道は一歩から」と言いました。この言葉はそのまま諺になって、人々によく使われています。
傅彤(ふとう)、武將の一人です。なぜ文官廊に置いたのですか。簡賣な原因で向こうには置き場がないですから、その人は劉備玄徳の身周りを守る一人として非常に<三國志>にうまく描きました。彼は劉備玄徳の警衛係一人だったそうです。公元222年、劉備玄徳は呉の國へ出兵して敗戦されて逃げ戻った時?彼は一番後に劉備玄徳を守った、最後まで一人ばかりで戦う。
董允(とういん)、諸葛孔明のお手伝いさんの一人です。いつも素樸な生活を暮らしていたそうです。
鄧芝(とうし)、外交官の一人です。
陳震(ちんしん)、蜀の國の古い幕僚の一人です。最初から死まで劉備玄徳と伴ったそうです。
蔣琬(しょうわん)諸葛孔明の跡継ぎの一人です。その時?內政(ないせい)はこの人任せたそうです。
董和(とうわ)、董允の息子、非常に素樸な人?貪慾も何もない人。
秦宓(しんび)、弁舌が強いです。
楊洪(ようこう)、內政を管理する役人です。
馬良(ばりょう)、文章を書くのが得意です。
程畿(ていき)、皆背が低いです。なぜならば原因は二つがある。一つは單方の人はもともと背が低くて生まれつきです。もう一つは年代により作り方も違います。
張單、馮習,傅僉,向寵,廖化(前出師の表に出て信頼できる人)
黃忠(こうちゅう)、この老人の像は黃忠です。この武將は高齢でしたが 非常に強く、62歳でもまだ一キロのご飯を食べることができ、五虎大將の一人に數えられました。劉備玄徳は「亀の甲より年の功」と褒めました。
姜維(きょうい)、チャン族、孔明の後継者と言われ、九回ほど、魏の國に出兵したことがありますが、結局すべて失敗し自殺しました。
王平(おうへい)、非常に穏やかな人です。「泣いて馬稷を切る」と言う物語の中で出ている人物の一人です。武術が強くなったそうです。非常に忠実な人だった。特に街亭(がいてい)と言う所を取る時何回も馬稷(ばしょく)に勧めたんですが、馬稷はわがままで失敗して、諸葛孔明に首されちゃった。しかし?勉強不足で亡くなった時は漢字10個ぐらいしか書けないそうです。例えば、こんにちは、すみません……自分の名前だけ書けろ。
馬超(ばちょう)は五虎大將の四番目です。曹操は彼を大変恐れていたそうです。生きている間、蜀の國の北の境をずっと守っていました。曹操は馬超のお父さんが殺しました。「馬超不死、我無葬身之地」——曹操。
張翼(ちょうよく)、この像はちょっと目つきが鋭いですね。きつい顔をしないと武將とは言えないでしょう。古い武將の張翼は姜維とともに魏の國に征伐した時矢に當たって死んでしまったそうです。
趙雲(ちょううん)、とても勇猛な武將で五虎大將の三番目です。長坂坡と言う所で一人だけでも曹操506人の強い武士を首した。伝説によりますと、ある日彼は非常にうれしくてお酒を飲みすぎて酔っ払いになって病気にかかったそうです。
はい、今張飛殿に著きます。上の額をご覧ください。「誠貫金石(せいかんきんせき)」と書かれています。張飛は義理に厚い人物だったし、國をとても愛していたから、その意志は金でも石でも貫く(つらぬく)という意味です。これは張飛の像です。くるい顔つきですね。眠をカツと見開いた様子はとても怖いですね。張飛は劉備の義理の弟で、五虎大將の二番目です。長坂坡と言う所で一人數十萬の曹操軍前に立ち寒かった物語を中國で知らない人はいないでしょう。関羽の仇(あだ)を討ちのため呉の國へ出兵した後、寢ている間に自分の部下に斬られてしまいました。それで、寢巻き(ねまき)を掛けたままの像なのです。伝説によりますと、張飛は寢ている時も眼を開じないそうです。張飛が結婚したかどうか、三國志には記載されていませんが、隣には義理の息 子と孫の像が置いてあります。孫と息子の年齢の差があまり大きくなくみえますが、それは死んだ時の年齢に合わせて作ったからです。
はい、皆さんこちらへ、どうぞ、後ろは諸葛孔明を記念する「武侯祠」です。劉備玄徳殿は他の建物より一段高く作ってあります。何故かと言うと、劉備は蜀の皇帝なので、それだけ身分も高いというわけです。
はい、上の額をご覧ください。「武侯祠」と書かれていますが、この文字は郭沫若(かくまつじゃく)によって書かれたものです。「武侯」は孔明の贈り名です。
屋根の上には彌勒菩薩(みろくぼさつ)の像が置いありますが、これには二つの説があります。一つはただの飾り、もう一つは孔明を迎えために極楽世界(ごくらくせかい)からやってきたのだと言う説です。ほかにも色々な像がありますが、それに少數民族が孔明を偲ぶ(しのぶ)ために作ったものです。孔明が生きている時、沢山の農具(のうき)を発明し、後世に優れた技術を殘しました。この上には好望という龍の息子の彫刻がありますね。この建物がいつでも無事なことを祈っているためです。
はい、上の額をご覧ください。「名垂宇宙(めいすいうちゅう)」と四つの文字が書かれています。諸葛孔明の名前は宇宙のようにいつまでも伝えられる。また、諸葛孔明より頭がいい人がいないと言う強調的な言い方です。
両側には有名な対聯の一つがあります。敵の心を攻めれば、敵は自ら(おのずから)消えていく。大昔から兵隊さんが戦爭が嫌いです、勢いをうまく分析しなければ國が作出した政策は誤まりが出てしまいます。その後、蜀の國を治める人は深く考えなさいと言う意味です。
羽毛の団扇(うちわ)を持って、穏やかな顔つきをしている像が孔明の像です、左側に剣(つるぎ)を持っている侍(さむらい)は軍師の権力の印です、右側に本を持っているお手伝いさんは政治の印(しるし)です。
諸葛孔明は紀元181年、山東省に生まれで27歳まで湖單省の北にある襄陽(しょうよう)の隆中(りゅうちゅう)で晴耕雤読(せいこううどく)の生活を送っていました。「三顧の禮(さんこのれい)」のお蔭で劉備玄徳の政治集団に參加して、劉備玄徳の一番重要な幕僚になった、諸葛孔明がないと蜀の國が建てられないそういう話があります。孔明の像の左側には太鼓(たいこ)が一つ掛けてあります。実は、これはもともと少數民族が使う炊事用品の一つでしたが。諸葛孔明が晝間はこれを利用してご飯を炊き、夜、戦いになるとこれを叩いて警報を発すと考え出しました。そのため、人々はこれを「諸葛太鼓」と呼んでいます。この鍋は銅で作られ、大體二十人分のご飯を炊くことができるそうです。
はい、皆さん、こちらへ、どうぞここには杜甫が昔武侯祠を尋ねた時に書い詩があります。
蜀相(しょくしょう)
丞相の祠堂(しどう)何れ(いずれ)の所にか尋ねん 錦官城外 柏森森(きんかんじょうがいはくしんしんたり)階に映ずる碧草(へきそう)は自ずから春色(しゅんしょく)葉を隔てる(へだてる)黃鸝(こうり)は空しく(むなしく)好音 三顧頻煩(さんこひんぱん)なり天下の計
両朝開済(りょうちょうかんさい)する老臣(ろうしん)の心 出師(すいし)未だ(いまだ)かたざるに身先ず死す(みまずしす)長く英雄をして涙を襟(きん)に満た使む(みたしむ)
上を見ると「淡薄明志(たんはくめいし)、寧靜至遠(ねいせいちえん)」と八つの文字が見えます。これは孔明の子供を戒める本から、出た言葉です。素樸な生活をすれば、志は明るい、靜かにすれば、その考えは遠いと言う意味です。これは中國の道教の思想で、欲望を抑えれば、志(こころざし)が高くても実現できるということです。特に身分が高い人にとって最も大切なことです。
ここは三義廟です。ここに祭られているのは劉備玄徳とその義兄弟の関羽、張飛です。「桃園(とうえん)の誓い」という物語を記念するため、造られました。
三義廟側には喜神坊(きしんぼう)と書かれた大きな石があります。これは現地の風習の一つです。毎年舊暦の一日から十五日まで、武侯祠を遊覧する習慣があります。喜びの神を迎えるためですか、喜の神というのは、劉備玄徳、関羽、張飛のことです。もしこの三人が自分の家を訪ねてくれば、その一年は無事に楽しく過ごすことできます。ですから、人々はここにきて、三義廟にお參りをし、三人の人形、玩具やなどを買って帰り、守りの神様として大切にします。
ここは劉備のお墓です。「千秋凜然(せんしゅうりんぜん)」とは劉備玄徳は威風堂々(いふうどうどう)としており、いつまでも人々に偲ばれるという意味です。「漢昭烈陵」とは、ここが蜀の皇帝のお墓だと言う意味で「昭烈」は劉備玄徳の贈り名で、「陵」はお墓の意味です。
この墓は高さ12メートル、周辺は180メートルです。紀元223年4月に劉備玄徳は夷陵(いりょう)の戦いに敗戦され、白帝城で病死しました。しかし、劉備玄徳の死體が確かにこの墓の中に埋葬しているか、実は現在でもまだはっきりしていません。ここは蜀の都(みやこ)ですから、皇帝の劉備玄徳が死ねば當然ここに埋葬されるべきで、歴史の本にもこのことを載っているという説があります。もう一つの説がありますが、白帝城はここより隨分離れていますから、飛行機もバスもない時代、馬車(ばしゃ)だけで都の成都まで運んでくるのは難しくて不可能だと主張しているということです。
しかも、この千年間、一度も盜掘(とうくつ)されたことがないと言われていますが、これについては一つの物語があります。唐の時代、二人の泥棒がある真っ暗な夜に穴を掘って中に入りました。しかし、不思議なことに、どこからか聲が聞こえてきます。近づいて見ると劉備玄徳と諸葛孔明が碁を差しています。しかも関羽と張飛の二人が側に立って、じっとこちらを見ています。二人は仰天(ぎょうてん)し、慌てて逃げようと思ったとき「待ちなさい、わざわざ來たのだから、一杯飲んで行きなさい」と聲を掛けられました。二人は慌てて差し出されたお酒を受け取ると、一気に飲んでしまって、大慌てて逃げ出していきました。その瞬間、大きな雷が鳴りました。その後帰った二人はそのまま病気にかかり、死んでしまいました。劉備玄徳のお墓を発掘(はっくつ)してはいけないと言う話がこの當たりに広まったということです。
実は本當の理由は二つがあります。一つはもし発掘すると、中の出土品(しゅつどひん)は保存が難しくて壊されてしまうかもしれません。もう一つは大変大きなお墓ですから。子孫のためにも殘しておこうという理由です。それで、今でも1800年前の様子が変わらず、先ほどと同じように鼎が一つ置いてあり、これもやはり、身分と権力の印です。
第二篇:武侯祠導游詞
武侯祠導游詞
作為一名樂于助人的導游,常常需要準備導游詞,導游詞作為一種解說的文體,它的作用是幫助游客在旅游的同時更好地理解所旅游的景點包含的文化背景和歷史意義。那么一遍條理清晰的導游詞應該怎么寫呢?以下是小編幫大家整理的武侯祠導游詞,希望能夠幫助到大家。
武侯祠導游詞1武侯祠是紀念三國蜀漢丞相諸葛亮的祠堂。諸葛亮生前封武鄉侯,死后謚號忠武侯,后人便尊稱他為武侯。
成都武侯祠是全國唯一的一座君臣合祀的廟宇,始建于公元223年劉備入葬于惠陵。依據漢制,陵旁必有廟,所以在劉備下葬于惠陵后,當時的蜀漢就在陵旁修建了祭祀劉備的原廟。(原廟是帝王陵旁祭祀此帝王的廟宇,唐宋時期,人們一般稱劉備的原廟為先主廟。)(因為現成都武侯祠共有三大主體建筑,劉備死后就已出現其中兩組,故以劉備下葬惠陵作為成都武侯祠之始。)到南北朝時,在惠陵和先主廟不遠的地方人們又修建了武侯祠,唐宋時期,武侯祠就已成為著名的古跡和旅游勝地,杜甫當時就留下了“丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森”的描述。明代時,蜀獻王朱椿認為“君臣宜一體”,就把武侯祠與先主廟合并為一,通稱“漢昭烈廟”,明末清初,祠廟毀于戰亂。這天看到的武侯祠,是清代康熙十一年(公元1672年)在舊址上重建的。
盡管官方一向把那里叫作“漢昭烈廟”,大門也懸掛著“漢昭烈廟”的橫匾。但人們仍習慣的稱那里為武侯祠。為什么呢?民國年間的鄒魯寫的一首詩,道出了其中的緣由:“門額大書昭烈廟,世人都道武侯祠。由來名位輸勛業,丞相功高百代思”。也就是說,因為諸葛亮的歷史功績大,他在百姓心中的威望超過了劉備,人們就顧不了君尊臣卑的禮儀了。
從大門左側簡介和平面示意圖上看到,武侯祠掩映在森森翠柏中,殿宇坐北向南,布置在一條中軸線上,有大門、二門、劉備殿、過廳、諸葛亮殿五重,西側為劉備陵園——惠陵。祠內有清代蜀漢歷史人物泥塑像47尊,碑碣50多塊,匾聯60多幅,鼎、爐、鐘、鼓10余件。因此,確切地講,武侯祠就應稱作蜀漢君臣紀念堂,它是研究蜀漢歷史的一座博物館。
武侯祠導游詞2各位女士,各位先生:
大家好!
武侯祠是紀念三國蜀漢丞相諸葛亮的祠堂。諸葛亮生前封武鄉侯,死后謚號忠武侯,后人便尊稱他為武侯。
成都武侯祠是全國唯一的一座君臣合祀的廟宇,始建于公元223年劉備入葬于惠陵。依據漢制,陵旁必有廟,所以在劉備下葬于惠陵后,當時的蜀漢就在陵旁修建了祭祀劉備的原廟。(原廟是帝王陵旁祭祀此帝王的廟宇,唐宋時期,人們一般稱劉備的原廟為先主廟。)(因為現成都武侯祠共有三大主體建筑,劉備死后就已出現其中兩組,故以劉備下葬惠陵作為成都武侯祠之始。)
到南北朝時,在惠陵和先主廟不遠的地方人們又修建了武侯祠,唐宋時期,武侯祠就已成為著名的古跡和旅游勝地,杜甫當時就留下了“丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森”的描寫。明代時,蜀獻王朱椿認為“君臣宜一體”,就把武侯祠與先主廟合并為一,通稱“漢昭烈廟”,明末清初,祠廟毀于戰亂。今天看到的武侯祠,是清代康熙十一年(公元1672年)在舊址上重建的。
盡管官方一直把這里叫作“漢昭烈廟”,大門也懸掛著“漢昭烈廟”的橫匾。但人們仍習慣的稱這里為武侯祠。為什么呢?民國年間的鄒魯寫的一首詩,道出了其中的緣由:“門額大書昭烈廟,世人都道武侯祠。由來名位輸勛業,丞相功高百代思”。也就是說,因為諸葛亮的歷史功績大,他在百姓心中的威望超過了劉備,人們就顧不了君尊臣卑的禮儀了。
從大門左側簡介和平面示意圖上看到,武侯祠掩映在森森翠柏中,殿宇坐北向南,布置在一條中軸線上,有大門、二門、劉備殿、過廳、諸葛亮殿五重,西側為劉備陵園——惠陵。祠內有清代蜀漢歷史人物泥塑像47尊,碑碣50多塊,匾聯60多幅,鼎、爐、鐘、鼓10余件。因此,確切地講,武侯祠應該稱作蜀漢君臣紀念堂,它是研究蜀漢歷史的一座博物館。
三絕碑:
大門到二門道路的兩側,立有六通高大的石碑。其中四通為清代刻建,一通為明代刻建,一通為唐代刻建。清碑記載了祠廟重建和維修的情況;明碑著重介紹了祠廟的歷史沿革。
唐碑最負盛名,被稱為“三絕碑”,高3.67米,是唐憲宗元和四年(公元809年),劍南西川節度使武元衡率其僚屬27人,來武侯祠祭拜諸葛亮后刻建的。由裴度撰文,文中極力稱頌諸葛亮治蜀的文治武功,對他鞠躬盡瘁、力圖統一的精神給予了很高的評價,把他比作前代名臣管仲、曼嬰、蕭何、張良,認為他是歷史上唯一兼有開國之才、治人之術、事君之節和立身之道的歷史人物。裴度有文才,曾任三朝宰相。柳公綽書法漂亮,是唐代大書法家柳公權之兄。名匠魯建鐫刻。因此,自明代中葉,此碑就因其文章、書法精湛和諸葛亮的蓋世功德而被譽為“三絕碑”。
劉備殿:
二門內是蜀漢皇帝劉備殿。殿的正中,供奉著劉備的貼金泥塑坐像,兩側偏殿,分別供奉著關羽、張飛等人,與殿相接的東西兩廊,是蜀國的28位文臣武將的彩繪泥塑像。劉備像高3米,頭戴冕冠,身著黃袍,手捧玉圭,寬面大耳,神態靜穆。左右侍者,一捧玉璽,一捧寶劍。
劉備(161—223),字玄德,河北涿州人。24歲時,他召集關羽、張飛等人參加鎮 壓黃巾農民起義,后來在軍閥混戰中逐漸壯大了勢力。由于缺乏謀臣,他在軍閥混戰中屢遭挫敗,流離失所,先后依附于呂布、曹操、袁紹、劉表。他三顧茅廬,拜諸葛亮為軍師,赤壁大戰后,勢力才得到發展。劉備胸懷大志,注重信義,待人寬厚。經過二十多年的艱苦征戰,最后占據益州,于公元221年在成都稱帝。不久,為奪回荊州,替關羽報仇,他興師伐吳。結果,被吳國陸遜火燒連營,遭到慘敗,病死于白帝城(奉節)。臨終前,他把幼子劉禪(小名阿斗)和國事托付給諸葛亮,史稱“白帝城托孤”。
在劉備像東側,是劉備之孫劉諶的塑像。劉諶是劉禪的第五子,封北地王。在魏國鄧艾軍隊進逼成都時,他苦諫父親,同來敵決一死戰,與國家共存亡。但劉禪不聽。他悲憤已極,去祖廟哭訴后,先殺妻子,而后自殺。他以死殉國的精神受到后人頌揚。劉備像西側原有劉禪的像,由于他不能保住父業,投降魏國,當上安樂公后“樂不思蜀”,不知亡國之恥,在宋代,他的像就被毀掉,自此沒有再塑。正殿的兩壁,懸掛著木刻的《先主傳》、《后主傳》,傳文錄自陳壽史書《三國志》。蜀漢的興亡,可從劉備、劉禪傳中了解始末。東偏殿內是關羽及其子關平、關興、部將周倉、趙累的塑像。關羽像高2米多,頭戴冕旒,白面,丹鳳眼,臥蠶眉,兩眼半瞇半閉,美髯垂胸,身著金袍,手執玉笏,一付帝王打扮。
關羽(?—219),字云長。他與張飛是最早追隨劉備南征北戰的猛將,號稱“熊虎之將”。他倆與劉備恩若兄弟,情同手足,因此衍生了“桃園三結義”的故事。關羽曾被曹操俘獲,在曹操封官加爵的拉攏下,仍然效忠劉備。劉備得荊州后委任關羽鎮守。在荊州,他曾發動攻勢,水淹襄陽,活捉曹軍大將于禁,斬殺龐德,威震華夏。最后,因驕傲輕敵,被東吳將領呂蒙偷襲,與關平、趙累等人同時遇害,丟失了荊州。陳壽《三國志》評論他“傲大夫而親士卒”,傲慢輕敵是導致他失敗和被殺的重要原因。歷代統治者對關羽十分推崇,使他成了“忠義”的化身。在宋代,他被迫封為王,到了明清時代,加封為關圣大帝,詔令全國各地修廟祭祀。因此,這里的關羽像也成了帝王打扮。
西偏殿是張飛祖孫三代的塑像。張飛面色漆黑,豹頭環眼,燕頷虎須,像貌威猛而有生氣。張飛(?—221),字益德。《三國演義》稱“翼德”。他早年追隨劉備打天下,勇猛善戰,是三國時代的一員虎將。劉備在當陽長阪坡被曹操打敗,張飛領20多人在后面阻擊。曹兵來時,他立馬橫槍站在橋頭,大吼一聲。說:“我是張益德,誰敢來決一死戰!”曹軍居然不敢過橋。民間傳說他的吼聲嚇退了曹操的百萬大軍,橋下河水也為之倒流。張飛常常無故鞭打部下,因此被部將張達、范強暗害。陳壽《三國志》評論他“尊君子而不恤小人”。他不關心群眾,不尊重下級,也遭到失敗。
武將廊內有蜀漢著名將領14位。他們或因戰功卓著,或因戰死沙場,被立像表彰。趙云居于武將之首,他是一員智勇雙全的將領。在當陽長阪坡,他只身在曹軍重圍中沖殺,保護了幼主劉禪。在漢中爭奪戰中,他憑膽識,殺退曹軍,劉備稱他“一身都是膽”。其他著名將領還有馬超、姜維、黃忠等。馬超武藝高強,當他還是一支獨立勢力時,曾在潼關大敗曹操,弄得曹操割須棄袍,狼狽不堪。曹操曾說:“馬兒不死,吾無葬身之地!”后來他戰敗失勢,歸降劉備。姜維本是魏國一名小將,諸葛亮首次出祁山攻打曹魏時將他收降。因忠于蜀漢,文武雙全,受到器重。諸葛亮死后,他擔負起蜀漢的軍事重任。曾九伐中原,力圖完成諸葛亮“興復漢室”的遺志。黃忠,也是蜀漢名將,他老當益壯,征戰中總是身先士卒,勇冠三軍。
文臣廊內也有塑像14尊。這14位蜀國官吏有才有識、為官清正。董允直言敢諫,后主劉禪也畏懼他三分。鄧芝不僅在“東聯孫吳北巨曹魏”戰略上立下功勞,而且終身不置私產,臨死的家無余財,可算是清正廉潔。蔣琬、費祎,是諸葛亮臨終時向劉禪推薦的兩位丞相繼位人。二人才干雖不及諸葛亮,但能忠實執行諸葛亮的政策,在執政期間,均能保住蜀國的安定和繁榮。居于文臣之首的是龐統。龐統才思敏捷,博學多智,年輕時得“鳳雛”的稱號,與諸葛亮齊名。開始并不為劉備所賞識,經過魯肅和諸葛亮的竭力推薦,又親自與他交談時政后,方受到重用。不幸在入蜀攻打雒城(現廣漢市)的戰役中被亂箭射死,年僅36歲。
出劉備殿,低一個臺階,就是過廳。為什么要低一個臺階呢?這是當時封建社會君尊臣卑等級觀念的體現。
過廳懸掛著董必武、郭沫若、馮玉祥、徐悲鴻、舒同等人撰書的幾十副匾額對聯。
諸葛亮殿:
出過廳,就是諸葛亮殿。殿的門楣楹柱上掛滿了前人留下的匾聯。其中最有名的是懸掛在諸葛亮殿正中的一聯,即“能功心則反側自消,從古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,后來治蜀要深思”。聯文是清末云南劍川人趙藩撰書。
上聯說,諸葛亮在打仗中能用“攻心”戰術,如南征時對孟獲七擒七縱,使其心悅誠服,以此稱贊諸葛亮是真正懂得用兵打仗,而不是好戰的軍事家。
下聯稱頌諸葛亮能審時度勢,制定出寬嚴得宜的法度,收到良好效果,提醒后來治理四川的人從中汲取教益。這幅對聯對諸葛亮的用兵和施政作出了客觀的評價,提出“攻心”和“審勢”兩個很有啟發性的問題,是武侯祠匾聯中的上品,也是我國名聯之一。
諸葛亮殿內,供奉著諸葛亮和他的兒子、孫子的貼金泥塑像。諸葛亮像在正中的龕臺上,他羽扇綸巾,身披金袍,凝目沉思,其憂國憂民,深謀遠慮的神采,顯示出一代儒相的風儀。諸葛亮(181—234),字孔明,山東沂南人,是中國歷史上杰出的政治家、軍事家。他年輕時隱居于襄樊隆中,因才智超群,刻苦好學,胸懷大志,得“臥龍”的美稱。經劉備三顧之請,出山鋪佐劉備,創建蜀漢;劉備死后,受托孤之重任,輔佐其子劉禪,執掌朝政,治蜀達20多年;他施行教化,嚴明賞罰,選賢任能,興修水利,發展生產,南征南中,北伐祁山,以忠貞、勤勉、廉潔和才智,換來了蜀地的安定和繁榮。史學家陳壽評論說,當時的蜀國,政治清明,民風淳正,田野開辟,倉廩充實,到處是升平景象。由于過度辛勞,他54歲時,病逝于北伐前線五丈原軍中,埋葬在陜西勉縣定軍山下,墳墓至今尚存。
諸葛亮一生做了不少勤政愛民和有益于社會進步的好事,他死后,人們十分懷念他,對他鞠躬盡瘁,死而后已的精神更是非常敬重。于是,人們便修起了一座又一座武侯祠來紀念他,還把他作為忠臣賢相的典范,智慧的化身而加以崇拜。
諸葛亮的兒子諸葛瞻、孫子諸葛尚,在蜀漢面臨存亡之時,率部與魏軍在綿竹決戰,終因寡不敵眾,為國捐軀。
諸葛亮殿內陳列有一面銅鼓,是公元五、六世紀時的文物。銅鼓,原是西南少數民族古代的炊具,從考古發現來看,早在春秋戰國時期就已經出現了。后來銅鼓逐漸演變成一種樂器、禮器,在集會、慶典時使用,也是財富和權力的象征。相傳諸葛亮南征時,曾使用過這種銅鼓,白天用來煮飯,晚上當鼓,用來報警,一物多用。所以,又稱為諸葛鼓。
在殿外的兩側廂房內,陳列著木刻詩文。西廂有毛澤東、董必武、張愛萍、方毅、周谷成、楚圖南、梁漱溟等人的墨寶共12幅,東廂為木刻的《隆中對》和《出師表》。
三義廟:
出諸葛亮殿往后,就是三義廟。三義廟因祭祀桃園三結義的劉、關、張而得名。廟始建于清康熙年間,原有四進五殿,規模宏大。現僅存拜殿、正殿,成四合院布局。三義廟本在市區中心的提督街,因城市建設的需要,1997年遷建于此。遷建工程嚴格按照國家文物法規,將原建筑構件編號拆下,運至新址按編號搭建,恢復原貌。
恢復重建的三義廟巍峨聳立,其建筑形制與劉備殿一致。屋頂為單檐硬山式,青色簡瓦覆蓋其上,結構為木石結構,抬梁式木構架,立柱及柱礎均為石質。有40根整石雕成的圓形立柱,柱徑0.5米。有24根石柱上刻對聯12副,聯文描金。正殿恢復了劉、關、張的泥塑坐像,廊房兩壁新增加十幅三國故事線描石刻畫。畫稿取自明代《三國演義》版本。這些畫的內容是:桃園三結義、三英戰呂布、張飛鞭打督郵、劉備招親、關公刮骨療毒等。
劉備墓:
出三義廟西行,過小橋,經桂荷樓、琴亭,進入翠竹簇擁的紅墻夾道。夾道盡處,是劉備墓。劉備墓土冢高12米,墓上綠蔭覆蓋。有一道180米長的磚墻環護著陵墓,墓前有碑和寢殿。
劉備伐吳失敗后,退駐白帝城,于公元223年四月病逝。五月,諸葛亮扶靈樞回成都,八月下葬,墓稱“惠陵”。惠陵是一座夫妻合葬墓。同時下葬的還有后主劉禪的母親甘夫人。20年后,劉備的另一位夫人吳夫人穆皇后去世,也葬于此。此墓距今1700多年,沒有發現被盜,墓中情況不詳。
在唐代段成式所作的《酉陽雜俎》中曾記載了這么一則故事:一伙盜墓賊在一個漆黑的夜晚打洞進入劉備惠陵,當他們進入墓室后,看見里面燈火輝煌,劉備正與一人下棋,十名武士侍立一側。賊人嚇得魂不附體,紛紛下跪求饒,劉備揮手示意衛士賜予玉帶和瓊漿。他們喝了瓊漿,系上玉帶,驚慌爬出洞來,回頭一看,洞口自然封好,玉帶變成了大蛇,纏住了腰,瓊漿變成膠粘住了嘴巴。據說從此再也沒有人敢動劉備墓了。
出劉備墓照壁,就來到新建的“三國文化陳列”展區。該展區由展廳和外環境兩部分組成。外環境神獸天祿、辟邪、漢宮殘柱、兵爭社稷、殘壁石刻明楊慎《臨江仙》、石刻序言等組成。展廳內分五個展區,分別是戰爭風云、農桑一瞥、民俗采風、藝林擷英、流風遺韻等。共展出文物、資料、圖片數百件。內容豐富多彩,藝術手法形象直觀,集知識性、觀賞性為一體,很值得細觀。
看完陳列,順道還可去“聽鸝館”參觀。那是一座小小的四合院,里面的盆景值得觀賞,臨時舉辦的各種展出也很有文化品味。
武侯祠導游詞3各位游客們那里是諸葛亮殿。殿的門楣楹柱上掛滿了前人留下的匾聯。其中最有名的是懸掛在諸葛亮殿正中的一聯,即“能功心則反側自消,從古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,之后治蜀要深思”。聯文是清末云南劍川人趙藩撰書。
上聯說,諸葛亮在打仗中能用“攻心”戰術,如南征時對孟獲七擒七縱,使其心悅誠服,以此稱贊諸葛亮是真正懂得用兵打仗,而不是好戰的軍事家。
下聯稱頌諸葛亮能審時度勢,制定出寬嚴得宜的法度,收到良好效果,提醒之后治理四川的人從中汲取教益。這幅對聯對諸葛亮的用兵和施政作出了客觀的評價,提出“攻心”和“審勢”兩個很有啟發性的問題,是武侯祠匾聯中的上品,也是我國名聯之一。
諸葛亮殿內,供奉著諸葛亮和他的兒子、孫子的貼金泥塑像。諸葛亮像在正中的龕臺上,他羽扇綸巾,身披金袍,凝目沉思,其憂國憂民,深謀遠慮的神采,顯示出一代儒相的風儀。諸葛亮(181—234),字孔明,山東沂南人,是中國歷史上杰出的政治家、軍事家。他年輕時隱居于襄樊隆中,因才智超群,刻苦好學,胸懷大志,得“臥龍”的美稱。經劉備三顧之請,出山鋪佐劉備,建立蜀漢;劉備死后,受托孤之重任,輔佐其子劉禪,執掌朝政,治蜀達20多年;他施行教化,嚴明賞罰,選賢任能,興修水利,發展生產,南征南中,北伐祁山,以忠貞、勤勉、廉潔和才智,換來了蜀地的安定和繁榮。史學家陳壽評論說,當時的蜀國,政治清明,民風淳正,田野開辟,倉廩充實,到處是升平景象。由于過度辛勞,他54歲時,病逝于北伐前線五丈原軍中,埋葬在陜西勉縣定軍山下,墳墓至今尚存。
諸葛亮一生做了不少勤政愛民和有益于社會進步的好事,他死后,人們十分懷念他,對他鞠躬盡瘁,死而后已的精神更是十分敬重。于是,人們便修起了一座又一座武侯祠來紀念他,還把他作為忠臣賢相的典范,智慧的化身而加以崇拜。
諸葛亮的兒子諸葛瞻、孫子諸葛尚,在蜀漢面臨存亡之時,率部與魏軍在綿竹決戰,終因寡不敵眾,為國捐軀。
諸葛亮殿內陳列有一面銅鼓,是公元五、六世紀時的文物。銅鼓,原是西南少數民族古代的炊具,從考古發現來看,早在春秋戰國時期就已經出現了。之后銅鼓逐漸演變成一種樂器、禮器,在集會、慶典時使用,也是財富和權力的象征。相傳諸葛亮南征時,曾使用過這種銅鼓,白天用來煮飯,晚上當鼓,用來報警,一物多用。因此,又稱為諸葛鼓。
在殿外的兩側廂房內,陳列著木刻詩文。西廂有毛澤東、董必武、張愛萍、方毅、周谷成、楚圖南、梁漱溟等人的墨寶共12幅,東廂為木刻的《隆中對》和《出師表》。
三義廟:
出諸葛亮殿往后,就是三義廟。三義廟因祭祀桃園三結義的劉、關、張而得名。廟始建于清康熙年間,原有四進五殿,規模宏大。現僅存拜殿、正殿,成四合院布局。三義廟本在市區中心的提督街,因城市建設的需要,1997年遷建于此。遷建工程嚴格按照國家文物法規,將原建筑構件編號拆下,運至新址按編號搭建,恢復原貌。
恢復重建的三義廟巍峨聳立,其建筑形制與劉備殿一致。屋頂為單檐硬山式,青色簡瓦覆蓋其上,結構為木石結構,抬梁式木構架,立柱及柱礎均為石質。有40根整石雕成的圓形立柱,柱徑0。5米。有24根石柱上刻對聯12副,聯文描金。正殿恢復了劉、關、張的泥塑坐像,廊房兩壁新增加十幅三國故事線描石刻畫。畫稿取自明代《三國演義》版本。這些畫的資料是:桃園三結義、三英戰呂布、張飛鞭打督郵、劉備招親、關公刮骨療毒等。
劉備墓:
出三義廟西行,過小橋,經桂荷樓、琴亭,進入翠竹簇擁的紅墻夾道。夾道盡處,是劉備墓。劉備墓土冢高12米,墓上綠蔭覆蓋。有一道180米長的磚墻環護著陵墓,墓前有碑和寢殿。
劉備伐吳失敗后,退駐白帝城,于公元220xx年四月病逝。五月,諸葛亮扶靈樞回成都,八月下葬,墓稱“惠陵”。惠陵是一座夫妻合葬墓。同時下葬的還有后主劉禪的母親甘夫人。20xx年后,劉備的另一位夫人吳夫人穆皇后去世,也葬于此。此墓距今1700多年,沒有發現被盜,墓中狀況不詳。
在唐代段成式所作的《酉陽雜俎》中曾記載了這么一則故事:一伙盜墓賊在一個漆黑的夜晚打洞進入劉備惠陵,當他們進入墓室后,看見里面燈火輝煌,劉備正與一人下棋,十名武士侍立一側。賊人嚇得魂不附體,紛紛下跪求饒,劉備揮手示意衛士賜予玉帶和瓊漿。他們喝了瓊漿,系上玉帶,驚慌爬出洞來,回頭一看,洞口自然封好,玉帶變成了大蛇,纏住了腰,瓊漿變成膠粘住了嘴巴。據說從此再也沒有人敢動劉備墓了。
出劉備墓照壁,就來到新建的“三國文化陳列”展區。該展區由展廳和外環境兩部分組成。外環境神獸天祿、辟邪、漢宮殘柱、兵爭社稷、殘壁石刻明楊慎《臨江仙》、石刻序言等組成。展廳內分五個展區,分別是戰爭風云、農桑一瞥、民俗采風、藝林擷英、流風遺韻等。共展出文物、資料、圖片數百件。資料豐富多彩,藝術手法形象直觀,集知識性、觀賞性為一體,很值得細觀。
武侯祠導游詞4現在,讓我們到三顧祠看一看。三顧祠門柱懸掛“兩表酬三顧,一對足千秋”的對聯,祠院內翠柏挺立,綠草如菌,庭院宏敞幽深,四周圍墻嵌滿碑刻,有“碑墻”之稱。祠內有關張殿,殿內立關羽、張飛貼金塑像。關羽赤面鳳眼,美髯垂胸,神安氣閑,雄姿威風,張飛面色漆黑,豹頭環眼,燕頜虎須,急不可耐。要說起這個張飛啊,他就不是搞政治的,沒象劉備這樣有政治家的遠見,看不到諸葛亮這個人才的價值。
一顧茅廬時沒有見到孔明,他說“既不見,自歸去便了。”也沒有發什么牢騷,表現還算一般,說得過去。到劉備準備二顧時,張飛說:“量一村夫,何必哥哥自去,可使人喚來便了。”遭到劉備的呵斥,差點不讓他去。沒想到第二次哥仁又吃了閉門羹,到第三次劉備還要去時,他再也忍不住了,說“今番不需哥哥去,他如不來,我只用一條麻繩縛將來!”要是依他的主意,用麻繩把諸葛亮綁來見劉備,那會是什么結果!
“三顧堂”.位于關張殿后,相傳達里就是劉備三次求訪孔明的地方。殿內有劉備、諸葛亮對話的塑像,二人分賓主而坐,書童侍立側旁,形象逼真,栩栩如生,再現了備亮當時縱論天下時的情景。你看那神機妙算的諳葛亮,面目清秀,衣著古雅,含而不露的面孔上略帶有幾分笑意,給人一種溫文爾雅,謀略在胸,穩操勝券的感覺,他正意氣風發,侃侃而談;再看劉備,正在畢恭畢敬地洗耳恭聽呢。我們一眼就能看出他那如饑似渴,謙遜恭敬的內心世界。當時的劉備,以自己是漢室后裔,打著正統的旗號,請求國家統一,他四海飄零,奔走了二十多年,先后投曹操,奔袁紹,附劉表,終因勢單力薄,一事無成,敗居新野,難籌大志,但仍雄心勃勃,四處訪賢。后來,經徐庶舉薦,得知諸葛亮的大名之后,就冒著嚴寒,詞謙禮恭,親自由新野到南陽支產三次恭請,大有商湯請伊尹、文王栽太公的誠心與胸懷,迫切而又熱情地邀請諸葛亮出山輔佐自己,諸葛亮見他求賢若渴,志向遠大,就答應了他的要求。
正如唐代李白詩中寫的那樣:“魚水三顧合,風云四海生。武侯立眠蜀,壯志吞咸京。”明陳正倫《臥龍崗》詩云:“君臣一晤交投厚,宇宙三分割據雄”。三顧晤對真可以說是一次歷史性的會談,可以毫不夸張地說,千軍易得,一將難求,劉備能夠建立西蜀霸業,關鍵是得到了諸葛亮這個智囊人物。
大家看三顧堂里的這組雕塑,不正是“智能之土,思得名君”,“名君圣主,求賢用能”的贊歌嗎?我們今天參觀的諸葛草廬,不僅是諸葛亮隱居躬耕的地方,也是諸葛亮政治、軍事思想形成的地方,是“三分天下”的策源之地,是劉備、諸葛亮三顧而合,如魚得水的場所,因此歷朝歷代,這里也就成了人們紀念諸葛亮的重要場所。武侯祠里的人物塑像,個個性格鮮明,惟妙惟肖,內心世界,各具其妙。
武侯祠導游詞5各位游客:
大家好!
從山門跨進武侯祠,叢竹簇簇,松柏森森,翠柳青青,潭水粼粼,景色優美宜人,眼前的香爐里煙霧繚繞,仿佛能帶人一覽三國鼎立的場面o繞過香爐拾級而上,進入了一處靜謐的院落o院子內古木交錯,花卉滿庭o一棵棵百年大樹就像忠心耿耿的士卒守衛著庭院,將庭院的氣氛裝飾得更加神秘o大拜殿是人們祭祀孔明先生的地方,殿內塑著孔明端坐的正面像,他羽扇綸巾,風度莊嚴o地上的蒲團上跪著祈福的人們,虔誠地祈求孔明的庇護o殿堂的柱子上掛滿了歷代名人撰寫的對聯o這些對聯無不包含著人們對孔明先生的敬重和仰慕之情,我閉上眼睛,好像看到了孔明先生手搖羽扇,為劉備出謀劃策的情景o,大殿后,翠竹叢中簇擁著蓬松如傘、古樸美觀的茅廬o茅廬正門上懸掛著“諸葛草廬”的匾額o據說,這是諸葛孔明當年隱居的地方o諸葛草廬左側是野云庵,右側為古柏亭,是諸葛孔明會友讀書之處o在這淡雅氣息的籠罩中,我腦中又浮現出“三顧茅廬”的畫面……
武侯祠之游,給我留下頗深印象的要數那些碑刻、牌匾和楹聯,這一切,使武侯祠彰顯豐富的文化內涵,閃爍著中國古老文化的燦爛光輝o,領略過武侯祠的莊嚴和神韻,我更加確信,南陽兒女今天創造的輝煌,在若干年后,也定會成為巍峨的豐碑!
武侯祠導游詞620xx年12月,原成都市南郊公園合并為武侯祠園林區。南郊公園原系民國時期四川省主席、抗戰時期第七戰區司令長官劉湘墓園。始建于1938年至1942年,400米的中軸線縱貫南北,石牌坊大門、三洞門、四方亭、薦馨堂、墓室等,是西南地區惟一一座北方陵園建筑群。在武侯祠的發展規劃中,西區將打造成三國文化的傳播體驗中心。
1953年經修整辟為公園,依次建有浮雕式石牌坊大門、旌忠門、碑亭、薦馨堂、劉湘墓等建筑。武侯祠東側的錦里由武侯祠博物館恢復修建,錦里為清末民初建筑風格的古街。它依托武侯祠,擴展了三國文化的外延,并融入川西民風、民俗,集吃、住、行、游、購、娛于一體,成為成都文化旅游的新亮點。
現緊鄰武侯祠的“錦里”古街由成都武侯祠博物館斥資復建,為“全國文化產業示范基地”。錦里作為武侯祠博物館(三國歷史遺跡區、錦里民俗區、西區)的一部分,占地30000余平方米,建筑面積14000余平方米,街道全長550米。建筑以清末民初四川民居風格為基礎,內容以三國文化和四川傳統民俗文化為內涵。錦里于20xx年10月正式對外開放;其延伸段于20xx年1月開肆,錦里延伸段大膽將活水引入循環,形成“水岸錦里”的新景觀。“拜武侯,泡錦里”已成為成都旅游最具號召力的響亮口號之一。
傳說錦里曾是西蜀歷史上最古老、最具有商業氣息的街道之一,早在秦漢、三國時期便聞名全國。今天的錦里依托成都武侯祠,以秦漢、三國精神為靈魂,明、清風貌作外表,川西民風、民俗作內容,擴大了三國文化的外延。在這條街上,濃縮了成都生活的精華:有茶樓、客棧、酒樓、酒吧、戲臺、風味小吃、工藝品、土特產,充分展現了四川民風民俗的獨特魅力。
匾額為“漢昭烈廟”。大門內濃蔭叢中,矗立著六通石碑,兩側各有一碑廊,其中最大的一通在東側碑廊內,唐代“蜀漢丞相諸葛武侯祠堂碑”,唐憲宗元和四年(公元809年)立,有很高的文物價值,為國家一級文物,因文章、書法、刻技俱精被稱為“三絕碑”。唐朝著名宰相裴度撰碑文,書法家柳公綽(柳公權之兄)書寫,名匠魯建刻字,都出自名家,因此被后世稱為三絕碑。碑文對諸葛亮的一生,作了重點褒評;竭力贊頌諸葛亮的高風亮節,文治武功,并以此激勵唐代的執政者。碑文特別褒獎諸葛亮的法治思想,馬謖因失街亭被諸葛亮依法處斬,臨刑,馬謖哭著表示自己死而無怨。李嚴與廖立,兩人都是被諸葛亮削職流放的罪人,但他們也自甘服罪。當他們得知諸葛亮病逝,“聞之痛之,或泣或絕”。這些均屬史實,裴度據史褒評,令人信服碑文通篇辭句甚切,文筆酣暢,使人百讀不厭。諸葛亮之所以為后人所敬仰,還因為他有著高尚的思想和作風,不利用職權謀私。
二門之后是劉備殿,又名昭烈廟。入武侯祠正門,即可見到氣勢恢宏的昭烈廟。昭烈廟為單檐歇山式建筑。正中有劉備貼金塑像,高3米,儀容豐滿莊重,耳大垂肩。左側陪祀的是他的孫子北地王劉諶像。劉備像側原有其子蜀漢后主劉禪像,因劉禪昏庸無能,不能守基業,喪權辱國,宋真宗時被四川地方官撤除,后來就沒有再塑。在蜀漢后主劉禪降魏時其子劉諶到劉備墓前哭拜,殺掉家人后自殺身亡。兩側偏殿,東有關羽父子和周倉塑像,西有張飛祖孫三代塑像,表現了關、張兩人的不同外貌和不同性格,又反映了他倆武藝超群、勇猛過人的共同特征。兩側東、西廊房分別塑有蜀漢文臣、武將坐像各十四尊。東側文臣廊坊以龐統為首,西側武將廊房以趙云領銜。每個塑像如真人大小,像前立有一通小石碑,刊其姓名、生平,便于游人了解。這些塑像,個個氣宇軒昂,形神兼備,反映了我國清代民間藝人的高超泥塑技藝。昭烈廟正殿西壁掛有據說為岳飛所書《出師表》木刻,東壁為現代書法家沈尹默書《隆中對》木刻。
諸葛亮殿西側是劉備墓,史稱“惠陵”。由諸葛亮親選寶地,葬劉備于此。《三國志·先主傳》記載:“八月,葬惠陵”。據《謚法》,“愛民好與,曰‘惠’”,故名劉備墓稱“惠陵”。陵墓中還合葬有劉備的甘、吳二位夫人。劉備墓前有清乾隆年間所立“漢昭烈皇帝之陵”石碑,陵墓建筑由照壁、柵欄門、神道、寢殿等組成。陵前有規模較小的神道為清代所建。惠陵與武侯祠主要建筑一樣亦為坐北朝南,緊鄰在漢昭烈廟與武侯祠西側。與武侯祠之間有紅墻夾道相連。
成都武侯祠的字畫、對聯甚多,其中的現代書法家沈尹默書寫的《隆中對》最引人注目。武侯祠還有岳飛手書的諸葛亮《出師表》刻石(歷來對此的真偽存有爭議,有一種說法,此前、后兩表實際上是明代士人白麟偽托岳飛之名所書)。
劉備殿后,下數節臺階(武侯祠低于漢昭烈廟,象征古代君臣關系),是一座過廳,掛有“武侯祠”匾額。武侯祠是紀念三國時蜀漢丞相武鄉侯諸葛亮的祠堂,諸葛亮生前封“武鄉侯”,死后謚號“忠武”,故紀念他的祠堂稱作“武侯祠”。諸葛亮殿懸“名垂宇宙”匾額,兩側為清人趙藩撰書“攻心”聯:“能攻心則反側自消,自古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,后來治蜀要深思。”的聯文,是頗負盛名的一副對聯,借對諸葛亮、蜀漢政權及劉璋政權的成敗得失的分析總結,提醒后人在治蜀、治國時借鑒前人的經驗教訓,要特別注意“攻心”和“審勢”。正殿中供奉著諸葛亮祖孫三代的塑像。殿內正中有諸葛亮頭戴綸巾、手執羽扇的貼金塑像,像前的三面銅鼓相傳是諸葛亮帶兵南征時制作,人稱“諸葛鼓”。鼓上有精致的`圖案花紋,為珍貴的歷史文物。大殿頂梁由烏木制成,上書諸葛亮寫給兒子諸葛瞻《誡子書》中“非澹泊無以明志,非寧靜無以致遠”(不看輕世俗的名利就不能明確自己的志向,不是身心寧靜就不能實現遠大的理想)。諸葛瞻及其子尚在綿竹抗擊魏將鄧艾的戰斗中不幸身亡。
惠陵,武侯祠里,蜀國的重要人物都有塑像。其中,劉備、諸葛亮、關羽和張飛,都有專殿,其余的重要文官與武將,則分別塑在文武廊。東邊是文官廊,西邊是武將廊。
左右兩廊各有文臣武將十四員,合計共二十八名文武。東府文官廊以龐統為首,其次為簡雍、呂凱、傅肜、費祎、董和、鄧芝、陳震、蔣琬、董允、秦宓、楊洪、馬良及程畿;西府武將廊則以趙云為首,依次為孫乾、張翼、馬超、王平、姜維、黃忠、廖化、向寵、傅僉、馬忠、張嶷、張南及馮習。
三義廟現,初名三義祠,清康熙初年由四川提督鄭蛟麟始建。乾隆四十九年(1784)因焚香引起大火被毀,乾隆四十九年(1787)重建,道光二十二年(1842)又曾全面修葺。現在所見建筑和匾聯主要是道光年間的遺存。其建筑為混合結構,面積569㎡,四造五殿,規模宏大。后漸坍圮,僅存少量建筑尚完好,1981年被公布為成都市市級文物保護單位。1998年,因城建需要三義廟由提督街遷建到武侯祠內。
三絕碑,本名蜀丞相諸葛武侯祠堂碑。在武侯祠大門至二門之間的東側碑亭中。碑高367厘米,寬95厘米,厚25厘米、唐憲宗元和四年(809年)刻建。由唐代宰相裴度撰文,書法家柳公綽(柳公權之兄)書寫,石工魯建鐫刻。裴文、柳書、魯刻,三者俱佳,所以后世譽為三絕碑。一說三絕指諸葛亮的功績、裴度的文章、柳公綽的書法。碑陽、碑陰、碑側遍刻唐、宋、明、清時代的題詩、題名、跋語。
成都武侯祠現分文物區、園林區和錦里三部分,面積230畝(15萬平方米)。根據武侯祠新的規劃內容,武侯祠將對這三個區域進行更加合理的功能區劃,分為三國歷史遺跡區、錦里民俗區、三國文化體驗區三大板塊。
武侯祠同漢昭烈廟、劉備墓(惠陵)相毗連。整個武侯祠坐北朝南,主體建筑大門,二門,漢昭烈廟,過廳,武侯祠五重建筑,嚴格排列在從南到北的一條中軸線上。以劉備殿最高,建筑最為雄偉壯麗。武侯祠后還有三義廟、結義樓等建筑。
文物區主要由惠陵、漢昭烈廟和武侯祠三部分組成,祠廟現存主體建筑(除惠陵)均為清康熙十一年(公元1672年)重建,坐北朝南,排列在一條中軸線上,依次為大門、二門、漢昭烈廟、過廳、武侯祠以及遷建的三義廟和新建的結義樓,共七重。祠內供奉劉備、諸葛亮等蜀漢英雄塑像50余尊,唐及后代碑刻50余通,匾額、楹聯70多塊,尤以唐“三絕碑”、清“攻心”聯最為著名。
武侯祠導游詞7各位游客:
剛才我們游覽了武侯祠中的劉備殿以及文臣武將廊,現在我們來到了諸葛亮殿,這里才是真正紀念諸葛亮丞相的武侯祠。
請大家注意,現在我們要下一級臺階。為什么要下這級臺階呢?原來這是古代君尊臣卑觀念的體現。武侯祠是君臣合廟,劉備廟在前,諸葛亮武侯祠在后,于禮制不合,所以人們在建造武侯祠時,就有意將諸葛亮殿建低一個臺階,以突出劉備作為一國之君的崇高地位。
現在我們將穿過過廳。請注意過廳兩側懸掛的匾額、對聯和繪畫,它們大多出自董必武、郭沫若、徐悲鴻、沙孟海、張愛萍等名人名家之手。
請看這副對聯:能攻心則反側自消,從古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,后來治蜀要深思。這就是聞名全國的攻心對,也是武侯祠對聯中的精品。我們知道,自古以來天下未亂蜀先亂,天下已治蜀未治。如何才能治理好四川呢?攻心和審勢就是最好的答案。
對聯的作者是清末云南劍川縣人趙藩。上聯是說諸葛亮出兵平定南中叛亂時,采用馬謖建議,實行攻心戰術,對夷帥孟獲七擒七縱,使其心悅誠服,從此不再反叛。稱贊諸葛亮是真正懂得用兵打仗的人,而不是好戰的軍事家。下聯稱贊諸葛亮能審時度勢,制定出寬嚴得宜的法度,收到良好的效果,提醒后人從中吸取教益。這副對聯對諸葛亮用兵和施政作出了客觀的評價,提出了攻心和審勢兩個很有啟發性的問題,是古代治國方略的精髓所在。
現在請大家隨我進入諸葛亮殿。請看,坐在龕臺正中的塑像就是被譽為智慧化身的蜀漢丞相諸葛亮。他頭戴綸(guan)巾,身披金袍(古稱鶴氅),手執羽扇,凝目沉思,一副憂國憂民、深謀遠慮的神采,顯示出一代儒相的風儀。
諸葛亮(公元181234年)字孔明,瑯琊郡陽都縣(今山東沂南縣)人。是中國歷史上杰出的政治家和軍事家。諸葛亮年輕時隱居于荊州襄陽(今襄樊)隆中,因胸懷大志,刻苦好學,才智出眾,得到臥龍的美稱。
公元207年劉備在荊州訪賢,劉備三顧茅廬,感動了諸葛亮。諸葛亮為劉備分析天下形勢,制定了一條占有荊(今湖北)、益(今四川)二州,東聯孫權,北抗曹魏的國策,史稱隆中對。三顧茅廬后,諸葛亮被劉備拜為軍師,從此跟隨劉備,取得了赤壁之戰、奪取益州等戰役的勝利。蜀國創建后,被任命為丞相。劉備死后,在奉節白帝城受托孤重任,輔助后主劉禪,執掌了蜀漢朝政。
諸葛亮治蜀達20多年,主要政績有:以法治蜀;南征南中;北伐曹魏。公元234年,諸葛亮由于長期勞累,不幸早逝于北伐前線的武功五丈原,死的時候才54歲,真是出師未捷身先死,常使英雄淚滿襟。
諸葛亮一生做了大量有益于社會進步和勤政愛民的好事。他死后,人們十分懷念他,尤其敬重他鞠躬盡瘁、死而后已的精神,把他作為忠臣賢相的典范和智慧的化身加以崇拜,修了一座又一座武侯祠來紀念他。
請看諸葛亮兩邊的塑像,左邊的是諸葛亮兒子諸葛瞻,右邊是孫子諸葛尚。他們在公元263年曹魏滅蜀時,率部與魏軍奮戰,終因寡不敵眾,在綿竹陣亡。諸葛亮子孫三代,人稱三世忠貞。
請大家看殿內陳列的這面銅鼓。相傳諸葛亮南征時曾使用過這種銅鼓,所以它又被稱為諸葛鼓。
各位游客,諸葛亮殿兩側廂房內,是諸葛亮事跡陳列室,有大量反映諸葛亮事跡的圖片資料,請大家隨意參觀。十分鐘后我再帶大家一起去看看先主劉備的陵墓惠陵。
武侯祠導游詞8各位游客:
你們好,歡迎你們來到旅游,我是你們的導游xxx。
成都武侯祠,位于四川省成都市南門武侯祠大街,是中國唯一的君臣合祀祠廟,由武侯祠、漢昭烈廟及惠陵組成,人們習慣將三者統稱為武侯祠。成都武侯祠始建于公元223年修建惠陵(劉備的陵寢)之時,其中,武侯祠(諸葛亮的專祠)建于唐以前,初與祭祀劉備(漢昭烈帝)的漢昭烈廟相鄰,明朝初年重建時將武侯祠并入,形成了君臣合祀,祠堂與陵園合一的格局。除惠陵以外現存祠廟主體建筑為1672年清康熙年間復建。1961年成都武侯祠被國務院公布為第一批全國重點文物保護單位。
1984年成立博物館,2008年被評為首批國家一級博物館,享有“三國圣地”之美譽。成都武侯祠博物館現分為三國歷史遺跡區(文物區)、西區(三國文化體驗區)、錦里民俗區(錦里)三大板塊,面積15萬平方米。2006年武侯祠被評為國家AAAA級旅游景區,是全世界影響最大的三國遺跡博物館。
惠陵、漢昭烈廟始建于蜀漢章武三年(223年),武侯祠由成漢李雄(303—334年在位)所建,最初位于成都少城。南北朝時武侯祠遷入。明初時惠陵、漢昭烈廟、武侯祠合并,并將劉備、諸葛亮合祀一殿,蜀人習慣將三者統稱為武侯祠。武侯祠現存的建筑是清康熙十一年(1672年)所建。
武侯祠分為前后兩殿,形成昭烈廟(昭烈殿、劉備殿)在前,武侯祠(忠武殿、諸葛亮殿)在后,前高后低的格局。東西偏殿中有關羽、張飛雕像。東西兩廊分別為文武廊房,塑有文武官雕像28座,殿內外還有許多匾聯,其中以清趙藩的攻心聯最為著名:“能攻心則反側自消,從古知兵非好戰。不審勢即寬嚴皆誤,后來治蜀要深思。”武侯祠大門后柏叢中有6塊石碑,由唐宰相裴度撰文、柳公綽書寫、石匠魯建刻字,為后世稱為“三絕碑”。武侯祠內柏樹眾多,氣氛莊嚴、肅穆。
武侯祠導游詞9各位游客朋友們:
大家好,歡迎來到成都武侯祠博物館參觀游覽,我是講解員小周,希望。首先讓我們來看這幅平面圖,成都武侯祠位于成都市區南面,占地面積15萬平方米,大約210多畝,這里是最富盛名的諸葛亮、劉備等蜀漢英雄紀念地,全國唯一的一座君臣合祀祠廟,可以說是全中國乃至全世界,影響力最大的三國遺跡博物館,享有“三國圣地”只美譽。1961年被國務院評為第一批重點文物保護單位,1984年正式成立博物館,于2006年被國家旅游局評為4A級景區,2008年又被國家文物局評為首批國家一級博物館。
根據武侯祠新的規劃呢,現在將武侯祠分為三個區域,分別是三國歷史遺跡區,錦里民俗區,以及正在打造的西區——三國文化體驗區,今天帶大家參觀的部分是三國歷史遺跡區,我們的游覽順序是:從大門進入后,依次參觀游覽二門,漢昭烈廟,過廳,武侯祠,以及近幾年遷建的進來的三義廟,最后,通過紅墻夾道到達惠陵,游覽時間大約1個小時。
武侯祠始建于公元223年,距今已經有1788年的歷史了,當時因為蜀漢皇帝劉備去世,下葬于惠陵,按照漢朝的陵寢制度,有陵必有廟,所以在惠陵旁邊修建了紀念劉備的漢昭烈廟。由于諸葛亮和劉備的關系如魚和水,密不可分,大約在南北朝的時候,又將成都少城內紀念諸葛亮一家的武侯祠遷建到了漢昭烈廟旁邊。
在明朝初年,朱元璋的第十一個兒子蜀獻王朱椿為了突出君權,下令拆掉武侯祠,將武侯祠并入于漢昭烈廟內,使兩廟合二為一。明朝末年,張獻忠兵敗四川,對四川進行了毀滅性的打擊,武侯祠祠廟荒廢,但惟獨惠陵保存完好。今天我們所看到的這座祠廟,是在清康熙11年既公元1672年在原址上重建的,前殿為紀念劉備及蜀漢文臣武將的漢昭烈廟,后殿才是真正意義上紀念諸葛亮的武侯祠,正是因為這樣的建筑格局,是的成都武侯祠成為了全國唯一的一座君臣合祀祠廟。
初游武侯祠的朋友常常會問小周這樣一個問題,這剛才進來時,大門上明明懸掛著“漢昭烈廟”的牌匾,漢,是劉備見過時的國號,史稱“蜀漢”。昭烈,是劉備死后的溢號。顧名思義,這里是祭祀蜀國皇帝劉備的廟宇。既然如此,人們為什么又稱之為武侯祠呢?民國年間的鄒魯寫的一首詩,道出了其中的緣由:“門額大書昭烈廟,世人都道武侯祠。由來名位輸勛業,丞相功高百代思”由此可知,是世人對諸葛亮為國為民,鞠躬盡瘁的精神十分崇敬,總是習慣了把這個地方叫做武侯祠。
從唐代開始,碑刻藝術就成為了武侯祠的一大文化特色,武侯祠現存碑碣50余通,分別鐫刻于唐代,明代、清代以及近現代,其中以我們前方的這通唐碑最具代表性,它是選用石質較為堅硬細膩的硤石所鑿刻而成,碑身高3.67米,寬0.95米,全名為《蜀臣相諸葛武侯祠堂碑》。碑文分為銘和序,正楷22行,每行大約50個字。
唐碑立于唐憲宗元和四年,也就是公園809年,劍南西川節度使武元衡率領27位僚屬來到武侯祠拜謁,令節度府掌書記裴度撰寫碑文,裴度,字中立,是一位非常有才華的人,先后輔佐了唐代的四個皇帝也是唐代中后期的中興名相。他在碑文部分表達了自己對諸葛亮的崇敬仰慕之情,文章序文部分開始便寫到:度常讀舊史,詳求往哲,或秉事君之節,無開國之才,得立身之道,無治人之術,四者備矣,兼而行之,則蜀丞相諸葛公其人也。
意思是說我裴度讀前代的史書,詳盡的搜羅了前賢先哲的行事,有的具備臣子對待君主的氣節,但是沒有開創國家的能力,有的深得立身處世的道理,但是沒有治理民眾管理官吏的辦法,如果說有誰兼備這四種美德,并能運用它來實現自己的政治抱負,那么就只有蜀國丞相諸葛亮了。
武侯祠導游詞10中國文明史有五千多年,而三國時代是其中很短卻又很精彩的一段。歷史學家認為,三國時代僅45年,是從曹魏取代漢朝到司馬氏取代魏建立晉朝,即公元220—265年。一般人則認為應從漢末黃巾農民起義至三家歸晉(公元184—280年),前后近百年。三國時代的得名,是因當時神州大地上并存著三個地方政權。這三個政權是:曹操和他的兒子曹丕建立的魏國,占據黃河流域大片土地,建都洛陽;孫權建立的吳國,占據長江中下游等地,建都南京;劉備建立的蜀國,占據四川、云南、貴州等地,建都成都。武侯祠是紀念三國蜀國丞相諸葛亮的祠堂。諸葛亮生前封武鄉侯,死后溢號忠武侯,后人便尊稱他為武侯。
武侯祠始建于何時,已經沒有資料可考了。但從杜甫《蜀相》詩的描寫“丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森”來推斷,早在唐代以前,就已經建有武侯祠了。在唐、宋時代,這里分別有武侯祠和劉備廟;明代初年,祠廟合并為一;明末,祠廟毀于戰亂。今天看到的武侯祠,是清代康熙十一年(公元1672年)在舊址上重建的。大門懸掛著“漢昭烈廟”的橫匾。
漢,是劉備政權的稱號,史稱“蜀漢”。昭烈,是劉備死后的溢號。匾額說明,這里是祭祀蜀國皇帝劉備的廟宇。既然如此,人們為什么又稱之為武侯祠呢?民國年間的鄒魯寫的一首詩,道出了其中的緣由:“門額大書昭烈廟,世人都道武侯祠。由來名位輸勛業,丞相功高百代思”。也就是說,因為諸葛亮的歷史功績大,他在百姓心中的威望超過了劉備,人們就不顧君尊臣卑的禮儀和這座祠廟本來的名稱了。
從大門左側簡介和平面示意圖上看到,武侯祠掩映在森森翠柏中,殿宇坐北向南,布列在一條中軸線上,有大門、二門、劉備殿、過廳、諸葛亮殿五重,西側為劉備陵園。祠內有蜀漢歷史人物泥塑像47尊,碑碣50多塊,匾聯60多幅,鼎、爐、鐘、鼓10余件。因此,確切地講,武侯祠應該稱作蜀國君臣紀念堂。它是研究蜀漢歷史的一座博物館。
“三絕碑”大門到二門道路的兩側,立有六通高大的石碑。其中四通為清代刻建,一通為明代刻建,一通為唐代刻建。清碑記載了祠廟重建和維修的情況;明碑著重介紹了祠廟的歷史沿革。這通唐碑最負盛名,被稱為“三絕碑”,高3.67米,是唐憲宗元和四年(公元809年),劍南西川節度使武元衡率其僚屬27人,來武侯祠祭拜諸葛亮后刻建的。由裴度撰文,文中極力稱頌諸葛亮治蜀的文治武功,對他鞠躬盡瘁、力圖統一的精神給予了很高的評價,把他比作前代名臣管仲、曼嬰、蕭何、張良。裴度有文才,曾任三朝宰相。柳公綽書法漂亮,是唐代大書法家柳公權之兄。名工匠魯建鐫刻。因此,自明代中葉,此碑就因其文章、書法精湛和諸葛亮的蓋世功德而被譽為“三絕碑”。
“劉備殿”二門內是蜀漢皇帝劉備殿。殿的正中,供奉著劉備的貼金泥塑坐像,兩側偏殿,分別供奉著關羽、張飛等人,與殿相接的東西兩廊,是蜀國的28位文臣武將的彩繪泥塑像。劉備像高3米,頭戴天平冕冠,身著黃袍,手捧朝天圭玉,寬面大耳,神態靜穆。左右侍者,一捧玉璽,一捧寶劍。
劉備(161—223),字玄德,河北琢州人。24歲時,他召集關羽、張飛等人參加鎮壓黃巾農民起義,后來在軍閥混戰中逐漸壯大了勢力。由于缺乏謀臣,他在軍閥混戰中屢遭挫敗,流離失所,先后依附于呂布、曹操、袁紹、劉表。他三顧茅廬,拜諸葛亮為軍師,赤壁大戰后,勢力才得到發展。劉備胸懷大志,注重信義,待人寬厚。經過二十多年的艱苦征戰,最后占據益州,于公元221年在成都稱帝。不久,為奪回荊州,替關羽報仇,他興師伐吳。結果,劉備被吳國陸遜火燒連營,遭到慘敗,羞憤病死于白帝城(奉節)。臨終前,他把幼子劉禪(小名阿斗)和國事托付給諸葛亮,史稱“白帝城托孤”。
在劉備像東側,是劉備之孫劉諶的塑像。劉諶是劉禪的第五子,封北地王。在魏國鄧艾軍隊進逼成都時,他苦諫父親,同來敵決一死戰,與國家共存亡。但劉禪不聽。他悲憤已極,去祖廟哭訴后,先殺妻子,而后自殺。他的以死殉國的精神受到后人頌揚。劉備像西側原有劉禪的像,由于他不能保住父業,投降了魏國,當上安樂公后“樂不思蜀”,不知亡國之恥,在宋代,他的像就被毀掉,自此沒有再塑。正殿的兩壁,懸掛著木刻的《先主傳》、《后主傳》,傳文錄自陳壽史書《三國志》。蜀國的興亡,可從劉備、劉禪傳中了解始末。東偏殿內是關羽及其子關平、關興、部將周倉、趙累的塑像。關羽像高2米多,頭戴冕旒,紅臉,丹鳳眼,臥蠶眉,兩眼半瞇半閉,美髯垂胸,身著金袍,手執象簡,一付帝王打扮神靈面孔。關羽(?一219),字云長。他與張飛是最早追隨劉備南征北戰的猛將,號稱“熊虎之將”。他倆與劉備恩若兄弟,情同手足,因此衍生了“桃園三結義”的故事。關羽曾被曹操俘獲,在曹操封官加爵的拉攏下,仍然效忠劉備。劉備得荊州后委任關羽鎮守。在荊州,他曾發動攻勢,水淹襄樊,活捉曹軍大將于禁,斬殺龐德,威震華夏。最后,因驕傲輕敵,被東吳將領呂蒙偷襲,與關平、趙累等人同時遇害,丟失了荊州。陳壽《三國志》評論他“傲大夫而親士卒”,傲慢輕敵是導致他失敗和被殺的重要原因。歷代統治者對關羽十分推崇,使他成了“忠義”的化身。在宋代,他被迫封為王,到了明清時代,加封為關圣大帝,詔令全國各地修廟祭祀。因此,這里的關羽像也成了帝王打扮。
西偏殿是張飛祖孫三代的塑像。張飛面色漆黑,豹頭環眼,燕頷虎須,像貌威猛而有生氣。張飛(?一221),字益德。《三國演義》稱“翼德”。他早年追隨劉備打天下,勇猛善戰,是三國時代的一員虎將。劉備在當陽長阪坡被曹操打敗,張飛領20多人在后面阻擊。曹兵來時,他立馬橫槍站在橋頭,大吼一聲。說:“我是張益德,誰敢來決一死戰!”曹軍居然不敢過橋。民間傳說他的吼聲嚇退了曹操的百萬大軍,橋下河水也為之倒流。張飛常常無故鞭打部下,因此被部將張達、范強暗害。陳壽《三國志》評論他“尊君子而不恤小人”。他不關心群眾,不尊重下級,也遭到失敗。
武將廊內有蜀漢著名將領14位。他們或因戰功卓著,或因戰死沙場,被立像表彰。趙云居于武將之首,他是一員智勇雙全的將領。在當陽長阪坡,他只身在曹軍重圍中沖殺,保護了幼主劉禪。在漢中爭奪戰中,他憑膽識,殺退曹軍,劉備稱他“一身都是膽”。其他著名將領還有馬超、姜維、黃忠等。馬超武藝高強,當他還是一支獨立勢力時,曾在潼關大敗曹操,弄得曹操割須棄袍,狼狽不堪。曹操曾說:“馬兒不死,吾無葬身之地!”后來他戰敗失勢,歸降劉備,被封為五虎上將。姜維本是魏國一名小將,諸葛亮首次出祁山攻打曹魏時將他收降。因忠于蜀漢,文武雙全,受到器重。諸葛亮死后,他擔負起蜀國的軍事重任。曾九伐中原,力圖完成諸葛亮“興復漢室”的遺志。黃忠,也是蜀國的五虎上將,他老當益壯,征戰中總是身先士卒,勇冠三軍。
文臣廊內也有塑像14尊。這14位蜀國官吏有才有識、為官清正。董允直言敢諫,后主劉禪也畏懼他三分。鄧芝不僅在“東聯孫吳北巨曹魏”戰略上立下功勞,而且終身不置私產,臨死的家無余財,可算是清正廉潔。蔣琬、費韋,是諸葛亮臨終時向劉禪推薦的兩位丞相繼位人。二人才干雖不及諸葛亮,但能忠實執行諸葛亮的政策,在執政期間,均能保住蜀國的安定和繁榮。居于文臣之首的是龐統。龐統才思敏捷,博學多智,年輕時得“鳳雛”的稱號,與諸葛亮齊名。開始并不為劉備所賞識,經過魯肅和諸葛亮的竭力推薦,又親自與他交談時政后,方受到重用。不幸在入蜀攻打雒城(現廣漢市)的戰役中被亂箭射死,年僅36歲。
出劉備殿,低一個臺階,就是過廳。為什么要低一個臺階呢?這是當時封建社會君尊臣卑等級觀念的體現。
過廳懸掛著董必武、郭沫若、馮玉祥、徐悲鴻、舒同等人撰書的匾額對聯。
“諸葛亮殿”出過廳,就是諸葛亮殿。殿的門楣楹柱上掛滿了前人留下的匾聯。其中最有名的是懸掛在諸葛亮殿正中的一聯,即“能功心則反側自消,從古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,后來治蜀要深思”。聯文是清末云南劍川人趙藩撰書。上聯說,諸葛亮在打仗中能用“攻心”戰術,如南征時對孟獲七擒七縱,使其心悅誠服,以此稱贊諸葛亮是真正懂得用兵打仗,而不是好戰的軍事家。下聯稱頌諸葛亮能審時度勢,制定出寬嚴得宜的法度,收到良好效果,提醒后來治理四川的人從中汲取教益。這幅對聯對諸葛亮的用兵和施政作出了客觀的評價,提出“攻心”和“審勢”兩個很有啟發性的問題,是武侯祠匾聯中的上品,也是我國名聯之一。
諸葛亮殿內,供奉著諸葛亮和他的兒子、孫子的貼金泥塑像。諸葛亮像在正中的龕臺上,他羽扇綸巾,身披金袍,凝目沉思,其憂國憂民,深謀遠慮的神采,顯示出一代儒相的風儀。諸葛亮(181—234),字孔明,山東沂南人,是中國歷史上杰出的政治家、軍事家。他年輕時隱居于襄樊隆中,因才智超群,刻苦好學,胸懷大志,得“臥龍”的美稱。經劉備三顧之請,拜為軍師。他先鋪佐劉備,創建蜀國;劉備死后,受托孤之重任,輔佐其子劉禪,執掌朝政,治蜀達20多年;他施行教化,嚴明賞罰,選賢任能,興修水利,發展生產,南征至滇池,北伐出祁山,以忠貞、勤勉、廉潔和才智,換來了蜀地的安定和繁榮。史學家陳壽評論說,當時的蜀國,政治清明,民風淳正,田野開辟,倉廩充實,到處是升平景象。由于過度辛勞,他54歲時,病逝于北伐前線五丈原軍中,埋葬在陜西勉縣定軍山下,墳墓至今尚存。
諸葛亮一生做了有益于社會進步和勤政愛民的好事,他死后,人們十分懷念他,對他鞠躬盡瘁,死而后已的精神更是非常敬重。于是,人們便修起了一座又一座武侯祠來紀念他,還把他作為忠臣賢相的典范,智慧的化身而加以崇拜。諸葛亮的兒子諸葛瞻、孫子諸葛尚,在蜀國面臨存亡之時,率部與魏軍奮戰,終因寡不敵眾,為國捐軀。
諸葛亮殿內陳列有一面銅鼓,是公元五、六世紀時的文物。銅鼓,原是西南兄弟民族古代的炊具,后來逐漸演變成一種樂器、禮器,在集會、慶典時使用,表示富有。相傳諸葛亮南征時,曾使用過這種銅鼓,白天用來煮飯,晚上當鼓,用來報警,一物多用。所以,又稱為諸葛鼓。
“三義廟”在殿內的兩側廂房內,陳列著木刻詩文。西廂有毛澤東、董必武、張愛萍、方毅、周谷成、楚圖南、梁漱溟等人的墨寶共12幅,東廂為木刻的《隆中對》和《出師表》。
出諸葛亮殿,就是三義廟。三義廟因祭祀桃園三結義的劉、關、張而得名。廟始建于清康熙年間,原有四進五殿,規模宏大。現僅存拜殿、正殿,成四合院布局。三義廟本在市區中心的提督街,因城市建設的需要,1997年遷建于此。遷建工程嚴格按照國家文物法規,將原建筑構件編號拆下,運至新址按編號搭建,恢復原貌。
恢復重建的三義廟巍峨聳立,其建筑形制與劉備殿一致。屋頂為單檐硬山式,青色簡瓦覆蓋其上,結構為木石結構,抬梁式木構架,立柱及柱礎均為石質。有40根整石雕成的圓形立柱,柱徑0.5米。有24根石柱上刻對聯12副,聯文描金。正殿恢復了劉、關、張的泥塑坐像,廊房兩壁新增加十幅三國故事線描石刻畫。畫稿取自明代《三國演義》版本。這些畫的內容是:桃園三結義、三英戰呂布、張飛鞭打督郵、劉備招親、關公刮骨療毒等。
“劉備墓”出三義廟西行,過小橋,經桂荷樓、琴亭,進入翠竹簇擁的紅墻夾道。夾道盡處,是劉備墓。劉備墓土冢高12米,墓上綠蔭覆蓋。有一道180米長的磚墻環護著陵墓,墓前有碑和寢殿。
劉備伐吳失敗后,退駐白帝城,于公元223年四月病逝。五月,諸葛亮扶靈樞回成都,八月下葬,墓稱“惠陵”。據史書記載,墓中還葬有劉備先后死去的甘夫人、吳夫人兩位皇后,是一座合葬墓。此墓距今1700多年,沒有發現被盜,墓中情況不詳。
傳說唐代時一伙盜墓賊,在一個漆黑的夜晚打洞進入墓室內,看見里面燈火輝煌,劉備正與關羽下棋,張飛在一旁觀戰,十名武士侍立一側。賊人嚇得魂不附體,紛紛下跪求饒,劉備揮手示意衛士賜予玉帶和瓊漿。他們喝了瓊漿,系上玉帶,驚慌爬出洞來,回頭一看,洞口自然封好,玉帶變成了大蛇,纏住了腰,瓊漿變成膠粘住了咀。據說從此再也沒有人敢動劉備墓了。出劉備墓照壁,就來到新建的“三國文化陳列”展區。該展區由展廳和外環境兩部分組成。外環境由三分橋、神獸天祿、辟邪、漢宮殘柱、兵爭社稷、殘壁石刻《臨江仙》、石刻序言等組成。展廳內分五個展區,分別是戰爭風云、農桑一瞥、民俗采風、藝林擷英、流風遺韻等。共展出文物、資料、圖片數百件。內容豐富多彩,藝術手法形象直觀,集知識性、觀賞性為一體,很值得細觀。
看完陳列,順道還可去“聽鸝館”參觀。那是一座小小的四合院,里面的盆景值得觀賞,臨時舉辦的各種展出也很有文化品味。
武侯祠導游詞11勉縣的定軍山,拜謁一位“中華智多星”,他就是諸葛亮。三國時期,魏蜀相爭。漢中成為曹操進攻劉備、魏滅蜀并吳的軍事目標,也是劉備北伐曹魏的軍事基地。諸葛亮在漢中度過了他一生最為嘔心瀝血的歲月。為輔佐劉備滅曹復漢,他在漢中屯兵8年,六出祁山,北伐曹魏,鞠躬盡瘁,最終歸葬于漢中勉縣定軍山下。武侯墓修于公元234年,它的特點之一是墓區內有兩座墓穴,均稱是真的。位于寢殿之后的武侯墓,高6米左右,墓碑立于1735年。位于半山腰的墓,高6米左右,墓碑立于1799年。目前,孰真孰假,尚無定論。武侯墓的第二個特點是墓后種有世上少有的結子桂花樹,人稱“護墓雙桂”。武侯墓的第三個特點是帶有很強的政治意義。定軍山,是蜀國北大門漢中的門戶,號稱“陜南十二連山一顆珠”。諸葛亮遺囑葬于此處,防止北方的強敵。正所謂“生為興劉尊漢室,死猶護蜀葬軍山”。下面我把諸葛亮的生平給大家做一個簡單介紹。諸葛亮,字孔明,瑯琊陽都(今山東沂南)人,東漢末年,天下軍閥割據,諸葛亮隱居鄧縣隆中(今湖北囊陽),被稱為“臥龍先生”。劉備為了統一漢室天下,三顧茅廬,已成千古佳話。年方27歲的諸葛亮宏圖在胸,他分析了當時天下的格局,以及足以和劉備抗衡的曹操、孫權的勢力,一席話便劉備茅塞頓開。孔明未出茅廬,已知三分天下,真萬古之人不及也。劉備臨終的一句叮囑,一份寄托,便有了諸葛亮一句經典話語“鞠躬盡瘁,死而后已”。由于六出祁山的超負荷運轉,他的生命也隨著他的誓言隨風而去了!我們現在就來到了武侯墓。大家會問,為什么叫“武侯墓”?是因為諸葛亮輔佐劉備創建了蜀國,官至丞相,被封為“武鄉侯”,死后劉禪溢封“忠武侯”,所以,人們就稱他的墳冢為“武侯墓”。
武侯祠導游詞12歡迎大家來到這!我是你們的導游,我姓x,大家可以叫我小x。為了便于大家參觀游玩,下面我首先大家介紹一下。
成都武侯祠肇始于公元220xx年修建劉備惠陵時,名“漢昭烈廟”。后來祭祀諸葛亮的武侯祠并入漢昭烈廟。是中國唯一的一座君臣合祀祠廟和最負盛名的三國蜀漢遺跡博物館。成都武侯祠是國內眾多武侯祠中唯一首批全國重點文物保護單位,是紀念諸葛亮名勝中最負盛名的一處。紀念諸葛亮的武侯祠除成都武侯祠外,還有陜西勉縣武侯祠、南陽武侯祠、襄樊古隆中武侯祠、重慶奉節白帝城武侯祠、云南保山武侯祠和甘肅禮縣祁山武侯祠等
在中國五千多年的文明史中,三國時代是其中很短暫但卻很精彩的一段,從東漢黃巾農民起義算至三家歸晉(公元184年—280年),前后將近一百年時間。
三國時代的得名,是因當時神州大地上并存著三個地方政權,這三個政權分別是曹操和他的兒子曹怌建立的魏國,占據黃河流域的大片土地,建都洛陽,孫權建立的吳國,占據長江中下游等地,建都南京,劉備建立的蜀國,占據四川,云南,貴州等地,建都成都。
“天下大勢,分久必合,合久必分”,中國古代歷史中曾經出現過多次的大分裂,大動蕩,最后又重歸統一的局面,三國時期,只不過也是一次而已。
在三國鼎立、群雄割據的年代,四川曾經是蜀漢政權的割據地。雖然四川地處西南,而且勢單力薄,但是劉備、諸葛亮、關羽、張飛等一大批忠良之士,為了漢室一統天下,他們爭東吳、扶南夷、出師北伐、英勇奮戰,從而演繹出了一幕幕悲壯的歷史,留下來很多可歌可泣的故事。讓我們后人千古傳頌。于是,人們就修開始修廟建祠,或者是保留古戰場。從而構成了眾多的三國歷史名勝古跡。今天我們要游覽的武侯祠,便是眾多的三國古跡中久負盛名的一處古跡。
武侯祠是紀念三國時期蜀國丞相諸葛亮的祠堂,諸葛亮生前被封為武鄉侯,死后被封為忠武侯,后人便尊稱他為武侯。
武侯祠坐落在成都南郊的武侯祠大街,廟宇坐北朝南。武侯祠始建于何時,已經沒有資料可考了,但從杜甫的詩《蜀相》中的描寫“丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森”來推斷的話,早在唐代以前就已經建有武侯祠了。在唐,宋時期這里分別有武侯祠和劉備廟,明代初年,祠廟合并為一,明代末年,祠廟毀于戰亂。今天看到的武侯祠是在清代康熙十一年的時候,在舊址上修建起來的。占地面積達到了3.7萬平方米。是全國重點文物保護單位。
武侯祠導游詞13現在的武侯墓區,總占地面積片萬平方米,明清遺留下來的古建筑70余間。進入陵園大門,便可以看到山門內側的兩幅壁畫,分別是“三顧茅廬”和“諸葛亮臨終托付遺言”時的場景,栩栩如生的畫面展現了諸葛亮一生的政治軍事生涯。經過拜殿,我們就來到了大殿。大殿前的匾額上書“功蓋三分”四個大字。請大家跟我走進這座雄偉寬敞、莊嚴肅穆的大殿。殿內正中神拿上端坐的便是集忠誠和智慧于一體的諸葛武侯,他左手持《六稻》書卷,右手按膝,羽扇綸巾,氣定神閑,伊然一副“運籌于帷幄之中,決勝于千里之外”的神態。兩書童侍立左右,一持寶劍,一棒印緩,拿下關興、張苞各持令箭、鋼鞭衛護兩側。威武雄壯、生動逼真的塑像,再現了當年的場景。武侯坐像后,還繪有屏風式壁畫四幅,內容都是家喻戶曉的歷史故事,例如:定軍山下老黃忠刀劈夏侯淵;諸葛亮三氣周喻等。這些短小精悍的畫面,突現了當年歷史歲月里最為精彩的瞬間。大殿后這一形如“覆斗”的墳冢,就是諸葛武侯的長眠之所,家高5—6米,方圓60米,今人在四周砌八卦花墻,刻有很多的三國故事,以紀念這段歷史。墓向頭西腳東,暗示著“永懷西蜀,不忘北伐,興復漢室,還于舊都”的鳳愿,這也是孔明遺表中提出的,由費祎,呈奏后主:“丞相臨終;命葬于定軍山,不用墻垣磚石,亦不用一切祭物”,后主從之;擇吉日,親自送靈樞至定軍山安葬。墓家選在定軍山下,除了北伐曹魏八年之久而不忘統一大業外,更有喻意的是這獨特的地理環境也是吸引著諸葛亮的又一根據。他一生研練著周易八卦,死后為自己算一清靜之所也是情理之中。當您登上定軍山,領略諸葛墓冢,只見九條山岡如巨龍騰伏,從四周翻滾而來匯聚于武侯墓,猶如壘起的屏障降服在周圍,故有“九龍捧圣”之美譽。凡來拜謁者,無不興嘆于此。在廟院之內,最引人注目的是那古樸、通天的古柏,柏樹向來是“壽與天齊”的通靈、吉祥之物,而在諸葛墳冢一周分散著當時種植的翠柏54株,象征著孔明的在生之年。這就是人們所稱的“護墓雙桂”。高30米以上,直徑1米以上,枝千四伸,猶如車蓋般遮護著墓冢。北京林學院
武侯祠導游詞14各位游客你們好,我是你們的導游佳佳,歡迎大家到武侯祠觀光游覽!
武侯祠位于南陽市西郊臥龍崗,南陽武侯祠,有名諸葛草廬,是三國時期著名的政治家、軍事家諸葛亮“躬耕于南陽”時留下的故址,當年劉皇叔三顧之處,也是歷代人們瞻仰和祭拜諸葛亮的地方。
好了,各位游客,現在我們來到了武侯祠的入口,大家看這座“千古人龍”石坊,高9米,面闊13。5米,三門四柱,遍體布滿雕飾,“千古人龍”的意思是指諸葛亮是人中之龍,隱喻臥龍崗是藏龍臥虎之地。
各位游客,現在我們來到了大拜殿,它是武侯祠的主體建筑。殿內塑的是孔明端坐正面像,它綸巾羽扇,風度莊嚴。左邊是他的長子諸葛瞻,右邊是它的長孫諸葛尚。殿堂的檐下、柱上掛滿了歷代名人騷客的對聯和碑額,這些碑額無不充滿世人對諸葛亮的敬重仰慕之情。
好了,下面是游客們自由參觀時間,請大家注意,不要亂刻亂畫,亂扔垃圾,妥善保管好自己攜帶的物品,集合的時間是十一時,集合的地點是武侯祠門前。祝大家參觀愉快。
各位朋友們大家好,歡迎來到漢中參觀旅游,我叫王博麗,是你們的導游,這兩天我們會一起度過,好了,閑話不多說,今天呢,我先帶大家去的地方是武侯祠了。
諸葛亮一生去過的地方很多,所以后人為他修建的祠廟也很多。風景最美最秀麗的是湖北襄陽的武侯祠,規模最大最宏偉的是四川成都的武侯祠,而修建時間最早的就是我們漢中的武侯祠了。比大名鼎鼎的成都武侯祠還要早41年,因此有天下第一武侯祠之稱。
武侯祠地處于勉縣城西3公里處,位于川陜公路以南,漢江以北,占地80多畝,有明清風格的古建筑30余座、150余間。西與古陽平關,諸葛亮讀書臺,蓮花池相接,東與馬超墓,劉備設壇立王處等古跡連成一線,北有古戰場天蕩山,南與定軍山古戰場和武侯墓遙遙相對。
武侯祠是陜西省重點保護單位,是國家3a級景區,關于武侯祠我就先講這么多了,等到了武侯祠之后我再給大家詳細講解。
昨天帶大家參觀了杜甫草堂,錦里等,那么今天我將帶大家去另一個而比較有意義的地方,那就是成都武侯祠。
武侯祠是紀念三國蜀漢丞相諸葛亮的祠堂。諸葛亮生前封武鄉侯,死后謚號忠武侯,后人便尊稱他為武侯。成都武侯祠是全國唯一的一座君臣合祀的廟宇,始建于公元223年劉備入葬于惠陵。
現在我們來到了武侯祠的門口,門口旁邊有一個景點的簡介,大家可以先看一看,了解了解,然后我們就一起進去參觀,還是重復一下我每天都在說的,注意安全,文明參觀,謝謝大家的配合,好了,大家跟著我一起進去吧。
現在看到的就是劉備殿了,殿的正中,供奉著劉備的貼金泥塑坐像。
現在我們到了諸葛亮殿。殿的門楣楹柱上掛滿了前人留下的匾聯。諸葛亮殿內,供奉著諸葛亮和他的兒子、孫子的貼金泥塑像。諸葛亮像在正中的龕臺上,他羽扇綸巾,身披金袍,凝目沉思,其憂國憂民,深謀遠慮的神采,顯示出一代儒相的風儀。
武侯祠里面還有很多值得觀賞的地方,大家可以自由觀賞一下,現在是10點半,我們11點半在門口集合,然后去吃午飯。
現在我們已經到了我們今天的目的地——武侯祠,請大家下車,我們依次排隊進入景區。排隊這個時間我先給大家簡單介紹一下武侯祠。
武侯祠是紀念三國蜀國丞相諸葛亮的祠堂。諸葛亮生前封武鄉侯,死后溢號忠武侯,后人便尊稱他為武侯。
好了,現在大家跟我我,我們一起進去。可以抬頭看看這里的大門,大門懸掛著“漢昭烈廟”的橫匾。漢,是劉備政權的稱號,史稱“蜀漢”。昭烈,是劉備死后的溢號。匾額說明,這里是祭祀蜀國皇帝劉備的廟宇。
很多朋友又會問了,既然這里是祭祀劉備的廟宇,有為什么會叫武侯祠呢,啟示是因為諸葛亮的歷史功績大,他在百姓心中的威望超過了劉備,人們就不顧君尊臣卑的禮儀和這座祠廟本來的名稱了。
武侯祠里面有很多值得參觀的地方,比如說三絕碑、二門、前后出師表、文臣武將廊,劉備殿,諸葛亮殿,然后還有桂和樓以及我們的劉備墓。愿意聽我講解的朋友就跟我走,想要自己游覽的朋友可以自由參觀,我們11點30分在這個地方集合。
大家好,相信大家對于三國著名人物諸葛亮都不會陌生吧,今天我要給大家介紹的就是其中一個紀念他的祠堂——成都武侯祠。
武侯祠是紀念三國蜀國的丞相諸葛亮的祠堂,諸葛亮生前封為武鄉侯,死后謚號武侯,所以后人便稱他為武侯。可能會有人問,武侯祠建于何時?恩,已經沒有資料可考了,但從杜甫《蜀相》中描寫的“丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森。”來判斷早在唐代以前就建有武侯祠了。而在唐宋時代,這里分別有武侯祠和劉備廟。明代初年,祠廟合并為一體。明末,祠廟毀于戰亂,現在大家要是去成都的話,看到的是清代在舊址上重建的。
大門上懸掛著“漢昭烈廟”的橫匾。“漢”,是劉備政權的稱號,史稱“蜀漢”。“昭烈”是劉備死后的謚號。匾額說明,這里是祭祀蜀國皇帝劉備的廟宇,既然如此,人們為什么又叫它為武侯祠呢?民國年間的鄒魯寫過這樣一首“額大書昭烈廟,世人都道武侯祠,由來名位輸勛業,蜀相功高百代思。”也就是說,諸葛亮的歷史功績大,他在百姓中的威望超過了劉備,人們就不顧君臣尊卑的禮儀和這座廟本來的名稱了。
好了,我們就一起進去領會諸葛亮的魅力吧。
武侯祠導游詞15諸葛亮,字孔明,瑯琊陽都(今山東沂南)人,東漢末年,天下軍閥割據,諸葛亮隱居鄧縣隆中(今湖北囊陽),被稱為“臥龍先生”。劉備為了統一漢室天下,三顧茅廬,已成千古佳話。年方27歲的諸葛亮宏圖在胸,他分析了當時天下的格局,以及足以和劉備抗衡的曹操、孫權的勢力,一席話便劉備茅塞頓開。孔明未出茅廬,已知三分天下,真萬古之人不及也。劉備臨終的一句叮囑,一份寄托,便有了諸葛亮一句經典話語“鞠躬盡瘁,死而后已”。由于六出祁山的超負荷運轉,他的生命也隨著他的誓言隨風而去了!我們現在就來到了武侯墓。大家會問,為什么叫“武侯墓”?是因為諸葛亮輔佐劉備創建了蜀國,官至丞相,被封為“武鄉侯”,死后劉禪溢封“忠武侯”,所以,人們就稱他的墳冢為“武侯墓”。現在的武侯墓區,總占地面積片萬平方米,明清遺留下來的古建筑70余間。進入陵園大門,便可以看到山門內側的兩幅壁畫,分別是“三顧茅廬”和“諸葛亮臨終托付遺言”時的場景,栩栩如生的畫面展現了諸葛亮一生的政治軍事生涯。經過拜殿,我們就來到了大殿。大殿前的匾額上書“功蓋三分”四個大字。請大家跟我走進這座雄偉寬敞、莊嚴肅穆的大殿。
第三篇:武侯祠導游詞
武侯祠導游詞匯編15篇
作為一位兢兢業業的旅游從業人員,有必要進行細致的導游詞準備工作,導游詞可以加深游客對景點的印象,是提升講解水平的重要工具。怎樣寫導游詞才更能起到其作用呢?下面是小編為大家收集的武侯祠導游詞,希望能夠幫助到大家。
武侯祠導游詞1各位游客:
你好,我是賈加,你的導游。歡迎來武侯祠觀光!
武侯祠位于南陽市西郊臥龍崗。它以諸葛曹璐而聞名。是三國時期著名政治家、軍事家諸葛亮留下的舊址。當年劉皇叔照看它的地方,也是歷代人祭拜諸葛亮的地方。
好了,女士們,先生們,現在我們來到了武侯祠的門口。看看這個高9米,寬13.5米的石頭廣場。它有三扇門和四根柱子,上面有雕刻。歷史悠久的龍的意思是諸葛亮是人中之龍,比喻臥龍崗藏龍臥虎的地方。
各位游客,現在我們來到了大白寺,這是武侯祠的主樓。殿內有一幅孔明的畫像,端端正正坐著,戴著黑絲綬帶圍巾和羽扇,神態肅穆。左邊是他的長子諸葛瞻,右邊是他的長孫諸葛尚。殿宇檐柱上掛滿了歷代名人、詩人的對聯和銘文,無不飽含著世人對諸葛亮的敬仰和敬仰。
好的,這里是游客參觀的自由時間。請注意避免亂涂亂丟,愛護自己的財物。聚會時間是11點,聚會地點在武侯祠前。祝大家參觀愉快。
親愛的朋友們,早上好!現在,我帶你去參觀南陽西郊臥龍崗上的武侯祠。南陽武侯祠,又名諸葛曹璐,是三國時期著名政治家、軍事家諸葛亮“耕南陽”時留下的舊址。當年劉皇叔三次登門的地方,也是歷代人向諸葛亮進貢的地方。
諸葛亮(181-234),漢末山東瑯琊楊度(今山東沂水縣南)人。幼時喪父,后隨叔父諸葛玄赴荊州牧劉表。諸葛玄死后,諸葛亮帶著弟弟諸葛俊在南陽臥龍崗蓋房打拼,過著“亂世不請文達諸侯”的布衣生活。但他與天下名人交往廣泛,經濟知識淵博,肚里有良苦用心,隱居圖志,清靜深遠。當時的名人龐德公,把他比作一個及時騰飛的“臥龍”。漢建安十二年(207年),劉備、關羽、張飛祭拜諸葛亮。從此,27歲的諸葛亮離開了在那里苦干了十年的臥龍崗,加入了劉備的政治集團。后來官員對蜀漢丞相頂禮膜拜,爵鳳武是家鄉太子,死后溢滿了“忠厚武侯”。所以歷代諸葛亮廟都被稱為“武侯祠”。
據清康熙龍崗志記載,武侯祠建于魏晉晚期,經過一代代不斷的修繕和擴建,形成了現在的規模。今天,我們看到的武侯祠占地200多英畝,有150多所房屋,70多副檢查對聯和300多處碑文。是中國最大的紀念諸葛亮的古建筑群。如今的武侯祠基本保持了元明時期的布局風格,木質建筑多為明清時期改建或增設。寺廟依山而建,南有白河,北有紫山,地勢開闊,如臥龍。庭院里竹諷刺,松柏茂密,池水清澈,景色宜人,秀麗的自然風光與大眾文化景觀相得益彰,令人流連忘返。
好了,各位會員,現在我們到了武侯祠的人口。你看這個石坊,高9米,寬13.5米,三門四柱,上面全是雕刻。“萬世之龍”的意思是諸葛亮是人民的龍,比喻臥龍崗是龍藏虎臥的地方。大家把這第二條巷子看做“三古坊”,建于清朝,距今光年。兩面刻有“漢昭烈帝三古初”和“真神俠”以紀念劉備三古南仙。正是因為劉備的真誠關懷,諸葛亮才離開隱居十年的臥龍崗,輔佐劉備,一生當兵,鞠躬盡瘁,死而后已,劉備才得以稱霸天下,成就帝王之業。劉備對知識和才能的尊重是真實的,而不是口頭上的。這個優勢真的很值得我們今天的一些領導學習!“真神”二字出自蘇軾的《武后宮》,歌頌諸葛亮。“人也,神也,仙也,不知道,真的臥龍也。”看看什邡北部的臥龍湖。旁邊有三棵古老的梓樹。據說劉、梅和張過去常常是馬,當他們照顧他們的時候。現在,猜猜1700多年前誰的馬被拴在樹上。
穿過三谷坊和仙人橋,直接通向山門。山門是武侯祠的正門,古樸凝重。是郭沫若先生題寫在券門額頭的石匾中間。過了山門,就進入武侯祠一院。庭院寬敞,古柏掩映,青磚鋪蓋,古樸自然。院內甬道上的“三代遺風”石坊,對應大禮拜殿。這是對諸葛亮才華和品德的致敬,可以與伊尹、魯商、傅說等三代先賢相提并論。我們轉過去看看“軍事戰略大師”這四個字。軍事謀略原本指的是中國古代的藝術書籍《六塔》、《三策》,但后世習慣指的是用兵謀略。在這里,諸葛亮的文學策略也受到了贊揚。
親愛的朋友們,這是大白寺,它是武侯祠的主樓。清道光三年(1823年)南陽知府行書廖金文匾,掛在大白寺正門。殿內有一幅孔明端坐的畫像。他頭戴黑絲綬帶,手拿羽扇,神態肅穆,是東漢末年隱居儒生的典型裝束。左邊是他的長子諸葛瞻,右邊是他的孫子諸葛尚。寺廟屋檐下的柱子上掛滿了歷代名人和詩人的對聯和匾額。這些碑帖對聯充滿了世人對諸葛亮的尊敬和敬仰。
請看這一對:“魯攀西宜興王左奇只能以萬瑯琊為榜樣。勝者有句俗語叫不亮,齊包書鄭子丕勝門答應的也是一致的。徐元直可以培養英雄,激勵他人。”。這副對聯歌頌的是能幫助皇帝力挽狂瀾、治國安邦的呂尚、殷易、管仲、諸葛亮,也歌頌了推薦人才的伯樂,如鮑、鄭子丕、。
請看這一對:“單口產品在神爺渭濱之間,表里念著兩朝恩師功勛,蓋屋在子豐白水臥龍給父親唱千年歌。”這里,質量指的是檔次和檔次。
新野渭濱指隱居的伊尹、魯商。這兩個朝代指的是第一任主公劉備和第二任主公劉禪。荊司馬指的是諸葛亮死后司馬懿的消沉。下盟子豐白水指南陽郊區的子山、白河。屈賦,即吟詠吟,講的是齊襄曼嬰兒兩桃殺三士的故事,據說是諸葛亮做的。這副對聯充分贊揚了諸葛亮的高尚氣節和巨大成就。當年,他潛心隱逸,對智明無動于衷,恬靜而深遠,可以與前賢易隱、陸尚卸任前的高尚行為相提并論。他把草堂建在紫山腳下,白河岸邊,對比管仲、樂毅,對比周星800的姜子牙,王罕400的張子房,就像臥虎藏龍;他不年輕,他懂天下三分,誰先做夢,我這輩子就知道自己,“草是對的”講天下,戰略決策在胸,顯示出他的政治眼光和杰出的奇才;他的《模特》前后,都是那么的強烈和激烈,感動的熱淚盈眶!他以鞠躬盡瘁、死而后已的精神,努力幫助兩代君主建立了蜀漢的偉大事業。
試想,正是劉、關、張三人登門造訪,才成就了諸葛亮的仕途,成就了波瀾壯闊的三國戰史。盡管經歷了幾千年的風風雨雨和滄桑,但諸葛亮的威望故事卻超越了大地,傳遍了三國,諸葛亮的政治、軍事和治國方略是中華民族寶貴的精神財富,諸葛亮的不朽聲譽永遠值得銘記。此時此刻,站在武侯祠,緬懷孔明一生的豐功偉績,為什么不讓我們徜徉于古代,暢想一番呢?我以為諸葛亮住在南陽臥龍崗,讀史書,看天下,立下宏圖,關心民生,在這里度過青春。一旦時運變了,皇叔照顧他,隱士就成了一對。臥龍起飛了,燃著希望,人間有三分。然而,在蜀漢的最后幾年,有一個水桶是沒辦法的,另外,國力也不好。諸葛亮雖有一統中原之勇,六出祁山,獨唱難,過勞死更是遺憾。五丈在部隊因病去世。后人想想就覺得可惜。正如杜甫《蜀相》詩中所言:“三傳以國事為重,傳至兩代。但他還沒來得及征服,就已經死了,“心在朝廷,先不說前主后主,何必爭襄陽和南陽?“.”
武侯祠導游詞2現在的武侯墓區,總占地面積片萬平方米,明清遺留下來的古建筑70余間。進入陵園大門,便可以看到山門內側的兩幅壁畫,分別是“三顧茅廬”和“諸葛亮臨終托付遺言”時的場景,栩栩如生的畫面展現了諸葛亮一生的政治軍事生涯。經過拜殿,我們就來到了大殿。大殿前的匾額上書“功蓋三分”四個大字。請大家跟我走進這座雄偉寬敞、莊嚴肅穆的大殿。殿內正中神拿上端坐的便是集忠誠和智慧于一體的諸葛武侯,他左手持《六稻》書卷,右手按膝,羽扇綸巾,氣定神閑,伊然一副“運籌于帷幄之中,決勝于千里之外”的神態。兩書童侍立左右,一持寶劍,一棒印緩,拿下關興、張苞各持令箭、鋼鞭衛護兩側。威武雄壯、生動逼真的塑像,再現了當年的場景。武侯坐像后,還繪有屏風式壁畫四幅,內容都是家喻戶曉的歷史故事,例如:定軍山下老黃忠刀劈夏侯淵;諸葛亮三氣周喻等。這些短小精悍的畫面,突現了當年歷史歲月里最為精彩的瞬間。大殿后這一形如“覆斗”的墳冢,就是諸葛武侯的長眠之所,家高5—6米,方圓60米,今人在四周砌八卦花墻,刻有很多的三國故事,以紀念這段歷史。墓向頭西腳東,暗示著“永懷西蜀,不忘北伐,興復漢室,還于舊都”的鳳愿,這也是孔明遺表中提出的,由費祎,呈奏后主:“丞相臨終;命葬于定軍山,不用墻垣磚石,亦不用一切祭物”,后主從之;擇吉日,親自送靈樞至定軍山安葬。墓家選在定軍山下,除了北伐曹魏八年之久而不忘統一大業外,更有喻意的是這獨特的地理環境也是吸引著諸葛亮的又一根據。他一生研練著周易八卦,死后為自己算一清靜之所也是情理之中。當您登上定軍山,領略諸葛墓冢,只見九條山岡如巨龍騰伏,從四周翻滾而來匯聚于武侯墓,猶如壘起的屏障降服在周圍,故有“九龍捧圣”之美譽。凡來拜謁者,無不興嘆于此。在廟院之內,最引人注目的是那古樸、通天的古柏,柏樹向來是“壽與天齊”的通靈、吉祥之物,而在諸葛墳冢一周分散著當時種植的翠柏54株,象征著孔明的在生之年。這就是人們所稱的“護墓雙桂”。高30米以上,直徑1米以上,枝千四伸,猶如車蓋般遮護著墓冢。北京林學院
武侯祠導游詞3歡迎大家來到這!我是你們的導游,我姓x,大家可以叫我小x。為了便于大家參觀游玩,下面我首先大家介紹一下。
成都武侯祠肇始于公元220xx年修建劉備惠陵時,名“漢昭烈廟”。后來祭祀諸葛亮的武侯祠并入漢昭烈廟。是中國唯一的一座君臣合祀祠廟和最負盛名的三國蜀漢遺跡博物館。成都武侯祠是國內眾多武侯祠中唯一首批全國重點文物保護單位,是紀念諸葛亮名勝中最負盛名的一處。紀念諸葛亮的武侯祠除成都武侯祠外,還有陜西勉縣武侯祠、南陽武侯祠、襄樊古隆中武侯祠、重慶奉節白帝城武侯祠、云南保山武侯祠和甘肅禮縣祁山武侯祠等
在中國五千多年的文明史中,三國時代是其中很短暫但卻很精彩的一段,從東漢黃巾農民起義算至三家歸晉(公元184年—280年),前后將近一百年時間。
三國時代的得名,是因當時神州大地上并存著三個地方政權,這三個政權分別是曹操和他的兒子曹怌建立的魏國,占據黃河流域的大片土地,建都洛陽,孫權建立的吳國,占據長江中下游等地,建都南京,劉備建立的蜀國,占據四川,云南,貴州等地,建都成都。
“天下大勢,分久必合,合久必分”,中國古代歷史中曾經出現過多次的大分裂,大動蕩,最后又重歸統一的局面,三國時期,只不過也是一次而已。
在三國鼎立、群雄割據的年代,四川曾經是蜀漢政權的割據地。雖然四川地處西南,而且勢單力薄,但是劉備、諸葛亮、關羽、張飛等一大批忠良之士,為了漢室一統天下,他們爭東吳、扶南夷、出師北伐、英勇奮戰,從而演繹出了一幕幕悲壯的歷史,留下來很多可歌可泣的故事。讓我們后人千古傳頌。于是,人們就修開始修廟建祠,或者是保留古戰場。從而構成了眾多的三國歷史名勝古跡。今天我們要游覽的武侯祠,便是眾多的三國古跡中久負盛名的一處古跡。
武侯祠是紀念三國時期蜀國丞相諸葛亮的祠堂,諸葛亮生前被封為武鄉侯,死后被封為忠武侯,后人便尊稱他為武侯。
武侯祠坐落在成都南郊的武侯祠大街,廟宇坐北朝南。武侯祠始建于何時,已經沒有資料可考了,但從杜甫的詩《蜀相》中的描寫“丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森”來推斷的話,早在唐代以前就已經建有武侯祠了。在唐,宋時期這里分別有武侯祠和劉備廟,明代初年,祠廟合并為一,明代末年,祠廟毀于戰亂。今天看到的武侯祠是在清代康熙十一年的時候,在舊址上修建起來的。占地面積達到了3.7萬平方米。是全國重點文物保護單位。
武侯祠導游詞4各位游客朋友們:
大家好,歡迎來到成都武侯祠博物館參觀游覽,我是講解員小周,希望。首先讓我們來看這幅平面圖,成都武侯祠位于成都市區南面,占地面積15萬平方米,大約210多畝,這里是最富盛名的諸葛亮、劉備等蜀漢英雄紀念地,全國唯一的一座君臣合祀祠廟,可以說是全中國乃至全世界,影響力最大的三國遺跡博物館,享有“三國圣地”只美譽。1961年被國務院評為第一批重點文物保護單位,1984年正式成立博物館,于2006年被國家旅游局評為4A級景區,2008年又被國家文物局評為首批國家一級博物館。
根據武侯祠新的規劃呢,現在將武侯祠分為三個區域,分別是三國歷史遺跡區,錦里民俗區,以及正在打造的西區——三國文化體驗區,今天帶大家參觀的部分是三國歷史遺跡區,我們的游覽順序是:從大門進入后,依次參觀游覽二門,漢昭烈廟,過廳,武侯祠,以及近幾年遷建的進來的三義廟,最后,通過紅墻夾道到達惠陵,游覽時間大約1個小時。
武侯祠始建于公元223年,距今已經有1788年的歷史了,當時因為蜀漢皇帝劉備去世,下葬于惠陵,按照漢朝的陵寢制度,有陵必有廟,所以在惠陵旁邊修建了紀念劉備的漢昭烈廟。由于諸葛亮和劉備的關系如魚和水,密不可分,大約在南北朝的時候,又將成都少城內紀念諸葛亮一家的武侯祠遷建到了漢昭烈廟旁邊。
在明朝初年,朱元璋的第十一個兒子蜀獻王朱椿為了突出君權,下令拆掉武侯祠,將武侯祠并入于漢昭烈廟內,使兩廟合二為一。明朝末年,張獻忠兵敗四川,對四川進行了毀滅性的打擊,武侯祠祠廟荒廢,但惟獨惠陵保存完好。今天我們所看到的這座祠廟,是在清康熙11年既公元1672年在原址上重建的,前殿為紀念劉備及蜀漢文臣武將的漢昭烈廟,后殿才是真正意義上紀念諸葛亮的武侯祠,正是因為這樣的建筑格局,是的成都武侯祠成為了全國唯一的一座君臣合祀祠廟。
初游武侯祠的朋友常常會問小周這樣一個問題,這剛才進來時,大門上明明懸掛著“漢昭烈廟”的牌匾,漢,是劉備見過時的國號,史稱“蜀漢”。昭烈,是劉備死后的溢號。顧名思義,這里是祭祀蜀國皇帝劉備的廟宇。既然如此,人們為什么又稱之為武侯祠呢?民國年間的鄒魯寫的一首詩,道出了其中的緣由:“門額大書昭烈廟,世人都道武侯祠。由來名位輸勛業,丞相功高百代思”由此可知,是世人對諸葛亮為國為民,鞠躬盡瘁的精神十分崇敬,總是習慣了把這個地方叫做武侯祠。
從唐代開始,碑刻藝術就成為了武侯祠的一大文化特色,武侯祠現存碑碣50余通,分別鐫刻于唐代,明代、清代以及近現代,其中以我們前方的這通唐碑最具代表性,它是選用石質較為堅硬細膩的硤石所鑿刻而成,碑身高3.67米,寬0.95米,全名為《蜀臣相諸葛武侯祠堂碑》。碑文分為銘和序,正楷22行,每行大約50個字。
唐碑立于唐憲宗元和四年,也就是公園809年,劍南西川節度使武元衡率領27位僚屬來到武侯祠拜謁,令節度府掌書記裴度撰寫碑文,裴度,字中立,是一位非常有才華的人,先后輔佐了唐代的四個皇帝也是唐代中后期的中興名相。他在碑文部分表達了自己對諸葛亮的崇敬仰慕之情,文章序文部分開始便寫到:度常讀舊史,詳求往哲,或秉事君之節,無開國之才,得立身之道,無治人之術,四者備矣,兼而行之,則蜀丞相諸葛公其人也。
意思是說我裴度讀前代的史書,詳盡的搜羅了前賢先哲的行事,有的具備臣子對待君主的氣節,但是沒有開創國家的能力,有的深得立身處世的道理,但是沒有治理民眾管理官吏的辦法,如果說有誰兼備這四種美德,并能運用它來實現自己的政治抱負,那么就只有蜀國丞相諸葛亮了。
武侯祠導游詞5各位游客:
你們好,我是你們的導游佳佳,歡迎大家到武侯祠觀光游覽!
武侯祠位于南陽市西郊臥龍崗,南陽武侯祠,有名諸葛草廬,是三國時期著名的政治家、軍事家諸葛亮“躬耕于南陽”時留下的故址,當年劉皇叔三顧之處,也是歷代人們瞻仰和祭拜諸葛亮的地方。
好,各位游客,現在我們來到武侯祠的入口,大家看這座“千古人龍”石坊,高9米,面闊13.5米,三門四柱,遍體布滿雕飾,“千古人龍”的意思是指諸葛亮是人中之龍,隱喻臥龍崗是藏龍臥虎之地。
各位游客,現在我們來到大拜殿,它是武侯祠的主體建筑。殿內塑的是孔明端坐正面像,它綸巾羽扇,風度莊嚴。左邊是他的長子諸葛瞻,右邊是它的長孫諸葛尚。殿堂的檐下、柱上掛滿歷代名人騷客的對聯和碑額,這些碑額無不充滿世人對諸葛亮的敬重仰慕之情。
好,下面是游客們自由參觀時間,請大家注意,不要亂刻亂畫,亂扔垃圾,妥善保管好自己攜帶的物品,集合的時間是十一時,集合的地點是武侯祠門前。祝大家參觀愉快。
武侯祠導游詞6各位女士,各位先生:
大家好!
武侯祠是紀念三國蜀漢丞相諸葛亮的祠堂。諸葛亮生前封武鄉侯,死后謚號忠武侯,后人便尊稱他為武侯。
成都武侯祠是全國唯一的一座君臣合祀的廟宇,始建于公元223年劉備入葬于惠陵。依據漢制,陵旁必有廟,所以在劉備下葬于惠陵后,當時的蜀漢就在陵旁修建了祭祀劉備的原廟。(原廟是帝王陵旁祭祀此帝王的廟宇,唐宋時期,人們一般稱劉備的原廟為先主廟。)(因為現成都武侯祠共有三大主體建筑,劉備死后就已出現其中兩組,故以劉備下葬惠陵作為成都武侯祠之始。)
到南北朝時,在惠陵和先主廟不遠的地方人們又修建了武侯祠,唐宋時期,武侯祠就已成為著名的古跡和旅游勝地,杜甫當時就留下了“丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森”的描寫。明代時,蜀獻王朱椿認為“君臣宜一體”,就把武侯祠與先主廟合并為一,通稱“漢昭烈廟”,明末清初,祠廟毀于戰亂。今天看到的武侯祠,是清代康熙十一年(公元1672年)在舊址上重建的。
盡管官方一直把這里叫作“漢昭烈廟”,大門也懸掛著“漢昭烈廟”的橫匾。但人們仍習慣的稱這里為武侯祠。為什么呢?民國年間的鄒魯寫的一首詩,道出了其中的緣由:“門額大書昭烈廟,世人都道武侯祠。由來名位輸勛業,丞相功高百代思”。也就是說,因為諸葛亮的歷史功績大,他在百姓心中的威望超過了劉備,人們就顧不了君尊臣卑的禮儀了。
從大門左側簡介和平面示意圖上看到,武侯祠掩映在森森翠柏中,殿宇坐北向南,布置在一條中軸線上,有大門、二門、劉備殿、過廳、諸葛亮殿五重,西側為劉備陵園——惠陵。祠內有清代蜀漢歷史人物泥塑像47尊,碑碣50多塊,匾聯60多幅,鼎、爐、鐘、鼓10余件。因此,確切地講,武侯祠應該稱作蜀漢君臣紀念堂,它是研究蜀漢歷史的一座博物館。
三絕碑:
大門到二門道路的兩側,立有六通高大的石碑。其中四通為清代刻建,一通為明代刻建,一通為唐代刻建。清碑記載了祠廟重建和維修的情況;明碑著重介紹了祠廟的歷史沿革。
唐碑最負盛名,被稱為“三絕碑”,高3.67米,是唐憲宗元和四年(公元809年),劍南西川節度使武元衡率其僚屬27人,來武侯祠祭拜諸葛亮后刻建的。由裴度撰文,文中極力稱頌諸葛亮治蜀的文治武功,對他鞠躬盡瘁、力圖統一的精神給予了很高的評價,把他比作前代名臣管仲、曼嬰、蕭何、張良,認為他是歷史上唯一兼有開國之才、治人之術、事君之節和立身之道的歷史人物。裴度有文才,曾任三朝宰相。柳公綽書法漂亮,是唐代大書法家柳公權之兄。名匠魯建鐫刻。因此,自明代中葉,此碑就因其文章、書法精湛和諸葛亮的蓋世功德而被譽為“三絕碑”。
劉備殿:
二門內是蜀漢皇帝劉備殿。殿的正中,供奉著劉備的貼金泥塑坐像,兩側偏殿,分別供奉著關羽、張飛等人,與殿相接的東西兩廊,是蜀國的28位文臣武將的彩繪泥塑像。劉備像高3米,頭戴冕冠,身著黃袍,手捧玉圭,寬面大耳,神態靜穆。左右侍者,一捧玉璽,一捧寶劍。
劉備(161—223),字玄德,河北涿州人。24歲時,他召集關羽、張飛等人參加鎮 壓黃巾農民起義,后來在軍閥混戰中逐漸壯大了勢力。由于缺乏謀臣,他在軍閥混戰中屢遭挫敗,流離失所,先后依附于呂布、曹操、袁紹、劉表。他三顧茅廬,拜諸葛亮為軍師,赤壁大戰后,勢力才得到發展。劉備胸懷大志,注重信義,待人寬厚。經過二十多年的艱苦征戰,最后占據益州,于公元221年在成都稱帝。不久,為奪回荊州,替關羽報仇,他興師伐吳。結果,被吳國陸遜火燒連營,遭到慘敗,病死于白帝城(奉節)。臨終前,他把幼子劉禪(小名阿斗)和國事托付給諸葛亮,史稱“白帝城托孤”。
在劉備像東側,是劉備之孫劉諶的塑像。劉諶是劉禪的第五子,封北地王。在魏國鄧艾軍隊進逼成都時,他苦諫父親,同來敵決一死戰,與國家共存亡。但劉禪不聽。他悲憤已極,去祖廟哭訴后,先殺妻子,而后自殺。他以死殉國的精神受到后人頌揚。劉備像西側原有劉禪的像,由于他不能保住父業,投降魏國,當上安樂公后“樂不思蜀”,不知亡國之恥,在宋代,他的像就被毀掉,自此沒有再塑。正殿的兩壁,懸掛著木刻的《先主傳》、《后主傳》,傳文錄自陳壽史書《三國志》。蜀漢的興亡,可從劉備、劉禪傳中了解始末。東偏殿內是關羽及其子關平、關興、部將周倉、趙累的塑像。關羽像高2米多,頭戴冕旒,白面,丹鳳眼,臥蠶眉,兩眼半瞇半閉,美髯垂胸,身著金袍,手執玉笏,一付帝王打扮。
關羽(?—219),字云長。他與張飛是最早追隨劉備南征北戰的猛將,號稱“熊虎之將”。他倆與劉備恩若兄弟,情同手足,因此衍生了“桃園三結義”的故事。關羽曾被曹操俘獲,在曹操封官加爵的拉攏下,仍然效忠劉備。劉備得荊州后委任關羽鎮守。在荊州,他曾發動攻勢,水淹襄陽,活捉曹軍大將于禁,斬殺龐德,威震華夏。最后,因驕傲輕敵,被東吳將領呂蒙偷襲,與關平、趙累等人同時遇害,丟失了荊州。陳壽《三國志》評論他“傲大夫而親士卒”,傲慢輕敵是導致他失敗和被殺的重要原因。歷代統治者對關羽十分推崇,使他成了“忠義”的化身。在宋代,他被迫封為王,到了明清時代,加封為關圣大帝,詔令全國各地修廟祭祀。因此,這里的關羽像也成了帝王打扮。
西偏殿是張飛祖孫三代的塑像。張飛面色漆黑,豹頭環眼,燕頷虎須,像貌威猛而有生氣。張飛(?—221),字益德。《三國演義》稱“翼德”。他早年追隨劉備打天下,勇猛善戰,是三國時代的一員虎將。劉備在當陽長阪坡被曹操打敗,張飛領20多人在后面阻擊。曹兵來時,他立馬橫槍站在橋頭,大吼一聲。說:“我是張益德,誰敢來決一死戰!”曹軍居然不敢過橋。民間傳說他的吼聲嚇退了曹操的百萬大軍,橋下河水也為之倒流。張飛常常無故鞭打部下,因此被部將張達、范強暗害。陳壽《三國志》評論他“尊君子而不恤小人”。他不關心群眾,不尊重下級,也遭到失敗。
武將廊內有蜀漢著名將領14位。他們或因戰功卓著,或因戰死沙場,被立像表彰。趙云居于武將之首,他是一員智勇雙全的將領。在當陽長阪坡,他只身在曹軍重圍中沖殺,保護了幼主劉禪。在漢中爭奪戰中,他憑膽識,殺退曹軍,劉備稱他“一身都是膽”。其他著名將領還有馬超、姜維、黃忠等。馬超武藝高強,當他還是一支獨立勢力時,曾在潼關大敗曹操,弄得曹操割須棄袍,狼狽不堪。曹操曾說:“馬兒不死,吾無葬身之地!”后來他戰敗失勢,歸降劉備。姜維本是魏國一名小將,諸葛亮首次出祁山攻打曹魏時將他收降。因忠于蜀漢,文武雙全,受到器重。諸葛亮死后,他擔負起蜀漢的軍事重任。曾九伐中原,力圖完成諸葛亮“興復漢室”的遺志。黃忠,也是蜀漢名將,他老當益壯,征戰中總是身先士卒,勇冠三軍。
文臣廊內也有塑像14尊。這14位蜀國官吏有才有識、為官清正。董允直言敢諫,后主劉禪也畏懼他三分。鄧芝不僅在“東聯孫吳北巨曹魏”戰略上立下功勞,而且終身不置私產,臨死的家無余財,可算是清正廉潔。蔣琬、費祎,是諸葛亮臨終時向劉禪推薦的兩位丞相繼位人。二人才干雖不及諸葛亮,但能忠實執行諸葛亮的政策,在執政期間,均能保住蜀國的安定和繁榮。居于文臣之首的是龐統。龐統才思敏捷,博學多智,年輕時得“鳳雛”的稱號,與諸葛亮齊名。開始并不為劉備所賞識,經過魯肅和諸葛亮的竭力推薦,又親自與他交談時政后,方受到重用。不幸在入蜀攻打雒城(現廣漢市)的戰役中被亂箭射死,年僅36歲。
出劉備殿,低一個臺階,就是過廳。為什么要低一個臺階呢?這是當時封建社會君尊臣卑等級觀念的體現。
過廳懸掛著董必武、郭沫若、馮玉祥、徐悲鴻、舒同等人撰書的幾十副匾額對聯。
諸葛亮殿:
出過廳,就是諸葛亮殿。殿的門楣楹柱上掛滿了前人留下的匾聯。其中最有名的是懸掛在諸葛亮殿正中的一聯,即“能功心則反側自消,從古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,后來治蜀要深思”。聯文是清末云南劍川人趙藩撰書。
上聯說,諸葛亮在打仗中能用“攻心”戰術,如南征時對孟獲七擒七縱,使其心悅誠服,以此稱贊諸葛亮是真正懂得用兵打仗,而不是好戰的軍事家。
下聯稱頌諸葛亮能審時度勢,制定出寬嚴得宜的法度,收到良好效果,提醒后來治理四川的人從中汲取教益。這幅對聯對諸葛亮的用兵和施政作出了客觀的評價,提出“攻心”和“審勢”兩個很有啟發性的問題,是武侯祠匾聯中的上品,也是我國名聯之一。
諸葛亮殿內,供奉著諸葛亮和他的兒子、孫子的貼金泥塑像。諸葛亮像在正中的龕臺上,他羽扇綸巾,身披金袍,凝目沉思,其憂國憂民,深謀遠慮的神采,顯示出一代儒相的風儀。諸葛亮(181—234),字孔明,山東沂南人,是中國歷史上杰出的政治家、軍事家。他年輕時隱居于襄樊隆中,因才智超群,刻苦好學,胸懷大志,得“臥龍”的美稱。經劉備三顧之請,出山鋪佐劉備,創建蜀漢;劉備死后,受托孤之重任,輔佐其子劉禪,執掌朝政,治蜀達20多年;他施行教化,嚴明賞罰,選賢任能,興修水利,發展生產,南征南中,北伐祁山,以忠貞、勤勉、廉潔和才智,換來了蜀地的安定和繁榮。史學家陳壽評論說,當時的蜀國,政治清明,民風淳正,田野開辟,倉廩充實,到處是升平景象。由于過度辛勞,他54歲時,病逝于北伐前線五丈原軍中,埋葬在陜西勉縣定軍山下,墳墓至今尚存。
諸葛亮一生做了不少勤政愛民和有益于社會進步的好事,他死后,人們十分懷念他,對他鞠躬盡瘁,死而后已的精神更是非常敬重。于是,人們便修起了一座又一座武侯祠來紀念他,還把他作為忠臣賢相的典范,智慧的化身而加以崇拜。
諸葛亮的兒子諸葛瞻、孫子諸葛尚,在蜀漢面臨存亡之時,率部與魏軍在綿竹決戰,終因寡不敵眾,為國捐軀。
諸葛亮殿內陳列有一面銅鼓,是公元五、六世紀時的文物。銅鼓,原是西南少數民族古代的炊具,從考古發現來看,早在春秋戰國時期就已經出現了。后來銅鼓逐漸演變成一種樂器、禮器,在集會、慶典時使用,也是財富和權力的象征。相傳諸葛亮南征時,曾使用過這種銅鼓,白天用來煮飯,晚上當鼓,用來報警,一物多用。所以,又稱為諸葛鼓。
在殿外的兩側廂房內,陳列著木刻詩文。西廂有毛澤東、董必武、張愛萍、方毅、周谷成、楚圖南、梁漱溟等人的墨寶共12幅,東廂為木刻的《隆中對》和《出師表》。
三義廟:
出諸葛亮殿往后,就是三義廟。三義廟因祭祀桃園三結義的劉、關、張而得名。廟始建于清康熙年間,原有四進五殿,規模宏大。現僅存拜殿、正殿,成四合院布局。三義廟本在市區中心的提督街,因城市建設的需要,1997年遷建于此。遷建工程嚴格按照國家文物法規,將原建筑構件編號拆下,運至新址按編號搭建,恢復原貌。
恢復重建的三義廟巍峨聳立,其建筑形制與劉備殿一致。屋頂為單檐硬山式,青色簡瓦覆蓋其上,結構為木石結構,抬梁式木構架,立柱及柱礎均為石質。有40根整石雕成的圓形立柱,柱徑0.5米。有24根石柱上刻對聯12副,聯文描金。正殿恢復了劉、關、張的泥塑坐像,廊房兩壁新增加十幅三國故事線描石刻畫。畫稿取自明代《三國演義》版本。這些畫的內容是:桃園三結義、三英戰呂布、張飛鞭打督郵、劉備招親、關公刮骨療毒等。
劉備墓:
出三義廟西行,過小橋,經桂荷樓、琴亭,進入翠竹簇擁的紅墻夾道。夾道盡處,是劉備墓。劉備墓土冢高12米,墓上綠蔭覆蓋。有一道180米長的磚墻環護著陵墓,墓前有碑和寢殿。
劉備伐吳失敗后,退駐白帝城,于公元223年四月病逝。五月,諸葛亮扶靈樞回成都,八月下葬,墓稱“惠陵”。惠陵是一座夫妻合葬墓。同時下葬的還有后主劉禪的母親甘夫人。20年后,劉備的另一位夫人吳夫人穆皇后去世,也葬于此。此墓距今1700多年,沒有發現被盜,墓中情況不詳。
在唐代段成式所作的《酉陽雜俎》中曾記載了這么一則故事:一伙盜墓賊在一個漆黑的夜晚打洞進入劉備惠陵,當他們進入墓室后,看見里面燈火輝煌,劉備正與一人下棋,十名武士侍立一側。賊人嚇得魂不附體,紛紛下跪求饒,劉備揮手示意衛士賜予玉帶和瓊漿。他們喝了瓊漿,系上玉帶,驚慌爬出洞來,回頭一看,洞口自然封好,玉帶變成了大蛇,纏住了腰,瓊漿變成膠粘住了嘴巴。據說從此再也沒有人敢動劉備墓了。
出劉備墓照壁,就來到新建的“三國文化陳列”展區。該展區由展廳和外環境兩部分組成。外環境神獸天祿、辟邪、漢宮殘柱、兵爭社稷、殘壁石刻明楊慎《臨江仙》、石刻序言等組成。展廳內分五個展區,分別是戰爭風云、農桑一瞥、民俗采風、藝林擷英、流風遺韻等。共展出文物、資料、圖片數百件。內容豐富多彩,藝術手法形象直觀,集知識性、觀賞性為一體,很值得細觀。
看完陳列,順道還可去“聽鸝館”參觀。那是一座小小的四合院,里面的盆景值得觀賞,臨時舉辦的各種展出也很有文化品味。
武侯祠導游詞7諸葛亮,字孔明,瑯琊陽都(今山東沂南)人,東漢末年,天下軍閥割據,諸葛亮隱居鄧縣隆中(今湖北囊陽),被稱為“臥龍先生”。劉備為了統一漢室天下,三顧茅廬,已成千古佳話。年方27歲的諸葛亮宏圖在胸,他分析了當時天下的格局,以及足以和劉備抗衡的曹操、孫權的勢力,一席話便劉備茅塞頓開。孔明未出茅廬,已知三分天下,真萬古之人不及也。劉備臨終的一句叮囑,一份寄托,便有了諸葛亮一句經典話語“鞠躬盡瘁,死而后已”。由于六出祁山的超負荷運轉,他的生命也隨著他的誓言隨風而去了!我們現在就來到了武侯墓。大家會問,為什么叫“武侯墓”?是因為諸葛亮輔佐劉備創建了蜀國,官至丞相,被封為“武鄉侯”,死后劉禪溢封“忠武侯”,所以,人們就稱他的墳冢為“武侯墓”。現在的武侯墓區,總占地面積片萬平方米,明清遺留下來的古建筑70余間。進入陵園大門,便可以看到山門內側的兩幅壁畫,分別是“三顧茅廬”和“諸葛亮臨終托付遺言”時的場景,栩栩如生的畫面展現了諸葛亮一生的政治軍事生涯。經過拜殿,我們就來到了大殿。大殿前的匾額上書“功蓋三分”四個大字。請大家跟我走進這座雄偉寬敞、莊嚴肅穆的大殿。
武侯祠導游詞820xx年12月,原成都市南郊公園合并為武侯祠園林區。南郊公園原系民國時期四川省主席、抗戰時期第七戰區司令長官劉湘墓園。始建于1938年至1942年,400米的中軸線縱貫南北,石牌坊大門、三洞門、四方亭、薦馨堂、墓室等,是西南地區惟一一座北方陵園建筑群。在武侯祠的發展規劃中,西區將打造成三國文化的傳播體驗中心。
1953年經修整辟為公園,依次建有浮雕式石牌坊大門、旌忠門、碑亭、薦馨堂、劉湘墓等建筑。武侯祠東側的錦里由武侯祠博物館恢復修建,錦里為清末民初建筑風格的古街。它依托武侯祠,擴展了三國文化的外延,并融入川西民風、民俗,集吃、住、行、游、購、娛于一體,成為成都文化旅游的新亮點。
現緊鄰武侯祠的“錦里”古街由成都武侯祠博物館斥資復建,為“全國文化產業示范基地”。錦里作為武侯祠博物館(三國歷史遺跡區、錦里民俗區、西區)的一部分,占地30000余平方米,建筑面積14000余平方米,街道全長550米。建筑以清末民初四川民居風格為基礎,內容以三國文化和四川傳統民俗文化為內涵。錦里于20xx年10月正式對外開放;其延伸段于20xx年1月開肆,錦里延伸段大膽將活水引入循環,形成“水岸錦里”的新景觀。“拜武侯,泡錦里”已成為成都旅游最具號召力的響亮口號之一。
傳說錦里曾是西蜀歷史上最古老、最具有商業氣息的街道之一,早在秦漢、三國時期便聞名全國。今天的'錦里依托成都武侯祠,以秦漢、三國精神為靈魂,明、清風貌作外表,川西民風、民俗作內容,擴大了三國文化的外延。在這條街上,濃縮了成都生活的精華:有茶樓、客棧、酒樓、酒吧、戲臺、風味小吃、工藝品、土特產,充分展現了四川民風民俗的獨特魅力。
匾額為“漢昭烈廟”。大門內濃蔭叢中,矗立著六通石碑,兩側各有一碑廊,其中最大的一通在東側碑廊內,唐代“蜀漢丞相諸葛武侯祠堂碑”,唐憲宗元和四年(公元809年)立,有很高的文物價值,為國家一級文物,因文章、書法、刻技俱精被稱為“三絕碑”。唐朝著名宰相裴度撰碑文,書法家柳公綽(柳公權之兄)書寫,名匠魯建刻字,都出自名家,因此被后世稱為三絕碑。碑文對諸葛亮的一生,作了重點褒評;竭力贊頌諸葛亮的高風亮節,文治武功,并以此激勵唐代的執政者。碑文特別褒獎諸葛亮的法治思想,馬謖因失街亭被諸葛亮依法處斬,臨刑,馬謖哭著表示自己死而無怨。李嚴與廖立,兩人都是被諸葛亮削職流放的罪人,但他們也自甘服罪。當他們得知諸葛亮病逝,“聞之痛之,或泣或絕”。這些均屬史實,裴度據史褒評,令人信服碑文通篇辭句甚切,文筆酣暢,使人百讀不厭。諸葛亮之所以為后人所敬仰,還因為他有著高尚的思想和作風,不利用職權謀私。
二門之后是劉備殿,又名昭烈廟。入武侯祠正門,即可見到氣勢恢宏的昭烈廟。昭烈廟為單檐歇山式建筑。正中有劉備貼金塑像,高3米,儀容豐滿莊重,耳大垂肩。左側陪祀的是他的孫子北地王劉諶像。劉備像側原有其子蜀漢后主劉禪像,因劉禪昏庸無能,不能守基業,喪權辱國,宋真宗時被四川地方官撤除,后來就沒有再塑。在蜀漢后主劉禪降魏時其子劉諶到劉備墓前哭拜,殺掉家人后自殺身亡。兩側偏殿,東有關羽父子和周倉塑像,西有張飛祖孫三代塑像,表現了關、張兩人的不同外貌和不同性格,又反映了他倆武藝超群、勇猛過人的共同特征。兩側東、西廊房分別塑有蜀漢文臣、武將坐像各十四尊。東側文臣廊坊以龐統為首,西側武將廊房以趙云領銜。每個塑像如真人大小,像前立有一通小石碑,刊其姓名、生平,便于游人了解。這些塑像,個個氣宇軒昂,形神兼備,反映了我國清代民間藝人的高超泥塑技藝。昭烈廟正殿西壁掛有據說為岳飛所書《出師表》木刻,東壁為現代書法家沈尹默書《隆中對》木刻。
諸葛亮殿西側是劉備墓,史稱“惠陵”。由諸葛亮親選寶地,葬劉備于此。《三國志·先主傳》記載:“八月,葬惠陵”。據《謚法》,“愛民好與,曰‘惠’”,故名劉備墓稱“惠陵”。陵墓中還合葬有劉備的甘、吳二位夫人。劉備墓前有清乾隆年間所立“漢昭烈皇帝之陵”石碑,陵墓建筑由照壁、柵欄門、神道、寢殿等組成。陵前有規模較小的神道為清代所建。惠陵與武侯祠主要建筑一樣亦為坐北朝南,緊鄰在漢昭烈廟與武侯祠西側。與武侯祠之間有紅墻夾道相連。
成都武侯祠的字畫、對聯甚多,其中的現代書法家沈尹默書寫的《隆中對》最引人注目。武侯祠還有岳飛手書的諸葛亮《出師表》刻石(歷來對此的真偽存有爭議,有一種說法,此前、后兩表實際上是明代士人白麟偽托岳飛之名所書)。
劉備殿后,下數節臺階(武侯祠低于漢昭烈廟,象征古代君臣關系),是一座過廳,掛有“武侯祠”匾額。武侯祠是紀念三國時蜀漢丞相武鄉侯諸葛亮的祠堂,諸葛亮生前封“武鄉侯”,死后謚號“忠武”,故紀念他的祠堂稱作“武侯祠”。諸葛亮殿懸“名垂宇宙”匾額,兩側為清人趙藩撰書“攻心”聯:“能攻心則反側自消,自古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,后來治蜀要深思。”的聯文,是頗負盛名的一副對聯,借對諸葛亮、蜀漢政權及劉璋政權的成敗得失的分析總結,提醒后人在治蜀、治國時借鑒前人的經驗教訓,要特別注意“攻心”和“審勢”。正殿中供奉著諸葛亮祖孫三代的塑像。殿內正中有諸葛亮頭戴綸巾、手執羽扇的貼金塑像,像前的三面銅鼓相傳是諸葛亮帶兵南征時制作,人稱“諸葛鼓”。鼓上有精致的圖案花紋,為珍貴的歷史文物。大殿頂梁由烏木制成,上書諸葛亮寫給兒子諸葛瞻《誡子書》中“非澹泊無以明志,非寧靜無以致遠”(不看輕世俗的名利就不能明確自己的志向,不是身心寧靜就不能實現遠大的理想)。諸葛瞻及其子尚在綿竹抗擊魏將鄧艾的戰斗中不幸身亡。
惠陵,武侯祠里,蜀國的重要人物都有塑像。其中,劉備、諸葛亮、關羽和張飛,都有專殿,其余的重要文官與武將,則分別塑在文武廊。東邊是文官廊,西邊是武將廊。
左右兩廊各有文臣武將十四員,合計共二十八名文武。東府文官廊以龐統為首,其次為簡雍、呂凱、傅肜、費祎、董和、鄧芝、陳震、蔣琬、董允、秦宓、楊洪、馬良及程畿;西府武將廊則以趙云為首,依次為孫乾、張翼、馬超、王平、姜維、黃忠、廖化、向寵、傅僉、馬忠、張嶷、張南及馮習。
三義廟現,初名三義祠,清康熙初年由四川提督鄭蛟麟始建。乾隆四十九年(1784)因焚香引起大火被毀,乾隆四十九年(1787)重建,道光二十二年(1842)又曾全面修葺。現在所見建筑和匾聯主要是道光年間的遺存。其建筑為混合結構,面積569㎡,四造五殿,規模宏大。后漸坍圮,僅存少量建筑尚完好,1981年被公布為成都市市級文物保護單位。1998年,因城建需要三義廟由提督街遷建到武侯祠內。
三絕碑,本名蜀丞相諸葛武侯祠堂碑。在武侯祠大門至二門之間的東側碑亭中。碑高367厘米,寬95厘米,厚25厘米、唐憲宗元和四年(809年)刻建。由唐代宰相裴度撰文,書法家柳公綽(柳公權之兄)書寫,石工魯建鐫刻。裴文、柳書、魯刻,三者俱佳,所以后世譽為三絕碑。一說三絕指諸葛亮的功績、裴度的文章、柳公綽的書法。碑陽、碑陰、碑側遍刻唐、宋、明、清時代的題詩、題名、跋語。
成都武侯祠現分文物區、園林區和錦里三部分,面積230畝(15萬平方米)。根據武侯祠新的規劃內容,武侯祠將對這三個區域進行更加合理的功能區劃,分為三國歷史遺跡區、錦里民俗區、三國文化體驗區三大板塊。
武侯祠同漢昭烈廟、劉備墓(惠陵)相毗連。整個武侯祠坐北朝南,主體建筑大門,二門,漢昭烈廟,過廳,武侯祠五重建筑,嚴格排列在從南到北的一條中軸線上。以劉備殿最高,建筑最為雄偉壯麗。武侯祠后還有三義廟、結義樓等建筑。
文物區主要由惠陵、漢昭烈廟和武侯祠三部分組成,祠廟現存主體建筑(除惠陵)均為清康熙十一年(公元1672年)重建,坐北朝南,排列在一條中軸線上,依次為大門、二門、漢昭烈廟、過廳、武侯祠以及遷建的三義廟和新建的結義樓,共七重。祠內供奉劉備、諸葛亮等蜀漢英雄塑像50余尊,唐及后代碑刻50余通,匾額、楹聯70多塊,尤以唐“三絕碑”、清“攻心”聯最為著名。
武侯祠導游詞9各位游客:
大家好!今天我們參觀了武侯祠。武侯祠位于成都南門武侯街231號。今天我們的游覽路線是:達門、三覺白、二門、劉備堂、文官武將廊、諸葛亮堂、劉備陵園。從北門出發,全程大概3個小時。下午5點在北門見面并登機。請記住。在參觀之前,我想告訴大家幾個注意事項:第一,請注意安全,愛護環境,不要亂扔垃圾。第二,請記住我的電話號碼和車牌號碼。你還記得嗎?
武侯祠是中國唯一的廟宇,由劉備、諸葛亮、蜀漢和惠玲組成。劉備的陵墓建于公元223年。1000年來,損壞頻繁,更換頻繁。武侯祠(諸葛亮的專廟)建于唐以前,與昭烈祠相鄰,供奉劉備(漢昭烈帝)。明初重建時,武侯祠并入漢昭烈祠,形成現存武侯祠。現存寺廟的主體建筑重建于1672年清朝康熙時期(康熙十一年)。1961年,被宣布為國家重點文物保護單位。博物館建于1984年,2008年被授予首批國家一級博物館,享有三國圣地的美譽。中國的總設計師鄧小平曾經說過:武侯祠很有名氣,很多人都看到了。可以說武侯祠已經成為成都的標志性景點。朋友們,現在我們的位置是諸葛亮堂。廟里供奉的是諸葛亮,他兒子孫子的鍍金泥塑。你看,壁龕中間是諸葛亮的塑像。他戴著一條黑色的絲帶圍巾,穿著一件金色的長袍,眼睛專注于冥想。他憂國憂民、高瞻遠矚的精神,顯示了一代儒家的魅力。諸葛亮是中國古代政治家中的杰出人物。在《三國志》、《晉書》等歷史著作中,他因其政治和軍事才能而受到高度評價。在《三國演義》中,他被塑造成一個近乎完美的人物,具有大智慧、不屈不撓的精神和無所不能的能力。諸葛亮有多完美,有多睿智?請讓我逐一分析。
首先,他是一位杰出的政治家。諸葛亮大事小事兼顧,俯首帖耳,汗流浹背數日。他不僅承擔了國家軍事和政治計劃的決策和宣傳,而且親自監督水利工程、橋梁、道路、房屋等工程的建設,組織養蠶、織錦、制鹽、冶鐵、鑄幣等重要事業,實行嚴格科學教育、忠實獎懲、重農重桑、關心民生的正確政策,逐漸恢復了蜀漢的生機。南侵,閩越和解,實行最好的國策,后方穩定。蜀漢逐漸創造了一種物質豐富、人口富裕的局面。
然后,他是一個生動的戰略家。以決定劉備集團命運和三方對抗的赤壁之戰為例,諸葛亮是決定戰爭勝負最關鍵的人物。孫劉聯盟的建立是由他促成的;孫權反抗曹的決心被他堅定了;周瑜的群英社、蔣干的盜書、黃蓋的苦計、詐計被他一眼看穿;他和周瑜共同商定了競選的關鍵決定;并且可以借決定性的東風進行火力攻擊。可以說,孫劉聯盟離不開他在勝利道路上的每一步智慧前進;沒有他,盟軍幾乎不可能打敗曹操。
其次,他是一個偉大的發明家。諸葛亮非常重視裝備的革新和戰術的改進,創造了能熟練運糧運草的木牛馬,神秘的八陣圖,射力極強的弩,神奇的孔明燈籠。
以孔明燈籠為例,它是諸葛亮在北伐戰爭中被司馬懿困在平陽時發明的,也是熱氣球的來歷。在科技不發達的三國時代,諸葛亮仍有可能是世界上第一個發現熱氣球空中漂浮原理的人。真的是臥龍!毫不夸張地說,他是智慧的化身。
嗯,游客們,我們都認識諸葛亮。劉備的陵墓呢?我們帶著懸念去下一個景點,劉備陵。
謝謝你,我的解釋結束了
武侯祠導游詞10武侯祠是紀念三國蜀漢丞相諸葛亮的祠堂。諸葛亮生前封武鄉侯,死后謚號忠武侯,后人便尊稱他為武侯。
成都武侯祠是全國唯一的一座君臣合祀的廟宇,始建于公元223年劉備入葬于惠陵。依據漢制,陵旁必有廟,所以在劉備下葬于惠陵后,當時的蜀漢就在陵旁修建了祭祀劉備的原廟。(原廟是帝王陵旁祭祀此帝王的廟宇,唐宋時期,人們一般稱劉備的原廟為先主廟。)(因為現成都武侯祠共有三大主體建筑,劉備死后就已出現其中兩組,故以劉備下葬惠陵作為成都武侯祠之始。)到南北朝時,在惠陵和先主廟不遠的地方人們又修建了武侯祠,唐宋時期,武侯祠就已成為著名的古跡和旅游勝地,杜甫當時就留下了“丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森”的描述。明代時,蜀獻王朱椿認為“君臣宜一體”,就把武侯祠與先主廟合并為一,通稱“漢昭烈廟”,明末清初,祠廟毀于戰亂。這天看到的武侯祠,是清代康熙十一年(公元1672年)在舊址上重建的。
盡管官方一向把那里叫作“漢昭烈廟”,大門也懸掛著“漢昭烈廟”的橫匾。但人們仍習慣的稱那里為武侯祠。為什么呢?民國年間的鄒魯寫的一首詩,道出了其中的緣由:“門額大書昭烈廟,世人都道武侯祠。由來名位輸勛業,丞相功高百代思”。也就是說,因為諸葛亮的歷史功績大,他在百姓心中的威望超過了劉備,人們就顧不了君尊臣卑的禮儀了。
從大門左側簡介和平面示意圖上看到,武侯祠掩映在森森翠柏中,殿宇坐北向南,布置在一條中軸線上,有大門、二門、劉備殿、過廳、諸葛亮殿五重,西側為劉備陵園——惠陵。祠內有清代蜀漢歷史人物泥塑像47尊,碑碣50多塊,匾聯60多幅,鼎、爐、鐘、鼓10余件。因此,確切地講,武侯祠就應稱作蜀漢君臣紀念堂,它是研究蜀漢歷史的一座博物館。
武侯祠導游詞11各位游客們那里是諸葛亮殿。殿的門楣楹柱上掛滿了前人留下的匾聯。其中最有名的是懸掛在諸葛亮殿正中的一聯,即“能功心則反側自消,從古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,之后治蜀要深思”。聯文是清末云南劍川人趙藩撰書。
上聯說,諸葛亮在打仗中能用“攻心”戰術,如南征時對孟獲七擒七縱,使其心悅誠服,以此稱贊諸葛亮是真正懂得用兵打仗,而不是好戰的軍事家。
下聯稱頌諸葛亮能審時度勢,制定出寬嚴得宜的法度,收到良好效果,提醒之后治理四川的人從中汲取教益。這幅對聯對諸葛亮的用兵和施政作出了客觀的評價,提出“攻心”和“審勢”兩個很有啟發性的問題,是武侯祠匾聯中的上品,也是我國名聯之一。
諸葛亮殿內,供奉著諸葛亮和他的兒子、孫子的貼金泥塑像。諸葛亮像在正中的龕臺上,他羽扇綸巾,身披金袍,凝目沉思,其憂國憂民,深謀遠慮的神采,顯示出一代儒相的風儀。諸葛亮(181—234),字孔明,山東沂南人,是中國歷史上杰出的政治家、軍事家。他年輕時隱居于襄樊隆中,因才智超群,刻苦好學,胸懷大志,得“臥龍”的美稱。經劉備三顧之請,出山鋪佐劉備,建立蜀漢;劉備死后,受托孤之重任,輔佐其子劉禪,執掌朝政,治蜀達20多年;他施行教化,嚴明賞罰,選賢任能,興修水利,發展生產,南征南中,北伐祁山,以忠貞、勤勉、廉潔和才智,換來了蜀地的安定和繁榮。史學家陳壽評論說,當時的蜀國,政治清明,民風淳正,田野開辟,倉廩充實,到處是升平景象。由于過度辛勞,他54歲時,病逝于北伐前線五丈原軍中,埋葬在陜西勉縣定軍山下,墳墓至今尚存。
諸葛亮一生做了不少勤政愛民和有益于社會進步的好事,他死后,人們十分懷念他,對他鞠躬盡瘁,死而后已的精神更是十分敬重。于是,人們便修起了一座又一座武侯祠來紀念他,還把他作為忠臣賢相的典范,智慧的化身而加以崇拜。
諸葛亮的兒子諸葛瞻、孫子諸葛尚,在蜀漢面臨存亡之時,率部與魏軍在綿竹決戰,終因寡不敵眾,為國捐軀。
諸葛亮殿內陳列有一面銅鼓,是公元五、六世紀時的文物。銅鼓,原是西南少數民族古代的炊具,從考古發現來看,早在春秋戰國時期就已經出現了。之后銅鼓逐漸演變成一種樂器、禮器,在集會、慶典時使用,也是財富和權力的象征。相傳諸葛亮南征時,曾使用過這種銅鼓,白天用來煮飯,晚上當鼓,用來報警,一物多用。因此,又稱為諸葛鼓。
在殿外的兩側廂房內,陳列著木刻詩文。西廂有毛澤東、董必武、張愛萍、方毅、周谷成、楚圖南、梁漱溟等人的墨寶共12幅,東廂為木刻的《隆中對》和《出師表》。
三義廟:
出諸葛亮殿往后,就是三義廟。三義廟因祭祀桃園三結義的劉、關、張而得名。廟始建于清康熙年間,原有四進五殿,規模宏大。現僅存拜殿、正殿,成四合院布局。三義廟本在市區中心的提督街,因城市建設的需要,1997年遷建于此。遷建工程嚴格按照國家文物法規,將原建筑構件編號拆下,運至新址按編號搭建,恢復原貌。
恢復重建的三義廟巍峨聳立,其建筑形制與劉備殿一致。屋頂為單檐硬山式,青色簡瓦覆蓋其上,結構為木石結構,抬梁式木構架,立柱及柱礎均為石質。有40根整石雕成的圓形立柱,柱徑0。5米。有24根石柱上刻對聯12副,聯文描金。正殿恢復了劉、關、張的泥塑坐像,廊房兩壁新增加十幅三國故事線描石刻畫。畫稿取自明代《三國演義》版本。這些畫的資料是:桃園三結義、三英戰呂布、張飛鞭打督郵、劉備招親、關公刮骨療毒等。
劉備墓:
出三義廟西行,過小橋,經桂荷樓、琴亭,進入翠竹簇擁的紅墻夾道。夾道盡處,是劉備墓。劉備墓土冢高12米,墓上綠蔭覆蓋。有一道180米長的磚墻環護著陵墓,墓前有碑和寢殿。
劉備伐吳失敗后,退駐白帝城,于公元220xx年四月病逝。五月,諸葛亮扶靈樞回成都,八月下葬,墓稱“惠陵”。惠陵是一座夫妻合葬墓。同時下葬的還有后主劉禪的母親甘夫人。20xx年后,劉備的另一位夫人吳夫人穆皇后去世,也葬于此。此墓距今1700多年,沒有發現被盜,墓中狀況不詳。
在唐代段成式所作的《酉陽雜俎》中曾記載了這么一則故事:一伙盜墓賊在一個漆黑的夜晚打洞進入劉備惠陵,當他們進入墓室后,看見里面燈火輝煌,劉備正與一人下棋,十名武士侍立一側。賊人嚇得魂不附體,紛紛下跪求饒,劉備揮手示意衛士賜予玉帶和瓊漿。他們喝了瓊漿,系上玉帶,驚慌爬出洞來,回頭一看,洞口自然封好,玉帶變成了大蛇,纏住了腰,瓊漿變成膠粘住了嘴巴。據說從此再也沒有人敢動劉備墓了。
出劉備墓照壁,就來到新建的“三國文化陳列”展區。該展區由展廳和外環境兩部分組成。外環境神獸天祿、辟邪、漢宮殘柱、兵爭社稷、殘壁石刻明楊慎《臨江仙》、石刻序言等組成。展廳內分五個展區,分別是戰爭風云、農桑一瞥、民俗采風、藝林擷英、流風遺韻等。共展出文物、資料、圖片數百件。資料豐富多彩,藝術手法形象直觀,集知識性、觀賞性為一體,很值得細觀。
武侯祠導游詞12各位游客你們好,我是你們的導游佳佳,歡迎大家到武侯祠觀光游覽!
武侯祠位于南陽市西郊臥龍崗,南陽武侯祠,有名諸葛草廬,是三國時期著名的政治家、軍事家諸葛亮“躬耕于南陽”時留下的故址,當年劉皇叔三顧之處,也是歷代人們瞻仰和祭拜諸葛亮的地方。
好了,各位游客,現在我們來到了武侯祠的入口,大家看這座“千古人龍”石坊,高9米,面闊13。5米,三門四柱,遍體布滿雕飾,“千古人龍”的意思是指諸葛亮是人中之龍,隱喻臥龍崗是藏龍臥虎之地。
各位游客,現在我們來到了大拜殿,它是武侯祠的主體建筑。殿內塑的是孔明端坐正面像,它綸巾羽扇,風度莊嚴。左邊是他的長子諸葛瞻,右邊是它的長孫諸葛尚。殿堂的檐下、柱上掛滿了歷代名人騷客的對聯和碑額,這些碑額無不充滿世人對諸葛亮的敬重仰慕之情。
好了,下面是游客們自由參觀時間,請大家注意,不要亂刻亂畫,亂扔垃圾,妥善保管好自己攜帶的物品,集合的時間是十一時,集合的地點是武侯祠門前。祝大家參觀愉快。
各位朋友們大家好,歡迎來到漢中參觀旅游,我叫王博麗,是你們的導游,這兩天我們會一起度過,好了,閑話不多說,今天呢,我先帶大家去的地方是武侯祠了。
諸葛亮一生去過的地方很多,所以后人為他修建的祠廟也很多。風景最美最秀麗的是湖北襄陽的武侯祠,規模最大最宏偉的是四川成都的武侯祠,而修建時間最早的就是我們漢中的武侯祠了。比大名鼎鼎的成都武侯祠還要早41年,因此有天下第一武侯祠之稱。
武侯祠地處于勉縣城西3公里處,位于川陜公路以南,漢江以北,占地80多畝,有明清風格的古建筑30余座、150余間。西與古陽平關,諸葛亮讀書臺,蓮花池相接,東與馬超墓,劉備設壇立王處等古跡連成一線,北有古戰場天蕩山,南與定軍山古戰場和武侯墓遙遙相對。
武侯祠是陜西省重點保護單位,是國家3a級景區,關于武侯祠我就先講這么多了,等到了武侯祠之后我再給大家詳細講解。
昨天帶大家參觀了杜甫草堂,錦里等,那么今天我將帶大家去另一個而比較有意義的地方,那就是成都武侯祠。
武侯祠是紀念三國蜀漢丞相諸葛亮的祠堂。諸葛亮生前封武鄉侯,死后謚號忠武侯,后人便尊稱他為武侯。成都武侯祠是全國唯一的一座君臣合祀的廟宇,始建于公元223年劉備入葬于惠陵。
現在我們來到了武侯祠的門口,門口旁邊有一個景點的簡介,大家可以先看一看,了解了解,然后我們就一起進去參觀,還是重復一下我每天都在說的,注意安全,文明參觀,謝謝大家的配合,好了,大家跟著我一起進去吧。
現在看到的就是劉備殿了,殿的正中,供奉著劉備的貼金泥塑坐像。
現在我們到了諸葛亮殿。殿的門楣楹柱上掛滿了前人留下的匾聯。諸葛亮殿內,供奉著諸葛亮和他的兒子、孫子的貼金泥塑像。諸葛亮像在正中的龕臺上,他羽扇綸巾,身披金袍,凝目沉思,其憂國憂民,深謀遠慮的神采,顯示出一代儒相的風儀。
武侯祠里面還有很多值得觀賞的地方,大家可以自由觀賞一下,現在是10點半,我們11點半在門口集合,然后去吃午飯。
現在我們已經到了我們今天的目的地——武侯祠,請大家下車,我們依次排隊進入景區。排隊這個時間我先給大家簡單介紹一下武侯祠。
武侯祠是紀念三國蜀國丞相諸葛亮的祠堂。諸葛亮生前封武鄉侯,死后溢號忠武侯,后人便尊稱他為武侯。
好了,現在大家跟我我,我們一起進去。可以抬頭看看這里的大門,大門懸掛著“漢昭烈廟”的橫匾。漢,是劉備政權的稱號,史稱“蜀漢”。昭烈,是劉備死后的溢號。匾額說明,這里是祭祀蜀國皇帝劉備的廟宇。
很多朋友又會問了,既然這里是祭祀劉備的廟宇,有為什么會叫武侯祠呢,啟示是因為諸葛亮的歷史功績大,他在百姓心中的威望超過了劉備,人們就不顧君尊臣卑的禮儀和這座祠廟本來的名稱了。
武侯祠里面有很多值得參觀的地方,比如說三絕碑、二門、前后出師表、文臣武將廊,劉備殿,諸葛亮殿,然后還有桂和樓以及我們的劉備墓。愿意聽我講解的朋友就跟我走,想要自己游覽的朋友可以自由參觀,我們11點30分在這個地方集合。
大家好,相信大家對于三國著名人物諸葛亮都不會陌生吧,今天我要給大家介紹的就是其中一個紀念他的祠堂——成都武侯祠。
武侯祠是紀念三國蜀國的丞相諸葛亮的祠堂,諸葛亮生前封為武鄉侯,死后謚號武侯,所以后人便稱他為武侯。可能會有人問,武侯祠建于何時?恩,已經沒有資料可考了,但從杜甫《蜀相》中描寫的“丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森。”來判斷早在唐代以前就建有武侯祠了。而在唐宋時代,這里分別有武侯祠和劉備廟。明代初年,祠廟合并為一體。明末,祠廟毀于戰亂,現在大家要是去成都的話,看到的是清代在舊址上重建的。
大門上懸掛著“漢昭烈廟”的橫匾。“漢”,是劉備政權的稱號,史稱“蜀漢”。“昭烈”是劉備死后的謚號。匾額說明,這里是祭祀蜀國皇帝劉備的廟宇,既然如此,人們為什么又叫它為武侯祠呢?民國年間的鄒魯寫過這樣一首“額大書昭烈廟,世人都道武侯祠,由來名位輸勛業,蜀相功高百代思。”也就是說,諸葛亮的歷史功績大,他在百姓中的威望超過了劉備,人們就不顧君臣尊卑的禮儀和這座廟本來的名稱了。
好了,我們就一起進去領會諸葛亮的魅力吧。
武侯祠導游詞13游客們好。我是賈加,你的向導。歡迎來武侯祠觀光。
武侯祠位于南陽市西郊臥龍崗。它以諸葛曹璐而聞名。是三國時期著名政治家、軍事家諸葛亮留下的舊址。當年劉皇叔照看它的地方,也是歷代人祭拜諸葛亮的地方。
好了,游客們,現在我們來到武侯祠門口。看看這個古老的龍石作坊,高9米,寬13米。5米,三門四柱,上面雕刻著。永恒之龍的意思是諸葛亮是民間的龍,臥龍崗的比喻是藏龍臥虎之地。
各位游客,現在我們來到了大白寺,這是武侯祠的主樓。殿內有一幅孔明的畫像,端端正正坐著,戴著黑絲綬帶圍巾和羽扇,神態肅穆。左邊是他的長子諸葛瞻,右邊是他的長孫諸葛尚。殿宇檐柱上掛滿了歷代名人、詩人的對聯和銘文,無不飽含著世人對諸葛亮的敬仰和敬仰。
好的,這里是游客參觀的自由時間。請注意避免亂涂亂丟,愛護自己的財物。聚會時間是11點,聚會地點在武侯祠前。祝大家參觀愉快。
武侯祠導游詞14各位游客:
大家好!
從山門跨進武侯祠,叢竹簇簇,松柏森森,翠柳青青,潭水粼粼,景色優美宜人,眼前的香爐里煙霧繚繞,仿佛能帶人一覽三國鼎立的場面o繞過香爐拾級而上,進入了一處靜謐的院落o院子內古木交錯,花卉滿庭o一棵棵百年大樹就像忠心耿耿的士卒守衛著庭院,將庭院的氣氛裝飾得更加神秘o大拜殿是人們祭祀孔明先生的地方,殿內塑著孔明端坐的正面像,他羽扇綸巾,風度莊嚴o地上的蒲團上跪著祈福的人們,虔誠地祈求孔明的庇護o殿堂的柱子上掛滿了歷代名人撰寫的對聯o這些對聯無不包含著人們對孔明先生的敬重和仰慕之情,我閉上眼睛,好像看到了孔明先生手搖羽扇,為劉備出謀劃策的情景o,大殿后,翠竹叢中簇擁著蓬松如傘、古樸美觀的茅廬o茅廬正門上懸掛著“諸葛草廬”的匾額o據說,這是諸葛孔明當年隱居的地方o諸葛草廬左側是野云庵,右側為古柏亭,是諸葛孔明會友讀書之處o在這淡雅氣息的籠罩中,我腦中又浮現出“三顧茅廬”的畫面……
武侯祠之游,給我留下頗深印象的要數那些碑刻、牌匾和楹聯,這一切,使武侯祠彰顯豐富的文化內涵,閃爍著中國古老文化的燦爛光輝o,領略過武侯祠的莊嚴和神韻,我更加確信,南陽兒女今天創造的輝煌,在若干年后,也定會成為巍峨的豐碑!
武侯祠導游詞15各位游客:
你們好!
我是你們的導游佳佳,歡迎大家到武侯祠觀光游覽!
武侯祠位于南陽市西郊臥龍崗,南陽武侯祠,有名諸葛草廬,是三國時期著名的政治家、軍事家諸葛亮“躬耕于南陽”時留下的故址,當年劉皇叔三顧之處,也是歷代人們瞻仰和祭拜諸葛亮的地方。
好了,各位游客,現在我們來到了武侯祠的入口,大家看這座“千古人龍”石坊,高9米,面闊13。5米,三門四柱,遍體布滿雕飾,“千古人龍”的意思是指諸葛亮是人中之龍,隱喻臥龍崗是藏龍臥虎之地。
各位游客,現在我們來到了大拜殿,它是武侯祠的主體建筑。殿內塑的是孔明端坐正面像,它綸巾羽扇,風度莊嚴。左邊是他的長子諸葛瞻,右邊是它的長孫諸葛尚。殿堂的檐下、柱上掛滿了歷代名人騷客的對聯和碑額,這些碑額無不充滿世人對諸葛亮的敬重仰慕之情。
好了,下面是游客們自由參觀時間,請大家注意,不要亂刻亂畫,亂扔垃圾,妥善保管好自己攜帶的物品,集合的時間是十一時,集合的地點是武侯祠門前。
祝大家參觀愉快!
第四篇:武侯祠導游詞(集錦)
武侯祠導游詞(集錦15篇)
作為一名樂于助人的導游,可能需要進行導游詞編寫工作,導游詞是導游人員引導游客觀光游覽時的講解詞。優秀的導游詞都具備一些什么特點呢?下面是小編精心整理的武侯祠導游詞,希望能夠幫助到大家。
武侯祠導游詞1諸葛亮,字孔明,瑯琊陽都(今山東沂南)人,東漢末年,天下軍閥割據,諸葛亮隱居鄧縣隆中(今湖北囊陽),被稱為“臥龍先生”。劉備為了統一漢室天下,三顧茅廬,已成千古佳話。年方27歲的諸葛亮宏圖在胸,他分析了當時天下的格局,以及足以和劉備抗衡的曹操、孫權的勢力,一席話便劉備茅塞頓開。孔明未出茅廬,已知三分天下,真萬古之人不及也。劉備臨終的一句叮囑,一份寄托,便有了諸葛亮一句經典話語“鞠躬盡瘁,死而后已”。由于六出祁山的超負荷運轉,他的生命也隨著他的誓言隨風而去了!我們現在就來到了武侯墓。大家會問,為什么叫“武侯墓”?是因為諸葛亮輔佐劉備創建了蜀國,官至丞相,被封為“武鄉侯”,死后劉禪溢封“忠武侯”,所以,人們就稱他的墳冢為“武侯墓”。現在的武侯墓區,總占地面積片萬平方米,明清遺留下來的古建筑70余間。進入陵園大門,便可以看到山門內側的兩幅壁畫,分別是“三顧茅廬”和“諸葛亮臨終托付遺言”時的場景,栩栩如生的畫面展現了諸葛亮一生的政治軍事生涯。經過拜殿,我們就來到了大殿。大殿前的匾額上書“功蓋三分”四個大字。請大家跟我走進這座雄偉寬敞、莊嚴肅穆的大殿。
武侯祠導游詞2武侯祠是紀念三國時期蜀漢丞相諸葛亮的祠堂。是以諸葛亮生前被封為武鄉侯而得名。
公元234年8月,諸葛亮過勞死,死于五丈原(今陜西省寶雞市岐山縣以南約20公里),享年54歲。蜀漢丞相諸葛亮生前曾被封為“武鄉侯”,后被蜀漢國君劉禪謚號為“忠臣武侯侯”,所以他的廟在歷史上被尊為“武侯祠”。中國最早的武侯祠位于陜西省漢中市勉縣(綿縣),但目前影響最大的是成都武侯祠。
據《三國志》記載,劉備于公元223年死于白蒂城后,靈柩運回成都葬于此,史稱惠玲。按照漢制,有陵就有廟,所以同時就誕生了漢昭烈廟。南北朝前后,成都武侯祠與惠玲祠、韓昭烈祠合并。
劉備的陵墓建于公元223年。
明初重建時,武侯祠并入“漢昭烈祠”,形成了現存的武侯祠。現存寺廟的主體建筑重建于1672年清朝康熙時期(康熙十一年)。
1961年,被宣布為國家重點文物保護單位。該博物館建于1984年。
2008年被授予首批國家一級博物館,享有“三國圣地”的美譽。成都武侯祠現分為文物區(三國歷史文物區)、園林區(三國文化體驗區)、金里(金里民俗區)三部分,面積約15萬平方米。
2006年被評為國家AAAA級旅游景區,是世界上最具影響力的三國文物博物館。
武侯祠導游詞320xx年12月,原成都市南郊公園合并為武侯祠園林區。南郊公園原系民國時期四川省主席、抗戰時期第七戰區司令長官劉湘墓園。始建于1938年至1942年,400米的中軸線縱貫南北,石牌坊大門、三洞門、四方亭、薦馨堂、墓室等,是西南地區惟一一座北方陵園建筑群。在武侯祠的發展規劃中,西區將打造成三國文化的傳播體驗中心。
1953年經修整辟為公園,依次建有浮雕式石牌坊大門、旌忠門、碑亭、薦馨堂、劉湘墓等建筑。武侯祠東側的錦里由武侯祠博物館恢復修建,錦里為清末民初建筑風格的古街。它依托武侯祠,擴展了三國文化的外延,并融入川西民風、民俗,集吃、住、行、游、購、娛于一體,成為成都文化旅游的新亮點。
現緊鄰武侯祠的“錦里”古街由成都武侯祠博物館斥資復建,為“全國文化產業示范基地”。錦里作為武侯祠博物館(三國歷史遺跡區、錦里民俗區、西區)的一部分,占地30000余平方米,建筑面積14000余平方米,街道全長550米。建筑以清末民初四川民居風格為基礎,內容以三國文化和四川傳統民俗文化為內涵。錦里于20xx年10月正式對外開放;其延伸段于20xx年1月開肆,錦里延伸段大膽將活水引入循環,形成“水岸錦里”的新景觀。“拜武侯,泡錦里”已成為成都旅游最具號召力的響亮口號之一。
傳說錦里曾是西蜀歷史上最古老、最具有商業氣息的街道之一,早在秦漢、三國時期便聞名全國。今天的錦里依托成都武侯祠,以秦漢、三國精神為靈魂,明、清風貌作外表,川西民風、民俗作內容,擴大了三國文化的外延。在這條街上,濃縮了成都生活的精華:有茶樓、客棧、酒樓、酒吧、戲臺、風味小吃、工藝品、土特產,充分展現了四川民風民俗的獨特魅力。
匾額為“漢昭烈廟”。大門內濃蔭叢中,矗立著六通石碑,兩側各有一碑廊,其中最大的一通在東側碑廊內,唐代“蜀漢丞相諸葛武侯祠堂碑”,唐憲宗元和四年(公元809年)立,有很高的文物價值,為國家一級文物,因文章、書法、刻技俱精被稱為“三絕碑”。唐朝著名宰相裴度撰碑文,書法家柳公綽(柳公權之兄)書寫,名匠魯建刻字,都出自名家,因此被后世稱為三絕碑。碑文對諸葛亮的一生,作了重點褒評;竭力贊頌諸葛亮的高風亮節,文治武功,并以此激勵唐代的執政者。碑文特別褒獎諸葛亮的法治思想,馬謖因失街亭被諸葛亮依法處斬,臨刑,馬謖哭著表示自己死而無怨。李嚴與廖立,兩人都是被諸葛亮削職流放的罪人,但他們也自甘服罪。當他們得知諸葛亮病逝,“聞之痛之,或泣或絕”。這些均屬史實,裴度據史褒評,令人信服碑文通篇辭句甚切,文筆酣暢,使人百讀不厭。諸葛亮之所以為后人所敬仰,還因為他有著高尚的思想和作風,不利用職權謀私。
二門之后是劉備殿,又名昭烈廟。入武侯祠正門,即可見到氣勢恢宏的昭烈廟。昭烈廟為單檐歇山式建筑。正中有劉備貼金塑像,高3米,儀容豐滿莊重,耳大垂肩。左側陪祀的是他的孫子北地王劉諶像。劉備像側原有其子蜀漢后主劉禪像,因劉禪昏庸無能,不能守基業,喪權辱國,宋真宗時被四川地方官撤除,后來就沒有再塑。在蜀漢后主劉禪降魏時其子劉諶到劉備墓前哭拜,殺掉家人后自殺身亡。兩側偏殿,東有關羽父子和周倉塑像,西有張飛祖孫三代塑像,表現了關、張兩人的不同外貌和不同性格,又反映了他倆武藝超群、勇猛過人的共同特征。兩側東、西廊房分別塑有蜀漢文臣、武將坐像各十四尊。東側文臣廊坊以龐統為首,西側武將廊房以趙云領銜。每個塑像如真人大小,像前立有一通小石碑,刊其姓名、生平,便于游人了解。這些塑像,個個氣宇軒昂,形神兼備,反映了我國清代民間藝人的高超泥塑技藝。昭烈廟正殿西壁掛有據說為岳飛所書《出師表》木刻,東壁為現代書法家沈尹默書《隆中對》木刻。
諸葛亮殿西側是劉備墓,史稱“惠陵”。由諸葛亮親選寶地,葬劉備于此。《三國志·先主傳》記載:“八月,葬惠陵”。據《謚法》,“愛民好與,曰‘惠’”,故名劉備墓稱“惠陵”。陵墓中還合葬有劉備的甘、吳二位夫人。劉備墓前有清乾隆年間所立“漢昭烈皇帝之陵”石碑,陵墓建筑由照壁、柵欄門、神道、寢殿等組成。陵前有規模較小的神道為清代所建。惠陵與武侯祠主要建筑一樣亦為坐北朝南,緊鄰在漢昭烈廟與武侯祠西側。與武侯祠之間有紅墻夾道相連。
成都武侯祠的字畫、對聯甚多,其中的現代書法家沈尹默書寫的《隆中對》最引人注目。武侯祠還有岳飛手書的諸葛亮《出師表》刻石(歷來對此的真偽存有爭議,有一種說法,此前、后兩表實際上是明代士人白麟偽托岳飛之名所書)。
劉備殿后,下數節臺階(武侯祠低于漢昭烈廟,象征古代君臣關系),是一座過廳,掛有“武侯祠”匾額。武侯祠是紀念三國時蜀漢丞相武鄉侯諸葛亮的祠堂,諸葛亮生前封“武鄉侯”,死后謚號“忠武”,故紀念他的祠堂稱作“武侯祠”。諸葛亮殿懸“名垂宇宙”匾額,兩側為清人趙藩撰書“攻心”聯:“能攻心則反側自消,自古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,后來治蜀要深思。”的聯文,是頗負盛名的一副對聯,借對諸葛亮、蜀漢政權及劉璋政權的成敗得失的分析總結,提醒后人在治蜀、治國時借鑒前人的經驗教訓,要特別注意“攻心”和“審勢”。正殿中供奉著諸葛亮祖孫三代的塑像。殿內正中有諸葛亮頭戴綸巾、手執羽扇的貼金塑像,像前的三面銅鼓相傳是諸葛亮帶兵南征時制作,人稱“諸葛鼓”。鼓上有精致的圖案花紋,為珍貴的歷史文物。大殿頂梁由烏木制成,上書諸葛亮寫給兒子諸葛瞻《誡子書》中“非澹泊無以明志,非寧靜無以致遠”(不看輕世俗的名利就不能明確自己的志向,不是身心寧靜就不能實現遠大的理想)。諸葛瞻及其子尚在綿竹抗擊魏將鄧艾的戰斗中不幸身亡。
惠陵,武侯祠里,蜀國的重要人物都有塑像。其中,劉備、諸葛亮、關羽和張飛,都有專殿,其余的重要文官與武將,則分別塑在文武廊。東邊是文官廊,西邊是武將廊。
左右兩廊各有文臣武將十四員,合計共二十八名文武。東府文官廊以龐統為首,其次為簡雍、呂凱、傅肜、費祎、董和、鄧芝、陳震、蔣琬、董允、秦宓、楊洪、馬良及程畿;西府武將廊則以趙云為首,依次為孫乾、張翼、馬超、王平、姜維、黃忠、廖化、向寵、傅僉、馬忠、張嶷、張南及馮習。
三義廟現,初名三義祠,清康熙初年由四川提督鄭蛟麟始建。乾隆四十九年(1784)因焚香引起大火被毀,乾隆四十九年(1787)重建,道光二十二年(1842)又曾全面修葺。現在所見建筑和匾聯主要是道光年間的遺存。其建筑為混合結構,面積569㎡,四造五殿,規模宏大。后漸坍圮,僅存少量建筑尚完好,1981年被公布為成都市市級文物保護單位。1998年,因城建需要三義廟由提督街遷建到武侯祠內。
三絕碑,本名蜀丞相諸葛武侯祠堂碑。在武侯祠大門至二門之間的東側碑亭中。碑高367厘米,寬95厘米,厚25厘米、唐憲宗元和四年(809年)刻建。由唐代宰相裴度撰文,書法家柳公綽(柳公權之兄)書寫,石工魯建鐫刻。裴文、柳書、魯刻,三者俱佳,所以后世譽為三絕碑。一說三絕指諸葛亮的功績、裴度的文章、柳公綽的書法。碑陽、碑陰、碑側遍刻唐、宋、明、清時代的題詩、題名、跋語。
成都武侯祠現分文物區、園林區和錦里三部分,面積230畝(15萬平方米)。根據武侯祠新的規劃內容,武侯祠將對這三個區域進行更加合理的功能區劃,分為三國歷史遺跡區、錦里民俗區、三國文化體驗區三大板塊。
武侯祠同漢昭烈廟、劉備墓(惠陵)相毗連。整個武侯祠坐北朝南,主體建筑大門,二門,漢昭烈廟,過廳,武侯祠五重建筑,嚴格排列在從南到北的一條中軸線上。以劉備殿最高,建筑最為雄偉壯麗。武侯祠后還有三義廟、結義樓等建筑。
文物區主要由惠陵、漢昭烈廟和武侯祠三部分組成,祠廟現存主體建筑(除惠陵)均為清康熙十一年(公元1672年)重建,坐北朝南,排列在一條中軸線上,依次為大門、二門、漢昭烈廟、過廳、武侯祠以及遷建的三義廟和新建的結義樓,共七重。祠內供奉劉備、諸葛亮等蜀漢英雄塑像50余尊,唐及后代碑刻50余通,匾額、楹聯70多塊,尤以唐“三絕碑”、清“攻心”聯最為著名。
武侯祠導游詞4各位游客:
剛才我們游覽了武侯祠中的劉備殿以及文臣武將廊,現在我們來到了諸葛亮殿,這里才是真正紀念諸葛亮丞相的武侯祠。
請大家注意,現在我們要下一級臺階。為什么要下這級臺階呢?原來這是古代君尊臣卑觀念的體現。武侯祠是君臣合廟,劉備廟在前,諸葛亮武侯祠在后,于禮制不合,所以人們在建造武侯祠時,就有意將諸葛亮殿建低一個臺階,以突出劉備作為一國之君的崇高地位。
現在我們將穿過過廳。請注意過廳兩側懸掛的匾額、對聯和繪畫,它們大多出自董必武、郭沫若、徐悲鴻、沙孟海、張愛萍等名人名家之手。
請看這副對聯:“能攻心則反側自消,從古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,后來治蜀要深思”。這就是聞名全國的“攻心”對,也是武侯祠對聯中的精品。我們知道,自古以來“天下未亂蜀先亂,天下已治蜀未治”。如何才能治理好四川呢?“攻心”和“審勢”就是最好的答案。
對聯的.作者是清末云南劍川縣人趙藩。上聯是說諸葛亮出兵平定南中叛亂時,采用馬謖建議,實行攻心戰術,對夷帥孟獲七擒七縱,使其心悅誠服,從此不再反叛。稱贊諸葛亮是真正懂得用兵打仗的人,而不是好戰的軍事家。下聯稱贊諸葛亮能審時度勢,制定出寬嚴得宜的法度,收到良好的效果,提醒后人從中吸取教益。這副對聯對諸葛亮用兵和施政作出了客觀的評價,提出了“攻心”和“審勢”兩個很有啟發性的問題,是古代治國方略的精髓所在。
現在請大家隨我進入諸葛亮殿。請看,坐在龕臺正中的塑像就是被譽為智慧化身的蜀漢丞相諸葛亮。他頭戴綸(guan)巾,身披金袍(古稱鶴氅),手執羽扇,凝目沉思,一副憂國憂民、深謀遠慮的神采,顯示出一代儒相的風儀。
諸葛亮(公元181——234年)字孔明,瑯琊郡陽都縣(今山東沂南縣)人。是中國歷史上杰出的政治家和軍事家。諸葛亮年輕時隱居于荊州襄陽(今襄樊)“隆中”,因胸懷大志,刻苦好學,才智出眾,得到“臥龍”的美稱。
公元207年劉備在荊州訪賢,劉備三顧茅廬,感動了諸葛亮。諸葛亮為劉備分析天下形勢,制定了一條占有荊(今湖北)、益(今四川)二州,東聯孫權,北抗曹魏的國策,史稱“隆中對”。三顧茅廬后,諸葛亮被劉備拜為軍師,從此跟隨劉備,取得了赤壁之戰、奪取益州等戰役的勝利。蜀國創建后,被任命為丞相。劉備死后,在奉節白帝城受托孤重任,輔助后主劉禪,執掌了蜀漢朝政。
諸葛亮治蜀達20多年,主要政績有:以法治蜀;南征南中;北伐曹魏。公元234年,諸葛亮由于長期勞累,不幸早逝于北伐前線的武功五丈原,死的時候才54歲,真是“出師未捷身先死,常使英雄淚滿襟”。
諸葛亮一生做了大量有益于社會進步和勤政愛民的好事。他死后,人們十分懷念他,尤其敬重他鞠躬盡瘁、死而后已的精神,把他作為忠臣賢相的典范和智慧的化身加以崇拜,修了一座又一座武侯祠來紀念他。
請看諸葛亮兩邊的塑像,左邊的是諸葛亮兒子諸葛瞻,右邊是孫子諸葛尚。他們在公元263年曹魏滅蜀時,率部與魏軍奮戰,終因寡不敵眾,在綿竹陣亡。諸葛亮子孫三代,人稱“三世忠貞”。
請大家看殿內陳列的這面銅鼓。相傳諸葛亮南征時曾使用過這種銅鼓,所以它又被稱為諸葛鼓。
各位游客,諸葛亮殿兩側廂房內,是諸葛亮事跡陳列室,有大量反映諸葛亮事跡的圖片資料,請大家隨意參觀。十分鐘后我再帶大家一起去看看先主劉備的陵墓——惠陵。普寧寺導游詞天壇導游詞云岡石窟導游詞
武侯祠導游詞5各位游客朋友們:
大家好,歡迎來到成都武侯祠博物館參觀游覽,我是講解員小周,希望。首先讓我們來看這幅平面圖,成都武侯祠位于成都市區南面,占地面積15萬平方米,大約210多畝,這里是最富盛名的諸葛亮、劉備等蜀漢英雄紀念地,全國唯一的一座君臣合祀祠廟,可以說是全中國乃至全世界,影響力最大的三國遺跡博物館,享有“三國圣地”只美譽。1961年被國務院評為第一批重點文物保護單位,1984年正式成立博物館,于2006年被國家旅游局評為4A級景區,2008年又被國家文物局評為首批國家一級博物館。
根據武侯祠新的規劃呢,現在將武侯祠分為三個區域,分別是三國歷史遺跡區,錦里民俗區,以及正在打造的西區——三國文化體驗區,今天帶大家參觀的部分是三國歷史遺跡區,我們的游覽順序是:從大門進入后,依次參觀游覽二門,漢昭烈廟,過廳,武侯祠,以及近幾年遷建的進來的三義廟,最后,通過紅墻夾道到達惠陵,游覽時間大約1個小時。
武侯祠始建于公元223年,距今已經有1788年的歷史了,當時因為蜀漢皇帝劉備去世,下葬于惠陵,按照漢朝的陵寢制度,有陵必有廟,所以在惠陵旁邊修建了紀念劉備的漢昭烈廟。由于諸葛亮和劉備的關系如魚和水,密不可分,大約在南北朝的時候,又將成都少城內紀念諸葛亮一家的武侯祠遷建到了漢昭烈廟旁邊。
在明朝初年,朱元璋的第十一個兒子蜀獻王朱椿為了突出君權,下令拆掉武侯祠,將武侯祠并入于漢昭烈廟內,使兩廟合二為一。明朝末年,張獻忠兵敗四川,對四川進行了毀滅性的打擊,武侯祠祠廟荒廢,但惟獨惠陵保存完好。今天我們所看到的這座祠廟,是在清康熙11年既公元1672年在原址上重建的,前殿為紀念劉備及蜀漢文臣武將的漢昭烈廟,后殿才是真正意義上紀念諸葛亮的武侯祠,正是因為這樣的建筑格局,是的成都武侯祠成為了全國唯一的一座君臣合祀祠廟。
初游武侯祠的朋友常常會問小周這樣一個問題,這剛才進來時,大門上明明懸掛著“漢昭烈廟”的牌匾,漢,是劉備見過時的國號,史稱“蜀漢”。昭烈,是劉備死后的溢號。顧名思義,這里是祭祀蜀國皇帝劉備的廟宇。既然如此,人們為什么又稱之為武侯祠呢?民國年間的鄒魯寫的一首詩,道出了其中的緣由:“門額大書昭烈廟,世人都道武侯祠。由來名位輸勛業,丞相功高百代思”由此可知,是世人對諸葛亮為國為民,鞠躬盡瘁的精神十分崇敬,總是習慣了把這個地方叫做武侯祠。
從唐代開始,碑刻藝術就成為了武侯祠的一大文化特色,武侯祠現存碑碣50余通,分別鐫刻于唐代,明代、清代以及近現代,其中以我們前方的這通唐碑最具代表性,它是選用石質較為堅硬細膩的硤石所鑿刻而成,碑身高3.67米,寬0.95米,全名為《蜀臣相諸葛武侯祠堂碑》。碑文分為銘和序,正楷22行,每行大約50個字。
唐碑立于唐憲宗元和四年,也就是公園809年,劍南西川節度使武元衡率領27位僚屬來到武侯祠拜謁,令節度府掌書記裴度撰寫碑文,裴度,字中立,是一位非常有才華的人,先后輔佐了唐代的四個皇帝也是唐代中后期的中興名相。他在碑文部分表達了自己對諸葛亮的崇敬仰慕之情,文章序文部分開始便寫到:度常讀舊史,詳求往哲,或秉事君之節,無開國之才,得立身之道,無治人之術,四者備矣,兼而行之,則蜀丞相諸葛公其人也。
意思是說我裴度讀前代的史書,詳盡的搜羅了前賢先哲的行事,有的具備臣子對待君主的氣節,但是沒有開創國家的能力,有的深得立身處世的道理,但是沒有治理民眾管理官吏的辦法,如果說有誰兼備這四種美德,并能運用它來實現自己的政治抱負,那么就只有蜀國丞相諸葛亮了。
武侯祠導游詞6成都武侯祠位于四川省成都市南門武侯祠大街,是中國唯一的君臣合祀祠廟,由劉備、諸葛亮蜀漢君臣合祀祠宇及惠陵組成。劉備陵寢始建于公元223年,一千多年來幾經毀損,屢有變遷。武侯祠(指諸葛亮的專祠)建于唐以前,初與祭祀劉備(漢昭烈帝)的昭烈廟相鄰,明朝初年重建時將武侯祠并入了“漢昭烈廟”,構成現存武侯祠君臣合廟。
現存武侯祠廟的主體建筑1672年清朝康熙年間(康熙十一年)重建,享有“三國圣地”之美譽。成都武侯祠現分文物區(三國歷史遺跡區)、園林區(三國文化體驗區)和錦里(錦里民俗區)三部分,面積約15萬平方米。成都武侯祠是國內紀念蜀漢丞相諸葛亮的主要勝跡,也是成都市一個主要的旅游參觀點。成都武侯祠是中國影響最大的三國遺跡博物館,以文、書、刻號稱“三絕”的《蜀丞相諸葛武侯祠堂碑》最為知名。
武侯祠大門匾額為“漢昭烈廟”。大門內濃蔭叢中,矗立著六通石碑,兩側各有一碑廊,其中最大的一通在東側碑廊內,唐代“蜀漢丞相諸葛武侯祠堂碑”,唐憲宗元和四年(公元809年)立,有很高的文物價值,為國家一級文物,因文章、書法、刻技俱精被稱為“三絕碑”。唐朝著名宰相裴度撰碑文,書法家柳公綽(柳公權之兄)書寫,名匠魯建刻字,都出自名家,因此被后世稱為三絕碑。
旅游特色
武侯祠景區景點介紹:
①大門
匾額為“漢昭烈廟”。大門內濃蔭叢中,矗立著六通石碑成都武侯祠,兩側各有一碑廊,其中最大的一通在東側碑廊內,唐代“蜀漢丞相諸葛武侯祠堂碑”,唐憲宗元和四年(公元809年)立,有很高的文物價值,為國家一級文物,因文章、書法、刻技俱精被稱為“三絕碑”。唐朝著名宰相裴度撰碑文,書法家柳公綽(柳公權之兄)書寫,名匠魯建刻字,都出自名家,因此被后世稱為三絕碑。碑文對諸葛亮的一生,作了重點褒評;竭力贊頌諸葛亮的高風亮節,文治武功,并以此激勵唐代的執政者。碑文個性褒獎諸葛亮的法治思想,馬謖因失街亭被諸葛亮依法處斬,臨刑,馬謖哭著表示自己死而無怨。李嚴與廖立,兩人都是被諸葛亮削職流放的罪人,但他們也自甘服罪。當他們得知諸葛亮病逝,“聞之痛之,或泣或絕”。這些均屬史實,裴度據史褒評,令人信服碑文通篇辭句甚切,文筆酣暢,使人百讀不厭。諸葛亮之所以為后人所敬仰,還因為他有著高尚的思想和作風,不利用職權謀私。
②劉備殿
二門之后是劉備殿,為單檐歇山式建筑。正中有劉備貼金塑像,左側陪祀的是他的孫子劉諶。據說,他的兒子蜀漢后主劉禪由于昏庸無能,不能守基業,他的像在宋、明兩代幾次被毀,之后就沒有再塑。在蜀漢后主劉禪降魏時其子劉諶到劉備墓前哭拜,殺掉家人后自殺身亡。兩側偏殿,東有關羽父子和周倉塑像,西有張飛祖孫三代塑像。兩側東、西廊房分別塑有蜀漢文臣、武將坐像各十四尊。東側文臣廊坊以龐統為首,西側武將廊房以趙云領銜。武侯祠諸葛像
③諸葛亮殿
劉備殿后,下數節臺階(武侯祠低于漢昭烈廟,象征古代君臣關系),武侯祠內的諸葛亮像是一座過廳,掛有“武侯祠”匾額。武侯祠是紀念三國時蜀漢丞相武鄉侯諸葛亮的祠堂,諸葛亮生前封“武鄉侯”,死后謚號“忠武”,故紀念他的祠堂稱作“武侯祠”。諸葛亮殿懸“名垂宇宙”匾額,兩側為清人趙藩撰書“攻心”聯:“能攻心則反側自消,自古知兵非好戰;不審勢即寬嚴皆誤,之后治蜀要深思。”的聯文,是頗負盛名的一副對聯,借對諸葛亮、蜀漢政權及劉璋政權的成敗得失的分析總結,提醒后人在治蜀、治國時借鑒前人的經驗教訓,要個性注意“攻心”和“審勢”。正殿中供奉著諸葛亮祖孫三代的塑像。殿內正中有諸葛亮頭戴綸巾、手執羽扇的貼金塑像,像前的三面銅鼓相傳是諸葛亮帶兵南征時制作,人稱“諸葛鼓”。鼓上有精致的圖案花紋,為珍貴的歷史文物。大殿頂梁由烏木制成,上書諸葛亮寫給兒子諸葛瞻《誡子書》中“非澹泊無以明志,非寧靜無以致遠”(不看輕世俗的名利就不能明確自己的志向,不是身心寧靜就不能實現遠大的理想)。諸葛瞻及其子尚在綿竹抗擊魏將鄧艾的戰斗中不幸身亡。
④劉備墓
諸葛亮殿西側是劉備墓,史稱“惠陵”。由諸葛亮親選寶地,葬劉備于此。木牌《三國志·先主傳》記載:“八月,葬惠陵”。據《謚法》,“愛民好與,曰‘惠’”,故名劉備墓稱“惠陵”。陵墓中還合葬有劉備的甘、吳二位夫人。劉備墓前有清乾隆年間所立“漢昭烈皇帝之陵”石碑,陵墓建筑由照壁、柵欄門、神道、寢殿等組成。陵前有規模較小的神道為清代所建。惠陵與武侯祠主要建筑一樣亦為坐北朝南,緊鄰在漢昭烈廟與武侯祠西側。與武侯祠之間有紅墻夾道相連。成都武侯祠的字畫、對聯甚多,其中的現代書法家沈尹默書寫的《隆中對》最引人注目。武侯祠還有岳飛手書的諸葛亮《出師表》刻石(歷來對此的真偽存有爭議,有一種說法,此前、后兩表實際上是明代士人白麟偽托岳飛之名所書)
⑤南郊公園
“惠陵”西側原為南郊公園,2003年合并為武侯祠園林區。南郊公園原為中華民國國民黨四川省政府主席劉湘的墓園,1953年經修整辟為公園,依次建有浮雕式石牌坊大門、旌忠門、碑亭、薦馨堂、劉湘墓等建筑。武侯祠東側的錦里由武侯祠博物館恢復修建,錦里為清末民初建筑風格的古街。它依托武侯祠,擴展了三國文化的外延,并融入川西民風、民俗,集吃、住、行、游、購、娛于一體,成為成都文化旅游的新亮點。錦里二期也于2009年春節前開肆迎客,錦里二期大膽將水引入錦里循環,構成“水岸錦里”的新景觀。
武侯祠導游詞7武侯祠是紀念三國蜀漢丞相諸葛亮的祠堂。諸葛亮生前封武鄉侯,死后謚號忠武侯,后人便尊稱他為武侯。
成都武侯祠是全國唯一的一座君臣合祀的廟宇,始建于公元223年劉備入葬于惠陵。依據漢制,陵旁必有廟,所以在劉備下葬于惠陵后,當時的蜀漢就在陵旁修建了祭祀劉備的原廟。(原廟是帝王陵旁祭祀此帝王的廟宇,唐宋時期,人們一般稱劉備的原廟為先主廟。)(因為現成都武侯祠共有三大主體建筑,劉備死后就已出現其中兩組,故以劉備下葬惠陵作為成都武侯祠之始。)到南北朝時,在惠陵和先主廟不遠的地方人們又修建了武侯祠,唐宋時期,武侯祠就已成為著名的古跡和旅游勝地,杜甫當時就留下了“丞相祠堂何處尋,錦官城外柏森森”的描述。明代時,蜀獻王朱椿認為“君臣宜一體”,就把武侯祠與先主廟合并為一,通稱“漢昭烈廟”,明末清初,祠廟毀于戰亂。這天看到的武侯祠,是清代康熙十一年(公元1672年)在舊址上重建的。
盡管官方一向把那里叫作“漢昭烈廟”,大門也懸掛著“漢昭烈廟”的橫匾。但人們仍習慣的稱那里為武侯祠。為什么呢?民國年間的鄒魯寫的一首詩,道出了其中的緣由:“門額大書昭烈廟,世人都道武侯祠。由來名位輸勛業,丞相功高百代思”。也就是說,因為諸葛亮的歷史功績大,他在百姓心中的威望超過了劉備,人們就顧不了君尊臣卑的禮儀了。
從大門左側簡介和平面示意圖上看到,武侯祠掩映在森森翠柏中,殿宇坐北向南,布置在一條中軸線上,有大門、二門、劉備殿、過廳、諸葛亮殿五重,西側為劉備陵園——惠陵。祠內有清代蜀漢歷史人物泥塑像47尊,碑碣50多塊,匾聯60多幅,鼎、爐、鐘、鼓10余件。因此,確切地講,武侯祠就應稱作蜀漢君臣紀念堂,它是研究蜀漢歷史的一座博物館。
武侯祠導游詞8現在,讓我們到三顧祠看一看。三顧祠門柱懸掛“兩表酬三顧,一對足千秋”的對聯,祠院內翠柏挺立,綠草如菌,庭院宏敞幽深,四周圍墻嵌滿碑刻,有“碑墻”之稱。祠內有關張殿,殿內立關羽、張飛貼金塑像。關羽赤面鳳眼,美髯垂胸,神安氣閑,雄姿威風,張飛面色漆黑,豹頭環眼,燕頜虎須,急不可耐。要說起這個張飛啊,他就不是搞政治的,沒象劉備這樣有政治家的遠見,看不到諸葛亮這個人才的價值。
一顧茅廬時沒有見到孔明,他說“既不見,自歸去便了。”也沒有發什么牢騷,表現還算一般,說得過去。到劉備準備二顧時,張飛說:“量一村夫,何必哥哥自去,可使人喚來便了。”遭到劉備的呵斥,差點不讓他去。沒想到第二次哥仁又吃了閉門羹,到第三次劉備還要去時,他再也忍不住了,說“今番不需哥哥去,他如不來,我只用一條麻繩縛將來!”要是依他的主意,用麻繩把諸葛亮綁來見劉備,那會是什么結果!
“三顧堂”.位于關張殿后,相傳達里就是劉備三次求訪孔明的地方。殿內有劉備、諸葛亮對話的塑像,二人分賓主而坐,書童侍立側旁,形象逼真,栩栩如生,再現了備亮當時縱論天下時的情景。你看那神機妙算的諳葛亮,面目清秀,衣著古雅,含而不露的面孔上略帶有幾分笑意,給人一種溫文爾雅,謀略在胸,穩操勝券的感覺,他正意氣風發,侃侃而談;再看劉備,正在畢恭畢敬地洗耳恭聽呢。我們一眼就能看出他那如饑似渴,謙遜恭敬的內心世界。當時的劉備,以自己是漢室后裔,打著正統的旗號,請求國家統一,他四海飄零,奔走了二十多年,先后投曹操,奔袁紹,附劉表,終因勢單力薄,一事無成,敗居新野,難籌大志,但仍雄心勃勃,四處訪賢。后來,經徐庶舉薦,得知諸葛亮的大名之后,就冒著嚴寒,詞謙禮恭,親自由新野到南陽支產三次恭請,大有商湯請伊尹、文王栽太公的誠心與胸懷,迫切而又熱情地邀請諸葛亮出山輔佐自己,諸葛亮見他求賢若渴,志向遠大,就答應了他的要求。
正如唐代李白詩中寫的那樣:“魚水三顧合,風云四海生。武侯立眠蜀,壯志吞咸京。”明陳正倫《臥龍崗》詩云:“君臣一晤交投厚,宇宙三分割據雄”。三顧晤對真可以說是一次歷史性的會談,可以毫不夸張地說,千軍易得,一將難求,劉備能夠建立西蜀霸業,關鍵是得到了諸葛亮這個智囊人物。
大家看三顧堂里的這組雕塑,不正是“智能之土,思得名君”,“名君圣主,求賢用能”的贊歌嗎?我們今天參觀的諸葛草廬,不僅是諸葛亮隱居躬耕的地方,也是諸葛亮政治、軍事思想形成的地方,是“三分天下”的策源之地,是劉備、諸葛亮三顧而合,如魚得水的場所,因此歷朝歷代,這里也就成了人們紀念諸葛亮的重要場所。武侯祠里的人物塑像,個個性格鮮明,惟妙惟肖,內心世界,各具其妙。
武侯祠導游詞9現在的武侯墓區,總占地面積片萬平方米,明清遺留下來的古建筑70余間。進入陵園大門,便可以看到山門內側的兩幅壁畫,分別是“三顧茅廬”和“諸葛亮臨終托付遺言”時的場景,栩栩如生的畫面展現了諸葛亮一生的政治軍事生涯。經過拜殿,我們就來到了大殿。大殿前的匾額上書“功蓋三分”四個大字。請大家跟我走進這座雄偉寬敞、莊嚴肅穆的大殿。殿內正中神拿上端坐的便是集忠誠和智慧于一體的諸葛武侯,他左手持《六稻》書卷,右手按膝,羽扇綸巾,氣定神閑,伊然一副“運籌于帷幄之中,決勝于千里之外”的神態。兩書童侍立左右,一持寶劍,一棒印緩,拿下關興、張苞各持令箭、鋼鞭衛護兩側。威武雄壯、生動逼真的塑像,再現了當年的場景。武侯坐像后,還繪有屏風式壁畫四幅,內容都是家喻戶曉的歷史故事,例如:定軍山下老黃忠刀劈夏侯淵;諸葛亮三氣周喻等。這些短小精悍的畫面,突現了當年歷史歲月里最為精彩的瞬間。大殿后這一形如“覆斗”的`墳冢,就是諸葛武侯的長眠之所,家高5—6米,方圓60米,今人在四周砌八卦花墻,刻有很多的三國故事,以紀念這段歷史。墓向頭西腳東,暗示著“永懷西蜀,不忘北伐,興復漢室,還于舊都”的鳳愿,這也是孔明遺表中提出的,由費祎,呈奏后主:“丞相臨終;命葬于定軍山,不用墻垣磚石,亦不用一切祭物”,后主從之;擇吉日,親自送靈樞至定軍山安葬。墓家選在定軍山下,除了北伐曹魏八年之久而不忘統一大業外,更有喻意的是這獨特的地理環境也是吸引著諸葛亮的又一根據。他一生研練著周易八卦,死后為自己算一清靜之所也是情理之中。當您登上定軍山,領略諸葛墓冢,只見九條山岡如巨龍騰伏,從四周翻滾而來匯聚于武侯墓,猶如壘起的屏障降服在周圍,故有“九龍捧圣”之美譽。凡來拜謁者,無不興嘆于此。在廟院之內,最引人注目的是那古樸、通天的古柏,柏樹向來是“壽與天齊”的通靈、吉祥之物,而在諸葛墳冢一周分散著當時種植的翠柏54株,象征著孔明的在生之年。這就是人們所稱的“護墓雙桂”。高30米以上,直徑1米以上,枝千四伸,猶如車蓋般遮護著墓冢。北京林學院
武侯祠導游詞10各位游客:
剛才,我們參觀了劉備大廳和武侯祠的武將畫廊。現在我們來到了諸葛亮堂,這是真正紀念諸葛亮總理的武侯祠。
請注意。現在我們要進行下一步了。為什么要走下這一步?原來這是古代尊卑觀念的體現。武侯祠是君臣祠,前面是劉備祠,后面是諸葛亮武侯祠,與禮儀格格不入。因此,人們在修建武侯祠時,有意將諸葛亮祠低一級,以彰顯劉備作為一國之君的崇高地位。
現在我們將穿過大廳。請注意大廳兩側懸掛的匾額、對聯和繪畫。其中多為董、、郭沫若、徐悲鴻、沙孟海、張愛萍等所作。
請看這副對聯:能攻其心,則消失在對面,自古知兵不好戰;如果不審時度勢,就會出現寬嚴相濟的錯誤。以后要深入思考如何治理蜀國。這是全國著名的對仗,也是武侯祠對聯中的極品。我們知道,自古以來,天下先亂于蜀,天下先治于蜀。如何才能管理好四川?最好的答案是積極進取,審時度勢。
對聯的作者是清末云南劍川縣的趙凡。諸葛亮出兵平定南方叛亂,采納了馬謖的建議,采取了以策為策的戰術,七擒伊霍,使他服氣,從此再也沒有謀反。贊美諸葛亮是一個真正懂得用兵的人,而不是好戰的軍事家。后主稱贊諸葛亮審時度勢,制定了適當的寬嚴相濟的法規,收到了良好的效果,提醒后人借鑒。這副對聯客觀評價了諸葛亮的用兵和治國,提出了兩個具有啟發性的問題,是古代治國方略的精髓。
現在請跟我進諸葛亮堂。看,坐在壁龕中間的雕像是蜀漢總理諸葛亮,他被稱為智慧的化身。他戴著一條黑絲綬帶圍巾,穿著一件金袍(古代叫鶴),手里拿著一把羽扇,一副若有所思的樣子,顯示出一代儒者的魅力。
諸葛亮(公元181234年)生于瑯琊縣(今山東沂南縣)楊度縣。他是中國歷史上杰出的政治家和戰略家。諸葛亮年輕時住在荊州襄陽隆中(今襄樊)。他被譽為臥龍,因為他雄心勃勃,勤奮努力,聰明絕頂。
公元207年,劉備在荊州拜見先賢,劉備打理草堂,遷都諸葛亮。諸葛亮為劉備分析了世界形勢,制定了占領荊(今湖北)、益(今四川)、東聯孫權、北抗曹魏的國策,稱隆中對。三拜茅廬,諸葛亮被劉備拜為軍師。從此跟隨劉備,打贏了赤壁之戰、益州之戰等戰役。蜀建立后,任丞相。劉備死后,被委以撫養奉節白帝城孤兒的重任,輔佐主管蜀漢政治的劉禪。
諸葛亮統治蜀國二十多年,主要成就有:依法治蜀;去南方和中學;北伐曹魏。公元234年,諸葛亮在五丈原過早去世,因長期疲勞而武功在北伐前線。他死時只有54歲。他真的是個英雄,但是在他征服之前,他已經死了,這經常讓英雄們哭泣。
諸葛亮一生做了很多好事,有利于社會進步,勤政愛民。他死后,人們非常懷念他,特別尊敬他鞠躬盡瘁,死而后已的精神,把他奉為忠君智慧的楷模,修建了一座又一座的寺廟來紀念他。
請看諸葛亮兩側的雕像。左邊是諸葛亮的兒子諸葛瞻,右邊是他的孫子諸葛尚。公元263年曹魏滅蜀時,領兵討伐魏軍,最終因寡不敵眾而被殺于綿竹。諸葛亮的后代生了三代,被稱為三代忠臣。
請看廟里陳列的這面銅鼓。相傳諸葛亮南征時用的就是這面銅鼓,所以也叫諸葛鼓。
各位游客,在諸葛亮館兩側的廂房里,有諸葛亮事跡的展室。有很多反映諸葛亮事跡的圖片和資料。請隨意參觀。十分鐘后,我帶你們去看看惠玲,劉備的墳墓。
中華文明有五千多年的歷史,三國時期是短暫卻精彩的。歷史學家認為,三國時期只有45年,從曹魏代漢到司馬師代魏建立金朝,即公元220-265年。總的來說,應該是從漢末黃巾農民起義到三家歸晉(公元184-280年)的近百年。三國時期之所以得名,是因為當時中國三個地方政權并存。這三個政權是:魏國,由曹操父子曹丕創建,占據黃河流域大片土地,建都洛陽;孫權建立的吳國占領了長江中下游,定都南京。劉備建立的蜀國占據四川、云南、貴州等地,都城在成都。
武侯祠是紀念三國蜀國宰相諸葛亮的祠堂。成都武侯祠是國家重點文物保護單位,國家AAAA級旅游景區,國家一級博物館。諸葛亮生前以武侯故里命名,死后對武侯效忠。后人尊稱他為武侯。
武侯祠建成的時候,沒有數據可考。然而,從杜甫《蜀相》詩中“名相廟在何處,在絲城附近的一片深松林中”的描寫,可以推斷,武侯祠早在唐代以前就已建成。唐宋時期,分別有武侯祠和劉備祠。明初兩寺合二為一;明末,寺廟毀于戰亂。今天看到的武侯祠是清康熙十一年(公元1672年)在舊址上重建的。大門上掛著“韓昭烈寺”的橫匾。韓,劉備政權的簡稱,史稱。昭烈是劉備死后的溢出。牌匾上寫著這是一座獻給蜀國皇帝劉備的寺廟。既然如此,為什么人們稱之為武侯祠?民國時期,鄒魯寫的一首詩道出了原因:“昭烈寺,藏書眾多,號稱天下武侯祠。出身功名失功德,丞相功高,百代思。”。也就是說,因為諸葛亮的歷史功績巨大,他在人民心中的威望超過了劉備,人們忽視了尊王重臣的禮儀和廟堂的本名。
從大門左側的簡介和平面圖可以看出,武侯祠隱藏在茂密的柏樹中,大殿南北向,排列在一條中軸線上。有五個大廳:大門、二門、劉備廳、官廳和諸葛亮廳,西側是劉備陵園。寺內有47尊蜀漢歷史人物泥塑,50多塊石碑,60多塊匾額,10多個壺、爐、鐘、鼓。所以,確切地說,武侯祠應該叫蜀王大臣紀念館。這是一個研究蜀漢歷史的博物館。
著名的碑文
從三碑門到二門的道路兩旁,有六塊高大的石碑。清代刻四個環節,明代刻一個,唐代刻一個。清碑記載了寺廟的重建和維護;明碑側重于寺廟的歷史沿革。這座唐紀念碑是最著名的,被稱為“三座紀念碑”,高3.67米。它是在元和四年(公元809年)吳帶領他的27口人在武侯祠祭祀諸葛亮的時候雕刻的。摘要:文章贊揚了諸葛亮治理蜀的武功,并把他與前代名將管仲、、蕭何、相提并論,高度評價了他為統一而鞠躬盡瘁的精神。裴度有文采,曾任三朝宰相。書法優美的劉,是唐代大書法家劉公權的哥哥。由著名工匠魯建雕刻而成。因此,自明朝中葉以來,這座碑因其文章精美、書法優美、諸葛亮功勛卓著而被譽為“三絕碑”。
劉備店
劉備殿二門內是蜀漢皇帝劉備殿。殿中央供奉著劉備的金泥塑,殿兩側供奉著關羽、張飛等人。與寺廟相連的東西走廊是蜀國28名公務員的彩繪泥塑。劉備高3米,頭戴田萍王冠,身穿黃袍,手持玉佩在天,寬臉大耳朵,神態恬靜。服務員左右,一把玉璽,一把寶劍。
好了,現在,各位,跟我進去。你可以在這里抬頭看看大門,那里掛著“韓昭烈寺”的橫匾。韓,劉備政權的簡稱,史稱。昭烈是劉備死后的溢出。牌匾上寫著這是一座獻給蜀國皇帝劉備的寺廟。
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劉備(161-223),河北涿州人。24歲時,他召集關羽、張飛等人參加鎮壓黃巾起義,后來逐漸在軍閥中壯大。由于缺少謀士,在軍閥混戰中屢遭挫折流離失所,先后依附呂布、曹操、袁紹、劉表。他事事照顧,拜諸葛亮為軍師。赤壁之戰后,他的權力才得以發展。劉備胸懷大志,講究忠厚,待人寬厚。經過20多年的艱苦戰斗,終于在公元221年占領益州,在成都稱帝。不久,為了奪回荊州,為關羽報仇,與吳作戰。結果劉備被吳國魯迅燒死,慘敗。他死于白帝城(奉節)的恥辱和憤怒。在彌留之際,他把自己的小兒子劉禪(綽號阿逗)和國家大事托付給了歷史上被稱為“白帝城”的諸葛亮。在劉備雕像的東側,有一尊劉備的孫子柳永的雕像。劉謙是劉禪的第五個兒子,封北的國王。艾進兵成都,與父諫,與敵決一死戰,與國生死。但是劉禪不聽。他氣得去祠堂哭,然后殺了老婆,然后自殺。他以身殉道的精神受到了后人的贊揚。劉備像西邊的原貌一樣,因不能保住父親的生意而投降了魏。成了《幸福》官后“樂不思蜀”,不知亡國之恥。到了宋朝,他的形象被破壞了,從此再沒有重塑。
海南一樓左邊是學圃堂和武功經社,右邊是蘇公廟。據說蘇公祠自然是為了紀念蘇東坡而建的。據說先有蘇公廟,后有重建后的五公廟。我們來看看蘇公廟前的這塊石碑。它是國家一級文物,是宋徽宗趙奧書法“御夜玉清萬壽宮”的碑。趙奧自己的薄金書法渾厚清秀,可見一斑。
成都位于四川盆地西部,成都平原腹地。成都東臨德陽、資陽,西臨雅安、阿壩,南臨眉山。成都轄晉江區等9區6縣,管理4個縣級市。2014年底,成都建成區面積604.1平方公里,常住人口1442.8萬人。
很多人懷疑劉備墓的真假,說只是劉備的衣冠冢。我葬在奉節。但是我可以明確的告訴你,這個墓是真的。漢朝有個規矩,皇帝死后不能葬在其他地方,只能葬在都城。再加上諸葛亮當時對劉備非常忠誠,劉備不可能葬在其他地方。還有一點就是,孝在古代很重要,有三綱五常,即君為臣,父為子,夫為妻。劉禪剛剛即位。為了穩定人心,他對大臣和人民都有交代。他不能把父親埋在其他地方,給人留下污名。所以這個墓應該是真的。
武侯祠導游詞11各位游客:
你好,我是賈加,你的導游。歡迎來武侯祠觀光!
武侯祠位于南陽市西郊臥龍崗。它以諸葛曹璐而聞名。是三國時期著名政治家、軍事家諸葛亮留下的舊址。當年劉皇叔照看它的地方,也是歷代人祭拜諸葛亮的地方。
好了,女士們,先生們,現在我們來到了武侯祠的門口。看看這個高9米,寬13.5米的石頭廣場。它有三扇門和四根柱子,上面有雕刻。歷史悠久的龍的意思是諸葛亮是人中之龍,比喻臥龍崗藏龍臥虎的地方。
各位游客,現在我們來到了大白寺,這是武侯祠的主樓。殿內有一幅孔明的畫像,端端正正坐著,戴著黑絲綬帶圍巾和羽扇,神態肅穆。左邊是他的長子諸葛瞻,右邊是他的長孫諸葛尚。殿宇檐柱上掛滿了歷代名人、詩人的對聯和銘文,無不飽含著世人對諸葛亮的敬仰和敬仰。
好的,這里是游客參觀的自由時間。請注意避免亂涂亂丟,愛護自己的財物。聚會時間是11點,聚會地點在武侯祠前。祝大家參觀愉快。
親愛的朋友們,早上好!現在,我帶你去參觀南陽西郊臥龍崗上的武侯祠。南陽武侯祠,又名諸葛曹璐,是三國時期著名政治家、軍事家諸葛亮“耕南陽”時留下的舊址。當年劉皇叔三次登門的地方,也是歷代人向諸葛亮進貢的地方。
諸葛亮(181-234),漢末山東瑯琊楊度(今山東沂水縣南)人。幼時喪父,后隨叔父諸葛玄赴荊州牧劉表。諸葛玄死后,諸葛亮帶著弟弟諸葛俊在南陽臥龍崗蓋房打拼,過著“亂世不請文達諸侯”的布衣生活。但他與天下名人交往廣泛,經濟知識淵博,肚里有良苦用心,隱居圖志,清靜深遠。當時的名人龐德公,把他比作一個及時騰飛的“臥龍”。漢建安十二年(207年),劉備、關羽、張飛祭拜諸葛亮。從此,27歲的諸葛亮離開了在那里苦干了十年的臥龍崗,加入了劉備的政治集團。后來官員對蜀漢丞相頂禮膜拜,爵鳳武是家鄉太子,死后溢滿了“忠厚武侯”。所以歷代諸葛亮廟都被稱為“武侯祠”。
據清康熙龍崗志記載,武侯祠建于魏晉晚期,經過一代代不斷的修繕和擴建,形成了現在的規模。今天,我們看到的武侯祠占地200多英畝,有150多所房屋,70多副檢查對聯和300多處碑文。是中國最大的紀念諸葛亮的古建筑群。如今的武侯祠基本保持了元明時期的布局風格,木質建筑多為明清時期改建或增設。寺廟依山而建,南有白河,北有紫山,地勢開闊,如臥龍。庭院里竹諷刺,松柏茂密,池水清澈,景色宜人,秀麗的自然風光與大眾文化景觀相得益彰,令人流連忘返。
好了,各位會員,現在我們到了武侯祠的人口。你看這個石坊,高9米,寬13.5米,三門四柱,上面全是雕刻。“萬世之龍”的意思是諸葛亮是人民的龍,比喻臥龍崗是龍藏虎臥的地方。大家把這第二條巷子看做“三古坊”,建于清朝,距今光年。兩面刻有“漢昭烈帝三古初”和“真神俠”以紀念劉備三古南仙。正是因為劉備的真誠關懷,諸葛亮才離開隱居十年的臥龍崗,輔佐劉備,一生當兵,鞠躬盡瘁,死而后已,劉備才得以稱霸天下,成就帝王之業。劉備對知識和才能的尊重是真實的,而不是口頭上的。這個優勢真的很值得我們今天的一些領導學習!“真神”二字出自蘇軾的《武后宮》,歌頌諸葛亮。“人也,神也,仙也,不知道,真的臥龍也。”看看什邡北部的臥龍湖。旁邊有三棵古老的梓樹。據說劉、梅和張過去常常是馬,當他們照顧他們的時候。現在,猜猜1700多年前誰的馬被拴在樹上。
穿過三谷坊和仙人橋,直接通向山門。山門是武侯祠的正門,古樸凝重。是郭沫若先生題寫在券門額頭的石匾中間。過了山門,就進入武侯祠一院。庭院寬敞,古柏掩映,青磚鋪蓋,古樸自然。院內甬道上的“三代遺風”石坊,對應大禮拜殿。這是對諸葛亮才華和品德的致敬,可以與伊尹、魯商、傅說等三代先賢相提并論。我們轉過去看看“軍事戰略大師”這四個字。軍事謀略原本指的是中國古代的藝術書籍《六塔》、《三策》,但后世習慣指的是用兵謀略。在這里,諸葛亮的文學策略也受到了贊揚。
親愛的朋友們,這是大白寺,它是武侯祠的主樓。清道光三年(1823年)南陽知府行書廖金文匾,掛在大白寺正門。殿內有一幅孔明端坐的畫像。他頭戴黑絲綬帶,手拿羽扇,神態肅穆,是東漢末年隱居儒生的典型裝束。左邊是他的長子諸葛瞻,右邊是他的孫子諸葛尚。寺廟屋檐下的柱子上掛滿了歷代名人和詩人的對聯和匾額。這些碑帖對聯充滿了世人對諸葛亮的尊敬和敬仰。
請看這一對:“魯攀西宜興王左奇只能以萬瑯琊為榜樣。勝者有句俗語叫不亮,齊包書鄭子丕勝門答應的也是一致的。徐元直可以培養英雄,激勵他人。”。這副對聯歌頌的是能幫助皇帝力挽狂瀾、治國安邦的呂尚、殷易、管仲、諸葛亮,也歌頌了推薦人才的伯樂,如鮑、鄭子丕、。
請看這一對:“單口產品在神爺渭濱之間,表里念著兩朝恩師功勛,蓋屋在子豐白水臥龍給父親唱千年歌。”這里,質量指的是檔次和檔次。
新野渭濱指隱居的伊尹、魯商。這兩個朝代指的是第一任主公劉備和第二任主公劉禪。荊司馬指的是諸葛亮死后司馬懿的消沉。下盟子豐白水指南陽郊區的子山、白河。屈賦,即吟詠吟,講的是齊襄曼嬰兒兩桃殺三士的故事,據說是諸葛亮做的。這副對聯充分贊揚了諸葛亮的高尚氣節和巨大成就。當年,他潛心隱逸,對智明無動于衷,恬靜而深遠,可以與前賢易隱、陸尚卸任前的高尚行為相提并論。他把草堂建在紫山腳下,白河岸邊,對比管仲、樂毅,對比周星800的姜子牙,王罕400的張子房,就像臥虎藏龍;他不年輕,他懂天下三分,誰先做夢,我這輩子就知道自己,“草是對的”講天下,戰略決策在胸,顯示出他的政治眼光和杰出的奇才;他的《模特》前后,都是那么的強烈和激烈,感動的熱淚盈眶!他以鞠躬盡瘁、死而后已的精神,努力幫助兩代君主建立了蜀漢的偉大事業。
試想,正是劉、關、張三人登門造訪,才成就了諸葛亮的仕途,成就了波瀾壯闊的三國戰史。盡管經歷了幾千年的風風雨雨和滄桑,但諸葛亮的威望故事卻超越了大地,傳遍了三國,諸葛亮的政治、軍事和治國方略是中華民族寶貴的精神財富,諸葛亮的不朽聲譽永遠值得銘記。此時此刻,站在武侯祠,緬懷孔明一生的豐功偉績,為什么不讓我們徜徉于古代,暢想一番呢?我以為諸葛亮住在南陽臥龍崗,讀史書,看天下,立下宏圖,關心民生,在這里度過青春。一旦時運變了,皇叔照顧他,隱士就成了一對。臥龍起飛了,燃著希望,人間有三分。然而,在蜀漢的最后幾年,有一個水桶是沒辦法的,另外,國力也不好。諸葛亮雖有一統中原之勇,六出祁山,獨唱難,過勞死更是遺憾。五丈在部隊因病去世。后人想想就覺得可惜。正如杜甫《蜀相》詩中所言:“三傳以國事為重,傳至兩代。但他還沒來得及征服,就已經死了,“心在朝廷,先不說前主后主,何必爭襄陽和南陽?“.”
武侯祠導游詞12各位朋友們
大家好,歡迎來到漢中參觀旅游,我叫王博麗,是你們的導游,這兩天我們會一起度過,好了,閑話不多說,今天呢,我先帶大家去的地方是武侯祠了。
諸葛亮一生去過的地方很多,所以后人為他修建的祠廟也很多。風景最美最秀麗的是湖北襄陽的武侯祠,規模最大最宏偉的是四川成都的武侯祠,而修建時間最早的就是我們漢中的武侯祠了。比大名鼎鼎的成都武侯祠還要早41年,因此有天下第一武侯祠之稱。
武侯祠地處于勉縣城西3公里處,位于川陜公路以南,漢江以北,占地80多畝,有明清風格的古建筑30余座、150余間。西與古陽平關,諸葛亮讀書臺,蓮花池相接,東與馬超墓,劉備設壇立王處等古跡連成一線,北有古戰場天蕩山,南與定軍山古戰場和武侯墓遙遙相對。
武侯祠是陜西省重點保護單位,是國家3A級景區,關于武侯祠我就先講這么多了,等到了武侯祠之后我再給大家詳細講解。
武侯祠導游詞13各位游客:
大家好!今天我們參觀了武侯祠。武侯祠位于成都南門武侯街231號。今天我們的游覽路線是:達門、三覺白、二門、劉備堂、文官武將廊、諸葛亮堂、劉備陵園。從北門出發,全程大概3個小時。下午5點在北門見面并登機。請記住。在參觀之前,我想告訴大家幾個注意事項:第一,請注意安全,愛護環境,不要亂扔垃圾。第二,請記住我的電話號碼和車牌號碼。你還記得嗎?
武侯祠是中國唯一的廟宇,由劉備、諸葛亮、蜀漢和惠玲組成。劉備的陵墓建于公元223年。1000年來,損壞頻繁,更換頻繁。武侯祠(諸葛亮的專廟)建于唐以前,與昭烈祠相鄰,供奉劉備(漢昭烈帝)。明初重建時,武侯祠并入漢昭烈祠,形成現存武侯祠。現存寺廟的主體建筑重建于1672年清朝康熙時期(康熙十一年)。1961年,被宣布為國家重點文物保護單位。博物館建于1984年,2008年被授予首批國家一級博物館,享有三國圣地的美譽。中國的總設計師鄧小平曾經說過:武侯祠很有名氣,很多人都看到了。可以說武侯祠已經成為成都的標志性景點。朋友們,現在我們的位置是諸葛亮堂。廟里供奉的是諸葛亮,他兒子孫子的鍍金泥塑。你看,壁龕中間是諸葛亮的塑像。他戴著一條黑色的絲帶圍巾,穿著一件金色的長袍,眼睛專注于冥想。他憂國憂民、高瞻遠矚的精神,顯示了一代儒家的魅力。諸葛亮是中國古代政治家中的杰出人物。在《三國志》、《晉書》等歷史著作中,他因其政治和軍事才能而受到高度評價。在《三國演義》中,他被塑造成一個近乎完美的人物,具有大智慧、不屈不撓的精神和無所不能的能力。諸葛亮有多完美,有多睿智?請讓我逐一分析。
首先,他是一位杰出的政治家。諸葛亮大事小事兼顧,俯首帖耳,汗流浹背數日。他不僅承擔了國家軍事和政治計劃的決策和宣傳,而且親自監督水利工程、橋梁、道路、房屋等工程的建設,組織養蠶、織錦、制鹽、冶鐵、鑄幣等重要事業,實行嚴格科學教育、忠實獎懲、重農重桑、關心民生的正確政策,逐漸恢復了蜀漢的生機。南侵,閩越和解,實行最好的國策,后方穩定。蜀漢逐漸創造了一種物質豐富、人口富裕的局面。
然后,他是一個生動的戰略家。以決定劉備集團命運和三方對抗的赤壁之戰為例,諸葛亮是決定戰爭勝負最關鍵的人物。孫劉聯盟的建立是由他促成的;孫權反抗曹的決心被他堅定了;周瑜的群英社、蔣干的盜書、黃蓋的苦計、詐計被他一眼看穿;他和周瑜共同商定了競選的關鍵決定;并且可以借決定性的東風進行火力攻擊。可以說,孫劉聯盟離不開他在勝利道路上的每一步智慧前進;沒有他,盟軍幾乎不可能打敗曹操。
其次,他是一個偉大的發明家。諸葛亮非常重視裝備的革新和戰術的改進,創造了能熟練運糧運草的木牛馬,神秘的八陣圖,射力極強的弩,神奇的孔明燈籠。
以孔明燈籠為例,它是諸葛亮在北伐戰爭中被司馬懿困在平陽時發明的,也是熱氣球的來歷。在科技不發達的三國時代,諸葛亮仍有可能是世界上第一個發現熱氣球空中漂浮原理的人。真的是臥龍!毫不夸張地說,他是智慧的化身。
嗯,游客們,我們都認識諸葛亮。劉備的陵墓呢?我們帶著懸念去下一個景點,劉備陵。
謝謝你,我的解釋結束了
武侯祠導游詞14游客們好。我是賈加,你的向導。歡迎來武侯祠觀光。
武侯祠位于南陽市西郊臥龍崗。它以諸葛曹璐而聞名。是三國時期著名政治家、軍事家諸葛亮留下的舊址。當年劉皇叔照看它的地方,也是歷代人祭拜諸葛亮的地方。
好了,游客們,現在我們來到武侯祠門口。看看這個古老的龍石作坊,高9米,寬13米。5米,三門四柱,上面雕刻著。永恒之龍的意思是諸葛亮是民間的龍,臥龍崗的比喻是藏龍臥虎之地。
各位游客,現在我們來到了大白寺,這是武侯祠的主樓。殿內有一幅孔明的畫像,端端正正坐著,戴著黑絲綬帶圍巾和羽扇,神態肅穆。左邊是他的長子諸葛瞻,右邊是他的長孫諸葛尚。殿宇檐柱上掛滿了歷代名人、詩人的對聯和銘文,無不飽含著世人對諸葛亮的敬仰和敬仰。
好的,這里是游客參觀的自由時間。請注意避免亂涂亂丟,愛護自己的財物。聚會時間是11點,聚會地點在武侯祠前。祝大家參觀愉快。
武侯祠導游詞15各位游客:
大家好!
從山門跨進武侯祠,叢竹簇簇,松柏森森,翠柳青青,潭水粼粼,景色優美宜人,眼前的香爐里煙霧繚繞,仿佛能帶人一覽三國鼎立的場面o繞過香爐拾級而上,進入了一處靜謐的院落o院子內古木交錯,花卉滿庭o一棵棵百年大樹就像忠心耿耿的士卒守衛著庭院,將庭院的氣氛裝飾得更加神秘o大拜殿是人們祭祀孔明先生的地方,殿內塑著孔明端坐的正面像,他羽扇綸巾,風度莊嚴o地上的蒲團上跪著祈福的人們,虔誠地祈求孔明的庇護o殿堂的柱子上掛滿了歷代名人撰寫的對聯o這些對聯無不包含著人們對孔明先生的敬重和仰慕之情,我閉上眼睛,好像看到了孔明先生手搖羽扇,為劉備出謀劃策的情景o,大殿后,翠竹叢中簇擁著蓬松如傘、古樸美觀的茅廬o茅廬正門上懸掛著“諸葛草廬”的匾額o據說,這是諸葛孔明當年隱居的地方o諸葛草廬左側是野云庵,右側為古柏亭,是諸葛孔明會友讀書之處o在這淡雅氣息的籠罩中,我腦中又浮現出“三顧茅廬”的畫面……
武侯祠之游,給我留下頗深印象的要數那些碑刻、牌匾和楹聯,這一切,使武侯祠彰顯豐富的文化內涵,閃爍著中國古老文化的燦爛光輝o,領略過武侯祠的莊嚴和神韻,我更加確信,南陽兒女今天創造的輝煌,在若干年后,也定會成為巍峨的豐碑!
第五篇:武侯祠導游詞
在武侯祠里,這些著名人物的塑像,都栩栩如生,個性鮮明,然而我們稍加留意就會發現,其中少了一個相當重要的人物,按說他應該是這里的一個主要角色,可為什么在武侯祠里卻沒有他的位置,這里面又有什么樣的故事呢?我就來給大家一一說說。
我們前面講了許多諸葛亮的事跡了,說到了廟宇,實際上,我們再回回頭想想,這本來是人家劉家的廟宇,所以我們還得說一說劉家的故事,因為這里啊,最初就是劉備的陵寢,劉備是葬在這兒的,我們今天看到的,清初恢復這個廟宇的時候前面就是劉備殿,我們之前也看到了二門的那副對聯,告訴了我們,這里面的關系啊,有君臣關系我們都知道,劉備是君嘛,還有什么關系呢,有父子關系,有兄弟關系,兄弟關系大家都知道,劉關張桃園三結義,后人說他們是兄弟關系,有父子關系,哪兒呢?關羽和他的兒子,張飛和他的兒子,也有祖孫關系,諸葛亮,諸葛瞻,諸葛尚,祖孫三代共濟一堂,而且呢,還有劉備和他的孫子,劉備,劉備的孫子劉諶,講到這兒,大家聽出問題沒有了呢?劉備和他的孫子,中間少了誰呢,劉禪沒了,跑哪兒去了呢?
這個是個很有趣的過程哈,當初三國時期這是劉家的廟,就是供有劉備的塑像,而劉禪這個人,我們發現在宋朝的時候,這個廟里面不僅有劉備,還有劉禪,人家不僅只是一個像,還有一個殿,有個祠,叫后主祠,也就在現在劉備塑像的東面,后主祠是依附在這里的,但是很快,老百姓就強烈要求把它拆了,把它毀了,為什么要拆呢,大家都知道,說劉禪這個人呢,是個投降的皇帝,可以說是萬人不齒啊,當年曹魏大軍進攻了,諸葛瞻父子戰死沙場了,大軍已經兵臨成都,劉禪師舉國投降,之前他的兒子,也就是劉備的孫子劉諶,跑到劉禪那兒去告訴他說,別人可以投降啊,獨獨我們不行,因為我們祖先的陵廟在這兒,你怎么有臉見先皇啊,這劉禪說,老百姓在這兒,跟著我一起流血犧牲,我不愿意看到的啊,再說了,雞蛋往石頭上撞,結果是不得想象的嘛,你懂個什么啊,你走走走,投降,開門了,自己把棺材抬著,自己把自己反綁起來,跑到曹魏大軍前面,去投降了,這是一種封建時代,君王投降的禮節,就是什么呢?你要殺,我自己準備了,不要你給我備棺材了,我自己在這兒,意思就是說,我臣服了,投降了,那你投降了,就把棺材燒了吧,跟著送到洛陽去了,后來在洛陽做了安樂縣公,但是他投降的時候呢,劉諶一看,父王都投降了,但我可不能投降啊,怎么辦,他就跑到劉備的廟里,對著劉備的神像哭訴,當然很激動,很悲切,最后把妻子和兒女都殺了,自殺殉國。
再講劉禪投降之后就到了洛陽,最可惡的是,在洛陽發生的事情,你說你投降就算了,老百姓也就認了,不認也沒辦法,最可惡的就是在洛陽,有一次司馬昭啊,為了測試這些蜀國投降的人是不是心里邊還有反叛的意思在里邊呢,于是就在宮廷里面搞了一個party,席間啊,蜀國的那些將臣,都在那兒坐著,劉禪也在那兒坐著,這些歌舞伎啊,就穿著蜀人的衣物,跳著蜀國的舞蹈,演奏者蜀國的樂器,就在那兒跳起來了,哎喲,那些大臣一看啊,故國的東西啊,睹物思情啊,哎喲,難過極了,大家都紛紛落淚,但這個劉禪居然談笑自若,一點都不覺得悲傷,這個司馬昭就問他了,你覺得這兒怎么樣啊,好不好玩啊,劉禪便說,哎喲,好玩好玩,此間樂,不思蜀啊,蜀地人們聽到這一句話,就用成都話罵他,罵他什么呢,瓜娃子,這種人,也太不要臉了吧,連司馬昭都覺得,我見過無恥的人啊,沒見過這么無恥的人,當然他也放心了,既然樂不思蜀,也就算了,但這可把蜀地的老百姓給得罪慘了,怎么能容這種人放在廟里面兒呢,就算我們用政審條件來檢查他也不合格啊,怎么政審呢,于國不忠,于父不孝,不忠不孝者,政治上就有嚴重的問題嘛,所以從這個廟里面把他給開除了,堅決不要他。
由此啊,樂不思蜀的劉禪不僅在武侯祠里面有了位置,在人們的心中更沒有了位置,當年他本來就害怕,諸葛亮的聲望超過自己,超過皇室,而遲遲不給諸葛亮修建祠堂,但他無論如何因為不會想到,多少年以后自己居然會被從這里趕出去,更不會想到,諸葛亮會反客為主,成為劉備廟里的主角,因為他不懂得什么是民心所向,您說這是代表著天意呢,還是民心呢,我們自己去想。